獣は囁く

第34章 前

 重い体をひきずってエントリープラグを出た。全身が濡れ、ブーツは川に落ちた後のようなっていて、歩くたびに情けない音がした。
10年前はこんなに疲れただろうかと思い返しながら、当ても無く歩かなければならなかった。現役だった頃はシャワーを浴びたが、ここではシャワー室がどこにあるのかさえ分からない。
最初のドアをくぐったところで壁を支えに崩れ落ちた。頭が南極の石のようになっていた。髪を伝い落ちるLCIが床に水玉模様を作っていく。
シンジがやってきてわたしの前に膝を突いた。「ミサトさんが迎えに行けって」
わたしは顔を上げた「言われたから来たんだ?」
「ミサトさんは七号機のエントリープラグからパイロットを回収してるんだ」シンジは困ったように言った。
「それで、あんたはそっちに行かなくていいの?」
ウェインの言った言葉が胸を打った『お前は人の愛し方が下手すぎる』。
わたしは周囲を、特に天井を見た。白い燐光を放つ蛍光灯が一直線に並んでいる。カメラはこちらでなく、シンジの入ってきた方を向いていた。
何かの装置の音が聞き取れないほど細かく時を刻んでいた。わたしは14歳のときほど勇敢でないけれど、バカでもなかった。
陸にあげられた人魚のように両手を床に付いて肩を震わせた。
「怖かった。わたしたち、本当にあんなことしてたの?」
シンジの肩に頭をつけた。濡れてまとまった髪が冷えていく。

 尋問室は網目の細かい金網に囲まれていた。天井の射光機が押しつぶすような強烈な光で椅子を照らしている。彼女はNIHISの隊員に担がれてくると、麻袋のように椅子に投げ出された。その少女は質問に対して、縛られた手足を振りながらレイと名乗った。日本語は話せたが、かなりたどたどしく、ロシア語が得意だった。
彼女は周囲を見渡し、金網の外にいる私たちの気配に気がついて目を細めた。しかし周りの光が強すぎて果たせなかった。
金網の扉が開いて光の中にミサトが姿を現した。少女はミサトを不安と威嚇の混ざった目で見上げる。
「わたしのことを覚えてるわよね?」ミサトの問いに、少女は後ろ手に縛られた手を荒っぽく動かした「わたしを殺そうとした」
「いつからエヴァに乗っているの?」
シゲルが中の二人に聞こえないように口に手を当てて言った。
「自分がクローンだって認識していない」
「中身は誰なの?」
「分からない。人造人格かもしれないし、本当に見ず知らずの人間の精神を入れたのかもしれない」
「本物のレイのほうの様子は?」
「もう本当にギリギリだ。今すぐにでも始めないと」
尋問がリツコのことに及んだ頃には、少女は自分がどんな立場に置かれているか、自分が何者なのかに不安を感じたようだった。
「乗れって言われたから、乗っていただけなのに」
「両親のことは覚えている?」
「両親のこと…?」
少女は首をかしげた。
「何も覚えていないよ」
「そう」
ミサトが光の中から出ると、埃が渦を巻いた。少女はわたしを見ようと再び目を凝らしたが、無理と分かってうなだれた。
「あの子をどうするつもりなの?」
「迷うことなんて無いわ。計画通りやるわよ」
「あの子の精神はどうなるんですか?」シンジが言った。
「あの体はもともと、レイのものなのよ。でもそれで私たちの知っているレイを死なすわけにはいかない。かわいそうだけど、デリートするわ」
その言葉に少女が顔を上げた。
「デリートですか!?」とシンジ。
「殺すつもりなの?」わたしが咎めるような声を出すと、ミサトは決然とした目で見た。
「残酷なのは重々、承知の上よ」
そこで少女は殺されると分かった少女がする、ごく自然な行動を取った。
泣き叫んで命乞いをする言葉を聴くほどの余裕はなかった。シンジと逃げるように部屋を出た。部屋に戻るまで、一言も言葉を交わさなかった。
用意されていた缶ジュースを開け、それを手に部屋を歩き回った。壁の連絡モニターの人の呼び出し情報を見た。椅子に座り、立ち上がり、また座った。モニターには3時間後に来襲する八号機の位置が表示されていた。
ゲンドウの行方は分からず、リツコは元々、この施設にいたのかさえ不明のままだ。
ウェインがはいってきた。彼はわたしの健闘を褒め称えた。本心から言っているようだったが、嬉しくなかった。
「芸能プロフィールをもとに作った。サバを読んだりしてないだろうな」
プラグスーツをわたしに手渡すと、ウェインは何か考えるように黙った後、無精ひげをなで始めた。「残っていたネルフ職員に十号機の修復を手伝わせている。大した損傷は受けていないから問題ないだろう。SASと戦略自衛隊の戦闘は停止している。ここを守り通してくれれば十分だ。兵装は攻撃主体のB型に換装させている。八号機もかなり武装しているようだ」
「スーパーMRIは?なにか分かったの?」
「そこまで手が回らない。今、世界中の医学者と医療機器メーカーに問い合わせている」
「ラドゥエリエル計画だっけ?それがスーパーMRIのことなのよね?」
「おそらくは。ラドゥエリエルは記録の天使だ。その人間が地上で行ったことをすべて記録している。その記録は冥界の入り口、最後の審判で使用される。いっぽう、MRIは電磁波で人体を透過して撮影する装置だ。符合する点が多い」
「マヤが話してくれれば早いのに」
「自白剤を使ってもいいが、今はエヴァの管理に協力している。それが終わるまでは無理だろうな」
「エリカの様子は?」
人間離れした回復だと、医者が気味悪がっている。後遺症の心配もなさそうだ」
ドアへと歩いていくウェインをシンジが追いかけていき、ドアを手で押さえた。ウェインはその肩に軽く手を置いた。
「知っていると思うが、八号機は君の乗っていた初号機と同じ形状をしている」
彼はさらに何か言いかけてやめ、わたしに一瞥をくれて出て行った。
シンジに背中を向けさせてプラグスーツに着替えた。ブラとショーツを服に丸め込んでソファのクッションの下に押し込んだ。
時計を見ると、お昼の定番番組までに映画が一本見れるぐらいの時間だった。
わたしを見たシンジが居心地悪そうにした。「なんだか違和感があるね」
「24歳にもなってこんな格好するなんてね」
「アスカはやっぱり赤が似合うよ」
「わたしは赤なんて嫌いよ」「嘘だ」「本当よ。弐号機とプラグスーツが赤いのはたまたまだったのよ。赤い服なんて一着も買ったことがない。黄色か白が好きなのよ。髪が引き立つから。まあ、この髪も黒に染めようと思ってるけど。黒髪も前から似合うと思ってたからね」
一気に喋って、それ以上何一つ言えずに口を閉ざした。
「八号機は初号機と同じ形状なんだって。まるでシンジと戦うみたいじゃない」
「戦っている最中はそんなこと思わないよ」
「知ったような言い方ね」
「僕は弐号機と戦ったから…カヲル君が操縦していた」
「わたしの場合は、誰が操縦しているのかもわからないわ。あんたのクローンじゃないといいけど」
「僕のクローン?」シンジは初めてその可能性に気がついたように言った。
「初号機を基本にしているんだから、その可能性はあるわ。七号機みたいに中身が違う。なんてこともありうるわね」
「嫌だな。そんなの」
「わたしも嫌よ。10年経って、わたしたちばかりが損しているように感じる。パイロット不足だかなんだか知らないけどさ」
ミサトが顔を出した。「成功したわ。今は眠ってる」
「こうしてファーストは14歳に戻りましたとさ」わたしは言った。
「今の綾波にもエヴァが操縦できるんだね」
「安心して。意識不明で眠っていた人間に変わってくれなんて言わないわ」わたしが強がって言うと、シンジが無理して合わせて微笑んでくれた。
「アスカ、すまないわね」
「いいのよ。さっきの戦闘を見たでしょ?余裕よ」
わたしは鍵のついた引き出しを開けて、しまってあったVVDを差し出した。「ミサトの宝物でしょ?」
「持ってなさい」ミサトは銃を押し返して腕時計を見た。
「八号機の到着まであと2時間半よ。わたしたちはレイの様子を見ながらスーパーMRIについて調べる。シンジ君、アスカが寂しくないようにしてあげてね」
30分後、わたしはコーナーソファに深く腰をかけ、寝るとも座るともつかない体勢でいた。紅茶を二杯と、ひと齧りだけしたチョコがテーブルに載っていた。紅茶の一杯を空っぽにして、ソーサーの上においた。シンジはまるでミッキーとキティーが駆け落ちする映画を見るように、電源のはいっていないテレビを見ていた。
わたしは出し抜けに言った。
「シンジ、これが終わったら、ファーストと結婚しなさいよ」
「突然なんだよ」
「14歳に戻ったからって、ファーストは24歳までしか生きられないのよ。クローンとして生まれた人間の宿命なんだから」
シンジが肩を落とした。一回り縮んでしまったように見えた。
「10年後に死ぬのが分かって生きることは辛いことよ。あんたにはファースト…綾波レイを綾波レイとして余生を送らせる必要があるわ」
「アスカはどうするの?できれば僕たちと一緒にいてくれると嬉しいよ」
わたしは大きく息を吸い込んだ。
「あんたは女を何だと思ってるの?両手に花が許される歳じゃないのよ。わたしがどこで、なにをしようと私の勝手なのよ」
「そうだけど…」
わざと時間を気にして立ち上がり、ドアへと歩いていった。

 閉所恐怖症なら発狂してしまいそうなエントリープラグの中でじっと待った。外でケーブルが次々に外されていく音と振動がする。洗濯機の水が抜かれるように、ケージから冷却水が排出され始めた。
「八号機はドイツで製造された機体よ。設計ではスペックは全て初号機と同等となってる。偵察衛星画像の分析で液体窒素爆弾を装備しているのが確認されたわ。液体窒素を浴びてはだめよ。エヴァの装甲は熱と衝撃には強いけれど、低温からくる収縮にはからっきしなの」
「了解」
「次は十号機についてよ。わかっていると思うけど、基本は四号機をベースにしてる。戦争で使用されることを目的に開発された関係で、一点よりは広範囲に攻撃を与える武器を多く装備している。今は移動型から攻撃型へと換装してあるから、相当の火力を出せるわ」
「背中にくっついてた煙突みたいなのは?」
「『フレア』よ。炭化タンタルの弾丸を超高温に熱して発射するわ。兵装開発担当の話だと、最高の威力がある武器だそうよ」
「ほかには」
「聞き取りする時間もなかったの」
「ホントに大丈夫なんでしょうね?」
「最新型のエヴァに、バックアップは経験豊かな元ネルフ職員。これ以上に何を望むの?」
「ガンダム20機に孫悟空一家の援護とか」
シゲルが大笑いした。「そりゃいいや」
「いけるわよね?」
「いけるわ。楽勝よ。ランチまでには終わらせる。サングラスの人から明日の出演依頼の電話がかかってくるかもしれないしね」
シゲルがまた笑った。
「その意気よ。八号機が日本領空に入ったわ。あと17分でここに来る」
「ちょっと一人にしてくれない?」
「7分後に声をかける」
通信が途切れて静寂に包まれた。耳鳴りがかすかにする。静寂が身に沁みていくのを感じながら、明日の事を考えた。
一人になる時間を取ったことに後悔を始めたとき、スピーカーから尖った音がした。「レイが話したいそうよ」
「つないでくれていいわ。あと何分?」
「3分よ。つなぐわね。クローズ回線を使うから二人以外は誰も聞けないわ」
ブツリと音がして回線が切り替わった。しかし声がしたのはそれから随分たってからだった。
「惣流さん」彼女は声が若くなっていた。
「調子はどう?」
「悪くない。私、お礼を言わなくてはいけない。あなたに何度も救われてる」
「感謝しなさいよ。アスカ様ありがとうって言いなさい」
「それは言わないけれど、感謝はするわ」
「よしてよ」わたしは急に恥ずかしくなった。
それと、レイは続けた。「それと謝らなければならないわ」
「ああ、いいのよ。あんたは病み上がりでしょ?私が操縦した方が色々と都合がいいのよ」
「違うわ。碇君のことよ」
舌が喉に詰まった心地がした。
「シンジのこと?」
「私と碇君は…」
「何よ」
「何て表現したらいいのか分からないわ」
「じれったいわね。シンジとあんたが何よ」
「あなたのことをなるだけ避けようとしていたわ。思い出さないようにして生活していた。でも、私も碇君もいつも気にしていた」
なんと答えてよいのか分からなかった。手を伸ばして操縦桿を強く握り締めた。
「わたしもそうよ。あんたたちのことは思い出さないようにしていたのよ」
「お話中のところ、悪いわね。予定より1分早まったわ」
「分かった。さあ、ファースト。お話はここまでよ」
「ええ、私はもう碇君と生活するつもりはないわ」
「ちょっと、どういうことよ」
「アスカ。気持ちは分かるけど、後にして」
「戻ったら、詳しく聞くからね」
レイはすでに回線を切っていた。

 カタパルト室は相変わらずひっそりしていた。先ほどシンジがいた場所にはウェインとその部下がいて、スライド移動する発射台の動きを眺めていた。ウェインの顔は紅潮していた。
七号機にやられた傷は回復しておらず、シンクロが始まると傷を受けた左胸から腰にかけてがずきずきと痛んだ。
「以上よ。最後にこれだけは覚えておいて。八号機を初号機と同じに思っては駄目よ」
「パイロットのことは?何かわかったの?」
「今のところ、分からないわ。スーパーMRIについて調査しているけど…誰が操縦してるのか分からないってのは嫌なものね」
「誰が乗っていたって敵は敵よ。大丈夫。まかせて」
「頼むわね。始めましょう。十号機を地上へ」
「蒸気圧を開放します。圧力制御棒の排出準備完了」
「十号機、射出」
「圧力開放」
十号機は途中、一度だけ大きく左に曲がって地上に送られた。