獣は囁く

第28章

 戦線布告の無い、かといって奇襲開戦でもない戦争が始まったと誰かが言い、混乱を極める施設の中を口から口へと伝わっていった。
「始まったそうよ」ミサトはわたしたちが使える武器、拳銃4丁をテーブルの上に順に置いていった。ゲンドウとの会話が終了すると、わたしたちは存在を忘れ去れたように情報が入ってこなくなった。事実、忘れ去られているのだろう。
「エヴァを移管させるのって1週間はかかったわよね?」
わたしは空腹に耐えかねて口にできるものはないかと引き出しを捜したものの何も見つからず、結局、まずいコーヒーに砂糖を大量に溶かして飲んだ。
「かかるわ、最低限の設備だけでも3日はかかる」
「間に合わないんじゃないの?」
「私には間に合うとは思えないわね」ミサトは全ての拳銃から弾丸を抜き、一回り大きい青い拳銃の弾だけをより分けて、弾丸入れに移していく。
「間に合わなかったら、あちらのエヴァがここにやってくるのよね。そうなったらどうする気だろう?」
「ダミープラグで戦わせるんじゃないかな?」シンジは3日も寝てないみたいにひどい顔をしている。それを言ったらここにいる全員が同じだった。
「破壊されるだけね。ざまあないわ」
シゲルが袋を抱えて戻ってきた。「全部無料サービスだったぜ」
もくもくと食事を口に運び、着替えを終えるとミサトとシゲルが連れ立って部屋を出て行った。
「ここにいても何も分からないわ。いける範囲、何か探してみる。もしかすると、旧ネルフの人間に出くわすかもしれないし」
わたしはじっと待ち、シンジは壁にくっついたソファで両手を組んで両目を閉じていた。頃合をみて、ミサトからもらったタバコをもみ消し、普段は飲もうとも思わないウィスキーを一気にあおって、ソファに近づき、シンジのとなりを足の裏で蹴った。シンジは驚愕の表情でわたしを見上げた。
「どうしたのさ」シンジはわたしに怒られると思っているようだった。
「逃げるわよ」
「え?」
「ここを二人で出るのよ」
「どこに行くのさ?」
「SASのところよ」
「何のために?」
「何のために。ですって?」
体をかがめて鼻先がくっつくぐらいに顔を近づける。ウィスキーの匂いを嗅いで、シンジがわずかに顔を背けた。
「ヒカリのカタキを取るためよ」
「でもエヴァの移動が…」
「んなぁもん、どうだっていいのよ!どうせ破壊されるんだから。ヒカリのかたきを取るつもりが無いなんて言うんじゃないでしょうね?そんなこと言ったら、先にあんたを殺してやる」
「あるよ。でも綾波のことが・・・」
「助からない」
「なに」
「あいつは助からないわ。わたしには分かる」
「そんな!」
顔を背けてテーブルへゆき、テーブルから青い拳銃を選んだ。弾丸入れを開けて薬莢を取り出し、比べてみると、こちらの薬莢が一回り大きかった。全てポケットにねじ込んで、シンジの使っていた銃を放り投げる。それをキャッチしてシンジは困惑の表情を浮かべる。「本気なの?」
「ファーストの寿命を縮めたのもあいつらよ」
わたしたちはネルフを抜け出した。

 アスファルトはまだ乾ききっておらず、蒸れた空気が一面から沸き立っていた。冬がやってきて、永遠に去らなければいいと思う。飲酒運転だったので、アクセルは遠慮なく踏むことにした。
シンジはちらちらとこちらを見て、わたしに怒鳴られるのと、命を危険にさらすののどちらがマシか悩んでいる。
「車、盗んで平気なのかな?」
「平気よ」
「でも、もし止められたりしたら・・・僕たち免許を持ってないし」
さらにアクセルを踏み込むと、対向車が隕石よりは遅いスピードで過ぎていった。
「どこに行く気だよ」
「おうちに帰るのよ」
「おうち?誰の?」
「わたしのよ!他にどこにいくってのよ」
「エリカと会うの?」
「そうよ。ヒカリのかたきをとるにはエリカの助けが必要だわ」
「彼女、何者なの?」
「エヴァの元パイロット候補よ」
「それは知ってるよ。でもそれだけじゃない気がする」
「あらそう」なるだけ何気なく言って、バックミラーを見る。後を着いてくる車はなかった。
樹海を走る一本道が途切れ、スピードを緩めないまま信号を無視して横切った。幸か不幸か横断してくる車はなかった。
「死ぬ気かよ!」シンジが怒った。
「今は命を粗末にしたいのよ」
「それに僕を巻き込まないで欲しいよ」
「どうして?ファーストより先に死にたくないから?」
「そんな言い方やめてくれよ」
右手でタバコを取り出すのに気を取られると、車がガードレールに吸い寄せられていく。シンジが慌てて手を伸ばして支えた。わたしはステアリングから両手を離して火をつけた。。
「おい!いい加減にしろよ」
タバコは鉄を拭いた雑巾みたいな味がした。ステアリングを握り、アクセルをゆるめる。
「わたしたちって不幸よね」
シンジはきょとんとしてわたしをじっと眺め、煙が目に染みたように口をへの字に曲げた。
「そうだね」
「なんであんな物に乗ったんだろうって思うわ。あんたはどう?」
僕は。シンジはそこで言葉を切り、長いこと黙っていた。「それは後悔してないよ」
タバコを灰皿に押し付けて、カーラジオのスイッチを入れた。退屈な番組の古いバラードが流れ始めた。
「どうしてそう思うの?」
「綾波に会えたし、アスカと一緒にいれたのは楽しかった」
胸に杭を打たれた痛みが走った。
「わたしは同じ理由で後悔してる」
「嘘だよ」
「嘘じゃないわ」
「嘘だってわかってる」
「怒るわよ」
「いつもそんな風に言うんだ。本当は…」
わたしは運転に集中するふりをしながら待っていた。シンジが何を言うか、それとも言わないのか、待っていればよかった。
シンジは浮き輪に穴をあけたように息を吐いた。
「やめよう。僕らは、友達だろ」
「それは違う。ファーストがいなければ恋人だった。ってのはどう?」
むず痒くなるほど見つめられ、そしてシンジが静かに言った。
「僕もそう思うよ」
番組が変わり、ラジオだけが楽しそうにしていた。
「だから、綾波にああいう態度を取るの?」
「やめてほしいのね」
「うん、まあ。本当は綾波のことそんなに嫌いじゃないだろ」
二子玉川まではまだまだ距離があった。スコールなどなかったように青空が広がり、道はほとんど乾いていた。ところどころに残る水溜りが染みになっている。窓を開けると、暑いが乾いている風が車内に入り、髪が赤い板のように広がった。信号で止まった隙に、ミサトから借りた髪留めを口にくわえ、髪をひとつにねじあげて留めた。
途中のコンビニで一休みし、シンジが炭酸水を買ってきた。駐車場にせり出している隣の庭の木陰に入り、二人でそれを飲んだ。ウィスキーはとっくに抜けて喉が渇いていたので、ひどく美味かった。
空になったペットボトルを受け取り、ゴミ箱に捨ていると、若い二人組みがとおりすぎた。彼らは、道に検問が多いことに文句を言っていた。第三新東京市で起きたテロの影響だとニット帽をかぶった方がぼやいた。
「車は棄てるわよ」シンジはシートベルトを締めかけていた手を止めた。「どうして?」
「この先は警察が検問を張ってる」
「ここから二子玉川まではかなりあるよ」
「電車で行くわ」
車を駐車場の隅に移動してから、わたしたちは駅に向かって歩き出した。

 二子玉川駅のホームから階段を下りて改札へと来た。以前に酔っ払ったわたしに英語で話しかけてきた駅員が伝言板の落書きを消していた。
富士樹海からここまでかなりの距離を移動してきたので、わたしもシンジも疲れきっていた。多摩川にかかる橋を渡りながら視線を上げると、ヴィテーヌの看板広告は映画に変わっていた。交番では引退間近の警官が椅子に座って書類に目を通していた。遠くで蝉の鳴き声がする。
エントランスは修復されて以前よりも見栄えが増していた。郵便受けは限界まで満杯になっていた。持ちきれないほどの封筒だったが、不要なのを屑入れに捨てていくと、1通しか残らなかった。
ファーストライト芸能事務所からの給与証明を手に階段を登っていった。
自分の部屋のベルを押したが反応はなく、30秒後に再び押し、次は10秒後に押した。
「エリカ、いるの?いないの?」
「いないんじゃないかな」背後霊のようについてきたシンジが言った。
耳を澄ませたが、ドアの向こうに人の気配はなかった。蝉の声は聞こえなくなり、かわりに土手を走る車の音がした。
「留守だよ。帰ってくるまで待つ?」シンジが額を拭った。指が汗で濡れて光った。
廊下を少し引き返し、鉄のフックを押して扉を開いた。断熱材に覆われた配管が縦に伸びている。手を入れて、以前に盗撮機が仕掛けてあった場所を探った。硬い金属が指先に触れた。
扉に戻って鍵を使って開いた。
部屋はまるで他人のものになっていた。ベッドもソファも位置が変わっていた。テレビボードにあったテレビとステレオが全てなくなり、かわりに見たことのない機器がそこに納まっていた。床には空の酒瓶が転がっていて、古いアルコールの匂いの元凶になっている。ゴミ箱はコンビニの弁当とファーストフードの包装の重みで倒れ掛かっていた。
ベッドの上にわたしの服が投げ出してあり、どれも着た形跡があった。それらを洗濯機に放り込み、スイッチを入れた。シンジは部屋の入り口に突っ立ったままで、わたしのすることを見ていた。
「書置とかは無いのかな?」
「エリカは日本語は話せるけど、書くことはほとんど出来ないのよ」
「これからどうするの?」
「まずは掃除」シンジが首を振った「そういうことじゃなくて…」
「とりあえず、エリカが帰ってくるのを待つわ」
「それで?」
酒瓶をキッチンに運び、一つ一つ残った酒を流していった。
「それから考える」
日が翳り、夕日が床に反射して部屋の空気を赤茶けた色に染めていた。黄ばんでしまったカーテンが、かすかに残る四季を訴えるような風に揺れた。自動車の音が絶えず聞こえている。
自分の部屋がこんな風に、安いモーテルのように見えたことが無かった。一度他人のものになった部屋はもう二度と戻ってこないのかもしれなかった。ソファに腰を下ろすと、シンジは来客用の折りたたみ椅子にのろのろと座った。
時間を潰すために飲み始めた酒が、時計が20時を示す頃には瓶を二本も空にしていた。わたしとシンジは、苦行のように黙々と酒を飲んだ。
「そういう話はもういいわ。気が滅入るだけだから。あんたとわたしの間にはエヴァしか話題が無いわけ?その話を続けてここを追い出されたいなら、どうぞ続けて」
シンジが口を開いたので、一瞬、それを望んでいるのではないかと思った。
「僕も委員長を巻き込んだ一人だから…ここにいるよ」
わたしは空のグラスを手にした。飲みすぎで目の調子がおかしかった。「グラスをよこして、注いであげる」
グラスを受け渡す際、指先が触れ合った。手元で水道水の匂いがする水割りを作った。そして緩く足を組んだ。久しぶりにはいたスカートが腿までまくれた。
「ほしけりゃ、隣に来なさい」
シンジは叱られるのを予期した仔犬のように隣にやってきたが、グラスには手を伸ばさなかった。グラスを握らせながら言った。
「あたしがどうなっても何とも思ってないんでしょ」
「そんなことないよ」シンジが心底、心外だという風に答えた。テレビがあればと思った。おそらくエリカが他の音響機器とともに売ってしまったに違いない。エリカはいつ帰ってくるんだろう。
「わたし、ここで盗撮されたのよ。裸の写真ね」
「誰に?」
「エリカに。写っているのは確かにわたしに違いないんだけど、それがネットに出回ってるの」
「どうしてエリカはそんなことをしたの?」
さあ。わたしは手を広げてからグラスに口をつけた。「エリカは知らないって言っていたわ。嘘でしょうけど、追求していないのよ。あまりにいろんな事が起こりすぎて…」
「それ、今も出回ったままなの?」
「そうよ。見たいわけ?」
「ぜんぜん」
シンジはそういって私の隣から立ち上がった。素早く手を伸ばして手首をつかみ、顔を見上げた。まぶたが重かった。
「挑戦的な嘘をつくわね。なんどもわたしの部屋を覗いてたくせに。気がつかなかったとでも思ってるの?」
シンジは目玉が落ちないか心配になるほど、目を見開き、顔を背けた。
「今考えるとさ」シンジは手を引き抜いてグラスに口をつけたが、実際は飲まなかった。「思春期の子供を同じ場所に住まわせるのってひどいことだと思うよ」
「ミサトはわざとやってたのよ。絶対にわたしとあなたをくっつけようとしてた」
「どうしてだろう」
「さあね」わたしはグラスを半分あけて、スカートを直した。「すぐまくれるわ。はき方が下手になったのかしら」
このときにはわたしに使徒を伝染したエリカの気持ちが分かるようになっていた。
シンジはソファに再び腰を下ろして、今度は酒を口に含んだ。
「ミサトさんは昔と少し変わった」
「10年間も命を危険にさらしてきたんだから当然よ」
衝動に素直になって伸ばした指でシンジの顎のラインをなぞった。シンジの手がスカートの上に移動してきた。わたしはゆっくりとシンジの膝の上に倒れ、頭を乗せた。二人の呼吸が荒くなっているのが分かった。頭の隅から隅まで霞がかかって、ぼうっとしていた。
頭を動かし、誰かにそうして欲しいと思いながら、自分の指で自分の髪を梳き、焼けて短くなった毛先を見つめる。それには催眠効果があり、クレーンが必要なぐらいまぶたが重くなった。
「ファーストは、こんな風に甘えてくる?」
シンジは無言のまま首をかがめて顔を近づけてきた。その頬に唇をつけてやる。シンジはくそったれな唇をこちらへ向けてきたが、顔をそらせた。
「あんたに伝染すわけにはいかない」目を閉じて言った。まつ毛が震えているのが自分で分かった。
「伝染る?」
「嫌な話になるわ」
「なに?」
「参号機を乗っ取った使徒を覚えてる?」
「覚えてる」シンジはまな板みたいな声で答えた。
「エリカは本当は四号機の事故で死んでいたはずなの。アメリカで起こった事故は実際には参号機に寄生した使徒が起こしたものだった。彼女はその使徒に伝染してる」
「それとアスカに…」
「エリカはわたしに使徒を伝染したのよ」
投げ出されるかと思ったが、シンジは手をわたしの頭にそっと置いた。「そうだったんだ」わたしの体はその動作を優しさと受け取ったようだった。胸に杭を打たれる痛みが走る。
「キスでも伝染るわ」
「伝染するとどうなるの?」
エリカが言っていたことをそのまま伝えると、ジンジはわたしを丁寧に押しのけて立ち上がり、グラスをテーブルにおいて窓際へと向かった。わたしは押しのけられた格好のまま、その背中を見つめた。
「だから、あんたはわたしとやっちゃいけないのよ。わたしは一向にかまわないけどね」
「どうやったら治せる?」
「わからないわ。このわけの分からない状況が終わったら、エリカと方法を調べることにしてる。もう眠いわ」
シンジが抱き起こしてくれた。わたしはシンジの体に手を回し、かすかに汗ばんだ首筋に顔をうずめ、そのままじばらくじっとしていた。
「僕も手伝うよ」
「わたしはファーストの代わりなんて絶対に嫌よ。あいつと一緒にいてやって」
「もしも、もし綾波が死んでしまったら。必ず、手伝うよ」
体を離して頬にキスしてやってから言った。
「ありがとう。そうしてもらうわ。でも忘れないで。わたしはファーストに生きて欲しいと思ってる」
酒がなくなり、喉が渇いた。シンジがトイレに立ったのと同時にわたしはキッチンでコーヒーを淹れた。いつもわたしが飲んでいる銘柄は聞いたこともないアメリカ産のものになっていた。
わたしは眠気をこらえながらタバコに火をつけた。シンジは隣に座ってゆっくりと瞬きをしていた。タバコをコーヒーの隣の灰皿に置いて目を閉じた。なぜかベッドに横になってはいけない気がしていた。
エリカはステレオも売り払ってしまっていたが、eyepodだけは残していて、安物のスピーカーを接続していた。再生を押すと、goo goo dollsのIrisが流れ始めた。しばらく悲しげな歌声に耳を傾けていた。
「アスカ」シンジが問いかけるように言った。
「今より、10年前の方が良かった。僕たちはエヴァと一緒に全てを喪失してしまったんだ」
「そうね」
「また3人でいられたらいいのに」
「ええ。でもわたしたちはもう14歳のガキじゃない。友情と愛情は切り離して考えるべきなんじゃない?」
コーヒーから湯気がゆったりと立ち上り、タバコの煙がそれを追いかけるように上昇していく。種類の違う白煙がもつれ合いながら螺旋を描くのをいつまでも眺めた。
「寝ましょう。あんたはソファよ」
ベッドも他人のものとしか思えなかった。わたしが選んだにしては固く、マットレスの厚みも足りなかった。しかし、ここは間違いなく自分の部屋だった。
第三新東京市の夢を見ていた気がする。出来立ての傷のような色をした空ばかりが印象に残った。
目を覚ますと、ベッドの縁にシンジが座っていた。一睡もしなかったらしく、目の縁が赤くなっていた。わたしは口まで上げていた毛布を下げた。
「どうしたの?」
シンジは考え抜いた人間がよくする表情をしていた。
「アスカ。使徒を伝染して欲しいんだ」
わたしは間を置いてゆっくり言った。
「止めた方がいいよ」
「綾波もアスカも、エヴァのパイロットだったせいで、こんなに苦労しているのに、僕だけのうのうとしているんだ。そんなのって不公平だろ」
シンジはすぐ傍に座って、ベッドに手を付き、そこで背中を丸めていた。わたしは手を出してその手に触れた。「残念ね。断るわ」
「どうして?寝る前は構わないみたいなことを言っていたじゃないか」
「気が変わった。チャンスを逃したとも言うわね。わたしと寝るには100万は積まないとダメなのよ。以前にシャンプーを作っている会社の重役に誘われたときの値段よ。どう考えても安すぎる」
「僕だけ、何も起きていないなんて…」
「あんたがツイてるだけ。早く寝なさい。襲おうたって無駄だからね」
わたしは寝返りをうって背を向けた。哀しくて目が潤み始めた。
重い物が部屋の扉にぶつかって大きな音を立てた。びっくりして起き上がり、わたしは慌ててミサトの銃をベッドボードの引き出しから取り出した。
鍵が荒っぽく操作され、鍵穴にキーが差し込まれるざらついた音がし、留め金が跳ねた。ゆっくり開いたドアは6センチのところでチェーンに引っかかって止まった。
「アスカ、いるの」
探るようなエリカの声だった。わたしは走っていってチェーンを外した。
彼女は血だらけで壁に寄りかかって体を支えていた。
「助かるよ」エリカはうっすらと微笑んだ。エリカは重そうな髪のを払った。暗くて、血は返り血でなく、全てエリカのものだと気がつかなった。
「あんた。どこ行ってたの」
「蝶々を捕まえてたのさ」
「それで、人食い蝶々に逆襲されたわけね」
「そういうことだね」
「ネイチャーにでも投稿しなさいよ。金がもらえるわ」
「そんな必要ない」
エリカは親指で通路を指差した。「いくなら自然史博物館だね」
通路には血が点々と落ちていた。その先、エレベータの前に手足を縛られた伊吹マヤが横たわっていた。
「幼虫を捕えたんだ。早いとこ部屋に入れて、逃がすんじゃないよ」
エリカの体がぐらりと揺れて、崩れた。