獣は囁く

第32章

 実際のところ、わたしとシンジは戦闘の中では何の役にもたたなかった。それは完全な戦争で、銃を撃った経験やエヴァの操縦経験が活きる要素など少しも無かった。
わたしたちはNIHISの面々と一緒に富士樹海の中を進んでいた。いたるところで爆発と銃声が起きていた。エリカとマヤを運んでいるため、最後部を進んでいたが、それでもすぐ近くの樹木に弾丸が当たるのも1度や2度ではなかった。
エリカは意識を回復していたが、まだうつろな状態で、自力で動けるまでではなかった。マヤは逃げ出そうと思えば実現できる状況にいたが、そうしたところで、この森を抜ける前に誰かに狙撃されるだけであることをよく知っていた。
「シールズがネルフの入り口に到着した」
ウェインが木に背中を押し付けて言った。「ここで待機だ」わたしとシンジは朦朧としているエリカを地面に下ろした。その額に口づけし、シンジを見た。
「マヤはここにつないでおくのよ」
マヤは鎖骨に添え木を当てられ、包帯で右手を吊っていた。左手に手錠をはめ、綱でつながれている。シンジがその綱を木に結びつけた。
「マヤさん。大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ありがとう」
マヤは無表情に答えた。わたしはシンジを残して離れたところにいるウェインのところへと向かった。
木々の幹が空を覆って巨大な屋根を作っていた。そこを抜けてくる月明かりはわずかだったが、不思議と暗くは無かった。森は朝への準備を始め、薄い霧が漂い始めていた。
ウェインは地上に飛び出した木の根に腰を下ろし、部下と共に無線機を操作していた。そうしながらも周囲への注意は怠っていなかった。
わたしが近づいていくと、ウェインは親しげな笑みを浮かべて手招きした。
「彼らが突入するまで我々はここで待機だ。十号機が確保でき次第、突入する」
「それで、わたしたちは何をすればいいの?」
「十号機をダミープラグで起動させて、七号機と対決させる」
「破壊されるのは覚悟の上ってことね」
「碇ゲンドウに奪われるよりはいい。十号機は日米の軍事技術と環太平洋連合の資金が注ぎ込まれてる。旧型の七号機と八号機とは比べ物にならない性能を有している。あれに人が乗れば手がつけられないだろう。問題はわたしたちだけでエヴァを起動できるかどうかなんだ。ここにいる者の中にも、九号機の管理に関わっていたものがいるが十分とはいえない。何より日本語がわからないんだ」
「ミサトとシゲルが必要なのね」
「そうだ、それにもう一人、元職員がいる」
「マヤは手伝ってくれないわ」
「頭に銃を突きつけてでも手伝わせる。葛城ミサトと青葉シゲルはどこにいるんだ?連絡を取ったんだろう?」
「わからないわ。最後にミサトと話したのはシンジなの」
「彼を呼んでくれ」
わたしが行くと、シンジは折り重なった梢の隙間に見える月を見上げていた。わたしは離れたところから彼を呼んだ。シンジは近寄ってきて張り出した根の上に立った。
わたしはその場にいて、後姿が霧でぼんやりとしていくのを見守っていた。ミサトは七号機のパイロットにファーストの精神を移すつもりだと言っていた。そうなったら、シンジはファーストのところに戻るのだろうか。
「二番手の女ってのはこれ以上ない惨めだわ」
わたしは独り言をしてシンジが見ていた月を見上げた。
ゴンという鈍い音がした。硬いものがぶつかったような音だった。視線をそちらに向けた。霧の奥に人影が見えた。その影は地面に膝を付き、左手を振り上げていた。
全身が悪寒で震え、胃袋がひっくり返った。「誰か来て!」わたしは叫び声を上げて走り出した。人影が手を振り落とした。再び鈍い音がする。
わたしはマヤに飛び掛って突き倒した。地面に倒れたマヤの腕を押さえつける。その手から血だらけの石が転がり落ちた。
「このクソったれ!エリカはあんたを助けたのに!」
わたしは思いっきりマヤを殴った。その一撃でマヤは抵抗を止めた。
「使徒はこの世にいてはいけないのよ」
憎悪に燃えた目でわたしを見た。鼻腔から血がでて頬を伝っていく。
「リツコがそう言ったの?」
激しく言うと、マヤは黙った。その無言が全てを肯定していた。「あんたはリツコに利用されてんのよ。どうしてそんなにエリカを…」
わたしははっとしてマヤを離して、エリカのところに駆け寄った。
エリカはわたしが下ろしたのと同じ体勢で横たわっていた。その顔はわたしの知っている顔とは違っていた。最初の一撃が顔の半分を砕いていた。次の一撃は包帯で巻かれた傷をさらに深刻なものにしていた。
わたしは吐き気をこらえ、地面に膝を付いて身を乗り出した。
エリカは完全に意識を失っていた。脈を取ると、弱い鼓動を感じた。「動くな!」声がひびきわたった。見るとウェインが銃を構えていた。マヤは立ったまま、撃たれるのを望んでいる幽霊のように立っていた。
シンジが来てエリカを見て口を押さえた。
「まだ生きてる。どうすりゃいいの」
「病院に」
「病院たって…」
「ネルフ、ネルフの病院。綾波もそこにいる!」

 最初にネルフに突入したのはNIHISの部隊だった。NIHISは七号機の起動に無くてはならない部隊でもあった。シールズはNIHISの独断行動に全ての作戦を放棄してネルフに突入した。これに驚いた戦略自衛隊が後を追ってネルフに向かい、こちらの事情を知らないSASも突入を開始した。三つ巴の均衡が崩れ、3者は先を争ってネルフ施設内に雪崩れ込んだ。
それにネルフを守っていた防衛隊が加わり、ネルフ内は味方と敵の区別も付かない状況に陥った。
わたしたちは蟻の巣のようなネルフを駆け抜けた。すでに一般人は退去していたが、研究員と職員はエヴァが南鳥島へ移管されることを信じていた。
わたし達はいくつかの通路を抜け、階段を下って地下を目指しながら、お互いに口論していた。わたしは病院を目指すことを望んだが、ウェインはエヴァ格納庫の占拠が先だと言って聞かなかった。
わたしとシンジはウェインと別れた。マヤはNIHISが連れて行った。シンジとわたしはエリカをシートに乗せて病院目指して走った。施設内は脅威度A級の対人襲撃警報が発令されていた。
病院は外の喧騒が嘘のように静かだった。
医師も看護婦も殆んどが残っていた。そのときの私は知るよしもなかったが、彼らは一般人だったが、ICUに入っているファーストの治療のために、残るようにゲンドウから命令されていたのだった。
彼らはエリカをすぐにICUに移した。ICUの扉が閉まると、わたしとシンジは床に座ってお互いを見た。
これ以上、何をすればいいのか分からなかった。わたしたちはICUを見られる場所へと移動した。
「綾波」
拳をガラスにつけてシンジが言った。ベッドの上にファーストが寝ている。操り人形のように全身からチューブが伸びていた。その奥で医師がエリカを治療しているのが見えた。
シンジはガラス越しに何度もファーストの名を呼んだが、ファーストは死者のように横たわったまま、返事を返すことは無かった。
無線機が鳴った。
「ウェインだ。今、十号機格納庫の目前にいる。これからネルフ防衛隊と戦闘に入る。そちらはどうだ?」
「エリカを治療してもらってる。さっきから外が騒がしいわ。ちかくで戦闘が始まってるみたい」
「病院が襲撃されるようなことはないだろう。ヨーロッパの奴らにその分別があればだが」
無線を切ってシンジと一緒にファーストとエリカを見守った。こちらから見る限り、エリカはまだ生きているようだった。使徒に感染しているとはいえ、頭と顔を殴打されて生きていられるのかどうか、エリカ自身も分からないだろう。
すぐにまた無線が鳴った。
「アスカ、葛城ミサトと青葉シゲルの二人が見つかった。二人とも拘置所にいた」
「二人とも助けられたの?」
「シールズが救出したようだ。そのうち話せるだろう」
無線が切れた。わたしたちは再びファーストとエリカを見守るしかなかった。
「アスカ、心配をかけたわね」
「ミサト!良かった」
「事情は聞いたわ。わたしとシゲルは七号機の起動を手伝いに行くから、あなたたちはそこにいて。銃を持っていったのはあなたね」
「悪気は無かったのよ」
「いいわ。アスカが持っていなさい。あの銃は加持君が使っていたのよ」
「加持さんが?」
「ええ、だから、なくしたりしないでね」
「待って、ミサトは5月1日医務記録のこと、知ってるの?」
「何のことだか詳しく話して」一瞬の間ののちミサトが厳しい口調で説明を求め、話しを聞くと短くうなった。
「何度も手入れをしていたのに、気がつかなかった」
「わたしたちはネルフ病院にいるわ。ここからなら、旧ネルフの医務記録が調べられるかもしれない」
「お願い。そうして。わたしたちは十号機の起動にかかる。なにかわかったら連絡するのよ」
「わかったわ。加持さんは何かを知ってたのね」
「ええ、それが彼を殺したんだから。彼は色んなやりかたでわたしたちにメッセージを残したのよ」
電話を切るとすにシンジがわたしの腕をつかんだ。
「医務記録室へ行こう」
「言われなくてもわかってる!」
戦略自衛隊とネルフ防衛隊の負傷者が続々と病院に担ぎ込まれ、戦場病院となりつつあった。血と硝煙と消毒の匂いが交じり合っていた。
わたしたちはトイレに駆け込むと、脱ぐのに厄介な防弾プレートをお互いに脱ぎ捨てた。シンジがどこからかニット帽をもってきた。汗と硝煙で湿っていたがそれをかぶった。
「わたしの髪、黒く染めようかしら」
「きっと似合うよ」シンジは笑って言った。
通路を進んでいくと、男たちが話す声が聞こえた。それによると七号機の到着は2時間後とのことだった。十号機のゲージはアメリカの兵士に占領された。なぜアメリカがそんなことを?いくらか若い声が訊いた。アメリカはこの場になって自分たちでエヴァが欲しくなったんだ。と最初の声が答えた。ネルフの外では戦略自衛隊とSASと増援と合流したシールズがやりあっているらしい。
シンジの手を引いて部屋の前を通り過ぎた。医務記録室の扉があった。開けて中に入ると、制服を着た女が一人、パソコンと向かい合っていた。わたしはすぐにVVDを抜いて彼女に向けた。彼女は悲鳴を飲み込んだ。
「黙っていれば危害は加えないわ。こちらの仕事が終わるまで、部屋の隅でこちらに背を向けていて」
彼女はデスクから立った。積み上げた書類に肘があたり、たくさんの記録が床にまかれた。壁に背をつけて歩いていくと、こちらに背を向けてしゃがんだ。わたしはそれを見届けてパソコンに向かい合った。
操作は複雑で、さっぱり望みのものにたどり着けそうになかった。わたしは女を呼んだ。「10年前の5月1日の記録が見たいの」女はマウスを操作した。手が震えていて、高級品の香水の匂いがした。
医務記録に目を通す。ゴールデンウィークの谷間の平日、ネルフの医務室は静かだった。急患は現れず、医療実験も行われずに午前中が過ぎた。午後、わたしとシンジが特別検診のために医務室に現れた。
「覚えてる?」わたしが訊いた。
「覚えてない」とシンジ。
わたしたちは第七の使徒との戦闘を終えたばかりだった。わたしたちは検診を終えて出て行った。
「これだけ?」
「みたいだね」
「戦闘の後の普段どおりの検診に思えるけど」
シンジが目を閉じて考え込んだ。
「加持さんは『現れない異変はない』って言っていた。『異変は普段との違いに現れる』って」
「5月1日のは特別検診だわ。怪しいわね」
「検診項目を調べよう」
モニターに映し出される一覧を追っていくと、マウスを操作していた手をつかまれた。
「これ、スーパーMRI」
「これは何?」
「綾波もネルフの地下実験室から一般居住区に移る際に受けたんだ。15日と30日の記録も出せますか?」
シンジが言い、職員の女にマウスを譲った。わたしたちが彼女に少しの興味も抱いていないのが伝わったのか、震えはだいぶおさまっていた。
「やっぱりない。スーパーMRIってのが行われたのは1日だけだ」
「MRIって体を輪切りにした状態を撮影するやつよね?」
「それがスーパーになると、どう変わるの?あなた知ってる?」
「知りません」と女はつっかえながら答えた。
シンジは目を閉じてうつむき、何かを考え込んだ。
「9月21日近辺の記録をお願いします」
表示が現れると、シンジはわたしからマウスを奪って食い入るように画面を操作した。
「何を探してるの?」
「トウジ、鈴原トウジの記録。トウジも同じものを受けていたかどうか知りたいんだ」
鈴原トウジは9月11日に一人で検診を受けている。最初で最後の検診だった。
「項目にスーパーMRIはないわ。パイロットで受けたのはわたしたち3人だけよ」
「待って、もう一人。12月10日周辺の情報をお願いします」
画面にわたしが始めてみる顔が現れた。名前は知っていた。
「こいつ、使徒だったんでしょ」
「うん」シンジは力なく答えた。
渚カヲルの検診は頻繁に行われていた。12月23日が最後だった。
「12月24日にカヲル君が弐号機を奪ったんだ」
わたしは無言を返した。
「スーパーMRIは行われてない」
「こいつがわたしの弐号機に乗ったのね」
わたしは渚カヲルのプロフィール欄を表示させた。
「なによ。名前と年齢以外は全部『匿秘」じゃない。15歳…」
「15歳」顔を見合わせて声をそろえた。
「14歳でないとエヴァは操縦できないんじゃなかったの?」
「そうだ…カヲル君は15歳と言ってたよ。最初に会ったときもそう言っていたし、学年もひとつ上だったんだ」
「じゃあ、なんでエヴァが動かせたの?本当は14歳だったか、それとも…使徒だったから?」
「カヲル君はシンクロ率がものすごく高かった。それにエントリープラグの外で弐号機を操っていた」
「それって使徒にはエヴァを操縦する特別な何かがあるってこと?」
「エヴァはもともと、使徒のコピーだから…」
照明が反転し、真っ赤になった。スピーカーに電気が通り、施設内放送が緊急を告げた。
「施設上空に敵接近」
「七号機がきた!」
わたしはシンジの腕をつかむと、全力で駆け出した。

わたしは無線機を固く握り締め、猛然と走っていた。
「ミサト、いろんなことが分かったわ」
「放送を聞いたでしょう?今、とても忙しいわ」
「十号機を射出するのを待って!」
「無理よ。もうカタパルトに乗っている」
「駄目!」
「1分待つわ」
「まず、加持さんが残した5月1日の医務記録こと。わたしとシンジはその日にスーパーMRIってのを受けてる」
「綾波が受けたやつです。ミサトさん」
シンジが横で叫んだ。
「トウジとカヲルってヤツは受けていない。わたしたち3人だけよ」
「わかったわ。それが十号機の射出を待つのとどう関係があるのかを教えて」
「それはわかんないの。待って欲しいのは別の理由なの」
「早く説明して。七号機が地上に下りた」
シンジが無線を奪い取った。「カヲル君は15歳だったんです。14歳じゃなかった」無線を奪い返す。
「使徒にはエヴァのパイロットとしての特別な何かがあるのよ」
「エリカが乗れるってこと?今は意識不明の重症でしょう」
「違う!違う!」わたしは叫んだ。カタパルト室の標識が見えた。
「わたしが乗る!わたしの中にも使徒がいるのよ!」
十号機は壁に背をつけてカタパルトに固定されていた。黒い機体が不機嫌に光っている。螺旋階段を駆け登ると体が悲鳴を上げたが、構っている場合ではなかった。
「エントリープラグを出して!」
ドンと音がして骨のように白いエントリープラグがうなじから飛び出た。カタパルトの壁に当たって半分も見えずに止まる。
「アスカ、急いで。七号機はもう上にいる。そこから高出力レーザーを起動させてるわ。上から直接、狙うつもりよ」
階段からうなじに突き出た装甲板に飛び移り、シンジを見る。「アスカ」
「ちょっくら行ってくる」
「負けないで。必ず戻ってきてよ」
「誰に言ってるの?このアスカ様に言う言葉じゃないわ」
下から手を差し出すと、シンジが握った。堅い手だった。
「好きよ」
そう言うとプラグにぱっくりと開いた口に飛び込んだ。