獣は囁く
第27章
見つめるうちに薄暗い空を雲が覆い、ぽつぽつと大粒の雨が落ち始めた。雨粒は青い葉に重く跳ね返り、また次の葉へと落ちていく。すぐに全てを覆い隠す土砂降りとなった。
わたしたちは雨が車の天井に太鼓のように叩きつける音を聞きながら、スコールがやむのを待っている。わたしの隣にはシンジがいて、その隣ではシゲルが眠っていた。前方の助手席ではミサトがやはり眠っている。
わたしは他の誰からも見えない場所でシンジの手を握っている。曲がりくねった箱根の山道を過ぎて静岡県に入った頃、わたしは半ば眠っていて、力が抜けた拍子に手が腿から滑り落ちた。すると指先がシンジの手に触れ、彼は驚いてわたしを見つめた。そのままじっくりと見つめあい、お互いの不可解な意思を分かち合った。
絶望の中の快い眠りを妨げたのはスコールの音で、車はすでに樹海の中にさしかかっていた。
あまりのスコールの激しさに運転手は車を道端へ寄せて停車した。運転手は両手を交差してステアリングをつかみ、その上に顎を乗せて退屈そうに灰色の板となった前方を見つめている。
「まだ遠いの?」運転手は目を上げてバックミラーでわたしを見た。「いえ、もう少しです」
「ネルフってどんなところ?」
「いいところなんじゃないですかね」
「エヴァンゲリオンを作っているのよ」
「ああ、それは知ってますよ」気乗りしなさそうに答える。「10年前もよくニュースになってたし、昨夜は実物を見ましたからね」
「わたしは10年前にそれに乗っていたのよ」
運転手はそらした目をもう一度わたしに向けた「そうなんですか」
「軽蔑してくれていいわ」
「軽蔑なんて」
運転手は言って間を埋めるためにワイパーを動かした。最初の雷でシンジが起きた。わたしの手から離した手で目をこすった。
雨脚が弱まると車は走り出し、分かれ道で細い方の道に曲がった。道の周りには深い森が広がって、複雑なシルエットを描いている。
10分もしないうちに金属のゲートが現れた。車は自動開閉する遮断棒を抜けてそのまま進み、地面を掘り下げた道を快調に飛ばした。道路はさらに地面より低い場所に伸び、ついにトンネルとなった。緩やかなカーブを描く道にはたくさんの遮断棒があった。
「ループしながら地下へ向かっているのね」
「ええ」
「やっぱり地下。何とかの一つ覚え」
「そうですか」運転手は曖昧な返事をした。
「ネルフで僕たちはどうすればいいんだろう」すっかり目を覚ましたシンジが言った。
「綾波は大丈夫かな」
わたしはファーストの体のことを思い浮かべて黙っていた。武器を携えたガードマンが5人、最終ゲートを守っていた。彼らは肩に提げた銃に手を置きながら車内を覗き込んだ後、ゲートを開いた。ゲートの先は同じトンネルだったが勾配がきつくなり、まっすぐになった。
富士樹海の下に作られたネルフはかつてのような地下空洞に築かれておらず、蟻の巣そのままの設計になっていた。車に乗ったままエレベーターに乗り、地下へと進み、そこから直進して再びエレベータに乗る。
200台は止められそうな地下駐車場で車を降りると、迎えにきてくれた職員が挨拶をした。ネルフの制服は10年前よりいくらか垢抜けていたが、地味な茶色は相変わらずだった。肩口に紅葉したメープルの徽章が留められている。
彼らに連れられて駐車場から内部へ入る。内部は旧ネルフと同じくコンビニのように光量がゆたかで清潔だった。
「エヴァを見せてくれるの?」ミサトが先導している職員に言った。
「いえ、ゲストルームにお連れします」彼はこちらを振り返りもせずに答えた。明らかに私たちを迷惑がっている様子だった。
利用された形跡の無いゲストルームに着くまでに、清潔で整然とした印象は180度転換せざるを得なくなった。ここは小さな地下都市となっていて、その点では旧ネルフを凌駕していた。ドラッグストアやスタンディングカフェをはじめとした商店街があったし、医院やマッサージ屋までがあった。
ただ、街は騒擾を極めていて、職員があわただしく動き回っていた。通路にはゴミが散乱し、コンセントから引っこ抜いたままのパソコンを抱えた人が猛然と走り抜けていく。
一般人の清掃員や商店の店員は今では立場を逆にして、店舗の棚から商品を撒き散らし、少しでも価格の高い物をバッグに詰め込んでいる。治安員が走りよってきて彼らを警棒と拳銃で威嚇し、エレベーターへと追い立てる。暴徒になる直前の民間人は治安員を罵倒しながらエレベーターに詰め込まれ、地上へ送り返されていく。
「何が起きているの?ずいぶん騒がしいけど」
「避難ですよ」案内役は短く言って付け足した。
「ここは世界中から狙われていますから」
ゲストルームで即席のまずいコーヒーを飲んでいると、壁に埋め込まれた液晶テレビがいきなり点灯して雑音をまきちらし、側にいたシゲルが驚いてコーヒーを床にこぼした。
モニター画面は自動的にチャンネルが変わっていき、見慣れたいくつかの番組を横切って黒い画面で止まった。そこにおなじみのマークが浮かび上がった。
「来たようだな」
ゲンドウがしゃべると画面にスタビライザーが動いた。満足そうな声だった。
「碇司令、綾波レイの様子は?」
「生きている。ICUで延命治療が施されている」
「父さん、綾波に意識はあるの?」
反応がなく、通話が切れたかと疑ったところで答えが返ってきた。
「意識はある」
「綾波にあわせてよ」
「だめだ」
「どうしてさ」
父親は何も答えなかった。
「今はエヴァの移管準備を行っている。準備が整い次第、南鳥島へ移動させる」
「南鳥島?」わたしが小声で言うと、シゲルが口に手をあてて教えてくれた。「日本東端の孤島で今は海上要塞になってる。東京から2000キロもはなれた場所だ」
「なんでわざわざそんな場所にエヴァを持っていくの?」
「彼らのエヴァはすでにドイツとロシアを発ってこちらに向かっている」ゲンドウの声が答えた。
「ここにあるエヴァを破壊しに来るってこと?」
「あのイギリスの特殊空挺部隊と衛星レーザーはネルフの位置を特定するための作戦だった10号機の出現位置でこの場所が特定された。」
「まんまと騙されたのね」
「誘いにのってやったのだ」
「そのせいでヒカリは死んだのよ」
「敵はすでにヨーロッパを発っている」ゲンドウは繰り返し、その声にかすかな苛立ちが込められた。
「父さん」シンジがモニターを見上げながら言った。「ヨーロッパのエヴァには誰が乗っているの?」
「レイのクローンだ」
「私が破壊できなかったクローンね」表情に後悔をにじませてミサトが言い、蛍光灯をまぶしそうに見て、頭を動かしてシンジを見た。
「でも、レイの精神はこっちにあるだろ。誰の心が入っているの?」シンジが訊いた。
「まさか赤木リツコじゃないでしょうね?」とわたし。
「それは無い」ミサトはきっぱりと言った。「わたしは少しだけどそのクローンと話した。あれはリツコじゃない。ぜんぜん違う他人よ」
「まったく関係ない人間の精神を入れたってことも考えられるわ。リツコならそれぐらいはやりかねない。碇司令、リツコはヨーロッパでエヴァの製造に参加している。それは間違いないですか?」
「間違いない」
「残りのエヴァには?あと1台あるんでしょ?そちらには誰が乗っているの?」神経質にシンジが言い、両手で顔をこすった。
「誰でもいい」言葉に合わせてスタビライザーが動く。「日本に到着する前に、運搬中のエヴァに攻撃を仕掛ける予定だ。日韓の全空軍と在日米軍の一部が出動待機中だ。米国の空軍本隊もこちらに向かっている。われわれはエヴァを南鳥島へと移動させる」
「わたしたちもついて行ったほうがいいの?」
「勝手にしろ」
綱の切れるような音とともにネルフのマークが消えた。あまりにきつく見つめすぎていたので、しばらく画面にぼやけた残像が残った。
「戦争ね」ミサトが疲れきった表情で言った。
永久凍土が溶けて崩れ、閉じ込められていたメタンと泥の腐った匂いが立ち込めるシベリアの空に、イナゴの群れと見間違うような無数の点が空いっぱいに広がっている。それらは国ごとに一塊になり、輸送機に吊り下げられているエヴァンゲリオン七号機を守っていた。
七号機は磔刑の囚人そのままに力なくうなだれ、雲が落とす影が青い機体の上を過ぎていく。フランスが独自開発した最後の戦闘機ミラージュ3BKの群れが輸送機の前に飛び出してきた。そのうちの一人のパイロットがつけるヘルメットには、彼方に見え始めた海がダイヤのように光り輝いている。
指揮官がヘルメットの無線を通して語りかける。
「敵が見えるか?」
「海が逆行になって視界を邪魔しています」
「見つけるんだ」隊長は鋭く言った。
パイロットは癖でレーダー装置に目線を移し、出撃前に言われたことを思い出した。アメリカと日本の空軍はレーダーに補足されることを恐れてステルス機で襲ってくるはずだ。レーダーは役に立たない。
ミラージュ3BKの背後ではユーロファイター2500の大編成の部隊が一分の隙もなく七号機を守っている。
敵のステルス機が空輸機をミサイル射程圏内に捉える前に肉眼で探し出さなければ。パイロットは逆光で痛めつけられている目を凝らして、敵機の影を探す。倒木と泥沼で覆われた地表はアメリカの戦闘機にとって格好のカモフラージュになっていた。
再び無線が入る。
「こちら本部、遅れていた八号機が出発した。部隊の一部をこちらの護衛に向かわせる。君たちは敵機の補足を継続してくれ」
「了解(ラジャー)」
言ったが、音速以上で動く戦闘機を目視で認識できる範囲は狭い。
レーダー画面には味方のユーロファイター2500の影が群れており、敵機の位置によってはこの全てが補足圏内に収まる。けれどこの中から輸送機を識別して狙うことは不可能だ。
自分は真っ先に狙われる捨て駒である事をかみ締めながらパイロットは目を凝らす。全世代機のミラージュでは目視できるはるか先から発射されるミサイルを避けることはできないだろう。
それでもヨーロッパの人間が氷の大地で餓死していくのに比べればだいぶマシだ。
そう思った瞬間、それまでレーダーに何も映っていなかった位置に小さく輝く点が現れた。
「本部!敵機のミサイルを補足、東北東百海里!空対空ミサイルが・・・」
そう言いう間にレーダーに大量の輝点が現れていく。その全てがステルス機から放出されたミサイルだ。
「なんてこった」パイロットはつぶやいた。
「敵は大量にいます、数え切れないほど」
猛スピードでミサイルが接近してくる。最前線のミラージュの部隊は回避行動を始めた。
視界にミサイルのバックファイアの赤い点が見え始める。そこから空一面を埋め尽くすミサイルの姿を認めるまで30秒かからなかった。
超高性能ミサイルは互いに通信し、効率的に迎撃できるように目標を入れ替えながら迫ってきた。
何発かがミラージュにあたって爆発を起こした。だが大半はミラージュを無視して後方の獲物へと襲い掛かっていく。狼の口の中のようなミサイルの雨をかいくぐりながら、パイロットは、なんて素敵な世界だろう。と思った。 |