獣は囁く
第23章
見るもの全てに灰色の幕がかかったようで、しっくりこない。しっくりこないのは体も同じで、思い通りに動かない。ピクニックの後のように全身が重かった。
私は死の気配というものを始めて感じた。閃光のように駆け抜ける死ではなく、意識をアイスクリーム用スプーンで削り取るようにじわじわと迫ってくる陰鬱な死の気配。
2時間ほど前にヒカリとマコトがやってきて、たぶんヒカリの知恵で、私の大好物を置いていった。それは白い皿に載せられて机の上で日差しを受けてつやつやと輝いている。
メロンに生ハムとチーズ?うぇ、カンベンしてよ。
二人はあれこれ諭してこれを食べさせようとした。私の機嫌は直るし、痩せぎすのファーストの体は栄養を摂取できて一石二鳥ってこと。
水が飲みたくなり、ベッドから這い出て足を下した。床はひんやりと冷たく、ほとんど熱病に冒されているのと同等の体には心地よかった。
扉を自然に閉まるに任せて廊下をゆくと、吹き抜けの一階が見える。マコトは無線機に耳を当てて装置をいじっているが、会話している様子は無い。バーカウンターの奥でヒカリが食事の支度を始めている。エプロンをして、料理中は必ず出る癖のつま先立ちで、小首をかしげるようにゆっくりと頭を左右に振っている。
まるで三連休の中日の午後の景色を見るようだ。
先に私に気がついたのはやっぱりヒカリだった。彼女は振り返り、下から私に向かって声をかけた。
「こっちに来て手伝ってくれない?」
もしも私が本来の体だったら手伝ったと思う。けれど今の私には文字通りその気力も体力もなかった。
「無理よ」
わたしが答えると、ヒカリは頬を膨らました「ゴハン抜きだからね」
重い体を引きずって用を済ませた。鏡はなるだけ見ないようにした。部屋に引き返す時も一階の様子はまったく変わらなかった。今度はシゲルが声をかけた。
「いま、ネルフの中にいるよ。P4で連絡が取れなくなった」
「ああ、そう」
そのまま進もうとして思い立って訊いた。
「ファーストはちゃんとやってる?」
「ああ。連絡が取れなくなるまでは問題なかった」
「今はどういう状況?」
「わからない。何か聞こえないか、ずっと待ってる」
何か言おうとしたが何も思い浮かばず、眠気が再び襲ってきた。
「寝る」
ヒカリが野菜を鍋に入れてお玉でかき回した。
「アスカ。食事ができたら用意するから、ちゃんと食べてね」
「メニューはなに」
「ビーフシチューよ」
「…いらない。肉はいや」
ヒカリが何か言ったが、ベッドがわたしを呼んでいて、そちらの声しか聞いていなかった。
ベッドに入ると強い鬱の発作が始まったのが分かった。こうなると眠る以外になく、素直にそれに従うことにした。
扉が開いて私は目を覚ました。ああ、ゴハンの時間だ。食欲はまるでなく、扉に背を向けて丸くなったまま、どうやってヒカリを諦めさせるかを考えていた。
毛布が引き剥がされると、巣から外に出されたヒヨコのような気分になった。
「起きろ」
刺々しい声がした。ヒカリの声でなく、マコトの声ですらなかった。そちらに顔を向けるより先に体をひっくり返される。
「いつまで寝てる気だ。もう昼過ぎだぞ」
灰色の視界が徐々に晴れて、そこには黒尽くめの男が立っていた。脇腹から飛び出ている突起は間違いなく銃身だ。
心に闇が広がっていくのを感じた。絶対にバレない?ミサトの大嘘つき。
凍りついているわたしを見下ろして黒尽くめの男は言った。
「起きろ、下へ来るんだ」
わたしは唸ったが逆らう気はなかった。男のマシンガンの銃身はすでにこちらに向けられている。起き出すと、よろけて倒れそうになった。
「助けが来ると思うなよ」
わたしはそこで始めて状況のマズさ、想像していたよりもはるかに悪い状況に置かれていることを悟った。
階段を下っていくと、チューの匂いがした。ヒカリとシゲルの二人がリビングの中央に背中合わせで座らされている。その周りを何人かの兵士たちが取り囲んでいた。彼らはオペラのプリマドンナが登場した時のように一斉にこちらを見た。
男が後ろから銃先で背中をつついた。
「そのまま、二人と一緒に背中を向けて座れ」
わたしは銃のことを考えた。ミサトとは一階のクローゼットの中に拳銃をいくつか置いていた。ヒカリとマコトに背を向けて座ると、その銃は火から下ろされて鍋敷きの上にあるシチューの隣に置かれていた。
「私達をどうする気だ」待ってシゲルが英語で訊いた。
男たちの誰一人それに答えなかった。地下室の階段から男が上ってきて首を縦に振った。
それを見たわたしを起こした男、サングラスを掛けたその男が顎で地下室を指し、スポーツバッグを下げた男が階段で待っていた男と共に地下室へ消えた。
「これはこれは」
サングラスがベランダの窓際に近づいて言った。
「これはいーい景色だな」
「何をする気だ」
マコトが再び言うと、サングラスは振り返った「今、考えているところだ」
わたしは地下室に注意を向けていた。今にも地下室が爆破されてしまう恐怖に震えていた。すると男二人が地下室から出てきた。スポーツバッグが詰め込まれた紙で膨れている。装置を破壊する気はないと知って、いくらか救われた気になった。
自分の体に戻る可能性が潰されなかったことで、次に考えたのはこの状況をどう乗り切るかだった。意識は自然とこの半月で体験した数々の窮地をなぞった。
シンジのアパートではファーストが液体窒素を投げて窮地を脱するきっかけをつくった。その後の非常階段ではエリカが現れた。府中の米軍基地跡ではやっぱりエリカが衛星レーザーから救ってくれた。わたしの部屋でもエリカだった。エリカがいてくれたらATフィールドで全員ぶっ倒してくれるのに。
わたしの部屋で襲撃を受けた状況に意識が及ぶと、わたしはやっと気が付いた。
マヤ、伊吹マヤがいない。
心に希望がわきあがってきた。散歩に出るか何かで、偶然に助けられてマヤはこの危機を逃れのだろうか。彼女がミサトでもエリカでも、日本政府でもいい。に知らせてくれれば…。
おそらく、マコトもヒカリも同じことを考えているに違いない。
「ヨーロッパの回し者なんだろ」
とマコトが言った。隠そうとしていたが、声が震えている。
「どーうだろうな」
サングラスはとぼけて肩をすくめる。クセの強い間延びしたイギリス英語だ。
私も何か言おうとしたが、何も出てこなかった。鬱のせいか、この体のせいか分からなかった。寝起きのせいではないだろう。
「お前たちには、ほーとほと困らされた。特に惣流アスカには」
サングラスはわたしを見据えて言った。レイバンのサングラスの奥に目が透けて見えた。目尻に烏の足跡のような皺が寄っている。
「わたしは、違うわ」
わたしを正真正銘の綾波レイと思わせておけば、何か打開のきっかけになるかもしれない。わたしがこたえると、サングラスの目尻の皺が深くなった。
「ああ、君はミズ・アヤナミのほうか。こっちがアスカか」
そう言ってヒカリを見た。とっさの機転が完全に裏目に出てしまったのを知った。
「じゃあ、こちらから殺そうか。こいつには兄弟が何人も殺されてる」
「まって、わたしがアスカよ」
サングラスはこちらを向いて銃先をわたしに据えた。
「『私はだぁれ?』をしているんじゃないんだぞ」
「アスカはわたしよ。彼女は関係ない一般人よ」
サングラスがヒカリに訊いた「そうなのか?」ヒカリ、お願い。
「私は惣流アスカ」
ヒカリがたどたどしい英語で答えた。サングラスがはじけるように笑い出し、手の甲で涙を拭う仕草をした。「かくも美しき友情哉!」
「ヒカリ、やめて、そんなのちっとも嬉しくない」
サングラスの表情から笑みが消え、口の端が緩やかにあがった。
「残念ながらこれはゲームにもならない。なぜなら俺はしっているからだ。ミズ・ソウリュウはお前の方だ。正確にはミズ・アヤナミの体に入っているミズ・ソウリュウ」
わたしたち3人は絶句した。すべて筒抜けだ。
「どうして知ってるの」
「聞いたからだ」
玄関へ続く廊下からマヤが現れた。恥じ入るように肩をすぼめて目を床に向けている。ちらりと視線を上げてわたし達の存在を見やった。
「マヤ、あんたまさか」
マヤは視線を窓の外へと逃がした。胃が地獄まで落下してスーパーボールのように戻ってきた。
突きつけられた事実への怒りと衝撃で頭がくらくらする。
わたしの部屋で襲われた時もマヤは銃を向けられていなかった。渋谷にヒカリとマヤを残して訪れた府中基地を敵はあっという間に突き止めた。その後でも、敵は臨海水族館とアパートの場所を的確に特定した。
「伊吹、マジなのか」
マコトが完全に震えた声で言った。マヤは目を硬く閉じて首を振る。
「あんた、ぶっ殺してやる」
わたしが呻くと、マヤはそれでこの場から消え去ることが出来るとでもいうように身を小さくした。「ごめんなさい」
「気ちがい。絶対にぶっ殺してやる」
「もっと気ちがいなことがたくさんあるんです」
会話を見守っていたサングラスはやり取りを察して愉快そうに笑った。
「そしてかくも辛き人生哉!」
「黙れクソッタレ」
「伊吹、どうして」マコトが言った。その言葉にはまだ一縷の望みにすがるような響きがあった。
「訊かないでください」マヤは眉間に皺を寄せて言った。
「我らが友人、ミズ・イブキは君たちよりもはるかに賢かったということだ」
サングラスは部下たちに目配せした。彼らは見物を中断された不満のそぶりも見せずに各々の新しい仕事に取り掛かった。
「さーあ、行こうか」
サングラスが言うと、部下によって乱暴に立たされた。その間もいつでも撃てるように銃先をこちらに向けている。
「用意ができるまで、立って待つんだ」
サングラスはさっき景色を誉めた位置に、窓際にわたし達を並ばせた。その途中、ヒカリと視線があった。彼女はわたしをはげますように微笑んでみせた。
サングラスはわたし達を吟味するように正面に移動し、慣れた様子でこちらを見てから諭すように鼻を鳴らした「待て」
言われたとおりにすると、サングラスはネオステッドの銃先を左右に振った。その背後に部下が来て、何かを耳打ちした。わたしはまだ部屋の隅にいるマヤを見た。マヤは小さく首を振ってわたしに何かを伝えようとした。抵抗するなと伝えたいのだろう。
なにか言わなくては、そう思った時だった。
ネオステッドの銃口が閃光を発して火を吹いた。
わたしの隣にいたマコトが谷へ落ちるような格好で後ろに飛ばされた。窓ガラスが粉々に砕けて重いものが床に崩れる音がした。
マコトは撃たれた腹をかばうよう背中を屈め、もう見えていない目を見開いてゲップのような息を漏らして動かなくなった。
サングラスに視線を戻しかけた時、再びネオステッドが火の舌を出した。
背後に風が巻き起こり、今度はヒカリの体が離れていった。彼女もまた窓ガラスを突き破り、ガラスの破片のシャワーを浴びた。
体中の神経が遮断されて時間も思考もあらゆる物が止まった。
「ヒカリは無関係なのに」舌が腫れ上がってしまったようだった。「よくも」
強烈な恐怖と怒りに震えながら、わたしはこの世界の全てが滅びてしまうことを願った。できるだけ苦しんで凄惨な終焉を迎えるように。
「さーあ、行こうか」サングラスが陽気に言った。
「嫌よ」
唇は硬直して、声はこわばっていたが、理解できるぐらいの明瞭さはあった。
「来るんだ」
サングラスが近づいてきて、腕をつかもうとしたとき、唾を吐きかけてやった。サングラスは驚きと嫌悪で身を引いた。そして頬とサングラスの表面についた唾を手で触った。レイバンの奥で怒りが燃え上がるのが見えた。
床に張り倒されると視界がくぐもり、視界には黒い花が咲いた。
激しく肩を蹴られてひっくり返される。
「わかってるのか美人さん。お前はいつでも死ねるんだ。そうだろうが」
サングラスはレイバンを床に叩きつけると、髪が抜けるほど強くつかんで引っ張り上げ、無理矢理に顔を向けさせた。
ガラスの破片に埋もれている二人の姿が見えた。ヒカリはうつ伏せになっていた。血が床に広がって成長していて、地味なパーカーの背中には破片が散らばっている
悲鳴を上げたかったが押し黙った。頭皮につられて顔が歪み、目から涙が溢れそになるのもこらえた。いよいよ自分が取り返しのつかない不幸を呼び込んだ実感がした。
無線機から声が漏れた。「マコト、聞こえるか?やばい事になってる。襲撃されそうだ。すぐに政府に連絡を」
銃が再び火を吐き、銃弾の雨が無線機をボロボロにした。それが済むとサングラスは再びわたしを蹴ろうとした。
怒りに任せた蹴りは不正確で、それをすんでで空振りさせた。その足をつかむと、足は丸太のように重かったが、思い切り引っ張った。
サングラスはなすすべもなく体勢を崩して尻餅をついた。わたしは倒れた二人の間を通ってベランダから急斜面の下へと飛んだ。部下たちはまだ煙を上げている無線機に視線を奪われていて、反応が遅れた。
落ち葉が積もった斜面は柔らかかった。その上を転がり落ちた。
やっと体が止まると、別荘ははるか遠くになっていた。「探して殺せ」と叫ぶ声が聞こえる。
どうにか立ち上がった。ファーストの体は骨が折れることもなく持ちこたえていた。裸足のまま斜面を駆け下りる。
絶対に殺してやる。絶対に |