獣は囁く

第4章

そろそろ行かないと。ヒカリはそう言ってコート掛けに吊るしてある上着を取りに行った。
「当面の寝場所を確保するんだよ。渋谷に窓口があるはずだから」
「わかってるよ」
わたしは皿の片付いたテーブルに残っていたペーパータオルに手を伸ばした。
「高層のほうが安全なのかな?」
上着に袖を通しながら言い、地味だがよく似合っているコーチの青いストライプの入ったバッグを肩にかけた。
「いやよ。眺めはいいだろうけど、荷物を運ぶのが大変そうだし」
「家具は用意されているから、何も持っていかなくてもいいのよ」
「服まで用意されてるわけじゃないよ」
わたしが流しの下のゴミ箱にペーパータオルを捨てると、ヒカリは朝食のためにテレビの上にどけてあった短期滞在型マンションの用紙を手に取った。
「ここよりは安全と思うわ」
ホームページから印刷してきた用紙をわたしに見えるように傾けて見せた。
「それって、いくらぐらいかかるもんなの?」
わたしは水を張った流しに漬かっている皿に取り掛かった。ヒカリは用紙に視線を向けて、シンプルな暗算をした「一ヶ月で25万をちょっと出るくらいね」
「ホテルに泊まったほうが安く済みそう」
忘れ物が無いかどうかを確かめ、出勤の準備を終えたヒカリが近づいてきて、用紙を差し出した。
「ダメよ。ホテルじゃ自炊できないもの。外食してたら結局は高くつく。それにホテルは不審者が入りやすいでしょ」
「そうね」
用紙が濡れないように指先でそれを受け取り、シンクの壁際に立てかけた。
「なんだか、わたしの方が当事者よりも心配してるみたい」
こなれたキャリアウーマンといういでたちのヒカリはわたしにいつもの微笑みを投げかけてくれた。化粧であばたを隠してアイラインを引いたヒカリを見ていると、会計事務所の男たちは職場で数字以外に何を見ているのだろうかと疑ってしまう。
「6時には終わって帰りに寄るから、そしたら碇君探しの続きをしましょう」
人目のあるところにいて、部屋に閉じこもっていないように念を押して、ヒカリは出勤していった。
皿を洗い終えると、ゴミ箱の袋を取り替えて玄関に置いた。それから泣きそうな声で事務所に電話をかけて、撮影のキャンセルを詫びた。代替の撮影日を聞くと2日後ということだったので、必ず行きます。と付け加えて切った。
ヒカリが調べてくれた短期滞在型マンションの用紙にざっと眼を通し、窓口の住所を覚えてしまうと、もう興味を失ってしまった。
わたしが借りているこの部屋は取り立てて取り柄がなく、その割に家賃は高めだったが、わたしは自分の部屋を気に入っていた。
唯一の取り柄らしい取り柄といえば、窓から川崎側の土手の上を走る道路を越えて多摩川が一望できることぐらいだ。
今、わたしはその眺望を窓辺に立って眺めた。
 河川敷の兵庫島公園では待ち合わせに飽きた野球少年が二人、どちらがボールを高くまで投げられるかを競っている。
 対岸の旧東京側の川岸に寄りそって新山手線が北へと延びている。始点の二子玉川駅の屋根が作った影から列車がゆっくりと出てきた。真新しいアルミ製の銀色の車体が銀でできているみたいに輝いている。
軽い痒みを感じた頬に触れると、手はまだかすかに濡れて冷たかった。
わたしにはこの部屋よりも安全な場所は存在しないような気がする。
 この部屋に来て4年だ。とわたしは思った。その時はまだ新山手線は工事中で住み始めて1年後に開通した。
 エヴァンゲリオンと使徒が人類の存亡を賭けて戦い、一応、人類が勝利して世界は平和になった。それが10年前。その後の3年間、わたしは使徒との戦闘で受けた傷、特に心の傷を癒すために精神病患者として施設で過ごし、3年で出た。
 日本政府は元パイロット達にそれなりの配慮をしてくれた。戸籍上わたしは徳島県で生まれ育ち、実在しない父は20年前に事故で、母は15年前に癌で死去したことになっている。同年代の女の子と比べるとはるかに多い貯金があり、年金は20歳から一度も不払い無く納め、職歴は真っ白だった。
 施設を出てからは実在しない両親が残してくれた遺産を消費しながら、荒れた生活をした。酒と煙草はその後の3年で覚えた。
 4年前にこの町へ移り済み、偶然にも同じ駅に住んでいたヒカリと出くわし、煙草は止めて、酒はほどほどになった。全てはヒカリのおかげで、芸能界に足を踏み入れたのもヒカリが顧客の芸能事務所を紹介してくれたのがきっかけだった。
 だから、わたしは一生、ヒカリには頭が上がらない。
 車の走る音が大半を占めている街のざわめきに耳を澄ませた。
 ヒカリとの約束どおり、部屋をでる準備をしていると、呼び鈴を無視してドアがノックされた。わたしはびくつき、不安がせりあがってくるのを感じた。
 ドアが再びノックされた。足音を立てないように近づいてドアの覗き窓から外を窺った。丸く変形した警官の顔が二つあった。そのうちの一つには見覚えがあった。
「どうも惣流さん」
警官はチェーンに邪魔されて15センチほど開いた空間から笑顔でそう言った。一度閉めてチェーンを外してからドアを開く。
「突然すいません」
それは二日前、駅の休憩室で見た警官だった。記憶ではもっと精悍な顔に見えたが、あの時はアルコールが視覚か記憶を痛めつけていたせいだろう。
 彼の一歩後ろには若い同僚がおり、そちらは脱いだ帽子を胸に当てている。
「突然すいません」警官はもう一度言って、わたしの部屋に視線を走らせた。いやだったが、さえぎることはしなかった。代わりに訊いた。
「どうしたんですか?」
実は、と警官はわたしに視線をもどした。安堵が表情に現れている。
「今朝、あなたが拉致されたという情報があったんですよ。本署に電話があったんです」
目撃者がいた!わたしは驚いたが、それがわたしにとって有利なのか、不利なのかを考えるには時間がなさすぎた。
「拉致?」
わたしは時間を稼ぐために訊き返した。
「あの日、二子玉川駅で私と会った後ですよ。あなたが銃を突きつけられてトラックで連れ去られるのを見た。という人がいるんです」
でも、その様子だと心配ないようですね。と警官が言うのを上の空で聞いた。
 その間にわたしが考えたのは、今、拉致を告白するには遅すぎで、大騒ぎになる。ということだった。まだ大して売れてないが、化粧品の広告の脇役になるぐらいのモデルが拉致される。それは週刊誌やタブロイドが、戦争で誤爆された病院の惨状や、海面の上昇で国土を奪われて太平洋をさ迷っている難民、そんな話題は決して扱わない類のメディアの大好物だ。
「あれは友人のいたずら」
わたしは頭を振って答えた。「ちょっと手が込みすぎだったけど」
「そうでしたか」警官は間をおいて、わたしの目を見たままいった。その目はわたしの中に嘘がないかを探していたが、ほとんど疑念を抱いていないようだった。何しろわたしはここにいるのだから。
 警官が振り返って相棒に目配せすると、若い相棒は肩に吊るした無線機を取り、スイッチを入れて、異常なし。と誰かに告げた。わたしから見えない場所では鑑識班が待機していたのかもしれない。
「ご迷惑をおかけしました」警官は緊張を解いて詫びた。
「通報してくれた人にお詫びを言っておいて」
「わかりました」
警官は表面は咎める様子もなく言って、最後にわたしの体に外傷がないかを確かめた。
「仕事ですから」警官は質問の締めくくりにそう言った。それから、と付け足して
「ヴィテーヌの看板、見ましたよ。こいつが先に気が付いたんです」
無線機を元の位置に戻した若い相棒はそれではにかむような顔をした。
「まさか頭の上にあるなんてね」
「テレビCMも始まるのよ」
「それは楽しみですね」
「ありがとう」わたしは微笑んだ。
「それじゃあ、何かあったら通報してください」
彼らなりの営業トークを残して、二人は仕事への意欲というより、身近な芸能人に会えた喜びで仕事に戻っていった。
 彼らを送り出してから、着替えて部屋を出た。
 二子玉川駅へ向かう途中、交番の前を通りかかったが、空っぽだった。机の上の、御用の方はこちらまで。というプラスティックのプレートと飾り気のない署への直通電話機が留守番をしていた。

渋谷は相変わらず若者の聖地だった。本来は学校にいるはずの制服姿の若者が駅前の交差点に数え切れないぐらいにたむろしていた。
滞在型マンションの申し込み窓口で手続きを済ませ、保証金をカードで支払ってから再び街へ出た。
マクドナルドで早めの昼食を取り、久しぶりにゲームセンターへ行って通信対戦型のパズルゲームで会ったことも無い誰かと競い合い、あらかたに勝利を収めて満足した。
それからセンター街を抜けて大きな書店に入り、他には目もくれずにエスカレーターで3階へのぼった。そこは芸術や美術に関する本を扱うフロアだった。
 中世ヨーロッパの画家を集めた大全集を抜き取り、買わなくても読むことが許される喫茶スペースへと入った。ひどく混んでいて入り口で10分ほど待った。本の重さに耐えかねて諦めようかとしたとき、席が空いた。
テーブルについてコーヒーを注文し、頬杖をついて、画家がアルファベット順に並んでいる分厚い本をめくっていった。
 それにも飽きてくると、椅子に身を任せて目立たない程度に体をひねった。店内はますます混んできており、客の多くは入り口で諦めて帰っていった。
 レジには会計を待つ客が列を作っている。その列は店に入ろうとする客と、レジ横の公衆電話を利用しようとする客の邪魔になっていた。
 わたしははっとして大全集を閉じて席番をさせて立ち上がり、レジの方へと向かった。
 イライラしながらデパートの買い物袋を提げたひどく焦った様子の女が電話を終えるのを待って、入れ替わりに電話機の前に立った。
 ありがたいことに最新式の公衆電話だった。
 クレジットカードを電話機の読み取り面にかざすと短い与信の後、液晶画面の広告がダイヤル画面に変わる。機器の側面のボタンを押すと、カチリと音がして舌ベロを出すように収納口からタブレットが半分飛び出した。それを抜き取ってペンを取り外すと、タブレットの電源が入った。
 ペンを操作して電話番号検索画面を表示させる。わたしは「あ行」から始めることにした。
 アカギリツコと画面に並ぶ文字を順番に打っていく。知らず知らずに心臓が高鳴っていることに気が付いた。
 検索の結果、4人の赤木リツコが表示された。その番号を全て表示させてからメモに記録していく。青葉シゲル23件。次は碇だったが、父と子のどちらが表示されても嫌な気分になりそうだったので飛ばした。伊吹マヤ0件。と続く。
 わたしは順番に検索するのを止めて冬月コウゾウを調べた。1件。市外局番は京都。大当たりだ。間違いなかった。
 番号を書き写してから通話を押すべきか悩んだ。冬月コウゾウならネルフのその後のことも知っているかもしれない。ただネルフが今も存在しているなら、現在もネルフと関係を持っている可能性も十分にあった。彼の年齢は知らないが、もうたいぶ高齢のはずで、引退している可能性も同じぐらいある。
 サラリーマンの二人組みが会計を始めて、一人がタブレットを操作するわたしを物珍しそうに見ている。
この場でネルフのことを話すのもがはばかられて、人気の無い場所で自分の携帯電話からかけることも考えたが、電話番号を知られるのが嫌だった。
 どうにでもなれという思いで通話を押し、受話器を取り上げる。呼び出し音がしばらく鳴った後に通話を示す音が聞こえた。
 電話に出たのは女だった。わたしが冬月との知故で、話しがあるのだと伝えると、電話口に出た女はそれまでのゆったりとした関西弁から標準語に変わった。
「先生は外出中ですよ。大学の方に行っているんです」
「冬月先生の奥様ですか?」
声で初老とわかる女はそれを聞いて短く笑った。
「お手伝いですよ。トミエといいます」
「そうだったの。はじめまして」
「ええ、はじめまして。急ぎなら携帯電話の番号をお教えしましょうか?」
わたしはシャープペンのノックを親指で押して新しい芯を押し出してから書き留め、丸で囲んだ。
「いえ、またお電話します」
「お名前をもう一度いいかしら?伝えておきます。先生の教え子かしら」
「ええ、そうです。惣流と言います」
名前を伝えてから電話を切った。覚えている限りの名前、司令室に所属していた人間の他に付き合いのある職員は少なく、その大半も名前を忘れていたが、調べ終えた時には手帳にはちょっとしたリストが出来上がっていた。
 わたしは最後に無駄と分かっていながら綾波レイを検索した。結果は0件だった。
 息を吐いてペンをタブレットに差し込んでタブレットを元の位置に戻し、収穫に満足して手帳を閉じた。いつの間にか後ろに並んでいた男の刺すような視線を逃れて電話を離れた。
 コーヒーの代金を支払い、本を戻してから本屋を出た。6時まではまだたっぷり時間があった。マンガ喫茶で安いオープンスペースを避けて個室を選んでチェックインし、【古典的ギャグマンガ】と紹介されていた「ついでにとんちんかん」というマンガを読んだ。ちっとも面白くなく、わたしは何度も首をかしげなくてはならなかった。
 何年いても日本人のこういう感覚は理解できないだろうと思いながらマンガを戻しオープンスペースでフリーのコーヒーとマガジンラックから表紙のよれよれになったヴァンサンカンの最新号を取って個室に戻ってきた。
 コーヒーをすすりながら何となくめくっていると、自分の写真を見つけて手を止めた。
 それはこの夏に新発売になった化粧品をそのCMに出演しているモデルと共に紹介する記事だった。ヴァンサンカンはこの特集に紙面の見開き1ページを割いていた。
 紙面の大半は化粧品、ヴィテーヌの紹介と、事務所の稼ぎ頭の紹介で占められており、わたしの事は他の2人と並んで隅っこに載っていた。
 わたしたちの紹介はスペースの都合で短いものだった。始めにわたしの血の割合に触れ、それからストロベリーブロンドの髪のことに言及し、わたしの短いキャリアが髪のモデルから始まったところで終わった。
 雑誌を最後まで読み終えて冷めたコーヒーを取替えに個室を出た。オープンスペースには四角いテーブルが並んでおり、マンガを積み上げた客がばらばらに席についている。また別の区画からは仕切り板に隔てられたパソコンが並んでいて、姿勢を崩した客がヘッドフォンで映画をみていた。
 新しい紙コップを山から引き抜いてエスプレッソをたっぷり注ぎ、オープンスペースの席についた。カップを両手で包むようにして持ちあげて口をつけると人工的な苦みが口に広がった。カルティエの腕時計を見るとまだ4時を回ったところだった。
 テーブルの反対側に座っていた若いカップルが耳打ちを交わしながらちらちらとこちらを見た。二人とも真っ黒に日焼けしていて、男のノースリーブの肩からはトライラルバンド模様の刺青がのぞいている。
わたしが微笑みを返すと、髪を金髪にした男は遠慮がちに頭というより顎を下げるような仕草をした。髪をメッシュにした女は恋人の肩を叩いた。
 女がテーブルの上に身を乗り出した。
「ねえ、よく来るの?芸能人でしょ、見たことあるよ。名前は思い出せないんだけど」
「ここは今日が始めてよ」
周囲を気にしながら答えると、女は携帯電話を取り出した。使用に支障をきたすんじゃないかと疑うほどのストラップがぶら下がっていた。
「一緒に写真撮ってくれない?」
「いいよ」
実際のところ死ぬほど嫌だったが、わたしはたぶん最高の営業用の笑顔を作り、相手もそれに満足してくれたようだ。
 彼氏に携帯を渡し、わたしと写真を撮り終えると女は写真の出来をチェックしながら言った。
「名前なんだっけ?」
「アスカよ。惣流アスカ」
「それって芸名なの?」
「本名よ」
「何かに出てたよね?」
「雑誌とかにたまに出てる程度かな」
「こんなところでマンガ読んでるなんてさ、好感度アップだよね」
早くも写真をメール添付しながら女が言った。
「テレビとか出てる?」
「近いうちにCMが始まるわ」
「うお、すげーじゃん」と男が言った。
「いつから?」と女。
「今月中だと思うけど、詳しいことは知らない」
「あんた、きっと売れるよ。いや、絶対に。俺、分かるっすよ。椎名エリっているでしょ?あの人がはじめてヨーグルトのCMに牛役で出た時もそう思いましたもん」
男が早口で言い、女がそれに同調した。
「ほんとかわいいよね。その髪って染めてないんでしょ?」
「ええ、そのまま」
わたしはその後の受け答えを悪い印象を与えない程度に流してその場を去った。背後でまた撮影の音がしたが、振り返らなかった。
 個室の扉を閉じて柔らかいリクライニング椅子に身を沈めた。
 わたしの真上の天井には冷房の送風口があり、そこから風が吹き出した。ひどく寒かったのでフロントで借りた毛布をかけて椅子の上で丸くなった。

 狭い個室ブースの扉が激しく開かれて、わたしは飛び起きた。何がなんだか分からず、思わず注文用の電話に手を伸ばしかけた。心臓が一気に最速にまでシフトアップした。
「大丈夫なの?」驚きが感染してヒカリは目を丸くしてわたしを見ていた。
それが確かにヒカリだと気がついて、わたしはバカみたいに狭い室内を見渡した。
「なんでここにいるの?」
「寝ぼけてるね」ヒカリは言ってブースの外を気にした。「アスカが呼んだんでしょ」
「わたしが?」
それでヒカリは不審な顔をした。
「電話をしたでしょ?助けてって、それですっ飛んできたのに」
「そんな電話してないよ。ずっと寝てた」
ヒカリはわたしの顔を見つめて嘘を探しているようだった。
「何ともないのね」
「寝てただけだよ」
腕時計は6時22分になっていた。
二人で入るにはブースは狭すぎたので、わたしたちはブースを出た。フリースペースに座ると、フリードリンクを取りに来た客が私たち、特にわたしに好奇の目を向けた。
テーブルに着くと店員がやってきて、ヒカリはその場で手続きを済ませた。そのときもわたしは好奇の、どちらかというと咎めるような目を向けられた。
わたしの頭はまだ完全に覚めていなかった。夢を見ていたがそれは驚きですっかりかき消され、悲しい想いとそれに伴う怒りの印象だけが僅かに残っていた。
ヒカリが携帯電話を操作しはじめたので、コーヒーを二つ紙コップに注いで持ってきた。
「はい、証拠」
差し出された携帯の着信履歴を見た。今から35分前にわたしは確かに、彼女に電話をかけていた。
「まったく覚えてないよ」
わたしは自分に夢遊病があったかどうかを考えた。
「助けてって電話をしてきたのよ。私が何か言う前に一方的に切ったんだから」
わたしは首をかしげ、確認のために自分の携帯電話を操作した。結果はわたしの夢遊病の疑いを強くしただけだった。
「何ともないんだよね?」ヒカリが念を押した。少しだけ腹を立てているようだった。
わたしは謝ったが、他人のために謝っているような気持ちだった。
「この前の夢でも見てたのね」
「そうかもしれない」
腑に落ちない物を感じながら同意すると、ヒカリはそれでわたしを許してくれた。
「カヨがこっちに来ているの」
しばらくして気を取り直すと、ヒカリは普段と同じように言った。
「トウジの妹のカヨ?」
「そう、こっちの大学に進みたいらしくて、大学の視察だって昼に連絡があったのよ。これから会うんだけど、アスカもどうかしら」
わたしは写真でしか見たことのないトウジの妹のことを思い出した。兄とほぼ同じ顔をした妹だった。ヒカリから何度も話は聞いていたが、会ったことはなかった。
 すでに断る理由を探していた。わたしがトウジに感じている引け目は相当なものだった。
「ごめん、今日はシンジ探しの方を優先したいんだ」
そう、とヒカリは答えてカップを動かし、底に数滴だけ残ったコーヒーをくるくると回した。
「昨日、私も手伝うって言ったよね」
「いいよ。それはいつでも出来るんだし、いくつか当てが見つかったんだ」
「だれなの?」
「元ネルフの人間」
「それ大丈夫なの?」
ヒカリがテーブルに静かにカップを置いた。私もそれにならった。
「分からないけど、ヒカリに電話してもらうわけにもいかないし、もしかするとシンジを探すよりも近道になるかもしれない」
心配だわ。ヒカリはそう言って、わたしのカップを取り上げて自分のカップに重ねた。
「新しい住みかの方は?」
「手続きしてきたよ。入居できるのは明日から」
「じゃあ、今日は私の部屋から電話してもいいよ。鍵は持ってきてる?」
「持ってるけど、遠慮しとく。妹には聞かれたくないよ」
「あの子、今日も帰らないって」
ヒカリは顔を曇らせた。姉に似ず、思慮の浅いところがある妹だった。それが若さのためだとヒカリのために信じてやりたかった。
「今日は自分の部屋に戻るよ」
ヒカリはためらったが、本気で拉致するつもりなら、もうとっくに連れ去れている。といったわたしの主張を信じ始めているようだった。
 ヒカリの分も含めて支払いを済ませた。店員はレシートの上に乗せた小銭をこちらに差し出しながら言った。
「ひどい寝言でしたね」
「ここがあんまりにも快適だったからよ」
わたしたちはセンター街を通って駅前まで歩いていった。ヒカリはトウジの妹にオススメのフィンランド料理をご馳走するのだと言った。
「トウジの妹にさ、ごめんって言っておいてよ」
「きっと残念がるね。アスカに憧れてるみたいなのよ。芸能界に興味があるみたい」
駅前に着くとそれぞれの方向に分かれた、別れ際、ヒカリが言った。
「次回は会ってあげてね。トウジの妹なんだからさ」
その一言が一番こたえた。

 スーパーに立ち寄って当面の生活に必要そうな物を次々とカートに放り込んでいった。シリアルや冷凍食品、それに酒もビールを半ダースと焼酎を一本入れた。錠前破りに効果があると宣伝している鍵に被せる金属製の製品も買った。どの程度効果があるのかは分からないがないよりはマシだろう。
 そして最後にプリペイド式の携帯電話を買った。
それらの代金をカードで支払った。
 かなりの重量になった袋を持ち上げる前に、煙草の自動販売機が目に飛び込んできた。
 禁煙には一応成功していたが、そのときはむしょうに吸いたくなった。肌に与える悪影響と、禁煙中の苦労を思い出して目をそらし、袋を持ち上げた。
 一応、用心して裏口からマンションに入った。
 部屋は熱がこもって暑く、窓を開けて風を通した。それから買ってきた物を冷蔵庫にしまっていった。
 ピッキングプロテクターを苦労してドアに取り付けてから、ソファに座ってビールを開けた。酔いが回って面倒になってしまう前に仕事に取り掛かることにした。
 冬月の自宅の電話番号をプッシュしながら、わたしが考えていたのは大した計画もなくかけるこの電話が勇敢なのか愚かなのか。ということだった。
 電話に出たのは昼と同じ女性だった。トミエというお手伝いはわたしの声を聞くなり、こちらが用件を告げ終える前に口を挟んだ。
「よかった。先生に連絡先を聞かなかったことをだいぶ叱られたのよ」
電波の状態が悪く、聞き取るのに苦労した。固定電話にかけているから、電波の状態がわるいのはこちらの方だ。同じ使い捨てでももう少し値段の高い機種にすべきだったと思った。
トミエというお手伝いの言葉に答える間もなく、受話器の向こうから聞き覚えのある声が接近してくるのが聞き取れた。
「アスカ君か、惣流・アスカ・ラングレーなんだな?」
冬月は電話に出るなり言い、わたしはそれで頭がくらくらした。ネルフに関係のあった人間の声を聞くのは10年ぶりだった。記憶と何ら変わらなく聞こえる冬月コウゾウの声は、わたしを10年前に一気に引き戻す力を持っていた。
「お久しぶりです。副指令」
「副指令か。そう呼ばれていた時期もあったな。懐かしい限りだ」
その口調には懐かしい声を聞いた純粋な嬉しさがあるようだった。それで緊張の氷がいくらか溶けるのを感じた。
「どうしてる?元気にしているのかね?」
「おかげさまで。副指令は?声を聞く限り元気そうですね」
「私か、今は京都大学の副理事だよ。今はそう呼ばれている」
そして冬月はとても普通のことを訊いた。
「今どこにいる?何をしてるんだ」
「古い方の東京よ。そこで真面目に普通に働いてる」
ほう、と呟く言葉が電話線をくぐり抜けてきた。さも意外。という言い方だった。
「日本にいるのなら電話ぐらい寄越しても良かっただろうに」
「しようしようと思ってるうちに10年経ったのよ」
私はちっとも真実味のない言葉を言った。冬月が信じるとは思わないが、構わなかった。冬月は静かに笑い出した、鼻に抜けるような笑い方だ。
「嘘はいかんぞ。この電話をかける必要が生じるまで私の事など1秒も思い出したことなど無かっただろう」
それで、と続けた。質問はたっぷり用意している。そんな言い方だった。
「何が訊きたいのかね?ネルフのことか?君とはそれぐらいしか接点がないからな」
「ネルフが今も存在しているのかどうか知りたいの」
鉛のような沈黙をお互いに送り合い、冬月が間を持たせるために咳払いをした。
「なんだと」
「ネルフと何らかの関係がある人間がわたしに接触してきたのよ。かなり乱暴なやり方で」
「ネルフはあの日で消えてなくなった。それ以上の事は何も知らん。君はその人間に何をされたのかね?」
「拉致されたの」
冬月が短く唸った。声がささくれ立つと、年齢相応のしわがれたものになった。
「無事なのか?まさか今も監禁されているのか?」
「もう平気よ、今は自宅から掛けてる」
ため息が受話器に当たって、強風の日に外を歩いているような音がした。
「もし仮に今もネルフがあったとしても、それは公式な組織ではないな。政府や国連は再びあんな組織を作ろうなどと思わんだろう」
「元職員が集まっているとか」
「その可能性は否定できん。碇は行方不明のままだ」
父親の方だ。とわたしは思った。
「またエヴァを作っているんじゃないかと思ってるの。それでパイロットが必要なんじゃないかって」
間が空いた。わたしは待ち、冬月は何も言わなかった。ビールを一口飲んで、乾き始めた口に水分を補給した。冬月は何も言わない。
「無理だな」冬月はきっぱりと否定した。
「あれは製造にも維持にも天文学的な数字の金が要る。とても無理だ」
「でもわたしは拉致された。すぐに開放されたんだけど」
裸にされたことには触れなかった。それは話しても無駄な部分だ。
 再び沈黙がやってきた。冬月が思案している間、ビール缶に結露した雫が他を巻き込みながら垂れていくのを見た。
「シンジ君とレイは?連絡は取っているのかね?」
わたしは無意識に首を振りながら答えた。「父親と同じで行方不明よ」
「何が出てくるかわからんが、調べてみよう。この番号は君への連絡先と思っていいのかね?」
「ええ」
「本当なら、すぐにでもそちらに向かい所だが、あいにく、私はここを離れられない」
「教え子に休講を与えてまですることじゃないわ」
「いいや、実は数年前に腰の骨を折ってから歩くのに不自由するようになった。今は車椅子が手放せない。何か分かったら連絡しよう」
「副指令」
「なんだ」
「こっちから連絡しておいてなんだけど、あんまり首を突っ込まなくてもいいわ。普通の生活が送れているなら、そっちを大切にしてよね」
冬月が黙った。すぐに喋り出すかと思ったが、沈黙は長く続いた。
「副指令?」
「すっかり老人扱いだな。そんな心配は無用だ。私はあんな組織にいた者としての責任を果たすつもりだ。死ぬまでな」
電話を切ろうとするわたしを冬月が止めた。
「相手の正体が分かるまではあまり派手に目立つような行動はするな」
「わかったわ」
何か分かったら連絡する。冬月はそういい残して電話を切った。
 目立つような行動をするな。か。とその忠告を心の中で何度も反芻した。わたしは目立とうとしている、少なくとも目立ち始めている。とびきり派手に。今月中には日本中のテレビに惣流アスカの顔が映る。わたしを拉致した女も、広告を頼りに居場所を突き止めたのかもしれない。
 もう遅い。わたしは思った。
 昼間に公衆電話を使って調べたリストをめくり、並んだ数字の列を指で辿っていった。そして葛城ミサトの部分で指を止めた。焦って書いたせいで「葛城シサト」に見える。不穏な想像が胸をかすめた。
 マンションの側の駐車場で車の防犯ブザーが鳴り出し、言い争うような男の声が聞こえた。その声はブザーと同時に止んで、それっきり聞こえなくなった。
4件の番号に電話をかけていったが、1件は留守電につながり、1件は何度かけても話中だった。
 最も候補の多い青葉シゲルに電話をかけた。リストは順調に斜線が引かれていき、最後の、102歳の青葉シゲルの孫と会話をし終えた時には21時をまわっていた。
 電話をかけるうちに馬鹿らしくなってきた思いと、手帳をテーブルに放り投げて、冷蔵庫から新しいビール缶を取り出した。ビールはよく冷えていた。頬に押し当ててその冷たさを確かめながら、これ以上は期待できないと分かってきたリストをじっと見つめる。
(あんたら、そろいも揃ってどこで何してんのよ)

 5本目の缶を空にしたところでヒカリから連絡があった。何か話したがよく覚えていない。うまいことごまかしたのは覚えている。短い時間で一気に飲みすぎて、ビールだけとは思えないぐらいアルコールがまわっていた。
 最後の一本が半分になると寂しくなり、新鮮な焼酎が一本、キャビネットに入ってることを思い出した。しばらく考えたが、明日がまだ休日なことがわたしを後押しした。今度は焼酎の方に付き合ってもらうことに決めた。
 瓶の栓を開けてラッパ飲みし、ステレオをかけるとすぐに隣の部屋の住人が壁を叩いて抗議した。ステレオをやめてeyepodのイヤホンを耳に突っ込んだ。
 ソファの上でだらしなく天井を見上げていたぬいぐるみの足を引っ張ってベッドの上へ連れてくると、抱き寄せた膝と体の間に挟んだ。ぬいぐるみの首が妙な具合に捻れてそっぽを向いている。
その顔に額をつけて膝を強く抱いた。ぬいぐるみがその圧力から逃れようと抵抗したが、わたしはさらに腕に力を込めた。
 ぬいぐるみにわたしの体温が移り、その温度を自分で感じる頃になって、自分が泣いていることに、焼酎の栓を開いてからずっと泣いていたことに気がついた。
(アル中患者へまっしぐらに向かってるわよ。あんた)
よくわかってる。とってもわたしらしいじゃない。自分を笑ってやってから、ぬいぐるみを開放してやり、再び瓶に口をつけた。
 そこでぶったおれた。

 思考はまだ膜がかかったようだったが、脳の中心部は冷えていた。髪の中に手を突っ込んで立ち上がり、水を求めてキッチンへ向かった
コップを手にしたとき、異変に気がついたが、それは無視して二杯の水を飲んだ。
 息を吐くとひどいアルコールの匂いがした。どうやっても好きになれない匂いだ。
 わたしは無視したものに意識を戻した。
 まったく覚えていないが、どうやらわたしは桜桃の缶詰を開けたらしい。缶は半分ほど開き、上底がめくりあがっていた。肝心の桜桃は生ゴミを捨てる三角コーナーに収まっていた。
 缶のシロップが半分以上なくなっていることが分かり、これで焼酎を割っていないことを願いながら、缶きりに目線を移した。
 缶きりは開いたまま、刃を上にして缶の側に転がっており、その周りには赤く、丸い汚れが点々と落ちている。
 血は銀板の上に点々と落ちており、すでに乾きかけていた。くっついて8の字のシルエットを描いている血を指でなぞり、間違いなく血だと確かめた。
キッチン側のドアノブについていた血は濡らしたキッチンペーパーでこすり落とした。
 冷えた頭が頭痛に変わり始めている。朝までには治る程度の頭痛だったので、ヒカリが置いていったアスピリンを飲み下し、ベッドに腰掛けて両手で顔をこすった。
そして両手を見つめて傷を捜した。手に切り傷はなかった。手の甲や肘まで調べた。傷のせいであさっての撮影を延期したらもう次はないかも知れない。
が、どこにも傷はなかった。わたしは安心し、眠気を感じて横になった。