獣は囁く
第3章
枕元の目覚まし時計がカチリと音を立てた。
手を伸ばして布団の中へ引きずり込み時刻を確かめるとちょうど6時だった。まだ朝が始まったばかりなことにぞっとし、着実に無事でいる時間がすぎていることにほっとした。
携帯電話に手をかけて短縮ボタンを押しかけて思いとどまる。
マンションの前の道が通勤通学の人でごった返すまで我慢するべきだった。
それでも7時半に玄関のドアがガチャガチャと鳴った時は恐怖で身がすくんだ。
ヒカリはまっすぐにベッドまでやってくると、遠慮なく布団を引き剥がした。
「また朝帰りしたのね」
わたしが普段着のまま寝ていたのが気に食わなかったらしく、彼女はため息をついた。
ヒカリの方は出勤前の働く女そのものの格好、会計事務所に真にふさわしい地味めのスーツを着ている。
「朝帰りはしたけど、違うよ」わたしは胎児のように丸まったままで呟いた。
「何が違うのよ?」ヒカリは刺々しい口調で言って、次の言い訳を待ったが、わたしが何も言わないのでそれで初めて異変を感じ取ったようだ。
「何かあったの?」
わたしはゆっくりと起き上がった。布団の中で丸くなっていたせいで、髪が変な方向に曲がっている。
「さらわれた」
親友がふざけているのか、真剣なのか、もしくは頭がおかしくなったのか、ヒカリは判断しかねているようだったが、わたしに抱きつかれると「どういうこと?」と困惑した声で言った。
わたしが落ち着きを取り戻し、まともに喋れるようになったのはそれから30分後のことで、恐怖の名残はさらに激しい頭痛に変わっていた。
なるだけ順序だてて、分かりやすいように説明したかった、しかし時系列はめちゃくちゃで、どの程度、理解してもらえているのか自信がなかった。
ヒカリは癖の相手のことをじっと見つめながら話しを聞き、ネルフとか、拉致とかいうキーワードがでてくると顔を曇らせて何か考え込んでいた。
こちらが話し終えると、ヒカリはわたしの代わりに明日の仕事をキャンセルする電話をしにダイニングへいった。キャンセルの理由に「いまだかつてない生理」と言っているのがわかった。
キッチンから浄水器の水をヤカンに水を注ぐ音が聞こえ、コンロに載せてスイッチをひねる音がした。戻ってくるなり「ともかく、誰かに知らせないと。普通に考えたら警察だけど」と言った。
だめ。わたしは遮った。
「警察沙汰はいや」
「でも。これって重大事件なんじゃないの?」
「それは絶対にだめよ」
ヒカリはソファに座ると数年前に流行った馬と羊を掛け合せたようなキャラクターのクッションを太腿の上に乗せた。
「ネルフって国連機関だったよね?国連に訴えたほうがいいの?」
「分かんない」
「どうしてすぐに私に連絡しなかったの?」
わたしは一瞬、躊躇した。まだあの女たちが近くにいて見張っている想像が頭をよぎる。
「起こしちゃ悪いと思ったから」
「そんな目に遭って、何へんな事を気にしてるのよ」
やかんの水が沸騰するまでの間、ヒカリはぬいぐるみの頭を撫で、わたしはカーテンの隙間から差し込む光が床を移動していくのを見た。
わたしが見つけてきたお気に入りのハーブティーはこの数時間でもつれきった思考の糸をほぐし、頭痛を和らげてくれた。
「その女の人は何がしたかったんだろう」とヒカリが話題を戻した。
「分かんない」
「綾波さんや、碇君に話してみたら?」
「連絡先なんて知らないよ。この10年、会ったこともないし。噂も聞いたことない」
「葛城ミサトさんは?」
「同じ」
「あの二人も同じ目にあってないかな?」
ヒカリは泣き出しそうな顔でソーサーにのっていたスプーンをどかしてカップを置く。
わたしは分からないのと頭痛を追い出すのを兼ねて頭を振った。「頭痛がひどい」
「アスピリンならあるけど、要る?」
うなずくと、コップに水を入れて持ってきてくれた。2錠をまとめて飲み下す。
「やっぱり警察に通報すべきよ」
ヒカリが何度目かの同じ提案をし、わたしは今度は拒否のためだけに首を振った。ヒカリが自分のバッグから携帯を取り出したので、わたしは訊いた。
「どこにかける気?」
「会社よ。今日は休むわ」
ヒカリはそう言ってボタンを操作しはじめた、わたしは身を乗り出してその手から携帯をひったくった。
「大丈夫。もう平気」
「でも」
「今、大事な仕事の最中なんでしょ」
「二人でいればそれだけ安全と思うわ」
「本気で拉致する気なら、とっくにどこかに閉じ込められてるはずよ。開放されたってことは今はその必要がなかった。ってこと」
今は、という自分の言葉で恐怖が戻ってくるのを感じながら、返してやるとヒカリは携帯の縁を指でなぞった。
「心配だわ」
「なるだけ人の目のつく場所にいる」
ヒカリは携帯電話を開いてプッシュした、今度は止めなかった。
同居している妹に今夜は帰りが遅くなると伝えて切り、わたしには「なるだけ早く戻るから」と告げた。
「妹はちゃんと毎日帰ってきてる?」わたしは話題を変えるとヒカリは表情を曇らせた。
「今日は彼氏と遊ぶから戻らないって」
「いよいよ、初体験かな」
わたしはおどけて言った。
「姉が口出しすることでもないよね」
ヒカリは暗い表情のまま呟いて、電話をバッグにしまった。
「わたしが今日した初体験よりはマシだよ」
「帰ってきたら、碇君と綾波さんのことを知っている人がいないか調べようね」
「ええ」
わたしが答えるとヒカリは手首を返して腕時計を気にした。「もう行かないと」
「ありがとう」
わたしはヒカリと一緒に立ち上がり、両手でヒカリの体を引き寄せた。ヒカリの部屋の匂いがした。「すごく助かった」
「一緒にここを出たほうがいいわ」ヒカリはわたしの腰に軽く手を添えて言った。
「この格好じゃ出れないよ。たとえあいつらがまだいたとしても、外は人だらけだから手は出せないよ」わたしはヒカリの体から離れた。
「鍵はしっかりね」
ヒカリは玄関まで行く間に何度か振り返りながら念を押した。
「待って」
「どうしたの?」
「アスピリン、置いてってくれない?」
ヒカリは頷くと部屋に戻ってきてテーブルの上にプラスティックのケースを置いた。
「じゃあ、行くね」
「ありがとう」
ドアの鍵にチェーンを付け足してから部屋に戻った。エントランスセキュリティーのあるマンションへ引っ越す必要性を痛烈に感じた。もっとも、それがあいつらにとってどの程度役立つのか分からなかったが。
ベッドの上でしばらくぼーっとしてからカーテンと窓を開いた。季節は秋へと向かっていて、乾いた風が部屋に入ってきた。地軸は未だに傾いたままで、一年は熱暑の夏のままだったが、それでも暦が冬に向かうと暑さは和らいでいく。
空腹を感じたので残っていたパンで食事を作って食べ、それからシャワーを浴びた。
楽な服に着替えてベッドに座ると爽快感と満腹感が融合して強力な睡魔になった。アスピリンが効いたのか頭痛はほとんど去っている。昨日から30時間以上も起き続けていることを思い出し、大きなあくびが出た。ヒカリとの約束だと、外に、人目の多い場所に出なければいけないのだが、それはかなりだるい約束に思えた。
トイレで用を済ませてから全身鏡の前で止まり、映っている自分の姿を見た。
控えめに言っても美人で、Tシャツに隠れているけれど体型も今のところ自分で理想と思える状態に保たれている。そして髪、他の多くの白人種がそうであるように、わたしの髪は少女時代のブロンドから成長するに従って色が混ざり始めた。
今は赤みの強い髪色、いわゆるストロベリーブロンドの状態で落ち着いており、おそらくこの先、これ以上濃くなることはないだろうと髪質検査の際に言われた。
枕に頭を投げ出すと、これ以上は起きていることが不可能だとわかった。目を閉じると、あっという間に眠りに落ちた。開いたままの窓を閉める暇も無かった。
どうして目が覚めたのか分からなかった。その疑問は5秒後にははっきりとした。トイレに駆け込もうとして間に合わず、ベッドの上に派手にぶちまけた。自分でも関心するぐらいの吐きっぷりだった。
一度吐いてしまえば後は同じで胃が空っぽになるまで吐き、空えずきだけになると苦痛で涙がにじんだ。
トイレに向かおうとしてベッドから転げ落ちた。平衡感覚がまったくなくなっていた。世界かわたしかのどちらかがグルグルと旋回している。
トイレに到着したものの、すでに吐くべきものはなく、便器を離れてリビングに戻った。ベッドは壮絶なことになっていた。ダイニングとリビングを隔てる扉を閉めて引き返し、ラックの上に置いたロールペーパーを千切り取って水道でぬらして手や顔を拭いた。
イケアで買ったサービングテーブルから取り出したビニール袋の結び目を解いて持ち、同じくイケアで買った椅子に座った。そうしてラウンドのインターバル中のボクサーのようにがっくりと肩を落とした。
鼻腔の奥に嘔吐物が止まって異物感と匂いが離れなかった。手に持ったビニール袋がカサカサと音を立てている。その間も世界は回り続けた。視界がぼやけ、涙がにじんで来たのだと分かったが、すすって鼻に詰まった物を飲み下してしまうのが嫌で流れるままにしておいた。
ひどい非日常的な体験によるショック症状は時間を置いてやってくる。という話しをどこかで聞いたことがある。殺人を目撃したり、交通事故にあったりした人間が一息ついた頃、たいていは仮眠をとる直前か最中に突然、吐いてしまう。
うなだれて肩を落とした体勢のまま、早朝の出来事がわたしにとってどれだけショッキングだったのかを考えた。目を開いていたが、浮遊感、コーヒーカップに載っているような感覚は収まっていない。
ヤワになっちゃったわね。わたしは自分に言った。ショッキングなことだったら、もうゴマンと体験してきた。キティーがミッキーマウスを殺しているのに出くわしたって平気だと、それくらい肝が据わっていると思っていた。
今さっきまでは。
視界に灰色の霧がせり出してきて、視界が狭まってきた。全てがガクガクと揺れている。
救急車を呼ぶ必要がありそうだった。プールの飛び込み台から飛び込むような気持ちで電話に向かって進もうとした。足が宙を踏み、正確にはそんな感触しかしなかった。わたしは寄木細工を真似たダイニングの床にうつぶせに倒れた。
鼓動が早鐘のように脈打っており、息が不規則になっているのが分かった。
死ぬんだろうか。わたしは床材の継ぎ目の溝を見ながら思った。
死んだらママに会うんだろうか。会いたくなかった。
わたしはママが一番嫌っていた『デキの悪い子』そのものだから。
バッグが床とぶつかる音が遠くで聞こえ、次に押し殺した叫び声がもっと近いところで聞こえた。抱き起こされていると分かったが、まだ目がうまく開かなかった。ヒカリはわたしの名前を呼び続けている。
ヒカリはわたしの体中を探って傷がないことを確かめると、耳をわたしの口元に寄せた。
小さなうめき声を発してやると「良かった生きてる」と言ってわたしを仰向けに寝かそうとした。
わたしは手を突いて体を支えてそれに抗い、意識が鮮明さを取り戻してくるのを確かめながら「大丈夫」と言った。それで電話に向かっていたヒカリが立ち止まった。
「死んでるのかと思った」
ヒカリはゴミ袋にシーツを放り込んで口を何重にも縛った。換気扇の下で袋を絞り、閉じ込めた空気を外へ逃がした。
ヒカリは部屋にやってきて部屋に充満している匂いに気を取られ、さらにテーブルに隠されていたせいで、床に倒れていたわたしを踏みつけるところだったと言い、背伸びしてクローゼットの棚から折りたたまれたシーツを取り出した。
「起きたら、もう手遅れだったの」わたしはオネショをした子供みたいに言った。
「だいぶ苦しかったみたいだね」
「あんな風に吐くと思わなかったんだ。二日酔いとか食中毒みたいだったよ」
「もう大丈夫なの?」
「平気。吐いたのが夢だったら良かったのに」
わたしはシンクで水道の蛇口をひねり、まずは顔を洗ってから床を拭くために雑巾を探した。雑巾はシンクの下で凍ったみたいに固まっていた。
「アスカには安全に休める場所が必要なのよ。しばらくウィークリーマンションとかに移ったらどう?」
ヒカリは新しいシーツでベッドにできた嫌な染みをシーツで覆い隠した。裾をきっちりとマットレスと台の間にたくし入れる。
「そうする。でも長いことはムリだよ」
「引越しの良いタイミングなんじゃない?前に部屋を見に行っていたでしょ?三宿とか下北沢とか。少なくともここは出るべきよ。なるだけ早く」
それもいいかもね。わたしは気の抜けた返事をした。彼女に言うことに乗り気でなかったわけではなく、この状態、またいつ拉致に遭遇するか分からない状況がどれくらい続くのか見当もつかなかったからだ。
「ヒカリの足が遠のくかもしれないのが一番の問題」わたしが言うと、ヒカリはメイクし終えたばかりのベッドに座った。中のスプリングが軋む音がする。
「それは無いと思うけど、これからは掃除と料理は有料にしようかと思う」
わたしは精一杯の渋い顔を作り、わざわざ彼女の前まで歩いていって見せた。ヒカリは噴き出した。
「私は無料メイドじゃないんだからね」笑いながら言った。わたしは床を拭き終えた雑巾を水で流して絞った。
「このままじゃアスカが心配でお嫁にいけないわ。私」
「わたしと結婚したらいいよ」
「人生の選択肢の一番最後に加えておくね」
さてと、とヒカリは呟いて立ち上がった。
「一度部屋に戻るわ」
「どうして?」
玄関に向かっていくヒカリに問いかけると、彼女はドアに手をあてて、もう片方の手で履いた靴のつま先で床をトントンと叩いた。
「中学校の住所録を持ってくる」
ステレオから流れるインキュバスの曲が7曲ほど進んだところでドアがノックされた。わたしは覗き穴からそこにいるのがヒカリだと確かめてから鍵を外し、両手にビニール袋を持っている彼女のために扉を押し開けてあげた。
わたしたちはキッチンに並んで料理を作り、それを食べ終えると、皿を脇にどけてから『第三新東京市立第一中学校』と印刷された黄色い表紙の住所録を開いた。
「全員と連絡を取ってるの?」
わたしは同級生たちの名前がリストになったページを指差した。
「今も連絡がつく人とはね」
出席番号にバツ印がついている名前が幾つかあった。それは全体の3分の1ぐらいはあった。わたしは無意識のうちに鈴原トウジの名前を探していた。バツはついていなかった。
つけるまでも無いのかもしれない。彼は10年前にわたしたちが演じていた茶番劇の最大の被害者で、その名前を思い出すだけで、わたしは良心をハンマーで叩き潰されたように感じる。
「わたしが電話するよ」
子機を持ったわたしをヒカリが制した。「あなたがいきなり電話したりしたら、みんな驚いて思い出せる物も思い出せなくなるでしょ。一度も連絡してないのに」
わたしはヒカリの考えに賛同することにして子機を彼女に託し、代わりにリモコンでテレビの電源を入れ、すぐに消音ボタンで音を消した。
ヒカリが順番に電話していくのに耳を傾けながら、音の無いニュースの映像を見るともなしに見ていた。
碇シンジと綾波レイ、この名前を聞くたびに気が重くなっていく自分がわかった。
途中、ヒカリは一度だけわたしに話しかけた。
「次はケンスケにかけてみる。可能性としてはアイツが一番高いと思う」
「だれだっけ?」わたしは理由もなくとぼけた。自分を嫌な女だと思った。
「忘れたフリをするのは良くないよ」ヒカリは悲しそうな顔をした。
「ごめん、謝る。わたしは嫌なヤツだね」
自己嫌悪を感じながら謝るとヒカリは軽く頷いて電話をかけた。しばらくして電話を置き、首を振った。
ケンスケを含む連絡がつかなかった何人かを除いて、収穫はゼロだった。
「二人はどこにいるんだろ」とヒカリ。
わたしはテレビの音を復活させて、ソファの上で組んでいた足を伸ばして血の巡りを良くした。毛の一本もない足は蛍光灯の下で見るとまるで陶器のようだ。
「日本にはいないのかもね」
「どういう意味?」ヒカリが問いかける。
「深い意味はないよ。ただ何となく言っただけ」
ヒカリは長時間、受話器を押し当てていた耳を気にしながら息をついた。「もう遅いから続きは明日にする」
わたしは頷いた。わたしまでぐったりと疲れている。
「二人が見つかるといいね」
「わたしと同じ体験をしてなきゃいいけど。でもシンジはむっつりスケベだから喜ぶね」
わたしの冗談はちっとも面白くなかったらしく、ヒカリはくすりともせずに他のクラスのページをめくっている。
「今日はここに泊まろうか?」顔を上げて、用意していた言葉を突然思いついたように言った。
「一人で大丈夫よ。もう吐いたりしないと思うから」わたしも準備済みの言葉を返した。
「でも」
ヒカリはそれで黙った。会社からの帰宅途中に寄ったのでスーツのままだ。化粧が崩れて下からあばたが透けてきている。
「不安なら私、仕事を休むよ」
「そんなに心配してくれなくても大丈夫よ」
「心配なのよ」
ヒカリは心配そうにこちらを見つめていた。その顔を見ると、疲れきっていて、感謝とともに罪悪感が湧き出してくる。
「本当に平気。シャワーを浴びたらあとは寝るだけだから」
「シャワーが終わるまでいるわ」
「いいって、大丈夫。お願いだから」
ヒカリは迷いながら時計を見た。すでに12時を回っていた。
ヒカリを送り出し、新しいお茶を淹れようかと思ったがやめて、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出してキャップをねじりながらベッドに座った。
ベッドは皺一つない理想的な仕上がりだった。
テレビのスイッチを切り、ステレオのスイッチを入れて、流れ出したインキュバスの続きを聴きながらベッドに倒れた。
頭の中が冷え切っていた。わたしはあまり考えないようにしていた、あの拉致事件に分析を試みることにした。
わたしを拉致した女の意味不明の行動はどの角度から分析しても不明のままだ。分かっているのは女がネルフと何らかの関係があり、わたしを拉致する必要があったということだった。
女の目的を探し、最もシンプルで短絡的な答えにたどり着き、わたしはちっともおかしくない笑いを浮かべた
わたしとキスしたかった?
馬鹿げてる。
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