獣は囁く
第5章
ヒカリが部屋に来るまでにはすっかり準備は終わった。ヒカリは宣言どおりの7時半ぴったりに部屋にドアと叩いた。ドアを開けてやると彼女はすぐにテーブルの上に並んだ物を見て言った。
「アスカが作ったの?」
「典型的なドイツの朝よ」
ヒカリは椅子を引いてバッグを載せ、その隣の椅子に座った。わたしは皿に盛った食材を説明していく。
「ハムは薄く切って皿に並べる。チーズは同じく薄く切って皿にならべる。それからバターは、これが重要よ。使う量をきっちり容器から皿に移す。缶詰の果物は丁寧に皿に」
「もういいわ」とヒカリは笑いながら言った。「解説ありがとう、一流シェフのヴェロニカ・アメラルどの」
「ドイツの朝はこんなもんよ。日本みたいに朝っぱらから塩っ辛い物を食うのがおかしいのよ」
わたしがコップに牛乳を注いでやろうとすると、ヒカリが止めた「いいよ。自分でやる」牛乳のカートンを預け、わたしは自分用のオレンジジュースのボトルを手に取った。
「アスカの料理なんて以前にいつ食べたか思い出せないわ」
「そんなに前だったかな」自分でも思い出せなかったが、そうとぼけた。ヒカリはハンカチを開いて膝に載せた。手前に引き寄せた皿にバスケットの代わりのボウルに積んだパンを移し変える。
「本当は撮影の前は食べちゃいけないんだ」
「撮影は明日でしょ?」
「みんな2日前から絶食するのよ。ウエストを少しでも細くするための最後のあがきってわけ。看板娘は3日前から絶食するんだってさ。撮影が終わった後の食いっぷりを見せてあげたい」
「アスカはいいの?」ヒカリはわたしがパンにピーナッツバターを塗りたくるのを珍しそうに見ていた。
「わたしは腹なんて見せないもの」
「そのうち水着になれっていわれるかもよ」
「そんなのはお断り。20代も折り返し目前だってのに」
ヒカリは平切りのパンにイチゴジャムを塗り、二つ折りにして耳を少し齧る。
「今日から入れるんでしょ?」
昨日、契約した滞在型マンションのことだと察した。
「今日のうちに荷物を移すつもりだよ」
ヒカリは口をあけてジャムのたっぷり入った箇所に口をつけようとして、今やっと自分がジャム嫌いだと分かったように寸前で止めた。「荷物だけじゃなくて、体のほうもよ。わかってるの?」
「わかってる。『割れ物注意』のシールを貼っておくよ」
ヒカリは聞き分けのない娘を諭す母親のように微笑んだ。
「『取り扱い注意』のほうがいいね」
わたしたちは控えめに笑いあった。
「トウジの妹はどうだった?」
「残念がってたわ。兄のことを気にしてるなら、それは間違いだって」
「次回は会うよ」
「約束できる?」
うん、するよ。わたしはそれ以上何も言えないように口をパンの残りでふさぎ、断面が波状になったチーズに手を伸ばした。ヒカリがその手に自分の手を添えた。
「私もカヨも憎いのはアスカじゃないのよ。使徒。あれが憎いだけ」
わたしが確かにうなずくのを見届けてから手を離す。
「私も碇君と綾波さんに会いたい。お礼も言いたい。トウジの仇はあなたたちが晴らしてくれたもの」
「ずっと前のことね」
「でも事実よ。あなたにも、綾波さんにも、そして碇君にも感謝してる」
まるでシンジをかばうような言い方なのが気になったが、何も言わずにおいた。
ヒカリはさっきとは違う種類の微笑みを見せて、話題を変えた。
「ネルフの人と連絡は取れた?」
「元ネルフだよ。一人だけ、副指令だった人にね」
「わたしも家を出る前に電話してきたのよ。朝は迷惑がられるけど、だいたいつかまるから」
「誰と連絡がついた?」
「先にそっちが話して、副指令って人とのこと」
ヒカリは手についたパンくずを皿の上で払い、牛乳のはいったカップを包むように持ってこちらを見た。わたしはその瞳に負けた。
「ネルフの副指…元副指令の冬月っていう人で」
「きいたことある」ヒカリが口を挟んでその部分は省略するように示唆した。
「今は京都大学で副理事をしてる。今はネルフとは関係ないみたいだった」
「碇君のお父さんの部下だったの?」
「右腕だったよ」
「じゃあ、いろんな人の消息を知ってるのね」
「それが知らないってさ」
わたしは手をひらひらさてから、その手で二枚目のパンにかぶりついた。わたしが咀嚼している間、待ちきれない様子でヒカリが質問する。
「葛城ミサトさんのことも?」
「そそ」リスのように右の頬を膨らまして答え、オレンジジュースで飲み込んだ。
「心当たりを当たってくれるって」
「福指令だった人が誰の行方も知らないなんて」
「あそこは同僚同士でお手紙のやり取りをするような、そんな良い職場じゃなかったのよ。それに」
もうジジイだから使い物にならないのかも。そう言いかけて口をつぐんだ。お手伝いに半ば介護されながら暮らしている冬月の姿が眼に浮かぶ。「そこまで親しい人もいなかったよ。なんて言ってもあのシンジパパの右腕だから」
わたしの言葉の揶揄を敏感に感じ取って、ヒカリが射るような視線をした。わたしは肩をすくめてコーヒーメイカーのスイッチを捻るために立ち上がった。
「そっちの収穫を教えてよ」
彼女に背中を向けたまま訊いた。キッチンの窓ガラスを抜けた光りが昨夜に血の模様のあった部分に濃い陽だまりを作っている。今日も暑くなりそうだった。
「碇君のことが分かったわ」
その言葉で受け皿に粉末コーヒーを注いでいた手が思わず止まった。「そう」とだけ言って作業を再開した。ヒカリが次の言葉を待っていたので「まだ生きてんだ。あいつ」と言った。
わたしが『抽出』のスイッチを押すのとヒカリが後を続けるのが同時だった。
「ケンスケと連絡がついた。まだ私のことを委員長って呼ぶのよ」
「うん」
「最初はとぼけてたけど、嘘をついているってすぐにわかった。言い逃れする時は必ず『あー、委員長、それはだね』って前置きするのよ」
「じゃあ、居場所を知ってたの?」
コーヒー粉末の袋の口を折りたたんでクリップで止めて元の場所に戻した。ヒカリが息を吸い込むのがわかった。何となく嫌な予感を感じて振り返ると、彼女はマニキュア以上の装飾を施されたことのない爪の表面を親指で撫でていた。
「碇君にお金を借したみたい」
わたしはシンクの縁に腰を当てて寄りかかり、眉をひそめた。「どういうこと」
「急に連絡があって、理由を言わずにただ金を貸して欲しいと頼んだそうよ」
「シンジに会ったの?あいつも、綾波レイも一緒?」
ヒカリは首を振った。コーヒーメイカーが蒸気の立ち上るような音を立て始め、サーバーに琥珀色の液体が滴りだした。
「指定された口座に振り込んだだけで会ってはいないみたい。綾波さんのことは分からない」
ヒカリは順番に答え、わたしはさらに質問した。
「それはいつの話でいくら貸したのよ?そもそも、いきなり連絡してきた奴に金を貸すなんてどういう神経してんの?」
「そんなにたくさん質問しないで」
思わずキッチンから離れていた腰を再びシンクにくっつけ、噴き出してくる感情を息にして外に逃がした。前髪が額から一秒間も浮き上がる。
「順番に答えるから。ケンスケが連絡を受けたのは半年前」
「つい最近じゃない」
「そうね。貸した額は」
そこでヒカリは言いよどんだ。ちらりと電子レンジの時刻を気にし、秘密を打ち明けるような声で言った。
「150万」
「少ない金額じゃないね」
大金よ。ヒカリはそう訂正した。家賃を6ヶ月滞納したって届く金額じゃない。シンジが高層マンションにでも住んでいない限りは。
「どうして貸したりしたのさ」
「碇君、ものすごく追い詰められていたみたい」
「借金取りから?」
「かもしれない。はっきりとした理由は言わなかったみたいだけど、電話でもわかるぐらい逼迫してたそうよ」
「それで、ケンスケはまんまと貸したってわけね」
「ケンスケはそういうヤツだよ。友達想いだから」
「彼は友達想いと絶好のカモの意味を取り違えている可能性があるね。それで、次の連絡は?」
ヒカリはまるで自分に責任があるみたいに表情を曇らせた。
「ないって」
「金を借りてトンズラしたの?」
驚きを隠さずに問い返したが、ヒカリが何も言わないので、わたしはそれが真実だと判断する。
「ケンスケは何の連絡先も聞かないで貸したってわけ?」
念を押してもヒカリは黙ったままだったが、今度は首を横に振った。
「連絡先は教えてもらったそうよ…半月後に連絡してみたら、そこはマクドナルド笹塚店だった」
「あのバカ!最低じゃない」
あいつ、とわたしは言葉を搾り出した「詐欺師に成り果てたってこと?」
「これ以上の事は分からないわ。碇君、しっかりしてる所もあったから放蕩生活で借金苦になるような人間じゃないと思う」
ヒカリがはっきりとシンジをかばうのが気に入らなかった。それを言えば、彼女がずっとシンジに好意的な立場にいることに不満を感じていたのだ。
「どうだろうね。度胸がないから、詐欺なんて出来ないかもしれないけど、薄情者とコソ泥とクソッタレの資質は十分だった」
さらに侮蔑の言葉を吐こうとして、ヒカリとかぶってしまい、わたしは指を回して彼女に譲った。
これは私の推測。とことわってからヒカリが続ける。表情は影がよぎったように暗く、ついさっきわたしの冗談で笑ってくれた人間とは別人みたいだ。
「碇君、逃げてるんじゃないかな?」
「わたしを拉致した奴らから?」
ヒカリは同意した。気分を落ち着かせるためにマグにコーヒーを注いだ。マグを握る指に力が入り、指が取っ手に食い込んでいるのがわかる。
「それなら説明がつくと思うの。ケンスケに危害を及ぼさないための、優しさだったんじゃないかなって」
優しさ?
「どうだろうね」
努めて冷静に言い、ヒカリのためにコーヒーを注いでやった。
「彼、自分を責める人だけど、他人には優しかった」
マグを渡して彼女に背中を向けた。わたしが今している表情を見られたくなかった。
自覚している癖、怒ったときに両手を腰に当てたくなるのを堪えるのに、どうにか成功した。
「ケンスケは住所以外に何も聞き出さなかったの?」
「それは訊かなかった。訊いておくね」
「お願い」
「うん」
ヒカリがトイレに行っている間に、空になった皿を手早くすすいで、水切りに立てかけた。
「じゃあ、今日は新居で会いましょうね」
わたしは苛立ちを抱えたまま彼女がエレベーターに向かうのを見送った。
着替えを用意するためにクローゼットの半透明のケースから服をソファへと放り投げていった。
シンジとレイは一緒にいるんだろうか?おそらくそうだろう。わたしには確信があった。
言葉に出せない代わりに心の中で思いっきり言ってやった。
(他人から巻き上げた金で、あの人形みたいな女と思う存分ヤレばいいわ)
一通りの服をバッグに詰め込んでから、電話をかけると、途端に雑音が始まった。どうやら電話機を交換する必要がありそうだ。
わたしと分かると、冬月はちょうど大学に出掛けるところだった。と言った。
「せっかちだな。前の電話は昨日の夜だぞ。徹夜で調べてやれるほど若くないんだ」
ヒカリから仕入れた情報を伝えると、冬月は興味を示した。
「シンジ…している…だな」
「聞こえないわ」
ノイズに邪魔されて聞き取りづらい。携帯電話を耳に押し付ける。
「シンジ君は存命しているということだな」
「すくなくとも半年前まではね」
ノイズに負けまいとして意図せずに怒ったような口ぶりになってしまった。
「シンジ君が接触してきたという元同級生の名前は?」
「副指令に言っても分からないわ」
「念のために知っておきたい」冬月は食い下がった。
「わたしのことで迷惑をかけたくないのよ」
冬月は沈黙で不満を表現してから言った。「分かった」
「まだ付き合いのある元ネルフの人間がいる。望みは薄いと思うがシンジ君の行方も聞いてみるつもりだ」
「だれなの?」
「君の知らない人間だ」
歳をとって皮肉っぽくなったんじゃない?そう言い掛けてやめた。何の得にもならない。電話の向こうでお手伝いが呼ぶ声がした。
「何か分かったら連絡する。アスカも何か分かったら、特にシンジ君と綾波レイについて分かったらすぐ連絡してくれ」
「ネルフよりもあの二人に興味があるような口ぶりね」
「君が体験したのと同じような事が、二人にも起きている、もしくは起きようとしている。そう思った方が自然ではないかね?」
わたしは黙って冬月の咎めるような声を聞いた。
電話を切って離れようとした途端に今度は固定電話が鳴り出した。冬月かと思ったが彼にはこちらの番号は教えていない。親機のディスプレイには『ファーストライト芸能事務所』と表示されているのを確認してから電話に出た。
「アスカちゃんかい?体の調子はどう?」
「あら、クリスマスにはまだ早いわよ。撮影は明日って聞いてるけど」
すっかり慣れた社長の甲高い声を聞いて、そう答える。
「それとは別件なんだ。これから事務所にこられるかい?」
「いいけど…何が訊きたいの?電話じゃ駄目なこと?」
「そうだな。電話じゃ話しにくいな」
「なら1時間半後に行くわ」
「待ってるよ」
残った服を選の中からキャミソールを選び出し、最近はそればかり着ていると考え直して、ノースリーブのサマーセーターに変えた。
着替えてから電車に乗って吉祥寺へむかった。思ったとおり暑く、さらにひどく蒸していた。
吉祥寺は再開発が完了して碁盤目の区画にビルが林立している。
通行人の大半はサラリーマンで、これから客先へ向かう所だった。新ビジネス街にふさわしいありふれた光景だ。5ブロック先の新東京タワーの展望台と地上を結ぶエレベーターが緑っぽい光りを放ちながら上下に行き来している。
事務所は駅から井の頭公園を挟んだ反対側にあった。
信号を守る気のない一団にまじって大通りを横切り、サラリーマン相手のカフェと床屋の前を通り過ぎて、古びたビルの階段をあがり、エレベーターホールに入った。エレベーターを待つ間、手で顔を扇いだ。
部屋の電子レンジとそっくりな金属音で扉が開いた。中から降りてきた女がわたしを見て足を止める。
「やあ、打ち合わせ?」わたしは愛想良く言った。
「そうよ。あなたも?」椎名ユリ、本名は知らない。は露出の激しいチューブトップにミニスカートという服装をしていて、露わになった部分に日焼け止めを塗りたくっていた。
ヴィテーヌの広告でわたしの前に立っていた彼女は、事務所の売り上げの半分を稼いでいることを誇示するように胸を張ってわたしと向かい合った。彼女は高めのヒールを履いていたが、それでも彼女のくっきりとした二重はわたしの目線より10センチは低いところにあった。
「社長に呼び出しをくらったの」
「あら、そう。仕事の話?」
「どうだろうね。明日の撮影のことかも」
「あなた撮影を飛ばしたんだってね」
19歳とは思えない高慢な態度だった。事務所での売り上げは一位だったが、人望の方はまるっきりで『すぐ消える』タイプだとみんなが口を揃えて言い、嫉妬や妬みを差し引いてもそれは真実になりそうだとわたしも思っていた。
ユリのわたしに対する敵愾心は、花屋の紙面広告モデルにユリでなくわたしが選ばれた時から始まっていた。彼女は自分の力だけで築いたと思っている王国を滅ぼすのはわたしだと信じているようだった。
「どうしようもなかったのよ」わたしはそっけなく言った。椎名ユリはふうん、と生意気に鼻を鳴らした。
「私、新しい仕事がはいったのよ。急な話しだけど、せっかくだから引き受けることにしたわ」
「そう、そりゃよかったね」
「ええ」
ユリは笑っているが、それが本当の笑顔と信じるのは、ボードゲームで得た大金を銀行に預けにいくのと同じぐらい馬鹿げている。
ユリはわたしの進路を邪魔したまま、譲ろうとしなかったので、さっさと迂回し、彼女と入れ替わりにカゴに入って3階のボタンを押した。
「あなたも仕事の話だといいわね」
「ええ、だといいんだけど」
扉が閉まって重力に逆らう感覚がした。仕事の話じゃないだろうな。と思った。
事務所名とロゴ入りのプレートが張られたドアを開けた。芸能事務所の社員は10名ほどで、出来高制の契約モデルが30人ほどだった。社員のほとんどは出払っていたが、オフィスは寂しくはなかった。デスクには書類が山積みになっていたし、壁には所属するモデルの出演したポスター類がほとんど隙間なく張られていた。有線放送のゆったりとした音楽が聞き手のいないオフィスに流れている。
たったひとり残っていた女がわたしに気がつき、届いたばかりの印刷物の束を机に置いてやたら元気な声で言った。
「社長は奥にいるよ!」
「忙しいみたいね」
ものすごく!ジーパンにTシャツ姿の小柄な女は奥を指差した。オフィスの電話が鳴り始め「はいはいはい!」といいながら女は電話を取りに走っていった。
乱雑に散らかった物を避けながら奥へ進む。
このオフィスで唯一の個室の前に立ってノックし、ドアを少し開いて顔を突っ込んだ。社長室は以前にも増して物が増えたみたいだった。壁にはたくさんのポスターが貼られ、中でもルーク・スカイウォーカーがライトセーバーを斜めに構えている年代物のポスターが特大だった。
どうやって部屋に入れたのか分からないウッドデスクに季節外れの卓上サイズのクリスマスツリーがあり、てっぺんには赤いトンガリ帽子が被せてある。その前に『社長 与田サンタ』と社長の芸名の彫られた三角柱のメタルプレートがおいてある。
弱小芸能事務所は社長にも芸名が必要だ。と最初にここを訪れた時に言っていたのを思い出した。
中にはデスクトップPCの液晶モニターを食い入るように見つめている社長のサンタと、腕組みをしてそれを見守っている長身痩躯の副社長がいた。
二人は同時にわたしを見た。
後ろ手にドアを閉めるとサンタが座ったまま手招きし、モニター画面の向きを調整した。
「突然に呼んだりしてすまなかったね」
「構わないわ」
サンタは額との領地の奪い合いに負けて退却を始めている頭を撫でながら立ち、デスクを回りこんでソファに座った。わたしもそれにならって彼と対面して座る。副社長の方はPCの前に残ってマウスを握ってパソコンを操作している。プリンターが動き出して紙を吐き出し始めた。
「体調は良さそうだね。心配したんだよ」
その言葉に微かな緊張を感じ取った。
「家で大人しくしてたわ」
社長は次に何を言うか考えている時間を埋めるように、胸のポケットから煙草を出して火をつけた。副社長がプリンターから吐き出されたばかりのA4用紙の印刷面を胸で隠すようにして、わたしたちから二歩ほど離れた場所に立った。
「今朝、こまった連絡を受けたんだ。まだ9月だけど今年一番のニュースに決定だ」
社長は濃い煙草の煙を一気に吐き出した。サンタはとびきりのニュース、たとえばCM出演依頼が来たとか、ドラマの出演が決まったとか、喜ばしい仕事を深刻そうに話し始めるサプライズを演出するのが大好きだった。
けれどサンタの動作はぎこちなく、良いニュースでないことはすぐに分かった。拉致がばれたに違いない。警察から流れた情報が早くもマスコミに伝わったか、警察から事務所に連絡が入ったのかもしれない。
「どんなニュース?」
胸にせり出してきた不安を無視して訊ねると、社長は副社長に確かめるように目配せをした。副社長は嫌悪を浮かべてわずかに頷いた。社長は大きく息を吐き、喉を鳴らして唾を呑んだ。目立つ喉仏が機械仕掛けのように上下に動く。
それを合図にして副社長が薄ピンクのワイシャツの袖をたくし上げた手で、持っていた紙をわたしに差し出した。
「こんな写真がネットに出回ってる」
それはカラー写真のプリントで、女が映っていた。映りは悪くてぼやけていたが、誰が被写体なのかははっきり分かった。
わたしは一切の言葉を失った。
写真はカメラを縦にして撮られていた。そういう効果を狙ったのかどうか分からないが、写真の背景は真っ黒に塗りつぶされていて、そのせいで被写体が余計に際立って見えた。
写真の中で眠っているわたしは斜め上から俯瞰されるように横たわっている。右手はみぞおちの上に乗っているが、それで胸を隠せているわけではなかった。左手はだらりと伸びて写真の右枠の外にはみ出している。その手を見るように顔は右の方を向いている。
明らかな盗撮写真。
でもそんなことは問題じゃなかった。
写真の中のわたしは全裸だった。
塗りつぶされた背景に子供のクレヨンで書いたような字が並んでいる。それがわたしの混乱に追い討ちをかけた。
惣流アスカ。イカせすぎたら、勝手に寝てました^^;
「なにこれ」手と声が震えているのがわかった。
写真のわたしの表情は疲れてきっているように見えた。髪の毛の一部が頬に掛かっている。それが自分でも見たことのないような色っぽさを出している。
こちらの問いかけには答えず、副社長の方が問い返した。
「こういうバイトをしているのか」
首を振って否定するのがやっとだった。
「何言ってんのよ。そんな事あるわけないじゃない」
「今朝、所属している女の子から教えられたんだ。彼女が言うには、恋人がネットで見つけたらしい」
「これがネットに出回ってるの?」背筋が寒くなった。
「本当に覚えがないのか?今じゃなくても、昔こういう事をしていたとか」
「ふざけんなよ!」
わたしは怒鳴った。
「そんな真似しなくたって、暮らしていけるぐらいの金はあんのよ」
「それが有料のアダルトサイトに載っているのは事実なんだ。それはそこからダウンロードしたんだ。2万円もしたんだぞ」
「これ以外にもあったの?」
「それ一枚だけだった。他はアイドルのパンチラとか胸チラの盗撮写真ばかりだ」
「裸なのはわたしだけ?」
社長は再び煙を吐き出して、さらにもう一度くわえて吸い込んだ。「そう。なにしろ2万円だ」
いつ撮られたか覚えのない写真を見た。驚きは熱に変わり、心臓を中心に全身に広がっていく。
「顔は平均以上でも頭の中身は平均以下という子はウチにもたくさんいる。君は頭が良いし、そして何より正直だ。信用してもいいんだよな?」
「嘘はつかないわ。信用して」
自分の言葉が滑稽に思えた。徳島で死んだという架空の両親が聞いたら感動して涙を流すかもしれない。
社長は商品である女の子には決して見せない真面目な顔でわたしを眺め、ソファの背もたれに体重を乗せた。堪えようとしていたものの、安堵が顔に表れていた。
「いくらか救われた気がするよ」
「こちらはちっとも救われてないんだけど。どうしたらいいの?」
「弁護士からサイトの管理者に対して差し止め請求を出さないといけない」
「じゃあ、早くそれをやってよ」
「弁護士には連絡してある。今、こちらに向かっているはずだよ。その前に確認して欲しいと頼まれているんだ」
「何を」
「まず、君がそういうバイトをしていたんじゃないか。そうだとすると手の施しようが無い」
「それは否定したでしょ!」
社長は煙草を挟んだ手の親指で小鼻をさすった。煙が目に入るのを避けようとして片目をつぶった。
「次はその写真が本当にアスカちゃん自身なのかどうか。合成写真じゃないかどうか。合成なら肖像権の侵害で差し止めできる」
「体の方に自分でないと証明できるものはないか?痣とかホクロとか」と副社長。
今度は時間をかけて詳細に写真を見た。その間、社長はじっとわたしを見つめ、短くなってきた煙草をカットグラスの灰皿に押し付けた。
「これはわたしに間違い無いわ」声を落として顔を背けた。
「どうしてそう言えるんだ」その声には疑問と譴責が入り混じっている。
合成なんかじゃない。わたしは押し黙り、ライトセーバーを手にカメラ目線でポーズを決めているルーク・スカイウォーカーを睨みつけた。プリントされた紙を印刷面を下にして膝の上に置く。
「ヘアが髪と同じ色だもの」
今度は二人が押し黙った。きっと写真で見た映像を思いだしているんだろう。毛の色だけでなく、毛の濃さとか、そんな余計なことも。わたしは吐き気がした。
「写っているのが自分って認めるってことか」
二人と目線を合わせないようにして頷いた。社長がテーブルの上に落ちた灰を手でかき集めながら言った「まいったな」
クリスマスツリーの隣にある電話が鳴り出した。弁護士かららしく、いま彼女と話している。とか、盗撮に間違いない。とか言うのが耳についた。
ジェダイの騎士から目を離して副社長の方を見た。彼はパソコンの位置に戻ってマウスを動かしていたが、わたしの目線に気がついてこちらを見た。
1秒にも満たない時間、視線を合わせた後で彼は画面に目を戻した。目線には同情よりも厄介ごとを起こしたわたしへの不満の方が強かった。金の卵がピータンに変わってしまった。そんな目だった。
社長は弁護士に指示を仰ぎ、到着予定時間を確認して電話を切った。
「その弁護士の腕はいいの?辣腕ってやつ?」
なかなかだよ。社長は言って再び煙草に手を伸ばした。「肖像権とかプライバシーとかパブリシティに関する分野を専門にしているんだ」
「ならいいんだけど」
「さて、次は写真の出所を突き止めないといけない。合成でないとすると、いつ、だれが、どこで撮影したってことになる。昔の恋人に撮られた可能性はあるか?」
「ないと思う」
バイトが云々よりは自信がなかった。ヒカリと再会する以前、つまりヒカリが「暗黒時代」と呼んでいる3年より前は何度か男と一夜限りの関係を持っている。
「でも、この半年以内に撮られたんだわ」
「どうしてそう思う?」
「写真だと髪が長いし、ストレートだもの。それ以前はウェーブをかけてたし、さらに前はもっと短かった」
「それは覚えているよ。私が伸ばせと言ったんだ」
「髪が武器になる。って言ってくれたよね」
「今でもそう思ってる。今後もその方針に変わりはない。まだ前途が閉ざされたわけじゃない」
社長はこちらが訊いてもいないことを言って続けた。「場所は?裸で眠る場所なんてそうたくさん無いよな?眠る時は裸でいる方か?」
「そうする時もある。毎日じゃないけど」
「どういう時に裸で寝る?」
「そんなこと関係あるの?」
「知っておきたいだけだよ。どんな情報から解決の糸口が見えるか分からない」
「酒を飲んだ時とか、暑い夜はそうしてる。冷房をかけっぱなしで眠ると体調が悪くなるから」
「部屋を調べてみる必要がありそうだ。他に思い当たるような事は?」
「背景が塗りつぶされているから分からない」
わたしは2日前の拉致のことを思い出していた。あの女はカメラを持っていなかった。カメラを持っていたかどうかは問題じゃない。こちらに気づかれずに設置できる超小型カメラはいくらでもある。第一、わたしはトラックの荷台の中で眠ったりはしていない。
「写真がサイトに掲載され始めたのはいつなの?」
「それは調べてみないとわからない」
「調べて欲しいわ」
「何か思い当たることがあるんだな?」
わたしはどう返答していいものか言葉に詰まった。
「半年前より前に出回っていたとしたら髪型の辻褄が合わないから、合成ってことになるんじゃない?」
「たった今、これは半年以内に撮られたって自分で言ったばかりじゃないか」と副社長。
「VFXには詳しくないけど、宇宙で人と異星人が戦争する時代だもの」
壁のポスターを指差した。社長も副社長もそちらは見ずにわたしの事を見ている、
「しらべておく」社長は新しい煙草に手をのばし、もう片方の手で机の上の電話機に手をかけた。
「部屋が盗撮されていないかどうか専門家に調べてもらおう。構わないだろ?」
社長はわたしが同意するのも待たずに電話をかけた。
灰皿の上で短くなっていく煙草から立ち上る煙の動きだけははっきりと見えていたが、それ以外のものは全てがうすっぺらく思えた。何か深く考えているようで何も考えていないのようだった。
元気な女がドアから顔を出して客が来たと告げ、副社長が部屋を出ていく。扉の閉じる音でつかの間の白昼夢から引き戻された。
「3時に業者が君の部屋に来る」
「それで盗撮機が見つかったらどうなるの?」
「写真の掲載を止めさせる理由になる。カメラを仕掛けたのが、盗撮サイトの人間だったら法的な措置を取る」
「警察に訴える?」
「刑事事件にしてもしょうがない。掲載の停止と回収ができれば十分だ」
殆ど吸わずに終わった煙草を揉み消す。同時に副社長が弁護士を連れて戻ってきた。
弁護士は女でわたしよりも一回り以上は年上だった。背格好は標準的で黒髪は伸びきって時代錯誤のワンレンになっている。盗撮だとかプライバー問題だとかを扱ってきた証拠と言わんばかりの厳しい顔立ちで、眉墨で緩いカーブを描いた眉もそれを覆い隠すには足らないみたいだった。
彼女はわたしに眼を向けると、軽くお辞儀をして手を差し出した。わたしも立ち上がって手を握った。
「大変な目にあったわね」女性弁護士は言った。「必ず解決してあげるわ」
弁護士は部屋を漂う煙草の煙から避難させるように、クリーム色のアルマーニの上着を脱いで、ブリーフケースと一緒に手に抱えた。
社長がわたしから聞きだしたことを伝えるのを弁護士は黙って聞き、時々、わたしを見た。聞き終えると椅子の背に上着をかけて、姿勢を正してこちらを向いた。
「写真を見せてもらえる?」
わたしが差し出した物を受け取り、視線を写真とわたしの双方に何度か走らせた。
「確認になるけど、この写真は本当に撮らせた物じゃないのね?」
「ちがうよ」
「ここで嘘をつくと、あなたが圧倒的に不利になるわ」
「ちがうって!」
「気分を悪くしないで、あなたを信用するから。すぐに仮差し止めの手続きを始める」
わたしは自分の弁護士が好きになれそうにないことに気がつき始めた。
「仮差し止めって何よ」
「この写真の真贋はともあれ、あなたの名誉を著しく傷つけることに変わりはないわ。そういう事があった場合、業者にたいして一時的な掲載の差し止め請求を裁判所に申請できるの。あくまで一時的な措置で、本当に差し止めが出来るかどうかは、裁判の結果次第。もし仮にあなたがこの写真で業者がお金を稼ぐことに同意していて、今になって心変わりして不当な差し止めを申し立てたとわかった場合は、業者から損害賠償を…」
「ちゃんと人の話を聞いてる?そんなことは絶対にない」
「私はあなたが今、置かれている立場を理解してほしいのよ」
「嫌ってほどわかってる。自分に覚えのない写真が公開されていて、これで自分の欲求をみたしてる奴がいて、今もその数が増えてるってこと。わたしはそれが死ぬほど嫌だってこと、あなたはそれを防ぐために守ってくれる人だってこと」
こちらが一気に喋るのを、弁護士は身じろぎ一つせずに聞き、一度だけ縁のないメガネの位置を直した。どうやったらクライアントが信用するか。を心得た態度で言った。
「大丈夫よ。こういう案件も何度か扱ったことがある」
「こういうことってよくある事なの?」
「盗撮の類はしょっちゅうよ。だいたい、写真をつかって事務所に金を要求することが多い。こんな風にいきなりサイトに掲載されるケースは珍しいわね。あなたの同意がないなら、これは明らかな犯罪だもの」
「へえ」
「特にあなたみたいに、まだそれほど顔の知られていないモデルを標的にするなんてね。事務所を揺すろうって意図はなくて、単純にこの写真で小金を稼ごうとしたのね」
わたしは少しむっとしたが、黙っていた。気が付いて訊ねた。
「CMの方はどうなるの?」
それは、と副社長が口を挟んだ。
「連絡しないといけないだろうな。俺は写真の掲載中止よりもそっちの方が大ごとだと思ってる」
「放映中止になんて事になる?」
「分からないが…。どう見てもクライアントは喜ばないだろう」
「明日の撮影は?」
「君は降りてもらう」副社長は即座に答えた。「すでに代役を立てた。ユリにやってもらう」
あいつ。目の前にあの女がいたら、わたしはつかみ掛かっていただろう。
社長はいつの間にか火をつけた煙草をふかし、煙が薄れていく先を見るようにしてわたしを見た。
「君はすぐに戻って盗撮を調べてくれる業者を待つんだ。それまでは部屋に入らないほうがいい」
「わたし一人で立ち会うの?」
当然だ。と副社長は言った。
「私たちは他にやることが山のようにあるんだ」
「わたしがここにたら都合が悪いことでもあるわけ?」
「彼らは住人の立ち会いがないと決して中に入らないわ。あとで部屋の物を盗まれたって難癖をつける客がいるから」
「わかったわよ!」
ソファから立ち上がり全員を睨み付けた。
「わたしを全然信じてないんでしょ?盗撮機は見つかるわよ。絶対に。それでもわたしのことをバカにするんでしょ。どうしようもないクズだって」
副社長が拳で壁を殴りつけた。その音でわたしはビクついて身を固くした。
「ことの重大さがわかっているのか!テレビCMが一本まるまる無駄になるかも知れないんだ。君のせいで俺たちの事業は5年前の状態に戻ってしまうかも知れないんだぞ」
「ともかく」社長が煙草を灰皿に押し付けると、固まった砂糖を割るような音がした。
「戻って自分の部屋に盗撮機がないかどうかをはっきりさせるんだ。ここにいる全員で何とかこの件に対処しなくちゃな」
その言葉を無視し、弁護士の隣を抜けると微かに香水の匂いがした。ドアノブに手をかけて振り返ると、部屋にいる全員がわたしを見ていた。わたしは言った。
「あんたらにとって大事なのは、わたしのことじゃなくて自分のビジネスのことよ」
部屋を出てドアを叩きつけると、ドアは跳ね返ってぶるぶると震えた。オフィスに残った女が机から、朝にヒカリがしていたのと同じ眼でこちらを見ていた。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
わたしは足早にエレベーターへと歩いていき、三人が残った部屋にはサマーブーツの踵が床とぶつかる音だけが残った。
弁護士は黒い、鋼鉄のように重く見える髪を手で梳いて、さっきまで問題児が座っていた位置に腰を下ろした。
「あの子、厄介ね。思い通りにならなかったり、追い詰められるとヒステリーを起こすタイプ。年齢的にも芸能人として成功するとは思えない」
弁護士は写真を裏にして与田サンタの机に置き、押し出した。彼はそれを手元に引き寄せたが、裏返して見ることはせず、何かを考えながら、灰皿からこぼれた灰を指に押し付けていった。
「あの子の素行はどうなの?品行方正という感じではないみたいだわ」
「それは自分から裸になって写真を撮らせる女か?ということかい?」
「裁判官があの子の主張を信じるに足りると判断してくれるか。ってことよ。刑事と民事どちらにしても」
与田サンタは折り曲げた親指の第一間接の部分をこめかみに押し付けて刺激した。
「深酒以上のことはしてないだろう。あの子はバカじゃない。ただ、頭の使い方を忘れてしまっているようだ」
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