獣は囁く

第9章 前

「車がある」
女はそう言って足を早め、わたしたちの先を走った。ヒカリをかばいつつ、見失わないようにその後を追う。
 ゴミ置き場のすぐ側に黒いホンダのSUVが止まっていた。女は走りながらキーを向けてボタンを押して開錠すると、運転席に乗り込んだ。わたしは後部座席のドアを開けてヒカリを中に入れた。隣に乗りたかったが、さっさとマヤが乗り込んでしまったので、助手席にまわった。
 わたしがドアを閉めるよりも早く車は急発進する。
狭い路地を二度曲がり、川沿いの大通りを北進しはじめると、赤色灯をまたたかせたパトカーの群れが狼の群れのように吼えながら、前方から向かってきた。
わたしたちの車はそのまますれ違い、246号線を右に曲がって多摩川にかかる丸子橋の上を猛スピードで通過した。
 くそったれ。とステアリングを操作している女が繰り返し毒づいた。
「どこに向かってるの」
わたしは後部座席の様子を見ながら言った。ヒカリは横になり、頭をマヤの足に乗せて苦しげに息をしている。
「私の隠れ家に向かうよ」
「病院よ」わたしは異論を挟まれないようにきっぱりと言った。
「だめだね」と女が前方に視線を固定したまま答える。
「ヒカリの傷の手当てをしないと」
「私がやるよ」
「あんた医者?」
「ちがうさ」
「じゃあ病院!」
女はバックミラーで後部座席の様子を窺った。
「ねえ、あんた」マヤが眠りから覚めたみたいに顔をあげる。京都の舞妓みたいに真っ白い顔をしている。
「その子の銃創がわき腹からどれくらいの距離にあるか確かめて」
マヤは言われたとおりにした。血にそまったヒカリのブラウスに手を伸ばし、慎重に裾からずりあげた。ヒカリが苦しそうな息を吐いた。
「外皮から約2センチ。背中には射出孔があります。真皮と外腹斜筋の間を抜けて筋組織を傷つけているみたい」
「すばらしいね」と女が言った。「コンピューターだけでなく人体構造もばっちり記憶してる」
「病院に」わたしは繰り返した。
「死にはしないよ。医者じゃないけど知識はある。信用して」
わたしは女の横顔から後部座席へ視線を移動させた。マヤは目で女の言うことが真実だと保障してくれた。
「渋谷に」わたしは努めてゆっくりと言った。「部屋を借りてる。今日借りたばかり」
女は少し黙った。「わかった」
「ヒカリ、すぐに手当てするからね」
ヒカリは傷口のすぐ傍に手を当てたまま答えた「うん」
 それからわたしは気がついて付け足した。
「助けてくれてありがとう」
ヒカリは無理に微笑んだ。
「よかった。死ななかった」
「あんたみたいな善人を死なせたりしたら、地獄に落ちるまで神を呪ってやるところよ」
「違う」とヒカリは今度はもっと自然な微笑みを浮かべた。
「アスカのことよ」
その言葉でわたしは黙り、ティファールの瞬間沸騰ポットよりも早く目が熱くなった。
 向き直ってシートのヘッドレストに頭を預けて星を見上げ、かなり苦労してそれを隠し、なおもこらえ、さらにしばらくこらえ、どうにか振り切って女に言った。
「で、あなたは一体だれなのよ?」
女はわたしを素直でない大学生の同居人を見るみたいに、うっすらと笑っている。
「正義のミュータントってところかな。エックス・メンって知ってる?」
「茶化さないで」
「エリカ」女は答えた。「エリカ・キーリ」
「それで何者なの。ミズ・キーリ?」
「エリカでいいよ」
エリカはステアリングをまわしてトラックを二台まとめて追い抜いた。隣に並んだバイクに素早く注意を走らせる。
「私はアメリカ合衆国のNIHISに所属してる」
「なによそれ?なんかの秘密組織?」
「我がアメリカ合衆国には色んな組織があるんだよ。でも信じていい、わたしはあんたを害そうって気はないんだ」
「でも連れ去ろうとはしてる」
エリカは運転したまま肩をすくめた「安全を確保してやろうと思ってるだけさ」
「合衆国大統領様がわたしを守れって言ったの?」
「いーや」と間延びした声を出した。
「合衆国の素晴らしき友好国、日本のプライミニスター・ナガノの要請にわが国が応えた結果さ」
「日本の首相が?」
「アメリカと日本にはあんたと、ミスター・シンジとミズ・アヤナミを保護する必要があるのさ」
「エヴァを操縦させるためでしょ」
それまで黙っていたマヤが言った。
「無理です。エヴァはマギがなければ造ることも維持することもできない」
「マギだって?」エリカがバックミラーを使って後ろを見た。
「3つの仮想人格で互いを補助し合いながら、かつ監視させて暴走を防ぐシステム。その理論は立派だったよ。ここは曲がる?」
「直進して、このまままっすぐ行けば渋谷よ。曲がるべき場所がきたら教えるわ」
エリカがアクセルを踏み込むとSUVは車の少ない道を力強く加速した。牛丼屋の前で騒いでいる若者たちがあっという間に過ぎ去っていった。
「人体構造は10年前と変わってないけど、コンピューターは10年前とは変わったんだ。今じゃマギなんてトイレで流す水の量の計算させる役にしか立たないさ」
マヤの顔がはっきりと怒気を含むのが分かる。喧嘩を始めないうちに話を戻すことにした。
「わたしに操縦士以外の何の価値があるの?」
「さあ、私は知らないね。私が命令されたのは、3人を保護することだけ。それ以上は知ったこっちゃない」
「嘘つかないで」
「本当だよ」
雨に濡れた赤色灯が暗闇に斑を描いている。その下を通り過ぎるたびにエリカの顔が浮かび上がる。
「一度わたしを拉致して解放した理由は?」
後ろではわたしたちの会話に二人が耳を傾けている。マヤは拉致のことは初耳のはずだが、感覚が麻痺しているのか表情はぴくりともしなかった。ヒカリも傷の具合よりもこっちのほうが気になるようだ。
「偶然だった」
「答えになってない」
「ヤボ用で通りかかったら、あいつらがマンションに向かっていくのが見えた」
「あんたが!」わたしが大声を出したので、エリカは思わずブレーキを踏んだ。
「部屋にカメラを仕掛けたのはあんたね!あの写真は何のつもりよ!」
エリカが前方から目を離してこちらを見ると、目がまん丸に見開かれて、衝撃と疑念が脳裏を駆け巡っているのが分かった。
「写真?なんの…」
「とぼけんじゃないよ!あのカメラはとっくに見つかってんのよ、あんたはそれをカメラが壊れたと勘違いしてここに来たんだ。そうでしょ!?」
エリカは片方の眉を吊り上げた。表情はすでに元のとおりに戻っている。
「カメラをしかけたのは私だよ。アスカの様子を見張っておく必要があったんだ。でも写真なんてのは知らないね」
「あんたが話したくないって言うなら、べつにいいよ。自力で調べる。あんたのことも、写真のことも」
「落ち着きなよ。その写真ってのは何なの?」
わたしは目をすがめてエリカを見た。落ち着きを取り戻すためにヒカリの様子を確かめた。ヒカリはわたしと目線を合わせたが何も言わなかった。
「わたしの盗撮写真がネットに出回ってる」
「歓迎できない写真?」
「思い出しただけでフロントガラスを叩き割りたくなるわ。いつ撮られたのかも分からないし、目的もよくわからない。本当にあんたがやったんじゃないでしょうね?」
「違うよ。信頼できないかい?」
「今のところはまったく」
「わかった」エリカは諦めたように呟いた。「話せるところまでは話してあげるよ。ただ、どこまで話していいかは私には決められないんだ。本部と掛け合わないといけない」
「いつ話してくれるの?」
「隠れ家に戻らないと連絡できない。まずは後ろの二人を置いてから、一緒に隠れ家へ行こう。そこで上司にかけあう」
わたしのイメージに隠れ家という場所の扉を開いた途端、黒尽くめの兵士たちが大挙して押し寄せ、わたしを縛り上げて飛行機に乗せられるのが浮かんだ。そのままを彼女に伝えると、エリカは乾いた笑いを上げた。
「そんなことはしない」
「誓って言える?」
「何に誓うのさ?神にかい?私はあいにく無神論者なんだよ」
エリカは悪戯っぽく言い、SUVをさらに加速させて反対車線に飛び出してクズ鉄を積んだトラックを先頭にした車列を追い越した。
「アスカと一緒に後ろの二人を救ってあげたんだ。その恩をここで返してよ」
「わかったわ」
曲がらなければならない地点に差し掛かり、右折するように指示を出した。車はシャッターを下ろしたクリーニング店の角を曲がって大通りを離れて大学周辺の住宅街に入った。
 SUVは滞在型マンションの前に止まった。車を降りるときに脇腹が痛んだ。後部座席にあった毛布でヒカリの腹を隠し、マヤと二人でヒカリを支える。わたしもマヤもアドレナリンが引き、疲労のために足がおぼつかない。ヒカリが小柄なのは幸いだった。
 エレベーターは使うなというエリカの指示を恨みながら、やっとの思いで目的地にたどり着き、鍵を開けようとしてそこで初めて気がつく。
「鍵がない!財布も携帯も全部部屋に置いてきた」
「この間抜け」
エリカは言って階段を使って車へ戻っていき、見たこともない筒状の器具を持って帰ってきた。それを鍵穴に当てると、筒の中から出ている薄い棒を鍵穴に差し込み、筒の横から出ているレバーを勢いよく引く。
 すると鍵は呆気なくシリンダーから抜け落ちて筒の中に納まった。
「すごいわね。七つ道具?」
「子供のおもちゃだよ」
「安全って物を再考させられるわ」
部屋に入ると、ベッドの毛布をひきはがして床に広げ、ヒカリを慎重にその上に寝かせた。エリカが血に染まったブラウスを手早く裂いた。ヒカリの白い脇腹に弾丸が貫通した穴があった。血はほとんど止まっていたが、生々しい傷跡のせいで、わたしは罪悪感に襲われて目をそらした。
 エリカは枕カバーを裂いた即席の包帯で手早く傷口を巻いた。
「大丈夫」初めて聞く優しい口調で言った。「大丈夫だから、安心して寝な」
ヒカリをベッドに上げて落ち着かた。眠りに落ちる直前にヒカリはうっすらと目を開いた。
「妹に連絡したい」
「だめだよ」エリカがすぐに答える。
「連絡させてやってよ」
「だめなのよ」そう繰り返す。
「妹はこの子の唯一の肉親なんだ」
「気持ちは分かるわ。でもだめ。ここが警察にバレる。そしたら今日は取調室で眠れない夜を過ごすことになるよ」
エリカはすまなそうに言った。本心からそう思っているみたいだ。
「明日の朝、ここを出る前に連絡させてあげる」
「約束してよ」
「必ずね」
ヒカリはほんの少しだけ頷いて目を閉じた。控えめな寝息が聞こえると、わたしは全身の力が抜けてカーペットの上にへたりこんだ。マヤもベッドにもたれかかり、頬を押し付けて目を開いたまま身じろぎもしない。
 信じられないほど疲れており、短く吐く息だけが大きく感じられる。
 エリカはジャンプスーツの前を開き、体にぴっちりと沿った灰色のアンダーウエアの上に巻きついたベルトから銃を抜いて、弾倉を引き抜き、弾の数を調べてから元の場所に戻した。
 呆然としているわたしたちを尻目に部屋のあちこちを見て回り、窓をひらいてベランダに出、そこで左右を見渡し、非常用避難梯子の箱の納められた箱を開けて中身を確かめた。部屋に戻ってくるとわたしを見た。
「何か食べる物はある?」
「冷蔵庫にサンドイッチが2パック入ってるわ」
エリカは冷蔵庫を開いてサンドイッチとレッドブルの缶をテーブルに運んだ。
「わたしたちの分も残しておいてよ」
「了解」と答えて立ったままレッドブルを一気飲みし、サンドイッチを口に押し込むと玄関へ向かう。
「どこいくの?」
エリカはその問いにドアノブに手をかけたまま振り返り、日本人とは違う茶色い目をこちらに向けた。わたしは改めてエリカが美人だという感想を強くした。
「建物の回りを確かめてくる」
彼女が出て行った後、二分間を無言のまま過ごした。するとマヤがくすくすと笑った。「あの人、すごいタフだね」
「そうだね」
「私、まだアスカに話してないことがある。途中で邪魔されたこと」
「なに?」
顔をあげてみると、マヤはさっきと同じ態勢のまま、目は閉じていた。激しい眠気と戦っているようだった。
「赤木センパイのこと」
「それがどうかした?」
「センパイは生きているわ」
「そう」
「今はそれしか言えない。ごめんなさい」
マヤは長い息を吐いて、頬をベッドに擦り付けて居心地の良い場所に落ち着けた。
「話してくれてありがとう」
「管理人室で私を助けてくれたから。アスカが飛びついてくれなかったら、私、死んでたよね」
「わたしもヒカリがいなかったら死んでたよ」
「それを言ったら」マヤが黙った。もう眠る直前だ。
「あの人が来てくれなかったらみんな死んでたかも」
血液のかわりに鉛が体中を巡っているような重いからだを持ち上げ、眠っているヒカリの頬に触れた。
 そしてテーブルに行き、そこにあったものを見て吹き出した。
「あいつ、わざわざ2パックとも開けてタマゴサンドだけ食べてる」
マヤからどんな反応が返ってくるのかと思ったが、何もなかった。マヤは眠っていた。時計を見ると日付が変わったばかりだった。
 わたしもマヤを見習うことにした。

 エリカに揺り動かされて目を覚ました。前に時間を確かめたときから2時間が経過していた。
「さあ、行くよ」
エリカは今度はレッドブルでなく炭酸水を飲んでいた。髪を縛りなおしたらしく、一本残らず髪留めの中に納まっている。
「あなたも寝たの?」そう問いかけると、エリカは炭酸水を飲み干し、口の中で音をさせてから飲み込んだ。
「少しうとうとしたぐらい」
わたしは輪ゴムでまとめていた髪をほどいて、頭を振った。
「ここからどれくらいかかるの?」
「1時間ってところ。6時にはここに戻りたいんだ」
目が覚めてくると、体のあちこちに異常があることがわかってきた。疲労はまったくといっていいほど抜けておらず、全身が筋肉痛のように重かった。部屋の隅に放り出していたバッグで着替えを済ませるとき、鏡で確かめると蹴られた脇腹には拳ぐらいの大きさの青ずみができていた。そっと指を這わせると刺すような痛みが走る。
「すぐに治るさ」エリカが言ったが、それで気持ちが安らぐはずも無く、シャワーの代わりに熱いお湯で顔を洗った。
二人はぐっすりと眠っていた。マヤは眠った時と同じベッドに寄りかかった体勢で、ひどく窮屈そうだった。
「あんな体勢で寝たら二度と体が伸ばせなくなるんじゃないかしら」
わたしは今さっきエリカにされたようにマヤの体を揺すった。マヤはすぐに起きた。寝ぼけた状態のマヤをソファに移動させてやる。マヤは何も言わずに横になると、やっと安住の地を見つけたように再び眠った。
 ヒカリの様子を調べてからエリカと部屋を出た。扉を閉める時、鍵が抜けたままのことに気がついた。
「これ、元に戻せないの?」
「業者に頼まないと無理だね」
「あいつらが、ここを知ったら入られてしまうわ」
「そんな事態になったら、鍵があっても無くても同じ」
「あの二人も連れて行けないの?」
「これから行く場所は無理だよ。アスカ以外に場所を知られたら困るんだ。戻ってきたら二人は別の場所で保護するよ。約束する。それに、これから行く場所よりも、ここのほうが安全だ」
その言葉の意味をあまり考えず、扉を閉めた。
 雨は止みかけていたが空は一切の光を通さない雲に覆われたままだった。
 二人でSUVに乗り込んだ。エントランスからSUVまでの間、エリカは周囲に気を配り、乗り込む前に後部から車の下を覗き込んだ。
「爆弾の用心さ」
エリカがイグニションにキーを差し込み、ひねるとエンジンが息を吹き返した。
「バックミラーで誰か着いてこないか見張っていて」
わたしはバックミラーを見つめながら、変哲のないマンションが遠ざかっていくのを見守った。
 SUVは246号線から碁盤目の24番通りを折れて北上した。わたしはずっと車の背後を窺い、一度振り返ろうとしてエリカに怒られた。不審な車は見当たらなかった。ホンダのSUVはタクシーとトラックばかりの深夜の道を快調に飛ばした。
「だれも追ってきてない」
わたしが言うと、エリカは自分の目でバックミラーを確認し、それから左右のサイドミラーも確認した。わたしたちの車の後にはずっと遅れてついてくる車が一台あるだけだった。道端に寄った路面清掃車を追い抜くと、その黄色っぽいヘッドライトが急速に遠ざかっていく。
 わたしの中に再び質問の山が首をもたげてきたが、さし当たって知らなければならない最も重要なことを訊く事にした。
「わたしはこれからどうなるの?」
「指示があるまで保護する」
「その指示っていうのはいつ来るの?」
「お偉いさん方がセカンドチルドレンの惣流・アスカ・ラングレーを必要とした時さ」
「分からないわ。あなたはさっきわたしに操縦士としての価値はない。って言ったわよね」
「ええ」
「でも、最初に現れたとき、わたしを拉致した理由はわたしがパイロットだったから。って言ってた。矛盾している」
エリカはステアリングを握りなおして横目でわたしを見た。
「矛盾はしてない。どちらにもちゃんとした理由がある」
「でも今は言えない」わたしが先を制して言うと、エリカは今度ははっきりとこちらに顔を向けた。「アスカ、賢くなってきたんじゃない?」
「その指示があるまで、わたしたちは身を隠すことになるのね」
「そうもいかないのよ。あなた碇シンジか綾波レイがどこにいるか知ってる?」
今度はわたしがエリカの顔を見た。
「あの二人も同じように保護する必要があるの?」
「ある」エリカは即答した。「大いにある」
「そう」
「アスカがあの二人について調べていたのは知ってる。何が分かった?」
わたしはやっと自分に優位な要素が手元に転がり込んできたのを感じた。
「聞かせて頂戴」
「今は言えない。って答えたら?」
「二人が今日アスカが遭ったのと同じ体験をする確率が高くなる。死んでしまう可能性も含めてね。わたしが助けに現れることはない。あの二人が心配じゃないの?」
「どうでもいいね、あの二人のことなんか」
言ってはみたものの、自分でも嘘か本当か分からなかった。結局はあの二人とはエヴァという糸だけでつながった腐れ縁なんだと思った。
「交換よ」とわたしは切り出した。「こちらの質問に答えれば、わたしも知っていることを話すわ」
「本当に何か知ってるんだろうね?」
「ええ、神に唾を吐いて誓うわ」
エリカは笑い出した。「言ってみて」
 わたしはじっくりと時間をかけて質問を捜した。なるだけ多くの疑問にかかわる質問を。ただ、先に口を開いたのはエリカだった。
「待って、先にアスカが持っている情報にどれだけ価値があるか聞かせて」
「いいわよ。受けて立つわ」
「それは二人のうちのどちら、碇シンジと綾波レイのどちらに関するもの?」
「シンジのほうよ」
「何に関すること?彼の食べ物の好みを知ったところで意味がないわ」
「もしかすると居場所を突き止められるかもしれない情報よ」
「嘘だったら、今後あなたを手荒く扱うことになる」
「本当よ」「じゃあ、そちらの質問をどうぞ」
もう一度、あらゆる角度から質問を点検しなおしてから訊いた。
「わたしをまたエヴァに乗せたいと思っている人間がいるの?」
エリカはじっくりとその質問を吟味してから言った。
「困った質問ね」
「どうなの」
「いない。でもあなたに協力してほしいことがある」
「どんなこと?」
「それは核心に触れるわ。答えられない」
「エヴァは完成しているのね」
「完成している」
「パイロットがいないのに作っていたの?」
質問をした後で気が付き、わたしが言ったのとエリカが言ったのが同時だった。
「「ダミーシステム」」
「それがあるなら、どうして今頃になってパイロットが必要になったの?」
エリカの視線が前方の一点を見据え、迷っているのだとわかった。タイヤが道路に残った水溜りを蹴散らす音を聞きながら、沈黙を分かち合った。わたしはこれで自分の質問タイムが終わってしまうのを恐れて言葉を破った。
「ダミーシステムは使い物にならないってネルフにいた頃はみんな言ってたわ。ロックオンした対象をひたすら破壊するだけって」
ダミープラグで暴走した初号機がエヴァ参号機を肉の塊に変えていった時のことを思い出して砂を飲んだような気分になった。あれには鈴原トウジが、ヒカリが唯一、好意を抱いた人間が乗っていた。
あんなもの。とわたしが独り言を言うと、エリカはそれを聞き逃さずに同意をした。
「もっともダミーシステムもこの10年でだいぶ進歩した。カタツムリから蛙ぐらいの知能レベルにね」
「わたしをパイロット候補生の教官にでもするつもり?」
エリカは心底、おかしそうな笑いをあげた。
「日本とアメリカ、それにカナダやメキシコなどの周辺国の人間を調べつくしたけれど、操縦者の素質がある人間は一人として見つかっていないんだ。宇宙人に拉致されてUFOに乗ったって言い張る奴は腐るほどいるけど、エヴァに乗ったって言えるのはあなたたちだけ」
「じゃあ、やっぱりわたしに操縦させようっていうことでしょ」
「エヴァのパイロットを探し始めたとき、最有力候補に挙がったよ。でも今は候補からは外れてる。あんたはもうエヴァを動かすことはできないよ」
「どうしてよ」
「もう質疑応答は終わり。でもアスカがわたしに協力するなら少しだけ延長してあげもいい」
「どうすればいいの」
「私はこれから碇シンジと綾波レイを探す。それに協力するなら」
「いいわ。協力する」
いい子だこと。エリカは微笑みながら言った。
「エヴァの製造が始まる前からパイロットに関する問題があることはわかっていた。エヴァを操縦するには3つの条件があるのよ。このことは知ってる?」
「初耳よ」
「じゃあ、講義してあげるから良く聞きな。ノートを取った方がいいかもね」
「さっさと話してよ」
「第一の条件は24年前のセカンドインパクトを母親の胎内で体験していること。
 第二の条件。南極で起きたセカンドインパクトは大量のニュートリノ粒子を発生させたわ。宇宙から届く通常の量の1700倍以上だった。ニュートリノはどんな物質ともぶつからずに素通りする性質を持ってる。南極から全方向に発されたニュートリノは地球全体を通り抜けて拡散した。そしてこの粒子はごく稀に他の物質の原子核とぶつかることがある。海に浮かべたピンポン玉に向かって投げたパチンコ玉が当たるような確率でね。パイロットの資質を持つ者は、未熟な状態の胎児の脳にニュートリノがぶつかった人間だけ」
エリカは指で頭をはじき、撃たれたような仕草をした。
「ニュートリノが未熟な脳にぶちあたると、脳は特殊な脳波を出すようになる。これはノーベル賞を受賞した脳神経学者が計算ではじき出した信頼できる結果だそうよ。その脳波ってのがエヴァと同調できる唯一の脳波。これがシンクロ率の正体。
もっとも、セカンドインパクトは通常の1700倍ものニュートリノを発生させたから、資質のある人間は多く生まれた。でも脳波の強弱には個人差があって、エヴァを動かせるぐらいの強い脳波を出す人間は超を100個つけても足りないぐらい希少だった。まさにスーパーレア、『神に選ばれし仔』ってことさ」
「わたしはその中の一人だったのね」
「そう、世界で5人もいなかっただろうね。それぐらいの確率」
「最後の条件はなに」
エリカは急に小声になった。まるでこれからセカンドインパクトが起こり、パイロットを生んでやろうと企んでいるみたいだった。
「最後の条件。その脳波は14歳の時にしか出ない」
まってよ。とわたし。
「24年前に生まれた赤ん坊は今年で全員24歳よ。それじゃあこの世界にはもうパイロットになれる人間は存在しないってことになる」
「そういうこと。一人もいないはず、でも唯一の例外がある」
「なに」
「綾波レイさ」
エリカは赤信号を無視してウインカーも出さずに交差点を曲がった。街はすでに郊外をさらにすぎて緑が目立つようになっている。標識が府中市まであと4キロと告げていた。
エリカはそこで話を切り、わたしの持っている情報を要求した。わたしが自分の知っていることを話して聞かせると、一言一句、暗記するみたいに耳を傾けていた。
「150万。国外に脱出するには十分な金額だ」
「シンジは国外なんかに出たりしないわ。あいつはそんなことをする人間じゃない。ひたすらじっとしているタイプよ。それにファーストも一緒ならなおさらそうするに違いないわ」
「アスカは碇シンジと綾波レイが一緒にいると思ってるんだね」
「ええ、いるわ。絶対に」
雲の切れ間から月が覗いている。わたしは前方に見えてきた大きな闇を睨みつけた。
 あいつはわたしじゃなくて、ファーストを選んだ。傷を負ったわたしを置いてどこかへ去り、たぶんファーストを探しに行って発見し、そのまま二人で消えうせた。
 わたしを置き去りにして。
「そろそろ着くよ」エリカが言った。
「横田米軍基地へ?」
「その手前だよ。全基地返還で横田にはもうアメリカ軍はいない」
「じゃあ何があるの?」
「アメリカ空軍374空輸航空団が使っていた府中通信所跡。今は無人の施設になってる」
エリカはゆっくりと車を道端に寄せて停車した。
「ここから歩くよ」
わたしたちは車を置いて歩き出した。道沿いに家はまばらで、その大半も何年も人が入った形跡がなく、玄関先の岩の割れ目から草が思い思いの方向に伸びている。
 途中、一軒だけ二階の窓にテレビの光が映っていた。隣を歩くエリカはずっと無言で行く先を見つめていたが、終始、周囲に注意を払っているのがわかった。
 何の変哲もない廃屋の前までくると、エリカはわたしを伴って築地塀を回りこみ、鍵を使って裏口の扉を開けた。