獣は囁く
第38章
エリカが顔に巻いた包帯の留め金を外して、手を頭の上で円を描くように動かした。包帯は顔から頭まで全体を隠すほどだったので、すぐに足元に包帯の山が出来た。
「つづきを話してよ」
わたしが催促すると、彼女は手を止めて半ばまで見えた顔をこちらに向けて、いたずらが楽しくてしょうがない少女といった風に微笑んだ。
「シンジとレイは放浪していたからロシア野郎も消息がつかめなかったんだ。それに比べてあんたを探し出すのはずっと楽だっただろうね。なんて言っても街を歩けば顔がデカデカと広告にのってるんだから。でも問題はそこだったんだ。
アスカは有名になる一歩手前だった。テレビCMになんて出演されたら、日本中があんたの顔を覚えちまう。有名な人間を拉致するのは本当に難しいんだ。マスコミはこぞって美人モデル失踪を書き立てる。そしたら警察も身を入れて捜査するようになるだろ?だから…」
「わたしのヌード写真をバラまいたってこと?」
「そう。脇役モデルの失踪なら、マスコミの扱いも小さいし、みんな半年もすれば忘れる。あんたが失踪しても、ヌード写真のせいで雲隠れしたんだと思われる」
包帯の端を落として、顔についていたガーゼを慎重に剥がした。皮膚が白っぽく、頬に薄い傷跡が残っていた。
「あの写真に写っていたのは、スーパーMRIで作られた私だったのね」
「もとが同じ人間なんだから、10歳ぐらい年上に見せるのは何とでもなったさ」
「今でも十分に14歳で通用するんだけどね」
こちらは本気だったが、エリカは苦笑いして包帯を、焼却処分と書かれたゴミ箱に捨て、蓋をした。
「エリカ、あなたはスーパーMRIを受けたの?」
「どうだろう?パイロット素質を調べる時に身体検査はしたよ。その中にMRIもあった。けど、それがスーパーMRIだったかどうかはわからないね」
ミサトが部屋にはいってきた。上下とも黒で、気軽な立食パーティーにでも参加するように髪をアップにしていた。装飾と呼べるものは耳のスタッドピアスと脇に吊り下げた青光りするVVDだけだ。
ミサトはリツコとゲンドウは間違いなく旧ネルフにいると宣言して、それまでわたしの盗撮写真に向いていた全員の興味をかっさらった。
「スーパーMRIのデータはリツコが持っているのね?」
「それ以外に考えられないわ」
「どこかにコピーを保管している可能性は?」
「ないわ。リツコのことはよく知っている。あの女は秘密主義よ。自分の才能を他人に渡したくない性格なの。エヴァの製造技術は流出してしまったけど、パイロットに関することはがっちりと握って独り占めにしているはずよ。それがあの女の存在価値になってる」
「生きる意義にもね」エリカが口を挟んだ。
「10年越しのダンスを終わらせましょう」ミサトがジャンパーを羽織った。
旧ネルフと第三新東京市は人々から見捨てられていた。市街は十号機によって見る影もなく破壊されて瓦礫の山になっている。復興に必要な資金と人手、ショベルでさえ届いていなかった。元々住んでいた人々以外の目、大衆の視線でさえここには向いていない。その大仰な名前に見合うだけの価値がないと、全員が思っている。
「ひどい有様だね。ここはどこの戦後国だい?」
分解した肩撃式火器を収めたトランクをぱたんと閉めて、エリカが言った。
「この先は歩くしかなさそうだね」
ビルの残骸で埋め尽くされた道路を歩き始める。焦げた匂いが鼻についた。ビルの屋上を飾っていた、イギリスの海岸を走る日産の新型車を描いた巨大な看板が落下している。
先を歩くウェインたちNIHISの面々が、その前を横切ると、まるでそこに吸い込まれていくように見える。
「この街はもう復興されないのかな」シンジがつぶやく。
「もともと、ネルフのためだけに作られた街だから、ネルフが出て行ってしまった今、何の価値もなくなってしまったわ」
ミサトは答えながら、街角の自動販売機に目を固定していた。煤で真っ黒に汚れていたが、今も健気に営業を続けている。
「そろそろ南43番ポイント」エリカが地図に指を置いた。
その公園は通学路で、何度も三人で通った道だ。ここを通り抜けて西へ曲がり、そのままずっと直線を歩けば学校に突き当たるのだった。ここは十号機に踏みつけられたらしく、公園全体が一段沈み、トイレはマッチ箱のようにつぶれていた。街灯も根本から曲がって、扁平に歪んだリフレクターが地面にくっついている。
先を進んでいたウェインが連絡してきた。
「入り口はあるが、入れそうにないな」
「他に進入口になりそうなのは西8番よ」
「それは遠すぎる」
「それ以外に司令室とマギ管理室に分岐する道に通じる入り口はないわ」
「どうせ中で分かれるのだから、ここで隊を二つに分けるべきだ。碇ゲンドウと赤木リツコを捜索する班に分かれよう」
「なるだけ一つに固まっていた方が良い。中はリツコの庭みたいな物なのよ」
ミサトとウェインが議論を始めた。エリカはにやにやしながらそれを聞いていた。
わたしたちは2つの班に分かれた。ミサトとわたしとシンジ、それにNIHISの人間が2名、こちらに加わった。
「できれば、こっちに加わって欲しかったわ」
「あたしもそうしたかったけど、上司の命令には逆らえないのさ」
エリカがわたしの手にトランクを握らせた。
「有効なお守りになるよ」
スティンガーを入れたトランクはずっしりと重かった。受け取ってすぐにシンジに渡す。シンジはぶつぶつ言いながらそれを持った。
エリカたちと別れて、別の進入口へと向かった。
「レイ、聞こえる?」ミサトが呼びかけると、ファーストはすぐに応答した。
「2つの班に分かれたわ。私たちは司令室か司令のプライベートルームに行く」
「了解」
「これから6時間経っても連絡がなかったら、戦略自衛隊に連絡して」
「了解」
14歳に戻ってしまったファーストの声はいかにも頼りなく聞こえた。
目的の進入口はSASか戦略自衛隊の突入に使われて、ゲートの扉が破壊されていた。内部の明かりは消えている。
NIHISの隊員がライトで中を照らした。泥の足跡が残る通路がまっすぐ伸びている。足跡は次第に薄くなり、通路の半ばで消えていた。ひどい匂いが漂っている。わたしたちはマスクをかぶり、留め金が死臭の入り込む余地を無くしているのを確認してから足を踏み入れた。
マギは機能停止しているのか、わたしたちを迎えてくれなかった。
2名のNIHIS隊員はウェインと連絡を取りながら、わたしたちの6メートル前を歩いている。角に差し掛かるたびに、銃を構えて敵の襲撃に備えていた。
司令執務室の扉が通路の先に見えてきた。NIHIS隊員がマスクに指を入れて持ち上げ、空気を確認してから、取っても大丈夫だと合図した。二人は背中を壁につけていつでも射撃できる体勢で木製の扉へと近づいていく。
わたしたちは離れた場所にいて、それを緊張して見守った。
隊員の片方が素早くドアを蹴った。一度では破れず、二度、三度と蹴ると留め金が外れて内側に勢いよく開いた。待っていた一人が擲弾を投げ込んだ。
その2秒後に閃光が走る。
執務室は空っぽだった。だだっぴろく、中央の床にネルフのマークがあり、その上に机が一式あるだけだった。スタン手榴弾の相手を気絶させるゴム玉が床を気ままに転がっている。
「変な部屋ね」硝煙の漂う部屋を見渡して言った。
「悪趣味な部屋よ」とミサトが言って机に近づいていく。
「父さんはいつもここにいたんですか?」
「いつも、ってほどではなかったわ。尋問や報告を受けるのにこの部屋を使っていた。みんなには『説教部屋』って言われていた」
ミサトはちょっとためらってから机の引き出しに手をかけた。まるで引き出しの中にゲンドウが隠れているのを恐れているようだ。
引き出しを上から順に開いたミサトはこちらを振り返った。
「何も無いわ」
「外れってことね」
部屋の壁を調べていたNIHISの隊員も戻ってきた。
「私室の方へ向かおう」
執務室を出て、碇ゲンドウが私室として使っていた部屋へと向かった。近づくにつれてシンジの顔が曇っていく。
「シンジは入ったことがあるの?」
「あるわけないよ」
「でしょうね」
「司令は一切、私室に人を招くことはなかったわ」
「10年目の初公開ってことね」
「シンジ君、辛い思いをすることになるかもしれないわ。ここでアスカと待っていてもいいのよ」
「構いません。大丈夫です」
ミサトに視線を戻した「だってさ」ミサトがVVDを抜いた。「あなたの判断を尊重するわ。あなたたちはもう子供じゃないんだから」
私室の扉は合金でできていた。つい最近まで使われていた気配を全員が感じ取っていた。
NIHIS隊員が扉に手をかけた。鍵はかかっていなかった。ゆっくりと開くと声がした。
「ノックをしらないのか?」
全員が雷に打たれたように緊張した。ミサトが素早くVVDの撃鉄を起こした。
「司令、抵抗しなければ命は奪いません」
ゲンドウは何も言わなかったが、彼の口元が持ち上がっているのをはっきりと予測できた。
「大した挨拶だ。入れ」
部屋は狭くて、醜いまでに上品だった。家具は木製で、メープルシロップをかけたホットケーキのような色をしている。緋色の絨毯は踝まで埋まりそうなほど深かった。壁はグレーで、湖畔に憩う白馬を描いた絵画がかかっていた。
鰐皮のチェアに腰掛けてゲンドウはこちらを向いていた。部屋の景色の一部、まるで10年間ずっとそこにいたように見える。
「何の用事だ?」
「私たちと一緒に来て下さい」
「君にそんな権限があるか?葛城ミサト君」
「あなたの権限なんて、今はもう何の意味も持ちません」
ゲンドウは黙ってわたしたちを睥睨した。口元がわずかに持ち上がっていて、わたしたちに連行されるのを悩んでいるのではないことは明らかだった。
「君と行くと、どういう事が起きる?」
「政府に身柄を拘束されるでしょう。そしてあなたが謀ったことが追求されます」
「ほう」
「あなたの計画は失敗したんです。ネルフは二度と再興されないでしょうし、あなたが登場する幕も用意されない」
日本語のやり取りに、NIHIS隊員が口を挟もうとしたが、ミサトの剣幕に口を閉ざした。
「無能な女に言われる筋合いは無い。君は飛びぬけて無能だ。何一つ理解ができない。物事の尻尾しか追いかけることしかできん。君がこれまでにしたことを言ってみろ」
「エヴァのパイロット2名を監督し、13体の使徒を撃破しました」
「それだけか。たまらんな。父親の七光りで指揮を取り、子供二人もまともに管理できない。どうにも使いようがない」
「司令、話題を変えようとしているなら、愚かです」
「口のききかたに気をつけろ。つまらないことは言うな。無能は無能らしい振る舞いを覚えろ」
「司令」ミサトは机をまわってゲンドウの背後に立ち、天板の上に手を置いた。ゲンドウはそれを完全に無視した。「一緒に来てくれますか?」
「行ってやろう。君が私から何を聞き出せるのか、試してみろ」
ゲンドウがゆっくりと立ち上がった。ミサトはVVDをホルスターにしまった。
「こういうのも、試してみますか?」
言うや、ゲンドウの頬を張り飛ばした。顔を外れたサングラスが机に当たって跳ね、絨毯の上に落ちた。
ゲンドウはゆっくりと顔を起こした。
「よくやった。後で役に立つだろう」
NIHISの隊員が小声で無線を使っていた。何を話しているのかは聞き取れなかった。
ゲンドウは部屋を見渡して、わたしとシンジに目を留めた。シンジは何か言おうとして口をもごもごさせた。ゲンドウは何も言わなかった。
わたしとシンジが部屋を出て、ミサトがそのあとに続いた。ミサトは見たことが無い厳しい顔をしていた。その後にNIHISの隊員が銃をゲンドウに向けて後ろ歩きに部屋を出た。ゲンドウは無表情でゆっくりと歩いた。
隊員二人が部屋を出た。その片方が突然にゲンドウを突き飛ばした。ゲンドウは絨毯の上に無様な格好で倒れた。
もう一人が素早く扉をつかんだ。そして閉める直前に擲弾を投げ込む。
「何を−
シンジが隊員につかみかかり、扉に手をかけた。轟音がして、シンジの目の前でドア一面に鋭い金属片が突き出た。
シンジがその場にへたりこんだ。目は開いていたが、何も見ていなかった。ガラス玉のほうがまだ価値がある目だった。隊員がシンジを押しのけ、拷問具のような扉を開けて中を覗きこみ、再び閉めてから、マイクに口を近づけた。
「完了しました」と隊員が鷹揚を欠いた声で報告した。
「父さん」とシンジがつぶやいた。立ち上がり、再び扉に手を伸ばそうとする。
「ダメよ」わたしは抱きとめて押し留め、シンジの目に光が戻るのを待った。ミサトは首を振った「彼は自分の価値を読み違えていたのよ」 |