獣は囁く

第26章

 車とヘリから降りてきた白衣の男女で別荘はあっという間に埋め尽くされた。
彼らは死んだ人間には少しの興味もなかった。一斉に突入してくるとリビングの隅で悲しみに暮れているわたし達を完全に無視し、仕事に取り掛かる。
みるみるうちに玄関から地下室までレールが敷かれ、救急延命装置が廊下を渡ってリビングに姿をあらわした。それはエジプトの王の棺のように白衣の者たちに守られて前を横切っていった。
わたしはヒカリを抱き、ミサトはマコトを抱き、自分をみじめにさせるだけの言葉を死者の耳に囁いている。シンジはあらゆるものから逃れるように顔を両手で隠していた。シゲルは背を向け、散らばったガラスの破片を拾い上げてはベランダの向こうへと投げている。碇ゲンドウは階段に差し掛かって装置の向きの制御に悪戦苦闘している白衣たちを無言で睨んでいる。
十号機は今ではビルの大半を崩し、強制終了がかかるまでに街をまるごとスクラップにすることに一生懸命だ。
誰もが今すべきことを成していた。
「私達がやってきたことは、一体なんだったの」ミサトが床に目を向けて言った。それを聞いたシゲルが振りかぶった腕を下ろした。「やめましょう。そんなことを考えると、とても正気じゃいられなくなります」
「二人死んだのよ。関係のない人まで巻き込んで…そしてレイは救われるどころか瀕死の状態よ」
「裏切り者がいたんだ」ヒカリの頬から手を離すと、すかさず蝿がたかった。
「こちらの行動は全部筒抜けだったのよ」
「伊吹がか…」
シゲルが上着のポケット、次にパンツのバックポケットへと手を入れて小さなプレートを出し、しげしげと見つめた。「とても信じられないな」
ゲンドウが携帯電話を耳に当てながらゆっくりと近づいてきて言った。
「さっさと停止させろ。十号機は基地に収納する。そうだ。どうせ場所は特定された。戦略自衛隊に領空内の哨戒を強化させろ。近づく機体があれば民間機でも撃墜しろ」
最後のビルに手をかけていたエヴァの動きが止まった。周囲を飛んでいたヘリはその頭上までくると、機体から垂らしたスリング用のロープを慎重に肩の拘束具へと近づけていく。そして磁石に吸い寄せられるように拘束具のフックに引っかかる音がここまで聞こえた。
ゲンドウは携帯電話を電話を胸ポケットにしまうと、独特の顎を下げないやり方で私たちを見下ろした。
「エヴァパイロットの無断連行は階級剥奪の上、90日の禁固刑だ。知っているだろうな?」
「私たちはもうネルフの人間ではありません」ミサトが敢然と答えた。
「ああそうだ。そしてこいつらはパイロットでもない」
整形で高くなった鼻に中指で眼鏡をずりあげてゆっくりと全員を見る。氷のように冷えた目は一重まぶたになって凄みを増していた。
父と息子が視線を合わせると、息子の方が言った。
「父さん、どうして僕たちはもうエヴァを動かせないのに、襲われるの?」
「知らんな」
「僕たちが、エヴァを動かせないのは間違いないの?」
「ああ、エヴァを動かせるのはセカンドインパクトの年に生まれた14歳だけだ」
「違うでしょ」わたしは敵意をむき出して言った。
「その条件にプラスして胎児の状態でニュートリノが脳細胞に衝突した人間だけよ。そしてファーストは世界で唯一の例外よ。ファーストは14歳でさえあれば操縦できる」
ゲンドウが顔を動かしてわたしを見た。
「NIHISの女から聞いたのか」
「どうだっていいわ。わたしたちが襲われるのには別の理由があるんでしょ」
「ない」
「嘘よ」
「本当だ。我々はヨーロッパの連中が考えるほど、お前たちに価値があると思っていない。死んでくれても一向にかまわん」
「じゃあ、どうして父さんは僕らをエヴァで守ったりしたのさ」シンジが立ち上がった。
「レイを守るためだ」
「それは24歳の綾波?3歳児の肉体のほう?」
「3歳児の肉体のほうだ」
「父さん!」
シンジが大声で言った。握り締めた拳が震えている。白衣の何人かが作業を止めて面白そうにこちらを見た。
「父さんは綾波のことを大切にしてたじゃないか。僕のことなんかよりずっと大切にしてただろ!」
父親はその言葉をまったく無視して、息子を睨んだ。
「お前がレイを誘拐したせいで、こちらがどれだけ不利な状況に陥っていたか分かるか?こちらは最後のクローンの存在を知りながら10年も手がだせなかった」
「誘拐?誘拐って何だよ!」
「シンジ。親に逆らうな」ゲンドウは平然と言った。
つかみかかろうとしたシンジをシゲルが後ろから抱きとめた「よせ」ミサトが二人の間に割って入る。
「わたしの計画がたとえ成功したとしてもレイは3歳児でした。エヴァは操縦できません」
「成長ホルモンがある」
「ホルモンで無理やり14歳に?クローンじゃなくてもすぐに死んでしまうわ」
「14歳を過ぎれば用はない。必要なときに操縦ができればいい。今がその時だ」
「綾波は父さんの遊び道具じゃない!」
制止を振り切ったシンジの拳が父親の顎をとらえた。ゲンドウはぐらついたが倒れず、息子の手首をつかみあげ、投げ捨てるように離した。
「欧州連合のエヴァが勝つことは人類の退化だ。最新型が旧型に負けることは許されん」
「そんなにパイロットが必要なら作ったら?日本中の妊婦を連れてきて、ニュートリノを浴びせればいいのよ。それであんたの気が済むならね」
わたしが言うと、ゲンドウはかすかに鼻を鳴らした。
「どのニュートリノでもいいわけではない。セカンドインパクトで発生したニュートリノは使徒が発生させたものだといわれている」
別荘の外でモーターの音がした。するとレールの上の鎖が音を立てて持ち上がり、ぴんと張り詰めると、ゆっくりと動き始めた。
わたしたちは会話を中断して、地下室から延命装置が引き上げられるのを見守った。行きよりも心持ち速度を上げて移動する装置のガラス越しにファーストの顔が見えた。
青い光に照らされたファーストの顔はすでに死者と同じになっている。
それを見届けてゲンドウは振り返り、いまだにかつての面影を残している眉間の部分に皺を寄せた。
「ここは安全ではない。着いてくるなら安全な場所にかくまってやる」
「冗談じゃないわ」
ミサトが言ったがゲンドウはそれが聞こえなかったようにつづける。
「死体になりたいならそれもいいだろう。だが、今ある死体が腐る前に葬ってやらなくていいのか?死者に罪はない。罪を背負うのは残された者たちだ」
「どこに行こうってわけ?戦略自衛隊の基地も安全じゃないんでしょ?」
わたしの言葉にゲンドウは立ち止まり、肩越しに答える。
「ネルフだ。新生ネルフにつれていく。レイもそこだ」
「どこにあるの?」
ゲンドウは鳴り始めた携帯に出て、エヴァには兵装を装備させておくように伝えて切った。そしてわたしに向かって口の端をかすかに持ち上げた。「少しは黙ることを覚えろ。車と運転手を残しておく、片付けが済んだら来い」
ゲンドウは歩き去りながらキッチンを通りかかり、ヒカリの作ったビーフシチューの鍋に携帯を投げ入れた。赤褐色の液体がはねて、敷物の新しい染みになった。
わたしはまさにブチ切れ、3人がかりで止められた。

 別荘の壁は六本木のクラブのようだった。救急車とパトカーの赤色灯に、火気銃器特殊鑑識班という初めて聞いた組織の車両の青色灯、それに黄色く光る車もあった、それらが壁の上で回転している。
見たことのない深緑色の救急車がバックで近づいくると、停止と同時にバックハッチが開かれた。中には電源の入っていない医療機器が並んでいる。担架が乗せられるべき場所には青いシートが敷かれていて、2名の隊員が窓に手を置いて待っていた。
ミサトとシゲルの二人が銀色のシートに包まれた死体を支え持ちながら隊員に渡した。隊員はお互いに掛け声をかけてそれを受け取り、すでに載せられていた青い包みの隣に載せた。
まわりでは鑑識やファーストの救急処置に使われた荷物がしまわれていき、仕事を終えた車は坂下の闇にテールライトを残して去っていく。
「エヴァが運ばれるぞ」
だれかが言うと、残っていた全員が手を休めて街を見下ろした。操り人形のように全身から伸びたロープがぴんと張り、エヴァはゆっくりと傾いた。そして空中へ引っ張り上げられると西へと向けて飛び去っていく。
「運んであげないと」
シンジはのろのろと言った。居残りさせられた隊員を促し、台の上に横たえられているシートに包まれた物に手を伸ばす。
ヒカリは体を折った状態で死んでいった。だからその体勢で硬直してしまい、まっすぐに伸ばすことができなかった。
シンジと隊員が苦労して持ち上げるのを見守った。ヒカリの遺体は川の字の真ん中に位置する形で収納された。「収納」と思うとまたひどく悲しくなった。
「これ、吉村よね?」
シンジと交代してヒカリを持った男がうなずいた。わたしは防水シートに手を置いた。膝と脛の間の感触がした。
合計3つのシートが並ぶと、わたしは後ろに下がるようにいわれた。
一歩下がる間、魚の鱗のように光るシートを見つめていた。ミサトが同じ色の小さな包みを持ってきた。
「これもお願い」
ミサトはそれをヒカリとシゲルの間に滑り込ませ、ハッチを閉じた。深緑の救急車は砂利をきしらせながら向きを変えて坂を下り始めた。そしてカーブを曲がって見えなくなる直前にブレーキを踏んで残光を放って、闇の中に見えなくなった。
ミサトがわたし肩に手を置いた。
「またあなたに借りができたわ。今度ばかりは返せそうにない」
「ええ、絶対に返せないわ」
「わたしたちはどうするの?」
ミサトは目を細めて、救急車が消えた後の闇を見ている。気がついたようにゆっくりとわたしを見た。
「ネルフに行くしかないわ」
「わたしは行かないわ」
「だめよ。殺される」
「わたしは平気。エリカのところにいく」
ミサトが首を振って、肩に置いた手に力をこめる。
「いくら彼女が優秀でも限度がある。相手はSASなのよ」
エリカはATフィールドが使える。そう言い出しそうになって口を閉じる。エリカは頼りの綱だ。戦争が、ヨーロッパにある2体のエヴァがエヴァを破壊しにやってきて、目的を遂げるまで、わたしは環太平洋連合が持つエヴァの操縦士の可能性として命を狙われる。それが終わったら体の中にいる使徒を追い出さなければいけない。
最後の車に乗り、なるだけエリカの事を考えるようにした。車は黒い煙を空にたなびかせる街を横目にしながら、箱根を越えて富士樹海へと向かっていった。