獣は囁く

第29章

 床に毛布を広げた上にシンジがエリカをそっと下ろした。すぐにジャンプスーツを脱がしにかかる。血を吸い、絞れるほど重くなっていた。
ホルスターのストラップを鋏で切って引き剥がす。革袋から見える銃尾の血はすでに乾いていた。肩と足に弾痕があり、頭部は殴られて骨が折れていた。
「何とかしないと」
呼びかけてもエリカはピクリとも反応しない。わたしは布切れで弾痕のある右足の付け根を強く縛りつつ言った。
「ミサトに連絡して!」
シンジは受話器を耳に押し当てて、ダイヤルを途中で止めた。
「何も音がしない」
ロシア兵が最初にここを襲ったとき、彼らは電話線を切っていたのを思い出す。
「公衆電話、早く。マンションを出て左にまっすぐ」
シンジが飛び出していったかと思うとすぐにもどってきた。「マヤさんは」
「ほっときゃいいのよ!」
口に耳を近づけると、控えめな呼吸音がした。腹部の弾痕は臍から左下4センチのところにあった。腹部の弾痕はゆっくりと死に向かう最悪の傷だ。
シンジが駆け戻って来た。「連絡した。救急車も呼んだよ」
「マヤを部屋に入れて」
マヤは意識を回復しかけていて、部屋にはいるともぞもぞと体を動かした。
「玄関に鍵を、それに銃。誰かきたら撃つのよ」
わたしは腹部の傷を手で圧迫しながら言った。シンジは言われたとおりにやってくれた。
「頭の傷はどうしたらいいか知ってる?」
「僕に聞いても分からないよ」
「119番して聞いてきて」
「わかった」
シンジが再び部屋を出て行った。エリカの顔が蝋のように白くなり始めている。
「ちくしょう、エリカ、あんた使徒がいると回復力が高いって言ってたじゃない。しっかりしてよ」
部屋の隅でマヤがうめきをあげた。わたしは傷から手を離した。
べたつく手で銃を持ち、マヤの頭に突きつけた。
「さっさと起きなさい。起きなさいよ!」
マヤがゆっくりと目を開いた。目は空間をさまよい、わたしの存在をみつけて止まった。
「アスカ…どうして」
「エリカを何とかして、応急処置のやり方を教えるのよ」
マヤは首を動かして意識を失っているエリカを見つけた。
「あの人…使徒。使徒に寄生されてるんです」
「知ってるよ!それは今はどうでもいい」
「なに言ってるんですか…使徒がまだ残っていたなんて、こんな大変なこと…」
「これが見えないの?」
頭を圧迫しているものが何か理解したマヤの顔が恐怖に歪む。
「頭の傷?」
「鈍器で殴られたみたい」
「意識は?」「ない」「呼吸は?」「ある」
「なら、口の中を見て下さい。舌か嘔吐物が気道を塞いでいないか確かめて」
エリカの口に指を突っ込んで開いた。指についた血が歯に移った。奥を覗き込んで何も喉をふさいでないのを確認する。
「何も塞いでない」
「アスカ、本当にその人は使徒に…」
「黙って。次は?」
「次は…」
扉が開いた。
「シンジ遅い!てつだ…」衝撃で頭がくらくらした。
シンジは両手を挙げてすまなさそうにわたしを見た。その背後には白髪に近い男が立っていた。シンジで隠れているが、肩から連射銃を吊っているに違いなかった。
白髪の男は後ろから語りかけた。「ミス・ソウリュウだな。そこには他に誰がいる」
「女が二人よ」
「一人はエリカか」
「そうよ」
「もう一人は?」
「伊吹マヤです」マヤは自分で答えた。
「二人とも手を頭の後ろで組んでこっちに来い」
「マヤのほうは手足を縛ってあるわ」
白髪交じりの男はシンジの背後から顔を出して確認した。「よし、アスカ、君だけでいい。こっちへ」
「エリカは死にかけてる」
「こっちへ来るんだ」
言われたとおりにして部屋を出ると、何人も武装した人間がいた。彼らの着ている物が目にはいった。薄墨色の丈夫そうなジャンバーで。胸と肩にNIHISと刺繍されていた。
「アスカ君、中には他に誰もいないか?ヨーロッパの連中は」
「いない」
「よし」
白髪交じりの後ろにいた男たちが警戒しながら素早く中に入っていった。
「あんたたち、NIHISなの?」
「そうだ。わたしはウェインだ。府中基地で話しをしたが、記憶にないか?」
「覚えてる」
「こちらはシンジ・イカリかな」
「そうよ」
ウェインはシンジの背中から銃を外した。シンジがほっと息をついた。
「エリカが重症なの」
二人が毛布の両端を持ってエリカを運んできた。一人は肩にマヤを担いでいる。
「ここは危ない」
ウェインは通路に残った血痕を見ながら言った。
「近くで治療が行えるような場所はないか?わたしたちは日本に来たばかりだ」
少し考えた。一箇所だけ思いついたが気は乗らなかった。

 呼び鈴を押したが反応はなかった。NIHISの隊員が見たことのある装置を鍵穴に差し込み、シリンダーごと引き抜いた。全て流れるような手際のよさだった。
妹はいなかった。部屋は白とピンクで品よく統一され、整理整頓が行き届いていて、ヒカリの匂いがした。そこに銃を構えた男たちが突入し、負傷して血だらけの女を運び込んだ。チューリップ畑に戦車がやってきたみたいだった。
テーブルの上に姉への書置きをみつけた。

 お姉ちゃんへ
 そっちもしばらく帰ってきてない?
 これからカレシのところに行ってきます。
 たぶんお金は大丈夫だけど、無くなったら借りにきます。
 なるだけ連絡はしないでね。こちらもしないから。お姉ちゃんも楽しんでね。

 胸が張り裂けそうになった。と同時に妹を殴り飛ばしてやりたかった。へたり込みたくなるのを押さえ込みながら、受話器を取り、番号を押した。ミサトはすぐに出た。
「だれ?」
「わたしよ」
「ああ、アスカ、助かったわ。そっちはどうなの?」
「NIHISの人たちが保護してくれてる。エリカの治療もしてくれそう。危険だそうだから、わたしの部屋には行かないで」
「分かったわ。でも実際のところ、行けそうにないのよ。こっちは大変なことになってるわ」
「どうしたの?」
「ヨーロッパと日米韓の空軍がシベリアで史上最大のドッグファイトをしたの。ヨーロッパの空軍はエヴァを守り通したわ」
「じゃあ、つまり…」
「七号機が日本に来る」
「エヴァの移管は?」
「ムリ、時間が無さ過ぎる。碇司令は覚悟を決めたわ。私とシゲルにも手伝うように要請が来た」
「手伝う気なの?」
「そのつもりよ」
「止めた方がいい。ダミープラグで勝てっこないよ」
「厳しいでしょうね。でも逃げるわけにはいかないわ。これは私にとっての最後の賭けなのよ」
「何をたくらんでるの」
「やってくる七号機は零号機と同じ形状と能力を持っている。操縦しているのは私がしとめ損ねたクローンよ」
「そのクローンにファーストの精神を移すつもり?無理よ、だいいち、十号機が勝てるかも分からないのに、どうやってエヴァからパイロットを引き出すのよ」
「わからない。でもやるしかないわ。私が碇司令を手伝うのもそのためなんだからね」
「利用されるだけよ」
「切るわ」
受話器を置いて戻ると、NIHISの隊員たちがエリカの治療に取り掛かっていた。
「大丈夫なの?」
腕組みをして見下ろしていたウェインはソファに腰掛けると、胸ポケットからナッツを取り出して口に放り込んだ。
「芳しくない。頭部の傷も銃創も良くない。脳内出血を引き起こしている可能性がある」
「じゃあ、病院に」
ウェインはピーナッツの薄皮を床に落とし、ブーツの裏で粉々にした。
「大丈夫さ」ウェインは言ってわたしの顔を見つめた。「こいつはプラナリアだからな」
明らかな嘲りの声に、恐怖が混じっていた。「どういうことか分かるか?」
彼はエリカにとってあまり良い上司ではないのだろうと思いつつ、答えた。
「死なないってことでしょ」
「いや死ぬよ。死ぬときは死ぬだろう。ただ、しぶといんだ」
わたしは居間へ行って、卓上箒とちりとりを持って帰ってきた。シンジが壁に寄り添って立っている。
「以前、ヨーロッパの連中に捕まったことがある。われわれが発見したとき、拷問で手足を切断されていたんだ。それでも死ななかった」
「切られた手足がくっついたの?」
わたしはウェインを押しのけてしゃがみ、粉になった薄皮をかき集める。シンジはつま先を見つめて無表情でこちらの話に聞き入っている。
「腱や神経も元通りにくっつくなんてすごいわね」
「いや、違うさ」ウェインはかすかな声で言って、唇を曲げた。わたしは薄皮を入れたちりとりを手にしたまま次の言葉を待った。
「くっつきなんてしやしなかった。生えてきたのさ。新しい手足が生えてきたんだ」
「生えてきた?」
「エリカの生命力はゴキブリとゾンビが可愛く思えるぐらいだ。だから、今回も死なないさ。ただ待っていれば目を覚ます」
わたしは頭に包帯を巻かれて眠っているエリカを見た。何度か見たときと同じく、安らかな寝顔だった。
「やっぱり」伊吹マヤが部屋の隅から言った。「その人は絶対に異常です。使徒と融合した人間なんて…気味が悪い」
「だまんなさいよ」わたしはちりとりをシンジに渡してマヤに近づいていった。彼女は自分にやましいところなどひとつも無いという顔でこちらを見上げた。
「マヤ、あなたどこで捕まったの?」
マヤは答えなかった。わたしは質問する人間を変えた。
「分からん。エリカは何も報告をせずに行動していた」
「言いなさい。赤木リツコのところにいたんでしょう?あの女は日本にいるの?」
マヤは顔を背けた。「言いません」
ウェインが咳払いし、白髪混じりの頭をなで、意味ありげな手のしぐさをした。こんなことはお手の物だ。俺に任せろという意味だった。マヤが敢然と言った。
「何をされても、私、何も喋りません」
マヤが英語で言った。彼女が英語を話せることをこのとき初めて知った。
「口を割るヤツは必ずそう言うものだよ」
ウェインはそう言って歯を見せた。キッチンへ行き、シンクの下を開けて包丁を取ると、刃に親指をあてた。そうしてマヤの鎖骨のあたりを峰で何度か叩いた。滞りのない動作で、彼が何度も同じ事をしたことがあると分かった。
「まずは鎖骨を折る。次は指の間の皮膚を切る。その頃には話す気になって欲しいものだ」
シンジが近づいてきて耳打ちした「アスカ、こんなこと」
「かまうもんか。あいつのせいでヒカリは死んだのよ」
ウェインのソーセージのような指がマヤの鎖骨の上を張って止まった。「ここは軽く打つだけで折れるんだ」マヤがかたく目を閉じた。
「どこに隠れていた?何を知っている?」
マヤが眉間にしわを寄せた。ウェインは一度、裏返した包丁をゆっくりと包丁を持ち上げた。「折るぞ」
「アスカ」シンジが言った。止めたいなら自分で止めろと思った。
「ウェイン、待って」
わたしが言うと、ウェインは包丁を持ち上げたままこちらを向いた。
「なんだ」
「止めて。拷問は好みじゃない」
「この女が口を割ってもらわないと困ることになる。この女は赤木リツコのところか、または連絡が取れる場所にいたに違いない」
「七号機はこっちに向かっているわ。リツコの居場所が分かったところで、もう手遅れよ」
わたしから目を外して、マヤを見下ろしたウェインは、軽く首を振った。
包丁が振り下ろされ、骨が折れる音がし、マヤがうめいた。
「それは私たちにはどうでもいいことだ」
ウェインは包丁を捨てて立ち上がった。マヤがみをもだえ、目から涙が伝った。
「エヴァは再び作れば良い」
部下の一人が差し出した手に銃を握らせた。その弾丸を全て抜くと、一発だけを装填して手ではじき、リボルバーを回転させた。そしてマヤの足に狙いをつける。
「パイロットの問題だけはどうしようもない。赤木リツコはこの問題を解決する方法を知っている。七号機には綾波レイの最後のクローンが乗っている。八号機には誰が乗っているんだ?」
「ネルフに入るには拷問に耐えられる資質も問われたわ。口なんて…」
わたしは口を閉じた。彼の部下の構えた銃がこちらを向いていた。「すまないな。私達は君達を仲間だと思っている。こちらの邪魔をしない限りは撃つことはしない」
わたしは素早くマヤの方を向いた「マヤ、こいつらは本気よ。撃たれてしまうわ」
「嫌です」
ウェインはたっぷり待ってから2度、連続して引き金を引いた。弾は出なかった。
「次は出るかもしれない。言え、ラドゥエリエル計画とは何だ?」
さっきよりも短い時間を待ち、ハンマーが空っぽの薬室を叩く。
「運がいいな。足を撃たれたぐらいじゃ死なないから、どんどんいこう」
「マヤ!言いなさい。助かっても足を引きずることになる」
縮めた体の力を抜いて、マヤはゆっくりと目を開いた。涙が床で小さな水溜りになっている。
「言いません」
「あんた・・・」
「なら続行だ。次は50%で発射するぞ」
進み出ると、部下たちの銃はぴったりと追ってきた。わたしを仲間だと思っている。その言葉が本当だと願いながら、上から銃を押さえた。
「だめよ。わたしが何とかする」
「こういうのは君の専門じゃないだろう?下がっていろ」
「もっといいアイデアがあるわ」
「なんだ?」
両手でつかみかかり、すんでのところでウェインの背中に回って、体を盾にした。ウェインの手から銃を奪い取る。銃を突きつけられていると勘違いしているのか、彼はあっけなく銃を手放した。
「動いたら撃つわ」
「ばかなことをする」彼は嘲るように笑った。部下に目配せすると、こちらに抵抗した。
警告を与える前に力づくで束縛から逃れたウェインが腕をこちらに伸ばしてきた。
引き金を引く、弾は出なかった。肩をつかまれる。
血を浴びることを覚悟して最後の引き金を引く。轟音がした。次の瞬間には平衡感覚をいっぺんに失い、床に倒れていた。
「空砲だ」わたしを押さえつけてウェインが言った。「邪魔はするなと言っただろう。大人しくしているのと死ぬののどちらがいいと言われたなら、選択の余地は無いと思うぞ。君は自分で思っているほど、大切にされているわけでも貴重なわけでもない。ただ、元パイロットで、傷をつけるには惜しい顔をしているというだけだ」
無意識にシンジを見た。銃を突きつけられていたが、倒れていないだけ私よりもマシだった。そして見たことのない真面目な顔をしていた。
シンジが無謀な賭けに出て、銃を向けている部下に飛び掛ろうとした。あまりに無謀すぎて全てが止まって見えた。
部下が引き金にかけた指に力を込めるのが見える。
「シンジ!」
その名を叫ぶと、あの高音が始まった。音は聞こえる帯域から聞こえなくなるまで一気に上昇した。振り返ると、空気が凝縮し、屈折する空間から今まさにATフィールドが生まれるところだった。
空間に亀裂が走り、その先に別の世界が垣間見えた。そこから舌を出すようにATフィールが広がっていく。
わたしの目の前でATフィールドは二つに割れて、縦にねじれながら背後で再び合流して部下の手首を横切った。壁に斧でつけたような傷が走り、部下の手は銃を握ったままあっけなく重力に従って落ちる。
「バカなことすんじゃないよ」
エリカは顔をこちらに向けて言った。
「ウェイン、この2人に手を出したら、あんたを殺すよ。ヒースの手首を拾ってやりなよ。自分のをしごくぐらいにしか使えない手だけど、ないよりマシだよ」
「起きたのか」
「起こされたのさ。銃声に起こされるのは最高に気持ちがいいね」
ウェインは落ちている手首を乱暴に拾い、部下に押し付けた。「どこに行っていた」
エリカは胸を動かして苦しそうに息をしながら笑った。
「富士樹海、ネルフ。本当に笑える話しじゃないか」
「ネルフ!?どういうことなのよ!」
「ウェイン、NIHISにSEALs先遣隊、駐在大使のガードマン、銃を扱える人間を全て集めてネルフに向かわせて。七号機が来る前に十号機を確保しないと大変なことになるわ」
ウェインは事態を推し量っていた。
「報告しろ」「緊急なんだ。一秒も無駄にできない」「上を動かすには材料が必要だ」「了解が取れないんなら、NIHISだけででも…」
エリカはもどかしげに息を吸った。両目の焦点がずれて左右の目が思い勝手にものを見ていた。本人もそれに気がついて目を閉じ、軽く眉間に皺を寄せた。開くと焦点は戻っていた。
「わたしたちはみんな、十号機を破壊しに来るんだと思いこんでる」
「違うのか」
「あいつらはパイロットを作る方法を知っている。こちらはそれがない」
ウェインは頭を振った。そして突然、その動きを止めて目を輝かした。
「十号機を奪うつもりか」
それなら、シンジが口を挟んだ。しかし英語が出てこずにもじもじした。わたしが代弁してやった。
「それでなぜ、わたしたちがネルフを襲う必要があるのよ?」
「十号機を破壊するつもりなのは、ヨーロッパの連中も同じなのさ」
場が静まり、全員が同じ事を考え、同じ結論に達していった。
「父さんが…父さんが企んでいるんだ」
「息子がいる前だけど、クソを食わせてやりたいね」
まるで自分のことを言われているようにシンジは身を小さくした。
「あんたの親父は今のネルフに満足できていないらしい。また自分の思い通りになるネルフにしたいんだ。赤木リツコもその仲間だ」
マヤは蚊が飛ぶ音で泣いている。エリカはもたげていた頭をゆっくりと床におろした。
「赤木リツコはヨーロッパ。ゲンドウは環太平洋連合に。それぞれが自由にエヴァを動かせる立場にある。二人は新しいネルフを作ろうとしてる。エヴァが3体あれば世界の軍事力の半分は手にいれたことになる。今のところはすべてがゲンドウの描いたシナリオどおり。まだ十分じゃない?」
「日本政府に援助を請おう」
「だめだよ。すでに日本政府には手を回している。ゲンドウがネルフの主席の手前、裏切っているのを確認してからでないと動けないよ。ゲンドウはちゃんとそれも見越しているんだ。アメリカだけでやるしかない」
「言っている意味が分かっているんだろうな?誤報だったら最悪なことになるぞ」ウェインは胸に付いた無線を外しながら念を押した。
「大丈夫さ」いいながら、目の焦点がまた合っていなかった。エリカはだるそうに目を閉じた。「まだ起きるには早かったみたい」
「傷は平気なの?」
「大丈夫。死にはしないよ」
「ヒカリが殺されたの」
こちらを見ようとして頭を傾けたが、途中で止まった。
「パンチの出し方をしっかりと教えてやるべきだった」
「SASの連中に殺されたのよ。かたきを取りたい」
「アスカがそうしたいのなら、いくらでも手伝ってやるよ。でも今は私の方を手伝って」
ウェインが早口で無線機にがなり始める。エリカは眠りに落ちながら、うわごとのように言った。
「そこの伊吹マヤはヨーロッパ連中が『ラドゥエリエル計画』と呼んでいるパイロット製造方法について何か知っている」
「聞き出してみせるわ」
「頼むよ。動けるようになるにはまだ時間がかかりそうだ」
エリカは意識を失った。遠くで小さな破裂音がした。NIHISの面々が一気に緊張した。
わたしの部屋に仕掛けた指向性手榴弾の音で、部屋が襲撃されているのだと部下の一人が言った。わたしの部屋がさらに破壊されたことについての言及はなかった。
ヒカリのアパートの前に停まっていた不幸な車が2台、鍵を外されて思わぬ深夜労働に借り出される事になった。わたしとシンジはエリカを後部座席に運び、毛布をかけてやった。口を塞がれたマヤをシートの下に押し込んで、荷台へ乗り込んだ。
車が発進し、乱れた部屋と今日を置き去りにしようとした。荷台は狭く、体の大半をシンジくっつけなければならなかった。シンジが腕時計のボタンを押した。黄色っぽい光りが顔を照らした。酒はほとんど抜けていたが、まだ酔っているような心地だった。
「11時56分だ」シンジはそう告げてわたしをまじまじと見た。「アスカ、どうした?」
わたしは自分がイエスの奇跡を目撃したかのように、唇を半ば開いてうっとりとその顔を見ていたのに気がついた。
「エリカはあんなんだし、ひどく怖い。あんたを頼ってもいいの?」
「僕だって男だよ」
「そうよね。シンジは男よ。さっきは一応、わたしを助けようと」
車がクラクションを鳴らしながら急に動いた。わたしの上にシンジが乗りかかった。車のすぐ横をダンプの車体がゆっくりと下がっていく。
シンジに使徒を伝染してやりたい衝動を必死で押さえ込まなくてはならなかった。
劣勢のボクサーのように相手の首に手をまわし、抱きついて耐えた。シンジが顔をずらし、鼻がくっつくほど近く対面した。
「アスカ」
「ん?」
「僕は使徒に感染してもいいって…」
「それ以上は無しよ」シンジの口に手をかぶせた。シンジがもごもごと何かつぶやいたが、聞き取れなかった。
車がどこかの施設に停車するまでの間、わたしたちはじっとしていた。
天国で首を絞められたら、こんな感じだろう。