獣は囁く

第6章

内心で鳴り続ける警報に耐えながら、階段を駆け上がる。タイミングよく急行電車が滑り込んできた。それに乗り、扉が閉まり、電子モーター音が唸りをあげる。景色が流れはじめるとそこでやっと一息ついた。
車内は空いていたが、席には座らずにつり革をつかんで立った。動転は収まっていたが、まだ冷静にものを考えられる状態じゃなかった。
盗みを働いてきた後の少年のようにあたりを窺う。ちらほらいる乗客の誰もわたしに注意を払っている人間はいない。唯一、乳母車に乗った赤ん坊だけがあからさまにこちらを観察していて、両手を広げてミニチュアみたいな手を開いたり閉じたりしていた。
神経過敏になっているのだろうと思った。
赤ん坊から目をそらし、窓の外をゆっくりと流れる景色に移した。落ち着きを取り戻すために髪に手を入れて指で櫛いた。気を紛らわすために、路線図の中の点滅するランプが終点の二子玉川駅までゆっくりと進んでいくのを見ていた。
厄介ごとが波のように押し寄せてきている。
自宅前で拉致した女、ネットにばら撒かれた写真、ケンスケの金を騙し取ったシンジ、行方の分からない元ネルフの職員たち。
思考は堂々巡りを続けた。
全ての具材はネルフという皿の上に載っている。ただそれが何のための具材なのかはさっぱり分からなかった。無益な思考を追い出そうとして頭を振るが、顔のまわりを飛ぶ蚊の群れのように離れない。
二子玉川駅への道程を半ばまで過ぎた頃には、どうにか答えらしいもはひねり出した。
だれかが、わたしをハメようとしてる。

 部屋に着くまでに2度電話があった。
 最初は二子玉川駅に着く直前で、ヒカリからだった。わたしはわざわざ一つ手前の駅で降りてかけなおした。
 ヒカリは会社のパソコンでホームページを調べた結果、冬月が確かに京都大学の副理事である事を教えてくれ、信用しても良さそうだ。と自分の見解を付け加えた。
 親友の話す内容をほとんど耳に入っていなかった。いつでも自分の味方でいてくれる存在があることに言葉にならない安堵を感じた。電話では礼を言う以上のことが出来ないのがもどかしかった。
 ちょっとした用事ができて吉祥寺に向かった。これから荷物を取って渋谷の新しい新居に向かう。と伝えて会話を締めくくった。わたしの身に起きた新しい問題のことは話さなかった。ネットに出回っている写真のことをどう説明すればいいのか分からない。
 二子玉川に着き、食欲はまったくといって良いほど無かったが、何か食べておくべきだと考え、この地域の中心的な役割を担っているデパートへと入った。
 デパートは6階建てで最上階が飲食店フロアになっていたが、まともな量を食べられるとは思えなかったので、5階のスターバックスに席を見つけてマフィンとラテを注文した。
 マフィンをちびちび齧りながら、携帯電話を相手に時間を潰し、その間じゅうずっと視線を感じていたが、考えすぎだと分かっていた。
 電力の残量のメモリが一つ減ったところで席を立ち、デパートの中をぶらついた。
 煙草の専門店が目に飛び込んできた。吸い込まれるように店に入り、ショーケースに並んでいる知らない煙草の箱を見つめた。喫煙者が爪を噛む癖の保持者と同じぐらいの人数しかいなくなった世相で、デパートのテナントとして煙草屋が入っているのは奇跡みたいなものだった。
 わたし以外に客はおらず、店員が付きっ切りで何か買わせようと話し続けた。
 結局、初めて聞くグロリアという海外の煙草を買い、気がつくと屋上にいた。
 屋上は緑化されていて小さな滝が作る川が巡っていた。それに沿って市松模様のタイルの遊歩道が伸び、樹木を迂回して滝へと続いている。樹木には種類を示すタグがぶら下がっていた。
 わたしは遊歩道には行かず、屋上を囲む手すりの方へと歩いた。
 防錆加工されたクロニウムの手すりは掃除が行き届いており、寄りかかっても服が汚れる心配はなさそうだった。
手すりに手を置き、そよいでくる風が髪を撫でるのを感じながら景色を見つめた。デパートのほかにはこれといって高い建物はなく、平地に家々の屋根がひしめくように詰まっている。
 買ってきたばかりの煙草のビニール包装を解くと、それを待ち構えて
いたように吹いた風が指からゴミになったビニールを奪い去った。
 ビニールは空気の上を転がるように空へ進み、厚く垂れ込め始めた雲の前で大きな弧を描いてわたしの視界を逃れていった。
かまうもんか。
事務所で社長がしていたようにパッケージの底を指で叩き、伸びてきた一本を口にくわえた。ライターの着火装置を指ではじき、体で風から守りながら火をつける。
 最初のひと吸いで胸に鋭い痛みを感じ、むせた。今度はゆっくりと吸い込むと、煙はすんなりと胸に収まった。
 鼻の奥からひどい匂いがしてきたが、嗅覚はすぐに慣れると知っていた。その間、風はわたしの髪形を乱し続けた。いたずらな風がタバコを咥える寸前の唇を髪でふさぎ、人差し指でそれをどけた。
 不意に葛城ミサトと同居していた頃の記憶が蘇ってきた。

 わたしたちの同居生活は何かと問題が多かった。三人ともそれぞれ心の大事な箇所が欠けていて、お互いに埋めあえる関係でなかったせいだろう。
 食事が終わるとシンジがさっさと食器を片付け始めた。
「シンちゃんよろしくね」とミサトが言い、缶ビールの残りを飲み干した。シンジが空っぽになったビール缶を回収しに来ると「一本追加おねがーい」と明るく言った。
 わたしは椅子を離れてカーペットの上に座り、クッションとテレビのリモコンを引き寄せた。
 ビールを受け取ったミサトが「ありがとさーん」と言うのが聞こえる。
 流しに背中を向けているシンジと、クッションを敷いて横になったわたしを交互に見て、ミサトが言った。
「たまには三人で食後の歓談ってのはどう?」
「何を話すって言うのよ?」視線をテレビに据えたまま言った。シンジは答える代わりに皿をカチャカチャ鳴らしている。
 そうねえ、とミサトは陽気に言ったが、空元気だと分かっていた。それがわたしをムカつかせた。深刻に言ったって同じだっただろう。結局、どんな風に言われたって結果は同じだった。その頃のわたしはとにかくいつでもムカついていた。
「10年後の未来なんてどう?」
バッカみたい。わたしはすぐに答えた。「話す気にもなれない」ミサトは無視した。
「それでもあなたたち二人はまだまだ若いわねえ」
わたしとシンジが答えないでいると、ミサトはあれこれと10年後のことを言い始めた。どれも身の毛もよだつほどくだらなく、わたしは耐えられなくなった。
「…でどうなのシンちゃん」
皿を片付け、テーブルを拭き始めたシンジに話題を振った。わたしはそちらを見た。シンジは手を止め、テーブルを1秒間見つめたあと、また手を動かし始めた。
「今日はラッキーだったのよ。デスクのPCがぶっ壊れたの。18時間も苦情の処理させられたら、そりゃ嫌になってぶっ壊れもするよね。苦情処理の仕事ができなくなったんだから、早く帰らないと悪いんじゃないかなって。やあ、明日は雨になるぞ。ってねん」
わたしはクッションを顎の下に移動させた。シンジは布巾を洗い出した。
「その雑巾、そろそろ交換したほうがいいんじゃない?」
「布巾ですよ。ミサトさん」
ミサトが組んでいた足をほどいた。椅子の背もたれに腕を置いた。そして大きく息を吸ったのが分かった。怒鳴り始めるのかと思ったが違った。
「この戦いが終わったら、旅行に行きましょう。あなたたち、修学旅行に行きそびれちゃったもんね。修学旅行は高校にもあるけど。海外なんて贅沢はダメよ。中学生の修学旅行は京都か広島って決まってるんだから」
「絶対いやよ。加持さんならともかく、ファーストとなんて」
ミサトは黙った。わたしから反応が返ってきたのが意外だったみたいに。
「行ってみれば楽しいもんよ。私がそうだった」
「ミサトはエヴァに乗ってなかったもんね」
その皮肉にシンジが布巾を絞っていた手を止めた。ビール缶を凹ませては戻すカコカコという音が聞こえた。
「修学旅行から帰ってすぐに、父と一緒に南極へ行った」
ミサトはゆっくりと立ち上がった。
「わたしは、申し訳なく思ってるわ。あなたたちが14歳の大部分を使徒との戦いに費やしてることに。それでもあなたたちには自分の時間がある。それを無駄にしてほしくないのよ。わたしはそれを助けたいし、見守ってあげたいってことを分かって欲しいわ」
「ミサトはわたしらの母親じゃない。だからそんなこと気にしなくたっていいのよ。放っておけばいいんだ。それより自分の時間を大事にしたらいいのよ」
「わたしの時間なんてどうでもいい」ミサトは言った。「ムダに過ぎるだけだから、ムダな時間のすごし方なら教えてあげる。同居人がそろってるのに言葉も交わさないことよ」
「わたしには会話をするほうがよっぽど時間の無駄」
ミサトはショックを受けたようだった。視線を落とし、弱々しく缶をテーブルに置いた。わたしは罪悪感から逃げるためにそっぽを向いた。シンジは無言を決め込んで押し黙っている。このクソ野郎と思った。加持さんなら必ず何か言うはずだ。こいつは何も言いやしない。
 ミサトは何か言おうとして思いとどまり、缶を再びつかんでベランダへ出て行った。
 シンジはそそくさと流しを離れて自室へと向かった。
 チャンネルを何周も変えてコメディ番組に落ち着け、それに集中しようとした。
 彼女は手すりに缶と手を置き、体重を預けながら外の景色を眺めていた。彼女の背中は寂しそうで、ロミオが去っていった後のジュリエットそのものだった。
 わたしは衝動に駆られた。ごめん言い過ぎた。むっつりのシンジは部屋に閉じこもっちゃったけど、二人でいいなら。そう言いたい衝動と。いい子になんてなってやるもんか。という思いがそれを邪魔した。悩んでいるうちに意地を張る理由が分からなくなった。
 やがてミサトは窓をあけて部屋に戻ってくると、テレビに視線を向けているわたしを見やった。そしてテレビで流れているくだらないコメディ番組に眉をひそめた。
「子供はさっさと寝なさいよ」
「分かってる」
テレビからどっと笑い声が溢れた。
ミサトはそのままキッチンへ行き、ゴミ箱のペダルを踏んで蓋を開けると、握りつぶした缶を投げ入れた。わたしとの距離を取って部屋を横切る。そしてあと一歩で部屋を出る直前で振り返る。
「私はアスカの母親でも姉でもないわ。なら、私はアスカの何なのかいってみなさい」
「ただの後見人でしょ」
わたしが答えると、ミサトはじっとわたしを見つめた。
「なら、後見人は先に寝るわ」
「おやすみ」
部屋に誰もいなくなると、わたしはクッションに顔を埋めた。泣き声を聞かれないように。ひどく惨めで情けなかった。
今のわたしなら、なんと言うだろう?

 煙草の火が指を火傷させそうなほど近くまで来ていた。雲は湿気を吸って成長し、雨雲になっていた。いつ雨を降らすか選んでいるみたいだ。
 煙草を揉み消し、ゴミ箱を探したが見つからず、結局、持ったままデパートの中を歩くことになった。
 出口でようやく見つけて火が確かに消えているのを確かめてから捨てた。
 プリペイドの方の電話が鳴った。
「アスカか。今、どこにいる?」
「自宅の近くよ」
「元ネルフの人間と連絡が取れた」
「誰?」わたしは携帯電話を持ち直した。冬月はもったいぶることもせずに言った。
「伊吹君だ。覚えているだろう。息吹マヤ」
「ええ、よく覚えてる。彼女が見つかったの?」
「ああ、彼女の実家は新潟の酒造所なんだ、知っていたかね?」
「知らなかった」
「私は彼女の実家で作った酒を何度か貰っていたから知っていた。すぐに見つかったよ」
「それでどうだったの?」
「彼女は今、君と同じ旧東京にいる。そして今も存在しているかも知れないネルフの事を何か知っているようだ」
「どんなこと?」
「それは電話では話せないと言っていた。何か事情があるのかもしれん。現住所も教えてくれなかった。君のことを伝えたら、直接話したいそうだ。住所を教えてくれ」
わたしが住所を伝えると、冬月は黙った。書きとめているのだろう。
「息吹君に伝えてすぐに向かうように言おう」
「今すぐは困る。ちょっと用事があるのよ」
「ネルフのことより大事なことか」冬月は苛立たしげに言った。
盗撮カメラの探索にどれくらいの時間がかかるか見当もつかなかった。
「22時には済んでいると思う」
「わかった。伝えておくから、必ず部屋にいるように頼むぞ」
冬月はまるでわたしがすっぽかしの常習犯みたいに念を押した。
「必ずいるようにする」
電話を切って時刻を確かめると2時半だった。わたしは多摩川にかかる橋を渡り始めた。
 交番の上の広告が見える。看板娘、椎名ユリの笑顔がわたしの感情を刺激する。交番の前にはあの警官が立っていて、川原の様子を見守っていた。わたしに気がつくと彼ははにかんで軽い会釈をした。
部屋には入らずにマンションの入り口で社長が手配した業者を待った。
 エントランスの外の石柱に寄りかかり、雨が降らないように願った。
とんでもない一日になったと思った。

 業者は仕事熱心で図々しいぐらいだった。古ぼけたワゴンは不機嫌な音をたててエントランスを通り過ぎたところで止まり、二つのドアが同時に開いた。運転手はすぐにわたしをすぐに見つけて近寄ってきた。助手席にいた方はワゴンの後ろをまわり、後部座席のドアを開けてショルダーバックを肩にかけてから小走りにその後を追った。
男二人組みは名刺を差し出し、わたしが眼を通している間に社長に電話をかけて自分たちが確かに依頼された業者であることを確認させた。
セーフティー・ライフという会社で、きびきびした動きから彼らがこの仕事にかなり慣れていると分かった。
 運転手、こちらが上司らしい。から細かい指示を受けている間、部下の方は地面に置いたショルダーバッグをまさぐり出し、アンテナの生えた黒いプラスティックの装置を取り出して、具合を確かめている。
「僕たちより先に入って、普段どおりに帰ってきたように振舞ってください。決してわたしたちに話しかけないように」
二人は同じ社名の入ったTシャツを着ていた。どちらも洗いざらしてよれよれになっている。側に行くと生乾きの汗の匂いがした。
「さあ、行きましょうか」
上司がわたしを促した。部下は機器のつまった重そうなバッグを再び肩にかけた。二人の背中には電話とFAXの番号、それに「人には見られない権利がある」とプリントしてあった。成長産業だろうと思った。
 エレベーターで四階に昇る間、何か思い当たるような盗撮機の設置場所はあるか。と上司が訊いてきた。リビングと答え、少し考えて付け足した「リビングと寝室が一体なの。キッチンと二部屋しかないわ」
「じゃあ、そのベッドの周辺でしょうね」
「どうしてそう思うの?」エレベーターが到着し、彼らのために「開く」のボタンを押してあげた。
「設置者は対象者が最も知られたくないことを知りたいんです。最も知られたくないことはだいたいベッドで行われるでしょう?」
実に的を得た答えだと思った。
 鍵を外して中に入った。
 部屋は熱気がこもっていて、前に部屋を出るときまで安らぎの場だった部屋には、いまやわたしに対する敵意が充満しているようだった。
 意識的に普段どおりに振舞うことの難しさを感じながら、とりあえずバッグをソファに置いて窓を開け、バッグの隣に腰を下ろした。
 業者の二人は部屋の玄関にいたままで、装置のアンテナを振りかざし、コンセントや家電製品へ近づけたりしながら、地雷を避けるようにしてゆっくりと部屋に入ってくる。
 キッチンまで進んだ二人を見ないように努力しながら、バッグの中身をかき回してみたりした。テレビのリモコンを操作してテレビをつけ、これが装置に悪影響を及ぼさないかと心配になったが、上司が音量を上げるように手振りで指示し、その通りにした。
 ふたりは悪さをしにきた透明人間みたいにリビングの入り口に立つと、壁に張り付いて部屋を見渡し、豊富な経験から生じる直感がひらめくのを待っていた。
 彼らが視界に入ってきたので、努力する必要はなくなった。上司は部屋の隅に設置してある戸棚に近づき、下から上へとアンテナを向けていった。
 わたしはこの二人はあの写真を見たのだろうかと想い、この二人が見ていなくても、他の誰かが、2万円を支払った全ての人間が見ているだろうと思った。
 ビルについている赤色灯のようなランプが二人の手の中でおぼろげに光っていた。それが戸棚の上に近づくにつれて強さを増していくのが見て取れた。
 そこには読み終えた本が横になって積み上げられている。二人は慎重に本をどかして戸棚の上を探っていき、互いに目線を交わしてからキッチンまで戻ると、そこからわたしを手招きした。
「ありましたね。無線型のやつです。こんな小さいの」上司は親指と人差し指で小さな穴を作った。
「携帯電話かラジオの音が悪くなっていませんか?カメラからの電波が邪魔するんです」
「携帯の音がひどかった。電話機の調子が悪いのかと思ってたわ」
わたしはさっきデパートからプリペイド携帯で冬月と話した時に雑音がまったく無かったことに気がついた。
「お隣さんにも迷惑をかけましたよ。きっと」
「隣の部屋は空室よ。そんなことより、どうするつもりなの?」
「声は潜めなくても平気です。音声はとれないタイプです。もちろん撤去しますが、その前に受信機を探しましょう。小型の盗撮機はそんなに遠くまで電波を飛ばせないんです。すぐ近くにあるはずですよ」
「それも部屋の中にある?」
まさか。上司は言いながら部下に装置を渡し、部下はそれをもとのバッグにしまった。
「それじゃあ小型カメラの意味がないじゃないですか。たぶん部屋の外ですよ」
わたしたちは部屋を出た。玄関のドアから左右に続く廊下を上司と部下は別々の方向に分かれて進んだ。居所のない気持ちで二人を待っていると、雲からぽつぽつと雨粒が落ち始めた。雨はすぐに本降りになった。
 目当ての物はすぐに見つかった。3分とかからなかった。
エレベーターの方へ向かった部下が手招きした。わたしと上司がそちらへ向かうと、部下は廊下のガス管が納められた小さい扉を空けて、中を指差す。
 上司は中を覗き込んで確かめてからわたしに場所を譲った。
 むき出しのコンクリートに囲まれた狭い空間に何本かのガス管が縦に伸び、調節器が備え付けられている。受信機はその調節器にストラップをかけてぶら下がっていた。拳ぐらいの大きさの黒い箱が見える。
 手袋をつけた上司に場所を譲り、彼が調節器からストラップを外して外に持ち出すのを見守った。彼は箱をつかむと、オルゴールを調べるみたいに色んな方向にひっくり返して調べている。
「これは違うな」上司はわたしに言った。
「何が違うの」
「受信機じゃなくて、中継機ですね。部屋のカメラから受信した電波を強くして再び飛ばすんです。きっと本当の受信機は地上にあるんでしょう」
そう言って雨で白く霞んでいる景色を顎でさした。
「じゃあ、これから地上を探すの?」
「残念ですが無理ですね」上司は箱をビニール袋に入れ、いざという時は警察への証拠にするのだとわたしに教えた。
「設置者の指紋がついているかもしれない」
「本当の受信機はどうしたらいいの」
「そちらを探すのは無理です。この中継器で100メートル四方には電波を飛ばせるでしょう。その範囲を全て探すのは無理ですよ。どこかの部屋にあるのかもしれないし、もしかすると時間を定めてマンションの前にきて、記録しているのかもしれません」
「じゃあ、テープとかの回収は無理ってこと?」
「そういうことになります」上司はすまなさそうに言った。
部屋に引き返すまでに、わたしはぞっとする事実に気がついて背筋が寒くなった。
カメラは部屋の中にあった。ということは誰かが部屋に、わたしのいない間に侵入して設置していった。ということ。
逃げ出したい気分だった。鼓動が早くなり気分が悪くなった。悪質ストーカーの恐怖を身をもって体験中だ。
部屋はすでにまったく心が安らぐ場所ではなくなっていた。部屋の隅に立っているわたしの視界の中では二人が戸棚の上の本を手早く床に下ろしていて、彼らが住人みたいに見えた。二人は本の間から小さな装置を摘み上げ、ドライバーをつかって装置を開き、中を確認してからわたしに差し出した。
「これがカメラです」
それはわたしの想像よりも遥かに小さかった。本体は親指程度の大きさしかなく、そこから20センチぐらいの短い線が突き出ていた。先端は少しだけ膨らんでいて、昆虫の目みたいな小さなレンズがはめ込まれている。
 カメラを返すと、二人はわたしにわからない単語を使って会話をし、部下の方がバッグから新しい装置を取り出した。
「見ててください」
装置はイチゴポッキーの箱ぐらいの大きさで、上部には5センチ四方ほどの液晶画面がはめこんである。下部には円柱形の金具、金庫のダイヤルを思わせる。がついていて、部下はそれを慎重に回した。液晶画面は砂嵐のままだったが、不意にそれが止み、映像が現れた。
 映像はカラーで乱れていたが、何が映っているかは十分にわかった。部屋の天井からぶら下がった電球傘が見え、ぐるっと動いてわたしが写った。
「傍受したんです」
「これで、犯人のことがどれくらい分かるの?」わたしは上司がこちらに向けているクソいまいましいカメラの先端を手で握った。
「中継器を使うあたり、こういった機器にそれなりに詳しい人物でしょうね」
「こういうのって普通に買えるもの?」
「いくらでも買えますね。種類も驚くほどありますよ。ニーズが多様ですから」
おどけて言った上司の言葉に悪気はなかったが、わたしは腹が立った。
「販売している先から何かわからないかな?」
「それは警察の仕事ですよ。わたしたちは発見までしかできません。ただ、これは始めて見た種類ですね」
上司はビニール袋に入れた二つの機器を持ち上げて振った。メーカー名も刻印されていない機器は真っ黒いゴキブリみたいに見える。
 デジタルの「森のくまさん」が流れ始め、上司は体のあちこちを触って携帯電話を探し始めた。
 ズボンのバックポケットから携帯電話を見つけ出して電話に出た。相手はサンタらしかった。上司は与田サンタに首尾を報告し、それからわたしに向かって携帯を差し出す。
 液晶部分に彼の皮脂がたっぷりついていた。パンツの太ももの部分でそれを拭ってから耳に当てる。
「君の言ったことが真実だとわかって安心しているよ」
「ちっとも満足感はないわね」
「こちらはサイトの管理者に連絡を取ろうとしているころだ。ただ時間がかかる。サイトには住所もメールアドレスも載ってないんだ」
背後で弁護士と副社長が会話している声がする。何を言っているのかは分からない。
「CMのほうは?」
「副社長に任せてるよ。今夜、話し合いをする予定だ。なにか決まったら連絡する。今夜は連絡が取れる状態にしておいてくれ」
携帯を返すと、上司は再び話し始めた。料金のことが話題らしく、緊急料金がどうとか言っていた。その間に、部下の方は帰り支度を始めている。
 上司が話し終えると、部下の方はすっかり準備を終えていた。
「それでは気をつけて」
上司はゴキブリの入った袋をわたしに押し付けた。わたしは部屋の前で礼を述べ、あまり感謝の気持ちを抱けずに彼らを見送った。
 衣類を詰め込んだバッグを手に取った。そこで今夜、伊吹マヤがここを訪ねてくることを思い出してウンザリする。かといって約束の時間までこの部屋にいる気はさらさらなかった。
 忘れ物がないかと部屋を見渡した時、傍受装置がテレビの上に置きっぱなしになっていることに気がついた。
 それも盗撮機と一緒に流しの下の扉に放り込み、荷物を背負うと、今は信頼性をまったく失った鍵をかけて部屋を後にした。