獣は囁く

第9章 後

 中はかび臭く、ゴミだらけだった。幽霊屋敷のようだったが、幽霊もこんな場所には住まないだろう。
「靴は履いたままでいいよ」
「こんなところで脱ぐ気にはなれないわ」
家の中に家具はほとんどなく、天井には雨漏りの染みが広がっている。床はひたすらゴミで埋もれていたが、道はちゃんと確保されていた。そこは埃が積もっておらず、比較的新しいブーツのギザギザした足跡がいくつか残っている。
 典型的な旧世代の日本家屋の間取りで、居間を過ぎて狭い廊下の突き当たりに浴室があった。その脱衣所に入ると、洗面台の曇った鏡が目に入った。前を歩くエリカが鏡に映ったわたしに話しかける。
「少し待って」
エリカは鏡を開いた。本来、石鹸や化粧品が並ぶべき場所には大量の携帯電話が並んでいた。そのうちの一つを手に取って電源をいれ、ダイヤルする。
 静寂の中で呼び出し音が漏れて聞こえてくる。
 音が途切れて録音されたテープの声が流れてきた
−こちらはトトモです。この番号はお客様の都合により、現在は使用を停止しております。
「ああ、そうだろうね」エリカが答えた。
−なお、この番号に関するお問い合わせは総合受付サービスで受け付けております。
「わかってるから、早くして」
ブツっと音声が切れる音がした。エリカは耳から電話機を離しして素早くダイヤルした。1秒も立たないうちにまた音声が流れる。
−回線228の保安措置を行ってください。
エリカはくそったれと毒づいて再び番号を打った。
「お客を連れてるんだ。急いで」
今度はテープの声でない男の声がした。それは英語だった。
「332回線へ。フィボナッチで18だ」
回線が切れ、エリカはわたしに使っていた電話を放り投げてよこした。
「バスルームの水につけて破棄して」
わたしはバスルームを覗いた。浴槽があり、蓋がされている。それを外すと古くなった水の嫌な匂いがした。水の底には無数の携帯電話が沈んでいた。
 携帯を沈めて戻ってくると、エリカが鏡を閉めるところだった。手には新しい携帯を持っている。ふたたびどこかへ電話をかけ、呼び出し音が途切れると今度は耳に当てずに番号をうとうとして指を止めた。
「くそ、なんだってフィボナッチなんか使うんだ」
「1597よ」
わたしが暗証番号を答えてやると、エリカは驚いてこちらを見た。
「フィボナッチを知ってるの?」
「ドイツで習ったわ。12歳の時に」
「今、計算した?」「そうよ」エリカは肩をすくめた。「そういえば13歳で大学を卒業した秀才だったわね。人は見かけによらない」
「それは誉め言葉よね」腰に両手を置いて言った。
「私は暗記してるだけだけど、1597であってる」
エリカが暗証番号を打つと居間の方からガゴンと重いものが動く音がした。
 居間に戻ると、エリカは襖をふさいでいたゴミ袋を放り投げた。開くとそこには廃屋には不釣合いの鋼鉄製の扉があった。それは継ぎ目のない一枚の板で、一箇所だけ凹みがあった。
 そこに手を添えて引くと、扉は簡単に開いた。地面から地下へ向けて階段が伸びている。
「どうぞ我が家へ」
狭い階段の先にはドアがあるのが見える。身を屈めて降り、今度はずいぶんと質素になったドアを開く。
 わたしの脳裏に兵士がこちらに銃口を向けているイメージがふたたび浮かんだが、中はほとんど真っ暗で、天井から小さい光が一つ中を照らしている。あとは右側の壁に機器のランプが突然変異をした蛍みたいにじっとしている。
 エリカが明かりをつけると部屋の内部が浮かび上がるように目に飛び込んできた。
 右側の壁はさまざまな機器で占領されていて、低いうなり声が聞こえる。パソコンのモニターではビーバス&バットヘッドの二人が互いの陰部をつかみ合い、ゴムのように引き伸ばして笑っていた。
 機器に占領されていない壁は壁紙が張られておらず、コンクリートがむき出しになっていた。当然、窓はない。スチールパイプの二段ベッドが二つ壁に沿って並んでおり、毛布と枕は最後の就寝者が起きたままの状態になっている。
 その隣には別の扉があった。機器と反対側の壁には銃器が立て並べてある。かつては壁を埋め尽くすほどあったらしいが、今は数えるほどしかなく、他は全て壊れていた。
 そして机が4つ並んでいる。どれも荷物が置かれ、自由に使えるスペースのほとんどを奪ってしまっている。曲げ伸ばしできるライトの傘には黄色いポストイットが貼られていた。ゴミ箱は溢れかえって外にはみ出している。
 その先にはトイレとランドリーを兼ねたシャワー室があるのが分かる。
「座っていいわ。ウェルカムティーは出さないよ」
エリカは部屋の中央のカードテーブルとがたのきたソファを指差した。
「あの扉の先はどうなってるの?」
「通信施設の真下を通ってる。施設が壁になってバンカーミサイルでも貫けない仕組みさ」
パソコンデスクの椅子を引き出して、そこに座ったエリカは、手早くマウスを動かした。ビーブスたちが一瞬で消えて、何かのアプリケーションを起動している画面に変わった。
 エリカがキーボードとマウスを操作する間、わたしは部屋を見て回った。4つ並んだ机は住人の私物、洗濯を心待ちにしている衣類やクスリの瓶、プレイボーイとニューズウィークの英語版、表紙は永野首相の写真の背後にKKKみたいな頭巾を被った侍が7人並んで描かれている。そのキャプションにはウェストランド(荒地)と極東をひっかけて『極東の7人』と英語を毛筆で書いていた。『謎の多い永野首相の腹心たち』と、こちらはイタリックの書体で書いてある。
 読んでみる気にはなれず、ノートの上に置いてあるサングラスに目を留める。幅広の遮光サングラスだ。わたしがエリカに拉致されたとき、それを手伝っていた男がしていたものに間違いなかった。
「エリカ、あのロシア人たちに仲間が殺されたって言ってたよね」
「言ったわ」
「あなた以外、全員死んだの?」
「たぶんね。あいつら何らかの方法でこちらの存在を知ったんだ。それで強襲された。腹の立つことよ」
わたしは妻と娘が映っている写真立てを手に取った。
「殉職者には遺族手当てが出るの?」
「出るわ。5歳の娘が小学校を出るまでは不足しない分ぐらいはね」
「そう」わたしは小さく答えて写真立てを元に戻した。「どこに連絡してるの?」
「本部よ」
「それはどこにあるの」
「ノースカロライナのミッドラルパーク」
アプリケーションの画面がせわしなく遷移し、表示が緑に変わると「通話」の表示が出た。エリカはヘッドセットを頭につけて、口元のマイクの位置を調節した。
 通信相手と英語で会話するのを聞いていた。彼女は「ロシアのでくの坊野郎」たちに襲われて自分以外の隊員が全滅したこと、わたしの様子を見に来たところで交戦となって5人を倒したこと、惣流アスカとおまけ2人を保護したことを報告した。
 短い受け答えが長く続き、最後にわたしが情報開示を条件に協力を申し出ていることを付け加えた。彼女の様子から、それは認められたとわかった。
 エリカは通話が終わると。アプリケーションを終了させて立ち上がり、結んでいた髪をほどき、灰色の肌着から銀色の鎖でつながれた軍票を引っ張り出して胸にたらした。
 拳銃を手に床に置いていた金庫、上にはテレビとビデオがつながれている。から弾丸の箱を取り出して装填し始めた。わたしは自分の銃をどこにやったかまるで思い出せなかった。
 あの警官が現れたとき、落としてきたに違いない。日本の遺族手当てがアメリカよりも手厚いことを願った。
「さて」とエリカは言った。「実はあなたに話せる許可が出た範囲はさっきでほとんど話してしまったわ」
「ファーストチルドレンのことを聞かせて。あいつの何が例外なのか」
「ノースカロライナの研究者の間じゃ彼女は『選ばれた羊』と呼ばれてる。ファーストチルドレンは脳にニュートリノをぶち込まれなくてもエヴァが操縦できる世界で唯一の人間だった」
エリカは充填し終えた銃をホルスターに納めると、わたしから2つ離れた机の下からボストンバッグを引っ張り出して開き、壁に立てかけてある武器を中に入れ始めた。
「それは先天的な脳の異常か何か?生まれた時点で頭が飛んでたってことでしょ」
そう質問するわたしを、エリカは作業を止めて不思議そうに見た。
 あいつはちょっと、いや、だいぶ頭のネジが妙な締まり具合だった。そんなことを言おうとしているわたしにエリカがさらりと言った。
「『選ばれた羊』がクローンだってことを知らないの?」
強打者に投げた甘いストレートボールのように、最初の一瞬、わたしの意識は世界からはじき出され、ブラックホールを経由して戻ってきた。
「嘘よ」
「そして綾波レイのオリジナルは碇ユイ、つまり碇シンジの母親さ」
再び意識を吹っ飛ばされたが、今度はせいぜい地球を一周したぐらいだった。
「始めて聞いたわ」
「まあ、そうだろうね。当時は極秘中の極秘だったはず」
何か質問すべきだと思ったが、浮かんでくるのは色白の無表情な顔ばかりだ。
「ドクター・アカギが母娘の2代にわたって綾波レイの体を隅々まで調べて理由を探っていた。でも分からなかった。『選ばれた羊』に先天的な異常があったのは確かだけど、正確にはオリジナルの碇ユイにあった。って言う方が正しい。綾波レイは欠陥品の複製品だからね」
わたしはまだ綾波レイの幻影に捉えられていた。
「じゃあ、あいつに操縦させとけば問題解決じゃない」
予期もせずにわたしはそう言っていた。あまりにくだらない皮肉で、口に出した途端に自分が馬鹿なのかと疑ったぐらいだった。エリカは気にする様子もなく続けた。
「いや、『選ばれた羊』にも14歳の条件が当てはまる。もし、今も彼女が生きているとしてもエヴァは操縦できない」
「クローンを作ればいい」
「ところがそれはもう無理。クローンはオリジナル、碇ユイの遺伝子を使わないとダメなんだ。綾波レイの、つまりコピーのコピーはエヴァを操縦できる年齢の14歳まで生きられない。せいぜい10年程度の寿命しかないんだ。そしてオリジナルの遺伝子はもう在庫切れなのさ。ドクター・アカギが、これは娘の方。がとち狂って冷凍保存されていたオリジナルの遺伝子を全て破壊してしまった」
「赤木博士がファーストのクローンを作っていた?」
「そうだよ。万が一に備えて何十人もね」
「赤木博士が綾波レイを…作っていた」
わたしは手で額を押さえて首を振った。かなり精神が弱っているのが自覚できた。
エリカは武器を納めたバッグをテーブルまで運び、床に落としてからソファに座った。中のスプリングがぎしぎしと抗議をあげた。それを無視してエリカはブーツを履いた足をカードテーブルに載せながらわたしを見た。
「他は?他の質問は?」
「エヴァは…どこにあるの」
「それは答えられない」
エリカがブーツの靴紐をほどいて結びなおし始めた。「次の質問は?」「ちょっと待って、時間をちょうだい」
わたしはしばし呆然として部屋を眺めていた。パソコンモニターがデスクトップからふたたび陰部を引っ張り合うアニメに変わった。
「シンジのやつ、ファザコンだとは思ってたけど、マザコンでもあったなんて」
「世の中には色んな愛の形があるのさ」
エリカは映画の登場人物を真似てふざけて言った。足を机から下ろし、両手を組んで背もたれに寄りかかる。
「以上で質問タイムは終了。今度は出演者の回答タイムだ。惣流女史は果たして回答できるのでしょうか?」
「あんたの軽口はわたし以上ね。うんざりを通り越してムカつくわ」
エリカは肩をすくめた。背中を背もたれから離し、膝に肘をついて前かがみになった。表情が真剣になり、引き締まった顎がこちらを向いた。
「個人的な質問をしていい?エヴァに乗るってどういう気分なの?」
「前にも同じ質問をしたよね。エヴァに乗りたい?」
「載ってみたいわ。人類が持つ最強の兵器だもの」
「そんないいものじゃなかった」
ふーん、とエリカは鼻をならした。「そろそろ行こうか。武器も補給できたし、ここにはもう用はない」
「また訊きたいことがあったら、訊いてもいいのよね」
「アスカがわたしに協力する限りはOKさ。わたしのパートナーである限り」
「いつまでもパートナーでいる気はないからね。ずっといたらあんたの軽口でわたしがおかしくなる」
「長くても数日だよ。すぐに銃の扱いに慣れた新しいパートナーが1ダースは来るよ」
エリカは立ち上がり、それから思い出したように壁際の別のパソコンへと向かった。電源を入れるとモニターにウインドウズのロゴマークが浮かび上がる。
「メールをチェックしてから行くよ」
「ネットにつなげられるパソコンがあるのね」
そうだよ。とエリカが答え、デスクトップのアイコンをクリックしてブラウザーを起動させ、お気に入りから別の画面を表示させた。
「そういや、アスカの写真がネットにばらまかれたって言ってたね。そっちは大丈夫なのかい?」
与田サンタがCMのことについて電話するといっていたのを思い出した。今日のことだったが、はるか昔に思える。CMは間違いなく中止で、わたしの思い描いていたキャリアもまったく実現不可能になってしまった。盗撮写真に爆発、銃撃に死体。マスコミがなんと書くのか楽しみだ。
 メールをチェックし終えたエリカと入れ替わりにパソコンの前に座った。アドレスを打っているとエリカが言った。
「何を見るの?」
「わたしのブログよ」
「ブログを持っているの?」
「事務所からやれって言われてるのよ」
「で、今日の出来事を書く?」
「あんたバカじゃないの?そんなわけないでしょ。閉鎖するのよ」
アドレスを打ち込むと画面にわたしのブログが現れた。赤色を基調にした背景にわたしの写真がすえられ、惣流アスカ公式ブログ。とある。
 最近の記事は先週に食べたラーメンに関することだった。その前は半月前で友人というほどでもない知り合いが映画にキャステイングされた件だった。
 日記はどうも性に合わない。
 最後の記事のコメント欄を恐る恐るチェックする。コメントは7件入っており、100件以上を予期していたわたしはひとまずほっとする。
 7件のうち、3件は自動で投稿されたスパムの広告で、残りの3件は常連さんのものだった。
 残りの1件に目を留める。そのハンドルネームは「超美人司令官」だった。
 胸が騒ぎ始めたのを感じながら急いでクリックして内容を表示させる。

 かわいい同居人さん
 はぁーい。元気にしてた?ご無沙汰でごめんなさいね。
 こっちは色々とあって忙しかったのよ。許してね。
 ペンペンは相変わらずよ。ちょっとジジイになってきてお風呂が長くなってきたみたい。
 頼みたいことがあるんだけど、詳しくはこっちに書いておくわね。ヨロシクー

 コメントの下には凄まじく長いURLがリンクされていた。
 何かを察知したエリカがわたしの肩越しに画面をみやった。「どうかした?」
「これ、たぶん…ミサトだわ」
「葛城ミサト!?」
エリカがわたしを押しのけて画面に食らいつく。「確かなの?」そういいながらわたしからマウスを引ったくった。マウスパッドのない天板の上でマウスを動かすと、マウスが食いかけのプリングルスを倒し、湿気た欠片が足にかかるのも構わずにURLをクリックした。
 ほんの一瞬の間があって画面が変わる。


「認証だわ」とエリカ。「パスワードは?」
「分からないけど、この真ん中の数字はきっと弐号機のことよ」
「他にヒントはないわけ」
「たぶんそんな複雑なものじゃない。ミサトはそんなことをする性格じゃないわ。単純にわたししか知らないような数値よ」
弐号機の起動コードを打ち込んでエンターを押すと、短いエラー音とともに拒否のメッセージが返ってきた。
「弐号機の起動コードは少し調べればすぐ分かってしまう」
「緊急起動コードか強制終了コード。そういうのはないの?」
両方を試したが、結果は同じだった。
「違う。もっと秘匿性の高いコード…」
「自己抹消コードは」
「それよ、自爆コード」
わたしは弐号機の自爆コードを打ち込んだ。エラーは返ってこなかった。
「やった」エリカが叫んだ。


アスカへ
時間がないので要件だけ話します。
私は今、ロシアにいる。この10年間、ある目的のためにヨーロッパを飛び回っていたの。どうにかめどがついたけど、時間がかかりすぎてしまった。もうひと仕事やっつけてから日本へ戻ることにする。でも無事に出られる可能性よりも、出られない可能性の方がずっと高い。
お願いというのは、ここにあるデータをダウンロードして私が受け取りに行くまで保管していて欲しい。ダウンロードは一度っきりだから慎重にね。
このメッセージを見たのが10月中なら、私が現れるのを11月まで待って。
もしも既に11月だとしたら、先に帰国した青葉シゲルがあなたを探し始めている。臨海水族館へ行って彼と会って頂戴。あとは彼が全てやってくれる。

昔、10年後の話をしたのを覚えている?こんな10年後なら無いほうが良かったと思うようになった。
あなたに会えることを願ってる。心から。


「ミサト…」
何のためにせよ、ミサトは10年間を戦い続けてきたんだと文面から伝わってくる。心にやましさと懐かしさがこみ上げてきて、わたしはしばらくモニターの短いメッセージを見つめていた。
「今日は11月3日よ」エリカがわたしの肩に手をかけて、モニターの右下にあるカレンダーを指差した。
「とにかく、ダウンロードしないと」
ダウンロードと書かれた箇所をクリックすると、承認ウインドウが出た。
「何よ4テラバイトって!」エリカが言う。
「ダウンロードできる?」
「この回線だけだと何時間もかかってしまう。オープン回線も開くしかないわね」
エリカはコードが集約している装置へと向かい、接続されたモニターの電源を入れた。
「ダウンロードを始めてもいい?」
「ええ。パソコンからデータを移し変えるストレージも確保する必要がある」
ダウンロードが始まり、完了予定時間は8時間後と出た。進捗状況を示すバーは1ミリも動かない。キーボードを操っていたエリカが最後に強くキーを叩くと、バーがじわじわと動き始め、完了時間は50分にまで減った。
 エリカはそのまま平積みに棚を埋め尽くしたサーバーの一台を引っ張り出し、筺体カバーをはがしてから、刺さっていたハードディスクを引き抜いた。
「これなら2台に分ければ4テラ保存できる」
わたしはじわじわと終了に向かっていく青いバーを見つめていた。ミサトの10年間の結晶を手に入れようとしているのだという実感があった。ミサトの身に何が起こっているのかを、このデータが何かを考えることで追い出そうと試みた。
「なんのデータだろう」
「かなり貴重なもんさ。どこまで来た?」
「まだ4分の1もきてない」
エリカはサーバーから引き抜いたハードディスクを二つ、わたしに差し出した。
「ダウンロードがすんだら、パソコンからこっちへ移して」
「わかった」わたしはそう答えて受け取った。
「葛城ミサトは10年前からずっと消息不明だった」
「わたしを襲ったのはロシア。ミサトはヨーロッパにいる。なにが起きてるの?」
「全てはエヴァのためさ」
どこからか囁き声のような音が聞こえてきた。それはエリカが本部との連絡につかったパソコンのヘッドセットから漏れていた。ビーブスが骸骨のように口を動かしており、まるで彼が喋り始めたみたいだ。
エリカがすぐに駆け寄って耳に当てる。片方のイヤホンしか耳に当てなかったので、残りの一方から声が聞こえてくる。
「リターナー、どうして回線を開いた?丸見えだぞ」
「葛城ミサトがアスカに接触してきた。」
「葛城ミサト?あの葛城ミサトか?」
「その葛城ミサトよ。何かダウンロードさせようとしてる。膨大な量のデータよ」
「それはこちらも分かっている。サーバーはロシアにあるものだ。さっそくロシア側が察知してサーバーをハッキングをし始めた。阻止したほうがいいんだな?」
「お願い。やっとエドガーが役に立つ時だわ」
よし。と声は答え、しばらく無言になった。
「ダウンロードにはどれぐらいかかる?」
あと40分。わたしは訊かれる前に伝えた。エリカはそのままを本部に伝えた。
「接続をたどって、お前たちのいる場所もすぐに特定されるだろう」
「衛星で周囲を監視して」
「やっている。だがそちらは夜だ。限りがある。ロシアの部隊がそちらに急行しているはずだ。なるだけ早く済ませて立ち去れ」
「テン・フォー」
エリカは軍隊式にそう応じて、音量のボリュームを最大にしてヘッドセットを置き、ボストンバッグから軽マシンガンを取り出した。そして部屋を出て浴室の方へ行って、いたるところがへこんでいるロッカーを開いてハンガーからダークグレーのチョッキを外して戻ってきた。
「アスカ、これを着て」
「なにこれ?ダサいわね」
「防弾チョッキよ」
「これが?」わたしは手渡されたチョッキを広げてみた「ペラペラじゃない。防弾チョッキってもっと硬いプレートが入ってるもんじゃないの?」
「あんたは19世紀の人間なの?ケブラー繊維よ。骨は折れるけど、命が助かるなら安いもんでしょ?」
わたしは仕方なく袖を通した「あー、ダサい」
「運がよければ気絶だけで済む」
続いて差し出された銃を握った。
「今度はメードインUSAのオートマチック。VMB32.別名「地獄の鷲」。握ればコックするすぐれもの。さっき扱ってたものよりずっと強力な軍隊用の銃よ」
「ロシアのやつらは来る?」
「確実に向かってきてる。こちらが脱出するのが先か、到着されるのが先か」
エリカはヘッドセットに向かって呼びかけた。「エドガーはうまいことやってる?」すぐに応じる声がした。ゆっくりとして、余裕すら感じさせる声だ。
「全力でやっている。きわどいが何とか防ぎきれるだろう」
「パソコンからハードディスクに移し変える時間を考慮すると40分だね。このゲームはこっちが勝者になるさ」
エリカは続いてバッグから缶詰のような形のプラスティック製の道具を取り出した。わたしたちが入った扉の前に椅子を倒して置き、それを扉の方へ向けて設置する。それから蓋の部分から引っ張り出した細い糸をドアノブに結び付けた。
「指向性地雷、ドアを開けたら金属の破片の雨が降り注ぐ」
「あちら側のドアを通ると、どこに出る?」
「通信施設の地下を通って反対側に出られる。どこかで車を調達して渋谷に戻ろう」
「それからどうするの」
「ここはもう使えない。福生に別のアジトがあるから、そちらにあの二人を移すよ」
「リターナー。応答しろ」
エリカは舌打ちした。「なに?」
「偵察衛星がロシア部隊らしき車両を確認した。15分で到着する」
「早すぎる」
「偶然に近くにいたとしか考えられない。一般車両を弾き飛ばしながら進んでいる。黒いバンが2台。10人以上はいるだろう。交戦は避けて退避しろ」
「このデータは捨てていけない」
短い沈黙があった。「もしもの時は何かもわからんデータより、セカンドチルドレンの保護を優先だ。まて、車が2手に分かれた。あいつら、出口が2つあることを知っているようだ」
「サノバビッチ」とエリカが呟く。
「袋のネズミになるわ」わたしは言った。「2人で30分も持ちこたえられるわけない」
「1人でいいさ」
エリカはふたたびロッカーへ行き、中からヘルメットを取り出してかぶり、隣のロッカーから同じものを出してきてわたしに投げた。灰色をしていてひどく重い。
「それをかぶっていれば無線で会話できる」
「迎え撃つ気?」
エリカの表情が一気に冷たくなり、職業軍人の顔になった。口角を持ち上げて笑った。ヘビが笑ったらこんな感じだろう。
「本部からの通信をヘルメットの無線で私に伝えて」
そう言うなり、地雷とドアを結んでいた線を切って扉を開けた。そのまま階段を駆け上がっていく。
 5分後、エリカは戻ってきた。「ロシア野郎をお迎えする支度をしてきた。山のような指向性地雷がお出迎えさ」
エリカはドアにしかけた地雷を元の状態に戻し、本部と情報を交換しあってから反対側のドアを開けた。
 わたしは一人きりになった。ヘルメットの内部スピーカーから狭い通路を反響するエリカの足音が聞こえる。
「データを移し変えたらすぐにこっちに来て」
「了解」
ヘッドセットがわたしを呼んだ。
「ミス・ソウリュウ。いるか?」
「なに?」
「司令部のウェインだ。エヴァの元パイロットと話せて光栄に思う。よろしく頼む」
「よろしくどうぞ」
「彼女に敵は200メートル南の路地に車を停めたと伝えてくれ」
そのとおりに伝えると、エリカが答えた「わかった。こちらは外に出るところ。人数が分かったらすぐに教えて」
無線から伝わってくる音が変わり、外に出たことが分かった。パソコンを確認すると、残り時間は12分になっている。ハードディスクを見つめると全身に鳥肌が立つような不安に襲われた。ウェインからの連絡が来た。
「ミス・ソウリュウ。敵は全部で12人だ。エリカのいる側には8名いる。今は夜間戦闘用の装備を整えている。悪いがこれからあまり連絡は取れない」
「どうして」
「ロシア側のハッキングが成功しかけている」ウェインの背後で甲高い呻き声が二つした。そこ声は確かに「腐れチンポはさっさとゴミだめにもどりやがれ」と言っていた。
「平気なの?」
「なんとかするさ」
ダーンと銃声が聞こえた。エリカが撃った音だ「敵がいた」
「敵はそちら側に8人よ」
「了解」
ヘルメットからマシンガンを放つ音がした。
 ウェインもエリカもそれっきり何も言ってこなかった。エリカが交戦している音だけがしている。再びモニターを見たが2分しか減っていない。
 スピーカーを通した銃声に異質な音が混じった。ガラスを釘で引っ掻く音をさらに高くした、高音すぎて耳鳴りのような音だった。
「今のはなに?」
「奥の手を使ったんだ」
「死んだりしないで。お願いだから」
「なんとか。でも8人相手は正直なとこキツいね」
エリカはふたたび戦闘の中の身を投じた。わたしがウェインにそれを伝えると、彼は咳払いを二度した。空気の塊がマイクにあたってボコと音がする。
「8人が相手ではさすがに出入り口の確保が精一杯だろう」
「そっちは偵察衛星で様子を見てるでしょどんな様子なの?」
「よくやっている。暗闇を活かす基本を忠実に守っている。録画して教材に使いたいぐらいだ」
「やられちゃったりしないよね?」
「大丈夫だろう」ウェインは自信に満ちた声で答えた。「彼女はNIHISの中でも最優秀のグループに入る。大統領からの召還を受けたこともある」
「大統領の?」
「陸軍のグリーンベレーや海軍のシールズ、その中から特に優秀な者が選抜されて組織されるチームがある。彼女はそれに選ばれたんだ。この上もない名誉だが、彼女は召還を拒否してNIHISに残った」
ウェインがわたしを安心させるためにムダ口をきいているのだと分かった。それ以上は喋るのをやめ、ヘルメットから聞こえる音に耳を済ました。激しい息遣いが聞こえる。
「ミス・ソウリュウ」
「なに」
「君の頭の上、廃屋の前に敵が接近している」
「何人?」
「3名だ」
「もしも敵がきたら、どうすれば−
エリカから通信が入ったので中断し、そちらに耳を傾ける。
「アスカ、ハードディスクをパソコンに接続しておいて」
「わかった」
「ミス・ソウリュウ。突入を開始しそうだ。万が一に備えておけ」
「アスカ、衛星で敵の配置を確認して報告するように伝えて」
「入り口をグレネードで吹き飛ばす気だ。突入してくるぞ」
わたしは泣きたい気持ちでハードディスクをひっつかみ、パソコンの端子にハードディスクを接続しながら、敵の配置を訪ねる。
「南70ヤードに3名、南西の廃小屋の陰に2名。3名が塀に沿って北に移動中。北へ誘い込まれるな」
「エリカ、伝えるわ」「お願い」
その時、生の爆発音が上で炸裂し、部屋が揺れた。すると部屋の壁を埋め尽くしている装置のランプが一斉に赤く変わった。すぐにエリカの声がした。
「今のは?」
「敵が廃屋に侵入を開始したみたい。地雷かグレネードが爆発した」
「グレネードで?」
「ウェインが報告してきたわ。それで玄関をふっとばしたって」
エリカからの応答が途切れた。
「聞こえてる?」
「聞こえたよ。いいかい、3度目の爆発を聞いたら何よりも優先してパソコンを破壊してからこっちに来るんだ」
敵の配置の大半が爆発音と一緒に吹き飛んでしまい、わたしはウェインにもう一度聞きなおしてから伝えた。
ふたたび静かになった。爆発音もエリカの銃声もしない。部屋は警報を知らせるランプで真っ赤になっている。わたしはミサトになった気がした。10年前、わたし達が使徒と戦っているとき、ミサトもこんな気持ちでいたに違いない。不安と焦燥と恐怖が入り混じった気持ちで。
完了までの残り時間が10分を切った。
 残り9分。わたしは手の汗を拭き、銃を握り締めた。
8分。ロシア兵が階段を探しているイメージに苛まされる。
 7分、2度目の爆発で天井から粉が降ってきた。エリカが激しい銃撃を始めて本格的な戦闘に入ったとわかる。地下室への階段が隠してある押入れの戸を閉めたかどうかが、やたらと気になる。エリカより先に下りたので確認していない。エリカのことなら大丈夫だろうと自分に言い聞かせる。
 6分、ウェインがハッキングが成功しそうだと連絡してくる。3つの足跡が階段に近づいてきた。わたしは銃を握り締めて身を固くしたが、足音は奥へと去っていく。
(こんな拷問って他にない)
わたしは銃を扉に向けつつ、右手でマウスを握り、すぐにデータを移せる態勢を作る。
5分を切った時だった。
突然、ヘッドセットからウェインの大声が聞こえた。これまでの冷静な口調が消えうせ、怒り狂った犬のように怒鳴った。
「軍事衛星にエネルギー反応がある。空から狙ってるんだ!今すぐにエリカと合流しろ。そこを離れるんだ!」
3度目の爆発、間髪いれずに4度目が起きた。
「エリカ!空から狙われてる!爆発も4回!」
エリカは応じず、銃撃音がしばらく続いた。そして聞こえた。
「くそったれ。こっちに来て」
わたしははじかれるようにパソコンを離れ、扉へと走った。振り返って『地獄の鷲』の銃口をパソコンの本体に向ける。ダウンロードを示すバーはほんの数ミリを残すばかりだ。
「早く!」とエリカが怒鳴る。「退避しろ!」ウェインも怒鳴る。
ちくしょう。
わたしはパソコンに駆け戻った。そしてたぶん自分にむかって心の中で叫ぶ。
(逃げてたまるかよ!ミサトは、あいつはいつだって待っててくれたじゃない!)
残り2分。わたしはハードディスクを引き抜いて投げ、エリカがしていたように銃を腰に挟んだ。
 1分。5度目の爆発は階段のすぐ近くで起こり、爆風で扉ががたがたと鳴る。ウエィンは同じ言葉を切れ目なく叫び続けている「逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ」
 ダウンロードが完了したと同時にコードをむしるように引き抜くと、本体ごと抱き上げた。そのまま扉を蹴り開ける。
 廊下は狭くまっすぐ続いていた。人一人がやっと通れるほどの広さしかなく、コンクリートの壁からひんやりとした冷気が染み出している。約50メートルの直線の廊下に明かりは2つだけで、ほとんど真っ暗だ。全速力で走り出す。
「エリカ!どこにいる?」
「通路を出たところにいる。交戦中」
「すぐに行く」
通路は果てる場所で直角に左に折れ、そちらから差し込む薄い光りが床に水をこぼしたようにわだかまっている。
部屋のドアに設置した最後の地雷が爆発するのが聞こえた。ロシア語が部屋に溢れかえり、すぐにドアが荒々しく開かれた。わたしはちょうど角に到達するところだった。
狭い廊下を銃声が追いかけてきて、わたしは背中に強い衝撃を受けてたたらを踏んだ。その拍子にパソコンが腕から落ちて角から地面に落ちた。
拾い上げる時、ロシア兵が銃でこちらを狙っているのが見えた。
それに構わずに走り出し、角に差し掛かるとわたしの目の前の壁に小さな火花が一つ散った。首を亀みたいに縮めながら角を曲がった。
階段が上へと続いていて、その先に四角く切り取られた空が見えた。ちょうど月がそこに収まり、弱々しく輝いている。
その月めがけて階段を駆け上がる。
外に出た瞬間、後ろから突き飛ばされて目の前に湿った地面が急接近し、泥にほお擦りをした。
わたしを緊急テークダウンさせたエリカはわたしに覆いかぶさり、弾倉が空っぽになるまで撃ち続けた。「左へ行って!」
屈みながら立ちあがり、泥だまりに横になっているパソコンを抱え上げた。弾丸が蜂の羽鳴りに似た音を立ててわたしの周りを飛び交う。
そこは整備のされていない荒地だった。錆びたブランコとシーソーと雲梯がここがかつて公園だったことを教えてくれた。公園は3階建ての建物、元通信施設の建物の目の前で有刺鉄線付きのフェンスで終わっている。
エリカはスプーンを抜いた手榴弾をアンダースローで放り投げた。手榴弾は宙に曲線を描いて地面に空いた穴に吸い込まれていく。
「走って!」
腕をつかまれて引きずられるように走り出すと、地下通路へ続く穴から激しい爆風が空めがけて吹き上がった。
 わたしたちは泥を撒き散らしながら雑草が島のように生えている公園を無我夢中で駆け抜ける。振り返ると角ばった通信施設の建物の下を幾つかの人影が動き、そのうちの何人かが味方の安否を確かめるため地下室へと入っていくのも見えた。
 道路と歩道の段差を飛び越え、中央斜線のところまできたとき、突然に蛍光灯が一斉に灯るように、周囲が明るく浮かび上がった。
 エリカはわたしの膝を裏から蹴りつけ、ふたたびわたしをテークダウンさせた。
 わたしはエリカとアスファルトの間から建物を見た。
 白い糸をまとわせた一本の柱が音もなく通信施設に落ちてきた。
 蝋のブロックに焼けた鉄の棒を差し込むようにコンクリート製の施設がひしゃげ、そして根元から純白の光の玉が膨れ上がっていく。
 生き物のように成長し、施設をすっかり包み込んだ光りの玉は逆光でシルエットだけになったロシア兵をも飲み込んでいく。
 巨大な光りの球体は成長しきると、圧力に屈したトマトのように皮が裂けた。中で渦巻いていた炎が顔を出す。
 そして凄まじい突風が吹き、炎が踊りかかるようにして猛烈な勢いで向かってきた。わたしは全ての意識を吹き飛ばされた。