獣は囁く
第7章
昨日訪れた予約窓口で鍵を受け取り、地図に従って渋谷を歩いた。道路には色とりどりの傘が揺れている。
地図が教えてくれた最寄りのスーパーマーケットで必要な品を買い込むと、落書きのひどい大学の壁沿いに歩いた。その滞在型マンションはセンター街とは逆方向の清国通り沿いにある新東京工科大学の近くにあった。大学の裏は住宅街で、ところどころに大きなマンションが建っている。
5階の部屋に入ったのはちょうど7時をすぎたところで、ぐったりと疲れきっていた。部屋は値段のわりに狭く新しくもなかった。ここはホテルじゃないんだからと自分に言い聞かせ、備え付けのステレオにeyepodをつなごうとしたが、つなぎ方がさっぱりわからずに諦めた。
イヤホンを耳に突っ込み、リビングのカウチに座った。外の景色はほとんどが隣のマンションに切り取られていて、雨を降らせる曇った空が見えるばかりだった。買い物袋を提げていたせいで、わたしは少し濡れてしまっていた。
そのうちにすっかりおなじみになった頭痛が始まった。アスピリンを部屋に置いてきてしまったことが、わたしをますます暗い気持ちにさせた。
気分を向上させようとして、ヒカリに電話をかけた。彼女はつかまらず留守番電話に22時に部屋で伊吹マヤと会うことになったと手短に説明した。
わたしは新しい小屋に入れられた犬みたいに、キッチンとリビングを行ったりきたりして何とか時間をやり過ごした。血液はかなり強烈にアルコールを要求していた。それをごまかすために煙草を吸うたびに頭痛は悪化していく。
ついに頭を万力で締め上げられているぐらいに痛み、わたしは観念してビールを飲んだ。それでも約束の時間まではまだたっぷりあったので、眠ることにした。
部屋に目覚まし時計がないことに気がつくと、鬱憤でわめき散らしたくなった。
目を閉じても疲労からくる興奮のせいでなか寝付けず、このまま自分が消え去れればどんなに楽かを想像した。
そしてわたしは眠った。それがこの日、唯一の休息らしい休息だった。
テーブルの上で携帯がぶるぶると震えている。夢と現実の境界線でそれに気がつき、なんとか体を起こそうとしているうちに、雷に打たれたように跳ね起きた。部屋は真っ暗になっていて、鳴り続けている携帯に向かってふらつく間にテーブルの角に体をぶつけた。
「アスカ、今どこにいるの?もう9時半よ」
「ごめん」わたしは言った「すぐに行くから」
「渋谷の新居にいるのね?」
「そう」
「まだ間に合うわ。待ってるから」
「ヒカリはどこにいるの?」
「自分の部屋よ。10時には合流するわ」
「あなたも来るつもりなの?」
当たり前でしょ。とヒカリは当然とばかりに言った。彼女の参加資格について議論している余裕はなく、手早く着替えると携帯と財布をポケットに突っ込んで部屋を飛び出した。
電車に揺られている間、何度も目をこすって眠気を追い出した。時間の感覚がおかしくなっていて、まるで早朝に起こされたようだった。体がだるく、熱をもっている。酒を飲んでしまったことを後悔した。雨はやむ気配を見せていない。
ヒカリは合鍵を使ってわたしの部屋に入り、律儀に軽食の用意までしていた。
「この部屋に一人で入っちゃだめよ。自分でわたしにそう言ってたくせに」
「お客が来るなら、これぐらい用意しておいた方がいいと思ったのよ」
ヒカリはまるでこちらが非常識だと言わんばかりで答えた。
自分たち以外にこの部屋の鍵を持っているか、鍵など必要なく出入りできる人間がいることを伝えて納得させた。
ヒカリはその仕返しにわたしに高慢な、言い直して高圧的な態度をとらないようにとくどくどと言い聞かせた。
そうしながら二人で伊吹マヤを待った。ヒカリはソファに座り、わたしはベッドに座った。お互いに緊張しており、動作はぎこちなかった。マヤをどの位置に座らせたらいいんだろう、なんて下らないことを考えていた。
22時ぴったりに廊下を歩いてくる足音が聞こえた。小刻みな足取りで女性とわかった。足音は部屋の前で止まり、数秒の間をおいてベルがなった。
ヒカリの横を通り過ぎてチェーンが許す分だけドアを開く。そして一度ドアを閉めてチェーンを外して開いてやる。
玄関で立ちすくむマヤをわたしは家出少女が尋ねてきたような心地で見た。
伊吹マヤは両手を伸ばした状態でどこでも売っている安物の傘を持っていた。地味すぎるTシャツの上にまだそれほど袖を通していないテッド・ネルソンのシャツを羽織っている。ギャップの黒ジーンズにスニーカーを履いていた。ギャップの裾は濡れて色が濃くなっている。
わたしたちは見つめあった。
伊吹マヤはかすかに痩せたように見える以外、記憶と何ら変わっていなかった。細い髪がよく揺れる髪型も子犬みたいな童顔も相変わらずで、とっくに30代になっているはずだが、20代になったばかりといっても通用しそうだ。
「あがんなよ。部屋があったまっちゃう」
玄関のスペースをどいて促すと、マヤはうなずき、わたしに代わって扉を押さえ、異世界に入るようにゆっくりと足を踏み入れた。そして踵を使ってスニーカーを脱ぎながらキッチンを見渡す。キッチンとリビングを隔てているドアのところにいるヒカリと目線を合わせると「始めまして、伊吹マヤです」と自己紹介をして、脱いだ靴の向きを気にしてからさらに一歩を踏み出した。彼女は薄青の靴下を履いていた。
「わたしは洞木ヒカリ。アスカとは同級生だったの」
マヤの緊張をほぐすように明るく言い、わたしは玄関の扉を施錠してチェーンをかけた。
「知ってます。シンジ君やレイとも同級生でしたよね」
ヒカリは相手が自分のことを知っていることに驚いたようだった。
「そう。短い間だったけど」
右手を腰にあててリビングに向かって通り過ぎていくマヤを見た。彼女は身長が縮んだように思えた。ネルフにいた頃はパンプスのおかげで少しは身長がプラスされていたのと、わたしがデカくなったせいだと結論付けた。マヤはヒカリとほぼ同じ高さだった。ヒカリは153センチだった。
こちらは171センチまで伸びている。
わたしより先にリビングに入ったマヤをソファに座らせ、わたしはベッドに腰を下ろした。ヒカリは来客用にしまってあった折りたたみ式の小型三脚椅子を開いてテレビの前に置いた。
膝の上に乗せたウエストバッグのストラップを指にからませながら、マヤは遠慮がちに部屋を見渡した。「いい部屋ね。きれい」「アスカは料理はまったくしないけど、掃除と洗濯は大好きなのよ」ヒカリが微笑みながら語りかけた。
「そうだったの」
マヤはわたしを見た。わたしは黙ってその目線を受け止めた。
「お茶とコーヒーどっちがいいですか?軽くつまめるものもあるけど」
「ありがとう。でもお腹は空いてないからコーヒーだけでいい?」
もちろん。ヒカリがキッチンに姿を消すと、マヤは再びわたしを見た。「久しぶりね。元気してた?」わたしが問いかけると、マヤは複雑な表情で頷いた。
「あっという間に10年たってしまったような気がするの。ついこの間までネルフにいた気がするのに」
「あんまりいい10年じゃなかったの?」
「アスカはどうだったの?」と聞き返してきた。
「ま、いろいろあったよ。今は別に満足してる」
マヤは置時計を気にした。まるでもう帰る時間だ。といわんばかりに。わたしもそれつられて時計をみた。彼女がきてからまだ5分しか経っていない。
「大人になったね。アスカ。見違えちゃうぐらい」
「10年前はただの高慢ちきな小娘だったってことでしょ」
「そういう表現の仕方もあるかな」
「自覚しているけど、10年前のわたしを悪く言わないでほしいよ。今さらそのことを責めにきたんじゃないよね?」
うなずきが返ってきた。ヒカリはキッチンに行ったまま戻ってこなかった。
「ヒカリがいると話せないの?」
マヤはヒカリがいることを快く思ってないようだった。彼女は目をそらしてからまた時計を気にした。
「そんなことないけど」
「けど?けど何なの。理由もなく嫌うなんてマヤらしくないよ」
「嫌ってなんかいません」
「ならいいじゃない。ここに何を話しにきたのか教えて」
マヤは躊躇してたっぷりの間を置いた。その間にヒカリがアイスコーヒーのグラスを3つ載せた盆を持って、リビングとキッチンの間のドアを空けて入ってきた。
ヒカリはテーブルにグラスを置いていく。ドアを閉め忘れて開け放ったままだ。
「私、いない方がいいかな?伊吹さんもそのほうが話しやすいでしょ。私は部外者だし」
「ヒカリは部外者じゃないよ」とわたし。
「彼女はわたしの保護者なの。第三新東京市に住んでたってだけ。何も気にする必要はないから」
わたしがかばうのを無視して、ヒカリは盆を抱くように抱えてわたしたちを見た。そして少し悲しそうな顔をする。
「少し、外に出てるね。10分後に戻るから」
ヒカリがビリングを出ようとする。
「待って」
マヤの声が懇願するように突然強くなったので。わたしとヒカリは同時にマヤを見つめた。
「ここに居てください」
ヒカリは眼でわたしにどうしたらいいかを訊ねた。
「座りなよ」
ヒカリは盆を胸に抱いたまま、三脚椅子に腰を下ろした。
「話してよ。何を知ってるの?」
言葉がきつくならないように注意しながら促す。いつだってわたしの言葉は怒っているように受け取られる。
マヤはまだ迷っていた。またバッグのストラップをまさぐりはじめた。
彼女が決意するまで何も言わないことに決めた。ヒカリは向かいの椅子からマヤをじっと見つめていた。わたしかマヤのどちらかが喋り出すのを待っている。
わたしは部屋を見渡した。相変わらず、他人の部屋のような感覚は付きまとっている。流しの下に入れた盗撮機のことが気になった。
マヤはソファのぬいぐるみと同じぐらいの沈黙を保ったが、落ち着きでは遥かに負けていた。彼女の視線は手元とアイスコーヒーの間をせわしなく行き来したがそれに口をつけることはしなかった。
せっかちを自覚しているわたしはしびれを切らした。
「ネルフは潰されてなんていなかった。琵琶湖か摩周湖あたりに引っ越して、今もせっせとエヴァを作ってる。そうなんでしょ?」
呼び水のつもりで言った。するとマヤはマシンガンのように喋り出した。
「知らない!わたしはもうネルフとは関係ない。わたしは騙されていたの」
「誰に?」
「誰かに!」マヤが声を強くした。
「エヴァは素晴らしい創造物だった。神話と科学技術の融合物。それが人類を滅亡から救ってくれると信じていたのに、結局は滅亡の後押しをしていた。それってひどいことでしょ?人類補完計画、名前だけで成功の見込みのちっとも無かったのに。
とにかく私はもうネルフの人間じゃないわ。だから、今、ネルフがあるかどうかなんて知らない。知りたくもないの」
マヤは怒りの入り混じった真剣な目でわたしを見た。わたしも同じ目で見返した。
「じゃあ、どうしてわたしに会いにきたりしたの?」
「それは……」やれやれだ。
「赤木博士やその他の人の消息は知らない?」
暗かった表情が凍ったみたいに固まった。首を振るのにあわせて髪が左右に揺れる。
「知らないわ」
「生きてるのか、死んでるのかも?」
「シゲル君やマコト君はきっと生きてる。意識を失うまで一緒にいた」
「赤木博士は?」
「分からない」
「一緒にいなかったの?」
「途中まではいました」
沈黙が落ち、すぐに気詰まりに変わった。
「あの時、アスカが量産型と戦っている時、私達は弐号機とコネクションを確保するのに必死だった。通常回線はTSDFが妨害して使えなかったし、高度通信はマギの維持と侵入者への対応で占有されていたから、結局、古典的なUHF送信を使うしかなかったの」
「そのときのことはよく覚えてないのよ」
「弐号機は半ば暴走していたわ。それを報告しようと振り向いた時にはもういなかった。私を置いてどこかにいってしまった。それ以来あってない」
アイスコーヒーの氷が金属を叩くような音を立てた。マヤは一瞬、それに手を伸ばそうとして引っ込めた。
「ミサトやシンジのことはどう?あとファースト」
「ネルフの・・・」
マヤがそう言った瞬間、玄関に動きがあった。扉がゆっくりと5センチほど開き、隙間から大きな鋏が伸びてきた。そうして垂れ下がっているチェーンを挟んだ。まったく音はせず、ヒカリが扉を閉め忘れなければまったく気がつかなかったはずだ。
わたしは立ち上がった。けれど何をしていいのか分からなかった。ガチンと鈍い音がして切られた鎖が垂れ下がり、振り子のようにゆれた。
そこからの展開は早かった。マスクで顔を隠した二人はわたしたちの靴をけり散らかして、わたしに向かってくるためのモーターを積んでいるみたいに突進してきた。
一歩も動けないまま、侵入者が肩から提げている銃、たぶんマシンガンってやつ、の銃口を突きつけられた。映画でみたまんまの黒い衣装、足には筋肉の起伏がわかるパツパツのスパッツのようなものを履いて、装着したベルトに拳銃とナイフが留められていた。
「動くな」
一人はわたしにマシンガンの銃口を固定し、もう一人は手にした拳銃をヒカリへと向けた。マヤは頭を抱えて丸くなり、ヒカリはまだ事態が飲み込めずショックで凍り付いている。
わたしに銃口を向けた男は部屋をざっと見渡してから一歩を踏み出した。そして声を出す間もなく壁に押しやられた。隣の部屋は空室だ。物音が2つ隣の部屋まで届くものかどうかを漠然と思った。
「声を出したらすぐに引き金を引くからな」
わたしの腕を後ろに締め上げながら侵入者が言った。その日本語は流暢とは言えず、外国語のアクセントが強かった。背後でヒカリが立たされる気配がする。
「誰なのよ」
腕の痛みを堪えながらどうにか振り返りつつ言った。男は青い瞳をしており、マスクには水滴がついていた。日本人でないことはすぐにわかった。
「黙れと言ったのがわからないのか」
男はわたしの顔を鷲づかみにして骨が軋むほどの力で壁に押し付けた。それを見たヒカリが悲鳴か呻きかわからない声を出した。
男は無線で誰かと連絡を取った。それは日本語ではなくロシア語だった。
「こっちを向け」
不意に顔を押さえつけていた力が緩み、向きなおされた。振り返ると銃口と睨めっこになった。首をもたげる蛇のイメージが浮かぶ。銃口はゆっくりと離れて、わき腹に押し付けられた。
背後に立った男は屈んで、わたしのふくらはぎを叩いた。それから上へと向かって、腿まできたところで、武器を隠し持っていないか調べているのだと気がついた。
「持ってるわけない」
言ったが、男はやめなかった。腰のあたりを入念に調べ、そしてわき腹へときた。男の呼吸が髪にかかった。わき腹から手が離れてほっとした瞬間、男はわたしの右胸を力を込めてわしづかみにした。爆発するように怒りが燃え上がり、反射的にそれを振りほどこうとすると、男は指に力を込めて抵抗し、さらに一度、身をよじると指を離した。
男がマスクの下でニマニマと笑うのが見て取れた。
「殺伐とした仕事でね。こういう役得があってもいいだろ?」
わたしは男をマスクの上から睨み付けた。
「それでこっちにはどんな役得があるのか教えてほしいわ」
「どうだろうな。俺を好きになるかもしれないぜ」
「犬とでもやってれば?」
男はバーで会話を楽しむように肩をすくめた。
「おやおや、ご機嫌斜めだ。自分が劣等生操縦士だったのがそんなに気に入らないか?」
今度こそ本物の怒りがわたしを貫いた。
突き出した拳はまっすぐに男の顔に向かって突き進んだが、目的地に着地する寸前で払いのけられた。
視界に火花が散るような衝撃が走り、気がついた時には床に四つんばいになっていた。頭の中で金属音が鳴り、頬が熱く麻痺したようになっている。その衝撃から立ち直る暇もなく髪をつかまれて上を向かされる。
「大人しくしてろ」
「わたしたちをどこに」
言いかけると男は髪を離した。「立て」
わたしはゆっくりと立って髪を直した。わたしが転んだ振動でアイスコーヒーを入れたグラスがテーブルから落ちて広がり、溶けかけた氷が流氷のように漂っていた。
ヒカリは目前で繰り広げられた光景と眼の前に突き出された銃で蒼白になっていた。
侵入者その2はテレビの前にいるヒカリをわたしから反対側の壁際まで誘導した。ヒカリは三脚椅子を引っ掛けて倒したが、どうにか壁までたどり着いた。すがるような眼でわたしを見たが、してあげられることは何もなかった。
あるとすれば、時間稼ぎぐらい。
「わたしたちはどこに連れて行かれるの?」
「楽しいところさ」
「あんたら、ネルフの人間?今度は解放せずに連れて来いって言われたんでしょ」
男たちは顔を見合わせた。
「そいつは失敗だったな」
「どういう意味よ」
「休暇を貰うチャンスをのがしちまったってことだ」
「わたしをエヴァに乗せようとしてもムダだからね。絶対に乗らない」
「労働条件の交渉は後でするんだな」
侵入者その2が無線の呼びかけにロシア語で応じた。その2はその1に目配せするとサイレンサーをつけた銃のトリガーに指をかけたまま、背中に手を回してガムテープを取り出した。そして躊躇無く髪の上からガムテープを回してヒカリの口をふさいだ。
マヤは銃を向ける価値もないと判断されたのか放っておかれ、ソファの下にしゃがんで頭を両手で抱え小刻みに振っている。
彼女が勇気を奮い立たせたりしないことを願った。そんな場面は見たくも無い。
すぐ側でビリビリと音がして、わたしも口をふさがれる。
侵入者は短く言葉を交わし、再び無線でどこかと連絡を取った。
「さあ、外へ向かって歩け」
マシンガンの硬い銃口が背中に押し付けられた状態では従うより他になく、玄関へむかって歩かされた。
リビングを抜けてキッチンに入ると、背後で侵入者その2がヒカリに言っているのが聞こえる「お前もこっちへこい」。
玄関と続きになっているキッチンにはわたし達の屈がばらばらになって散らかっていた。
玄関の扉の前まで来ると、侵入者その1が言った。
「扉を開くんだ。ゆっくりと」
取り付けたばかりのキーガードは動作させていなかった。まったくの役立たずだったわけで、それはキーガードの責任ではなかったが、心の中で罵った。
言われたとおりに扉を開いた。分断されたチェーンがゆれ、毎日見ている見慣れた景色が広がった。住宅街特有の深夜の静けさが雨に濡れていた。
リビングから疑問形のロシア語が聞こえた。
「ダー」
わたしを誘導してきた男がぶっきらぼうに答えた。その単語は知っていた。「yes」。
そこでわたしは気がついた。
とんでもない勘違いをしていることに。
彼らが必要なのはわたしだけ。
振り返り、男に体当たりを食らわせた。だが男は倒れず、やすやすと受け止めた。
まだ痺れている頬に再び衝撃をくらい、それから恐ろしい力で投げ出されて壁に叩きつけられた。傘立てが倒れ、積み上げた雑誌の山が崩れる。
テープでふさがれた口は役にたたず、鼻から必要の半分にも満たない量の空気を補給した。最初の衝撃から立ち直る間もなく、膝を胸に叩き込まれてその全てを失った。むーむーと唸るヒカリの声が聞こえたが、すでに意識が朦朧としていた。つま先に鋼鉄の入ったブーツの蹴りを腹に食らって、わたしは再び壁にぶつかった。
呼吸が自由にできるありがたみ、きっとわたしが人生の最後に学んだこと。を思い知りながら、たぶん最後の力で男の足に飛びついた。銃かナイフさえ奪えれば、もみ合う間はそればかり考えていた。無我夢中な意識の中で認識できたのは、自然に閉まりかけた扉が勢いよく開かれたことだった。
急に男の体から力が抜け、わたしの上にのしかかってきた。
誰かが上を飛び越えていった。直後に低い銃声と短い叫び声した。
なにかが床にぶつかって割れる音、格闘する気配がし、そして急に静かになった。
わたしは上にのしかかった侵入者その1の体で身動きがとれず、それを押しのける力もなかった。
血液が緊急事態を告げながら全身を駆け巡っている。頭の中が最悪で、沸騰した血の圧力で爆発しそうだった。
撃たれたのはヒカリかマヤかを考えていると、押さえつけていた圧力がなくなり、抱き起こされた。目を開くとそこにはヒカリがいた。口にテープを巻かれたまま瞳と鼻から水が流れている。
彼女はむーむーと唸り、自分より先にわたしの口のガムテープをずらしてくれた。思い切り空気を吸い込み、嗚咽で吐き出した。
「アスカ、アスカ。しっかりして」
ヒカリの柔らかい感触を味わいながら、顔をずらして周囲を見た。すぐ側に誰か立っていた、わたしは視線を上へと向けていく。
今度こそ本当に気絶するかと思った。青く見えるような黒髪。今日はそれを後ろで束ねている。Tシャツでなく体に密着するジャンプスーツでやはりスタイルは抜群だった。
「よおアスカ。申し訳ないんだけど、ゆっくりしてる時間はないんだよ」
それはわたしを拉致した女だった。
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