獣は囁く

第39章

赤木リツコは旧ネルフに数多くの部屋を持っていた。司令参謀全員に与えられる個室、それに生体管理室長室、中央統制室、マギ管理室、プライベートルーム。そのうちのほとんどを使っておらず、だいたいマギ管理室で過ごしていたとミサトが言った。
死体だらけの本部の中を進んでいると、ウェインから連絡が入った。「SASがいる。これから交戦に入る。君たちも至急、こちらに来てくれ」
遠くで銃撃が始まった。わたしたちは通路を走り出した。NIHISの二人は道を知らないので、ミサトが先頭に立った。わたしとシンジが最後を走った。シンジはまだ父親の死を目の当たりにした衝撃から立ち直っていなかった。
「しっかりしてよ!」
「うん、大丈夫だよ」
「ぜんぜんそんな風に見えない!」
ミサトたちが先に角を曲がった。わたしたちが到達した時には隔離扉が閉まっていた。
「ミサト!道がふさがってる」
無線で呼びかけると息をきらしたミサトが応じた。
「そこで待っていて、こちらが片付いたらすぐに行くわ」
「エリカ、聞こえる?」
エリカは何も答えなかった。
「みんなして何なのよ!」
シンジは壁にもたれて深刻な表情を見せていた。わたしはそんな顔を見たくなかった。
シンジから離れて、別の道を探しに来た道を少しばかり戻った。
天井が突然開いた。そこから赤い液体が滝のように流れ始める。すぐにベークラフトだと分かった。
「アスカ!」
赤い壁の向こうでシンジが叫んだ。
「スティンガーで扉を破って逃げるのよ!」
目の前までベークラフトが迫ってきた。わたしはシンジに背を向けて走った。
意識的に追い込まれているのは分かっていた。ネルフの奥へと誘い込まれていく。
全ての照明が落ちて暗闇になった。スピーカーから声がした。マギの声だった。
「アスカ、お久しぶりね」
「リツコね」
「あら、年上には敬称をつけなさい。10年前はできていたはずよ」
「あの時はね。今のあなたにそんな価値があるかどうか、自問しているところ」
「不思議ね。生意気も14歳なら可愛げがあるのに、あなたからだと苛立たしく聞こえる。パイロット2名と七号機と八号機の破壊。少しやりすぎたわ」
「あなたがそうさせたのよ。勝手に14歳のわたしを作ったりして、許されると思ってるの?」
「いいことをおしえてあげるわ。人の存在に著作権なんてないのよ」
リツコはやんわりとした声で言った。
「あんたの遊びの犠牲になる身のことを考えたことがある?」
「失礼ね。そんな簡単な気持ちであなたを作ったわけじゃないわ」彼女はそこで少し声のトーンをあげた。「研究したのよ」
どこかから見られているに違いなかったが、カメラは見当たらなかった。
「14歳のあなたのことは何でも知っているわ。どういう風に物事を捉え、どう解釈し、どんな判断を下すか。どういうものが好きで、何が本当で嘘だったか。全て知っている」
「ひどい趣味」
「加持君のことについては残念だったわ。あれは少女の背伸びに過ぎなかったわね。早く大人になりたかったんでしょう?けれどシンジ君への思いはすばらしかったわ」
リツコはまるでスポーツ観賞をするように言った。
「あんたは本当に最低」
「私は感心しているのよ。14歳の少女があれだけ人を愛せるというのは素晴らしいことよ」
「わざと、あたしとシンジを二人にしたのね。あんたはファーストのMRIデータも持っているはずよ」
「レイは私の好みじゃないの。あなたとシンジ君の方が眺めていて楽しい。あの子はシンジ君に彼に気に入られようと、とてもがんばっていたのよ。成果も見せていたのにね。残念だわ」
「それを次に言ったら、絶対に許さない」
「それで結構よ。本題に入りましょう。あまり時間もない」
「マイクの向こうでこそこそしてないで、面と向かって話せないの?」
「それもいいわね。こっちに来て」
照明が灯り、道を示すように隔離扉が開いていく。無線機は使わなかった。シンジやミサトからの着信もなく、妨害されているだろうと判断したからだった。
道をたどっていくと、やがてわたしの知らない区画に出た。その区画は全体がなだらかに地下へ傾斜していて、天井と床の色が淡い緑色をしていた。ネルフにこんな区画があるとは知らなかった。ほとんど誰も入ったことが無いのだろう、壁も扉もほとんど新品のままだった。5分ほど歩いてようやく、この区画が「ネルフ中央管理区画」という場所でパーミッション7の最重要区画に属していることを知った。
最後の扉が開いて、まぶしい世界に放り出された。目をすがめて慣れるのを待っていると、リツコの声がした。
「よくきてくれたわね。歓迎するわよ」
リツコは仕切られたガラスの向こうに立っていた。何もない殺風景な部屋で、ガラスが部屋を真っ二つに仕切っている。塵ひとつない床は滑り止めしたリノリウムで覆われていた。
リツコは金髪だったのが、黒髪になっていた。10年の歳月が彼女の肉体に及ぼした作用はミサトに比べてはるかに大きく、体型が崩れ始めているのが白衣の上からでもわかった。
耳たぶから、イヤリングがぶら下がっている。クリスマスツリーに飾る金色のボールのようなものがくっついていた。
今もかわらず白衣のポケットに手を入れて、何かをいじっている。
「10年ぶりよ。そんな怖い顔はせずに、もう少し笑って欲しいものね」
親しげな声を出した。スピーカーを通すので、口の動きと声が微妙にズレている。ポケットから手を抜いた。何も握られていなかった。
安全装置を解除していない銃を抜くと、彼女は冷ややかに笑ってつめ先で部屋を仕切っているガラスをこつこつと叩いた。
「拳銃程度で貫通させることは無理よ」
「銃が怖いの?」
リツコはガラスを叩くのを止め、こちらに向きなおした。
「ずいぶん強がるのね」
「この部屋の壁にはスーパーMRIの装置が埋め込まれている?」
「いいえ。そんなものは無いわ。お気に召さないなら、出て行ってくれてもいいのよ」
わたしは振り返り、入ってきた扉がまだ開いているを確認した。
「かといって、お茶が出てくる様子もないわね」
リツコはくすりともしなかった「色々と忙しいのよ。お茶とコーヒーのどちらがいいか、次の時のために聞いておこうかしら」
「スーパーMRIのデータに問い合わせてみたらどう」
「なら、お茶ね。今も好みが変わっていなければ」
「その下品なデータは消去した方が身のためよ」
「私の身のため?」
白衣のポケットからセブンスターを取り出して口にくわえ、火をつけずに唇の間で転がした。彼女の唇は郵便ポストのように赤く塗られていたが、タバコに色は移っていなかった。
わたしの無線機は沈黙を続けている。
「碇ゲンドウは死んだわ」
「そのようね。でも彼はデータが存在している以外に何も知らなかった」
「勝手に撮ったMRIデータで就職先を探すのはルール違反よ。これだけのことをしでかしたんだから、もうあんたを雇おうって国はないわ」
「ところが、すでにオファーをたくさん頂いているわ。出社してデスクにつくまでにサラリーマンの年収が稼げるぐらいの待遇のね。もちろん、金なんかに興味はないけれど。今のところ、私は世界で最も必要とされている人間なのよ」
「必要とされているのは、あんたじゃなくて、データの方よ。あんたに利用価値なんて無い。危険人物と思われてるわ」
「データは活かせる知識が無いと役に立たないのよ。オファーには日本と米国も含まれている。この2カ国は特に熱心に誘ってくれている」
リツコはタバコに火をつけて、煙を深く吸い込んだ。吐き出した煙がガラスに当たって横に広がった。
「私が次にどこに行くかはあとでゆっくり考える。話がすっかり横道に反れてしまった。本題に移りましょう。今はあなたに興味がある。人間と使徒との融合が可能なんて、想像もしていなかったわ。調べてみる必要があると思っている。エヴァを破壊したことを許してあげてもいいのよ」
「もうお互いに許しあうなんて関係じゃないわ」
「あら、私はあなたが思うよりは寛容よ。自分を撃った人間を許せた」
「誰のこと?」
「アスカはおしゃべりが上手になったわね。時間を稼ぐのがうまいわ」
「わたしは絶対に協力なんてしない。死んだ方がマシよ」
「あれだけ使徒と戦ったけれど、彼らについて知りえた情報は悲しいぐらいわずかだった。使徒を知ることは人類の知識の飛躍的な進歩と同じよ。あなたはエヴァを操縦できて使徒の情報も有している。それだけの価値がある存在なのよ」
わたしは銃の安全装置を解除して遊底を引き、弾丸が薬室に入り込むのを確認した。
「お断りよ」
「少しは賢くなっていると思ったのに」リツコはタバコを細かく叩いて長くなった灰を床に落とした。
「使徒は14歳のあなたに移すことにする。彼女はとても扱いやすいわ。シンジ君をちょっとけしかけてあげれば、すぐ−
その先は銃声にかき消され、ガラスにヒビが入った。リツコがタバコを踏み消した。
「これまでね」
わたしは閉じ始めた扉に向かって走った。扉はわたしがそこに着くよりも先に閉じた。天井から霧が噴出してきた。
「おやすみなさい」
リツコが言ったその時、部屋を仕切っていたガラスが上に持ち上がり始めた。
(アスカ!そいつをぶっ殺せ!)
スピーカーからエリカの声が聞こえた。マイクに口を近づけすぎて音が割れていた。
リツコは白衣の裾を翻して出口へと走った。ぐぐれるまで持ち上がったガラスをくぐり、その後を追った。
扉をぬけると、リツコの背中が見えた。2発撃ったが命中させるには遠すぎた。
リツコが1.5秒前に通り過ぎた角を壁に激突しそうになりながら曲がった。合金の扉が閉まっていくところだった。
体を無理やり隙間に押し込んだが間に合わず、壁と扉の間に挟まった。骨が折れる音が聞こえたが、それは空耳で、扉は障害物にぶつかった対処のしかた、再び開く。を実行した。
肋骨と背骨は無事だったが、リツコの姿は見失ってしまった。通路はそこで3つに別れていて、リツコがどこを通ったかを示すものはまるで残っていない。
「エリカ!聞こえないの!?」
天井と無線に向かって話した。無線は今も妨害を受けている。天井からは何の反応もない。あてずっぽうに1つを選んで走り出したとき、正反対の方角から銃声がした。
180度回れ右して引き返す、再び銃声が鳴った。
扉にたどり着くまでに5度も銃声を聞いた。誰かが死んでいるという予感がした。今度の扉は紳士的ではなく、貝のようにかたく閉じて、中に入れてくれなかった。
無線が回復していることに気がついてスイッチを入れた。とたんに言葉があふれ出した。
「ジェインがやられた。こちらに救援をたのむ」
「SASはまだ6名は残っている。地下ヘリポートへ向かっているように見える」
「エリカはどこにいった?」
「妨害範囲に入っているようだ」
「日本人たちの姿を見たか?」
「いや――」
「あぁ、くそったれ、こっちから」
「まだ行くな。日本人たちと離れすぎることになる」
わたしはそこでスイッチを切って、赤く点滅しているロックを見た。撃ち破るしかなかった。扉の向こうで再び銃声がした。それが、わたしの恐れを振り切ってくれた。
扉に背中をつけ、銃を逆に持ってロックの前に持ってくることで跳弾から身を守ろうとした。目をつぶって発射すると音と共に手が痺れた。バッドでコンクリート地面を叩きつけたようだった。
恐る恐る目を開いてみると、跳弾が銃に当たって遊底が無くなっていた。親指から3センチ上の場所だった。指が思い通りに動くかどうかを調べてから、銃の弾倉を引き抜き、壊れた銃をホルスターに入れた。遊底がなくなったために隙間ができて、革袋の中で動くのが気に食わなくて銃を捨てた。

 その部屋が何かすぐに分かった。天井は高く、秋の残照ほどの光を放つランプが幾つかぶら下がっている。紺に近い黒タイルが敷き詰められていて、継ぎ目の色は白。その床からアルミニウムの円柱が規則正しく並んでいる。全てにネルフのマークが入っていた。
直径50センチの円柱は高さが約2メートル50センチ。一本につき50テラバイトが保存でき、それが合計270本。それがネルフが公開していたマギの記憶容量だった。
マギは頭脳であるCPUを司令本部においていたが、記録媒体は別の部屋に設置していた。『マギの海馬』呼ばれていた部屋だ。
鉄柱の森の中を二つの影が見え隠れしている。右かと思えば次は左に現れる。白衣の裾が悪夢に出てくるカーテンのように薄暗い森の中でたなびいていた。銃声が巻き起こり、激しい跳弾が鉄柱に乱雑な火花を散らした。
「ミサト!」
「アスカ!援護して!」
わたしは走り出そうとして、銃を失っていることに思い当たった。それはわたしの足にブレーキをかける何の役にも立たなかった。