獣は囁く

プロローグ

わたしもその一連の手続きの事は良く知っていたが、彼女の口から語られると、まったく違う物語のように聞こえた。
けれど、途中まではわたしもその物語を共有することができた。それは10年前の一時期、毎日のように繰り返された出来事だった。だから、彼女の語らない細部も手に取るように想像することができた。
施設の合金の壁に挟まれた通路が浮かんだ。天井の送風孔から何度もリサイクルされた空気が肌に吹きつける感触が感じられ、建物全体が息をしているような唸り音がかすかに聞こえる。
そういった細部の一つ一つをわたしは自分の体験で補っていった。
一般区域と秘匿区域を隔てる扉はバズーカでも破れない特殊な合金でできていた。威圧するような重厚な扉は「これより秘匿区域−P5以上の権限の無い者の通過を禁ずる」と赤字で警告していた。
壁のカードスルーにパーミッションカードを通すと、赤いLCDが点滅して照合をはじめた。そのわずかな時間を彼女はまるで職員室に怒られに入る子供のようにして待った。
カチリと音がすると扉が炭酸飲料の栓を開けるような音を立てて開いた。真っ暗な通路を天井の照明が手前から奥へと順に灯っていく。
生体管理室はまるで人を詰め込んだ教室のようだった。狭い空間に人が詰め込まれ、機器と人とが発する熱で空気が澱んでいる。職員たちはそれぞれの持ち場に着いて、担当する機器に設置されたキーボードを猛烈な勢いで叩いている。
職員同士で盛んに言葉がやり取りされ、外からの無線もひっきりなしに続いていた。
彼女は紙束を抱えて出て行く職員に肘をぶつけながら中へ入り、強化アクリルの窓から見えるゲージに拘留された機体を見つつ部屋の隅へ行った。その場所なら誰の邪魔にもならなかったし、誰にも邪魔されずにゲージ内を眺められるからだった。
ゴミ箱と並んで彼女は自分の膝を抱いて床に座り、これから乗る自分の機体をずっと見ていた。
途中、一度だけ彼女は視線を部屋の一段高い席に座っている司令に移した。
彼はそれに気がつかず、操り人形のような機体からコードが外されていくのを観察している。
 誰かが緊張した声で準備完了を告げると、それまで黙っていた司令がこちらを向いて彼女を促した。彼女は素直に立ち上がって居心地の悪くなったスカートの生地を引っ張った。
「初めてだな。怖くないか?」
司令はそう訊ね、彼女は黙って首を振った。司令はそれで満足してまたゲージの方向を向いてしまった。
 管理室を一人で出て、狭い通路を通ってシャワー室に入り、脱いだ服を金属性のカゴに入れて蓋をすると、天井から滅菌材入りの霧が噴出してきた。
 俯いて身じろぎもせずにぬるいシャワーを浴びた。かすかに白みを帯びた水が幾筋もの列になって排水口へと流れていく、自分の毛が網目の排水栓に引っかかっていた。
 彼女は落ち着いていた。これが実験の最終段階であることは知っていた。けれど胸の高鳴りや緊張とは無縁だった。
 シャワーを浴び終えてから、ロッカー室でプラグスーツに袖を通した。新品のスーツは羽毛のように軽くて柔らかかったが、胸の部分が少しキツく感じられた。彼女はすでに初潮を済ませていたが、彼女が言うには、スーツの胸がきつくなったことで、それで始めて自分が女だと実感したそうだ。
それからエントリープラグに入るまでの間は、まるで早送りの無声映画のようだった。
 初めての本物のエントリープラグは思ったより窮屈で、閉塞感を強く感じた。音声だけが通じていて、管理室のせわしない声が届いてきた。
 彼女は操縦桿を感触を確かめつつ握り、LCIが室内を満たしていくのを待った。
 第一回起動実験開始、と誰かが言ったの同時に機体に電気が通う鈍い音がした。
「起動します」別の誰かが言った。プラグ内の磨き上げられた壁面が揺れ、虹色に光り、機体の収められているゲージを映し出した。
 管理室のモニター画面が現れた。緊張した面持ちを並べている職員たちに混じって司令もこちらを見ている。彼は腕を組んでカメラを通して彼女のことを見ている。
 ヘッドセットを通して彼女の中に波が流れ込んできた。それに同調しようと試みる。昨晩の夢を思い出すような作業だったと彼女は例えた。わたしはそれを四角いブロックを球形と信じる作業のようだったと覚えている。
 動く。そう思った瞬間だった。
 何かがはちきれるような音がした。鳥の骨を折る音に似ていた。途端に腹から胸へと異物感が競りあがってきた。
 照明の色が変わって彼女は赤い色に包まれた。警報音と共に照明が減滅と点灯を繰り返す。
 パルスが逆流している。と司令室の誰かが叫んだ。拒絶とか遮断とか、そんな言葉が飛び交った。
 彼女は操縦桿から手を離して口を抑えた。今にも吐きそうだった。機体がゆっくりと揺れ始めた。気絶しそうになるのに耐えるのが精一杯だった。機体の動きはだんだんと力強さを増してきた。彼女と同じように苦しんでいると分かった。彼女と機体は苦痛から逃れようともがいた。抑留具が轟音を立ててはずれ、千切れた破片が冷却水のプールに落ちる音がした。
 司令室は絶望的なパニックに陥っていた。悲鳴と、それを抑えようとする命令とが入り乱れている。
 機体が怒り狂ったようにゲージ内を暴れ始めた。壁を殴り、肩からぶつかり、頭突きをくらわせる。そのたびに彼女は操縦席から投げ出されそうになった。
 恐怖が滝のように降りかかり、意識が白く霞んでいく、操縦席の内壁に映っていた画像が途切れて銀色の壁に戻った。音声も排出という言葉を最後に切れた。機体が大きく右へ傾いて、彼女は操縦席から転げ落ちた。
 苦しかった。肺への酸素の供給が止まり、彼女は溺れていた。意識が飛んでしまう前に、彼女は最後に残された司令室からの映像に目をやった。映像は乱れていて、慌てふためき、部屋から逃げて行く背中があった。目を剥き、歯を食いしばって接続を試みている顔があった。彼女は司令官の姿を探した。
 まばゆい光りが溢れ、彼女をたたきのめした。その光りの中で意識を保つのは不可能だった。光が意識を吹き飛ばす寸前、はっきりと目にした。彼女は自分の意識にしがみつき、見えてきたものに必死で手を伸ばした。