獣は囁く

第46章

 灰色の制服を着たボーイから荷物を受け取った。胸ポケットに「研修生」のプレートをつけたボーイは、その間、ずっとわたしの胸を見ていた。「本物よ」わたしが言うとボーイは顔を赤くして視線をそらせた。
エリカが正面入り口に回してきた車を見て、開いた口がふさがらなかった。
黒塗りのベンツ、ジープタイプのG500ロングのリアウインドが下がり、エリカが首を下げてこちらを見て、手を振った。後部座席のドアを開けて荷物を放り込み、助手席に座った。
「そのひねくれたセンスはどうにかならないの?」
「ドイツ生まれのあんたにちょうどいいと思って。ふるさとを感じるだろ?」
わたしはバックミラーでキャップのつばの位置を直した。
「生まれはアメリカよ。シアトル。母親は臨月でアメリカに旅行したのよ。ギリシャに渡るための乗り継ぎで立ち寄ったシアトルで産気づいたらいいわ。信じられる?」
「この娘にして、この母あり」
「早く出してよ」
エリカがウインカーを入れ、ベンツをのろのろと発車させた。わたしはシンジとファーストのいる部屋を見上げた。二人にはエリカの母親の故郷は長野の上田市で、1泊2日で行く予定だと伝えてある。
ファーストには何の不調も出ていない。精密検査でも問題はなかった。ファーストは15歳の誕生日を迎えるまでホテル暮らしになり、その部屋があるフロアは誕生日まで全ての部屋が貸し切りになっている。警護は24時間体制で行われていた。大統領以上の待遇というわけだった。
わたしとエリカは使われない部屋の一つを譲ってもらって寝泊りしている。
NIHISはウェインとエリカを残して全員がアメリカに帰還した。何人かとは夕食を共にするぐらいは仲良くなった。全員が帰国後はNIHISを辞めるつもりだと言っていた。ウェインはNIHISを代表して日本政府の検証や聴取に忙殺される日々を送っており、予定は1年先まで埋まっていた。エリカはその参考人として残留している。
全てが終わったように思える。けれどそれは直近の脅威が去ったことからくる錯覚に過ぎないことも分かっていた。
車は新東海道を進んだ。エリカがeyepodをカーステレオに接続した。Goo goo dollsの曲が流れ始める。
左手には水没した街が見え、海がまぶしい光でそれを覆い隠そうとしている。
世間は連休を迎えていた。伊豆へ向かう車の渋滞の末端が見える前に道を変えて裾野市へ向かう道に合流した。空いてはいなかったが、まずまずだった。
富士樹海を通り抜けるすがら、エリカがスピードを緩めた。「派手にやったもんだね」
十号機のフレアがまっすぐの直線の跡となって富士まで続いている。かつての樹林は見る影もなく、強い日差しに照らされて乾燥した畑のような状態になっていた。
富士を迂回して山梨に入り、そこから中山道を長野目指して走った。
上田市と第二新東京市(松本市)と描かれた標識が見えると、エリカは迷わず第二新東京市を選んだ。
「あら、上田市はあっちよ」
遠ざかる標識を指して、わざと言うと、エリカは横目にこちらを見た。
「母親の故郷は愛媛だよ。遠すぎる。それを別にしても行きたいとは思わないね」
「戸籍だとわたしの故郷は徳島よ」
「どんなところ?」
「私も行ったことがないわ」
ベンツは松本市の首相官邸を通り過ぎた。ナガノ首相は失脚し、その後の解散選挙で野党が勝利を収め、政権が交代したばかりだ。松本城大手門の前に作られた首相官邸は厳重な警護がされていた。
それを通り過ぎての山間の野麦街道を梓川に沿って走り、波田までやってきた。そこから「ネルフ第二支部」の標識にしたがって道を山のほうへと向かう。
駐車場に車を停め、エリカが肩を揉みながら訊いた。
「さて、どうしようか。正面からかい?」
「人を殺しに来たわけじゃないわ。静かに行きましょう」
「イエス・サー」
車を降りた。ネルフ第二支部は10年前に4号機に破壊されてから最低限の復旧だけされて、あとは放置されていた。建物の大半が霞沢岳へとつながる険峻な山の斜面に作られており、白い建物は深い樹木の中に埋もれて見えている。
雑草に閉ざされかけた非常口を見つけ出し、金網の中に入った。地下へ続く入り口を閉ざす扉は薄い苔に覆われていた。ロックは作動しており、赤いランプが灯っている。
エリカがやってきて、下がっていろ。と合図した。高音が始まり、聞こえなくなるまで高くなると、それまで鳴いていた蝉がぴたりと鳴きやんだ。
箒の先で鉄を叩くような音がして扉が裂けた。わたしたちはそこから中へと入った。

 耳を聾するほどの警報が鳴っている。山の斜面に手をついて待っていると、やがて七号機がゆっくりと立ち上がった。ぎこちない動きだった。倒れそうになるのを支えてやる。
「下手糞ね」
「こいつ、くたばりかけてる」エリカが苦々しく言った。
「動けば十分よ」
七号機と十号機は向き合った。
「エヴァを動かした気分はどう?」
「アスカが言ったほど悪くないね。このままトレッキングでもしたい気分になる」
「それもいいけど、急がないと蚊に刺されるわ」
「ああ、分かってる」
岳に立てかけてあった銃を取り、七号機に差し出した。エリカはそれを受け取り、慣れた様子で待機の態勢をとった。
そして銃をお互いの顎に突きつける。
「いいんだね」とエリカが言った。「あんたは人類で始めて、夢物語だった世界制服の可能性を手にしてる」
「アスカ帝国ね。なかなか魅力的な響きだけど、やめとく。政治なんてウンザリ。こんな物に振り回されるのはもっとウンザリよ」
「これを破壊しても11号機が作られるさ」
「10年後ぐらいにはね。その時には34歳か…。それはその時に考えてみる。今のわたしには知ったこっちゃないわ」
「天使が未来の幻をもたらす。たしか黙示録はそんなことを言っていた」
「本当は神を信じてる。そうでしょ?」
「どうだろうね。私が知っているのは、たとえ神がいなくても、神がかり的なことは起きる。ってことだけ」
「そうね。その通りよ。さあ、後始末をするわよ」
「了解」
同時に引き金を引いた。弾丸がお互いのエヴァの頭を粉々に吹き飛ばした。