獣は囁く
第20章
長い上り坂の果てに小さなコテージの屋根が見えた。車は舗装されていない道を進んで玄関の前に止まった。シンジとレイはまだ到着していない。
この別荘は加持君が残してくれたの。と説明しながらミサトが縁の傷み始めている扉を開けた。
ミサトとマコトは地下を含めて3階建ての別荘の安全を確認してまわり、わたしとヒカリとマヤの三人は家具の趣味を確認した。中は扉に比べるといい状態で残っていた。木目の風合いを残した壁も家具もわたしの好みだった。さすが加持さん。と自分が選んだみたいに誇らしく思えた。
かび臭い空気を追い出すためにリビングのカーテンを引き開けた。朝日がさっと体に降り注ぎ、目の前に広がる景色に見とれる。
別荘は急斜面の山の中腹に建てられていて、ベランダからは盆地が一望できた。まだ夜の気配を残した第三新東京市が見えて、少ないビルの上の航空障害灯が呼吸するように点滅している。水の減った芦ノ湖が街に小さな穴を開けている。
盆地を取り囲む山並みの向こうには、いち早く朝の訪れている富士が美しく輝いている。
わたしは一人になって、朝が富士を山すそを下って第三新東京市へと広がっていくのをうっとりとして眺めた。
この眺望が手に入るなら、こんな山奥の不便な場所に別荘を建てたのも理解できる。
五人で大掃除を終えると、別荘はまるで高級ホテルのように快適になった。それをミサトに言うと、彼女は食料が一切ないのと、水道から赤水が出るのを除けばね。と言った。
「ここのことはだれも知らない。安全よ」
リビングで部屋割りを決める段になり、2階の最も良い寝室を使いたいと申し出た。以外にもあっさり要求はとおり、わたしとヒカリが2階の寝室を使い、もう一つの寝室をレイとマヤが、一階の寝室はミサトが独占し、男性陣3人はリビングで寝起きすることになった。
部屋割りが決まるとヒカリを連れ立って部屋にいき、荷物を下した。あまりに嬉しくて、自分の中に使徒がいることなどすっかり忘れていた。
再び1階にあつまり、コーヒーが飲みたいと言うと、全員が同意した。
「シゲルに買ってきてもらいましょうか」
「それはまずいわ。全員が到着してから、改めて買い出しにいきましょう。洞木さんと私と二人で行く。このメンバーの中ではあなたが一番、顔が知られてないから」
あ、はい。とヒカリは従順に答えた。
「地下はどうなっているんですか?」とマヤが訊いて、シゲルが答えた。
「TSC46が完備してあるんだ。加持さんが運び込んでいた」
「本当に!?」
TSC46はどうでも良かったが、加持さんの名前は無視できないわたしは、口を挟んだ。
「それ何?」
ミサトが髪を留めていたゴムを外した。背中に流れおちた髪に輪ゴムの後が残っている。
「レイを助けるのに必要な最後の設備よ。見たい?」
地下室はリビングからバスルームへ続く廊下の脇にあった。階段は二人が並んで下りていける広さがあった。
地下室をのぞいたわたしは思わず甲高い声で言った。
「何これ?何に使うの?」
地下室は15畳はある正方形の空間で、見たことのない設備が詰め込まれていた。特に目立つのは部屋の中央に立っている二本の透明な容器だった。それ以外の装置の全てにはメープルの葉を入れたネルフのマークがついている。
「懐かしい」
マヤは装置の管制装置の前に駆け寄り、キーボードを引き出すと、カタカタとタイピングした。「あの時のもの?」
「ええ、そうよ。TSC47と入れ替えた時に廃棄されたものを加持君が手に入れて、ここに運び込んだのよ」
ミサトが言って、その後はシゲルが自分の出番といわんばかりに続けた。
「その時は壊れていたけど、俺とマコトの二人で直したんだ。ほら、あの時、バイオジェニック回路に付加をかけすぎて、アデノシン生成機構にせん断障害が出ていただろ」
「碇君の遺伝子構造と精神波長がなぜか違っていて、定着にものすごい時間がかかったのよね」
「そうそう、だからF軸線状のテロックから…」
マヤとシゲルが楽しげに話し出したが、最初の50文字から先は聞いていなかった。この装置が液化したシンジの肉体を直すのに使われたと知っただけで十分だ。
わたしには関係なさそうなので、さっさとリビングにもどり、朝日に包まれている街を見に行ったところで、外で車が止まった。
居住者が8人に増えると、さすがに狭く感じ、空腹も耐えがたくなってきていた。
ヒカリとミサトの二人が長い購入物リストを手に買いだしに行き、ネルフの元オペレーターたちは止まることのない専門用語満載の会話に夢中になっていた。
シンジとファーストはコーナーソファに並んで座り、疲れきった表情をしている。特にファーストの顔は青ざめていた。
「ちょっとシンジ」
シンジは夢から覚めたようにわたしを見る「なに?」
「隣にいるお方の顔色が優れないんじゃない?」
あ、と呟き、大丈夫?ファーストに声をかける。
「まったく、わたしが部屋に連れてくわ」
「僕が行くよ」
「女の部屋に男は来なくていいのよ」
ファーストの小さな荷物を持ってやり、ゆっくりと階段を登った。ファーストはよろよろと後をついてくる。
「調子わるい?」
「大丈夫よ。疲れただけ」
部屋に入り、ベッドに座らせてから、わたしは腕を組んで壁に寄りかかった。
「で、本当のところはかなりキツいんでしょ?どんな症状が出てるの?」
「ちょとしたことで疲れるわ」
「心臓は?」
「自分のものじゃないみたい」
やけに素直に答えるファーストに違和感を覚え、そろそろ和解すべきなんだろうと思った。10年前は10年前で、今は今、かつて抱いていた嫌悪感は今はほとんどなくなっていることはわかっていたし、それでも躊躇してしまうのは、彼女がシンジと10年も一緒に過ごし、もう他者の入る隙のない関係をシンジと築いてしまっているためだ。
世の中じゃ、一般的にこれを嫉妬と言うんだろう。
そんな思いに浸っていると、ファーストが口を開いた。
「惣流さん。碇君はとてもいい人よ」
「それで?」ふさわしくない答えだが、それしか言葉が用意できなかった。
「でも少し不器用だわ」
それはあんたもでしょ。という言葉は飲み込んだ。
「だれかいてあげないと」
「まるで自分がシンジの世話をしてたみたいな言い方ね。あんたがいるじゃない」
「私はもう死ぬから」
「ミサトたちが何とかしてくれるよ」
「無理よ。わかるもの」
ファーストはじっとわたしを見つめた。無表情だが、何を考えているのかよくわかった。彼女の考えていることが、こんなにはっきりわかったのは初めてだ。
「わたしにあんたの代わりはできないからね」
「そうね」
そんなあっさり引き下がらないでよ。
「で、あんたは何、その…」
腕を解いて、片足の裏を壁につけた。「あいつのことが好きなわけ?」
何の間も置かずに答えた。
「ええ、好きだわ」
こんなに驚いたのは初めてで、こちらがショック死するところだった。間違いなく生涯で最高の驚きだった。
「驚いた。あんたがそんなこと言うなんて、今のは本当に驚いた」
ファーストは床のラグに目を向けた。顔が赤くなっているように見えたが、たぶん、わたしの錯覚だ。
「それをあいつに言ったことがあるの?」
「ないわ」
なぜかほっとしたわたしは、自虐的な興味から言った。
「あいつに言ってやろうか?」
死が迫ると、悔いを残したくなくなるのは、ファーストにとっても同じなんだろうか、当然、断ると思っていたのに、ファーストは思惑とまったく逆のことを言った。
「お願い」
部屋を出てリビングに向かうまでの短い時間、わたしは自分が愛の女神なのか、ただのバカなのか、分からなくなっていた。
3級恋愛映画の不幸なヒロインじゃあるまいし、こんな役目を負わされるなんて。
ネルフの元職員たちはまだ意味不明の会話を楽しんでいて、シンジは階段を下りてきたわたしをじっと見ている。それを無視してリビングに来ると、とにかく間を埋めるためにカウンターキッチンへ行き、蛇口をひねった。水はまだ赤錆を含んだ赤水で、何の使い道もない。舌打ちして蛇口を閉める頃には、わたしの心臓は測定が不可能なほど早く脈打っていた。なるほどね。ファーストだったらとっくに発作で死んでるってことね。わたしに頼んでとっても賢明。
自分が告白するんじゃあるまいし、冷静になれと自分に言い聞かせ、普段と変わらない動作に見えるように意識してシンジの前に立った。3人が楽しいはずの会話を中断してこちらを見ていた。
「シンジ、ちょっと来なさい」
「どうしたの?綾波と何かあったの?」
「いいから」
シンジを立たせてベランダに出て、後ろ手に窓をぴしゃりと閉めた。
「綾波となにがあったの?」
「黙って聞きなさい」
ここまでは普段と変わらない自分を演じきっている自信があった。あとはどう切り出すべきか悩んでいると、シンジが言った。
「アスカ、顔が真っ赤だよ」
何がなんだか分からなくなり、わたしが取った行動は、10年前とまったく同じ、シンジに気持ちを伝えようとして、臆病風に吹かれるたびに取っていた行動だった。
ビンタを食らわせ、人差し指をナイフのように突き出して顔を指し、顔を怒らせて、罵倒する。
「あんたバカ?何なの?意味わかんない。二度と顔もみたくない」
「意味がわからないのはこっちだよ」
「黙んなさい。とにかく、その顔を二度とわたしの前に出さないで」
2階の自室に駆け戻ると扉を閉め、ふらふらとベッドに倒れこんだ。
10年前に逆戻り、わたしって、やっぱり自分が嫌いだわ。
ヒカリが運んできたミスタードーナツのメープルドーナッツとパイマフィンとチャイナスープを胃に納め、ゲップを鼻に逃がして、紙ナプキンで口を拭きながら窓の方へ向き直った。
「喧嘩したのね」
「そんなんじゃないよ」
「アスカ、10年ぶりに言うけど、正直になった方がいいと思うよ」
「10年ぶりに言うけど、何に対して?」
ヒカリはため息をついて、皿の乗ったトレイを手にドアを開けた。
「アスカの気持ちもわかるけど」
そのまま、色んなことを考えながら第三新東京市を見て過ごした。夜になり、ミサトが部屋に入ってきた。都合の悪いことにこの部屋には鍵がなかった。
下でミーティングをするから来なさい。と言われたが無視してその気がないことを伝えた。するとミサトは布団を引き剥がし、わたしの腕を引っ張った。
「あなたはお姫様じゃないのよ。来ないなら、ここからほっぽり出して吉村に預けるからね」
リビングに全員集合し、凝ったつくりのテーブルを囲んで座った。テーブルにはヒカリの仕事による、ドライチーズや一口サイズのサラミ、ナッツの類が銀盆に見事に盛り付けられていた。わたしとファースト以外の全員がシャワーを浴びて着替えを済ませていた。
「これから話すことはとても重要よ」
ミサトは全員の顔を確かめて、本題に入った。
「私達の目的は、レイを救うことよ。そのためには、新しい体を手に入れなくちゃいけない。その体はネルフの施設内の最深部に保管されている」
「取りに行くんですね」とシンジ。
「でも幾つか問題があるの。ネルフは無人になっているけど、自家発電装置が今も生きている。対人警護システムはまだ動いているから、慎重にやらないと、侵入者と思われて攻撃されてしまう」
ミサトはネルフを縦に割った断面図を銀盆の横に広げた。すり鉢のように先細りに地下に広がったネルフは、パーミッション6、P6階層が底辺の一つ上に当たる。ミサトはそこを指差した。
「ただ、私がいればパーミッション6までのセキュリティは抜けられる。暗証番号も生体認証も抜けられる。問題はそこから先」
ミサトは指をすり鉢の底にずらした。
「ここから先は本当に限られた人間しか立ち入ることができなかった。指令と、副指令、リツコの3人だけ。でも、ここに入る方法はわかってる。カードがあるわ。シンジ君、ここのことは覚えているわね?」
「覚えています。ミサトさん」
「あんた、そこに行ったことがあるの?」
「あるよ」
「規約違反。独房監禁7日の刑」
ミサトが睨むので、わたしは黙った。
「で、ここが人工進化研究室よ」
ミサトは7階層の端の小部屋を指差す。そこから細い通路が約3センチほど横に延びて、さらに小さな部屋で終わっていた。
「この区域は基本的に誰も入れない区域。P8ね」
「父さんでも?」
「指令でも一人では入れないわ。ここはゼーレが作らせた超秘匿区なのよ」
「ゼーレ?」
「ゼーレの細かいことはまた後でね。ここは暗証番号やカードでは開かない区域なの、レイそのものが鍵になってる、だから、どうしてもレイをここに連れて行く必要があるの」
ミサトは地図から指を離した。
「この部屋にたどり着けば、レイのクローンが保存されている。それをここまで持ち帰るのよ。あとは地下室で仕上げ」
ヒカリがはっと顔をあげ、ファーストを見た。無理もないことで、彼女はレイがクローンだと今知ったのだ。正確には、綾波レイがオリジナルで、そのクローンが作られていると思っただろう。ファーストがシンジの母親のクローンだとは黙っておこう。ヒカリにはちょっと刺激が強すぎる。
「データのダウンロードは終わってる」とシゲルが言った。わたしが衛星レーザーに撃たれかけながら、エリカと持ち出したデータのことだ。
「あの装置で体と精神を入れ替えるわ」
「そんなことできるの?」ついつい口を出してしまう。
「できるさ。要はシンジ君にやったのと同じだ。精神を移し変えるって点だけが違うだけ」
「あの部屋でそんな大手術?作業ができる?」
「できる。幸い、当時の体験者、サポートが一人増えた」
マヤが軽く微笑んだ。そんなに楽しみにしてる様子ではなかったけれど。
「シンプルな計画ね。ファーストを連れてネルフへ、クローンを持って帰る。あとはちゃちゃっと移し変えるだけ」
「そうでもないのよ」
ミサトが口調を改めた。そしてわたしをちらっと見る。
「レイはとても最深部まで連れて行けない。私のP6権限も今はどうなっているかわからないし、システムそのものが壊れている可能性だってあるわ。警備システムに襲われたらレイは逃げ切れない」
「じゃ、どうすんの?」
こちらは無邪気のつもりで訊いたが、次のミサトの一言はあまりに突拍子もなく、想像の域をはるかに超えていた。
「アスカの体にレイの精神を移す」
「………」
「TSCで精神を入れ替えるのよ」
「それって、わたしがこいつになって、こいつがわたしになるってこと?」
「そのとーり」
「だめよ!だめだめだめだめ。冗談じゃないわ。なんでわたしがこんな奴のために体を貸してやんなきゃいけないのよ」
「それ以外に方法がないのよ」
「嫌!むり!シンジが体を貸しなさいよ」
「男の体に入れるのは無理なのよ」
「じゃあ、マヤで」
「年齢が違いすぎてダメ、すなわち私も対象外」
さすがにヒカリに頼めるわけがない。ヒカリは私が巻き込んだ人間で、本当はそれだけで土下座して謝らなきゃいけないのに、その上、わたしの中にはトウジを殺した使徒がいるのに。
わたしは必死に逃げ道を探した。
「ファーストの生体認証なら、わたしの体じゃ意味がないでしょ」
「P8のキーはレイの脳波なのよ。クローンを使えば生体認証は通り抜けられる。脳波は活動している脳からしか発生しない」
「体を変えたら、脳波も変わるよ」
「そんなことありません」とマヤが口を挟んだ。「使われるのは脳波そのものよりも、基礎律動のパターンなんです」
「ファースト、あんた行けるよね?元気そうに見えるよ」
「アスカ、観念しなさい」
わたしが絶句していると、ミサトは視線をファーストに向けた。
「レイにも言っておくことがあるわ」
ファーストはまっすぐにミサトを見つめる。
「クローンは3歳児の状態で保存されている」
これはミサト以外の誰も知らなかったらしく、空気が一気に絶対零度まで急降下した。
「どうなるんですか」とシンジが消え入りそうな声を出す。
「わからないわ、問題は記憶よ。3歳児に24歳の記憶を入れるんだから。はっきり言うけど、器が小さすぎて、ほとんどの記憶はこぼれ落ちることになる」
たっぷり半年は経ったと思える沈黙の時間を過ごして、ミサトが呟いた。
「世の中、そんなにうまいことできてないものね」
わたしは白い目を向けられると覚悟して訊いた。「記憶を失うって、そんなの意味ないんじゃないの?」
「いいんだ。僕はかまわない。綾波は?」
ファーストは何も答えなかった。否定してくれることを一瞬、期待してしまい、物凄く自分を恥じることになった。と同時にこういう場合、沈黙は肯定になるのよ。と教えてあげたかった。
「決行は明日よ。以上、解散」
「さっさと出てけってつってんだよ!」
いつまでもグズついている二人、正確にはシンジのほう、を怒鳴りつけると二人はソファから立ち上がり、逃げるように、これも正確にはシンジのほうだけだ、ファーストは堂々としている。ドアへとむかっていった。
先にドアをくぐったファーストがよろめき、ドア枠に手を置いて体を支えた。シンジは慣れた手つきで痩せ細った彼女の体を支えてやり、そしてまた未練たらしくこちらを見た。わたしは顔を背けた。
「アスカ」
「何よ」
「感謝するよ」
「さっさと死んじまえ」
精一杯つめたく言って、衝動に抗いきれずに横目で二人に視線を戻した。すでにシンジはこちらを見ておらず、ファーストより先に玄関へと向かっていく背中が見えた。
それに遅れて着いていくファーストが振り返る。
視線を戦わせるつもりで見返したが、ファーストの目はいつもの無感情のままだった。わたしがもう一言、本心とは間逆の言葉を吐こうとしたとき、かすかに笑って見せた。
そう見えただけかもしれない。
10年前に比べれば感情を出すようになった表情も、それが冷笑なのか、感謝なのか、わたしには分からなかった。
しばらくして玄関の扉が閉まる重い音がし、そして山を下っていく車のエンジン音が聞こえた。
二人が出て行った後、わたしはしばらく二人が並んで座っていたソファを見つめていた。
いつの間にか部屋にヒカリが立っていた。両手で自分の体を抱いたヒカリは心労のせいか、ひどくやつれている。
「よかったの?」とヒカリは小さな声で訊いた。
「いいのよ」
そう答えると「そう」とだけ独り言のように呟き、言葉を続けよとして息を呑み、何も言わずに肺に溜め込んだ空気を吐き出した。
一人になりたがったが、ヒカリは部屋の床に目線を落としたまま動こうとしないので、わたしが動くことにした。
彼女に背を向け、反対側のドアからベランダに出ようとすると、ヒカリはテーブルのところまできて、ぎこちない動作でマグカップの耳に指を通して持ち上げ、余った腕で雑誌の位置をきっちりと直した。
「アスカの気持ち、何となくわかる」
「同情?それとも見下してんの?」
また何の罪もないヒカリに噛み付いてしまった。
「あなたたちを見てると、私はとても恵まれてるって思う」
「見下してるんだよ。それは」
「ちがうよ…」
わたしは何も言わずにパソコンのないパソコンデスクの上に置いてあった煙草の箱をライターごとつかんだ。
「アスカは正しいことをしてると思う」
それに答える余裕はなかった。
ベランダの木柵に寄りかかり、二本立て続けに吸った。
夜空は雲に覆われていたが、空気は乾燥していた。眼下の盆地で街の光が美しくまたたいている。
ほとんど吸っていない煙草が指を火傷させそうに短くなった時、ベランダに誰か出てきた。マヤか、ヒカリかミサトか、シゲルでもどうでも良かった。
「大人になったわね」
そう言ってわたしの隣に並んだ。その両手を枠にかけたとき、風が吹いて、洗いたての黒髪がばらばらと揺れた。
ミサトはくわえた煙草を障害灯のように揺らめかせて、街に背を向けて手すりに寄りかかった。手で髪をかき上げてうなじの後ろで一つかみに固定した。
「あの二人は親子ほども年が離れてしまうのよ。同い年でいられるのは今夜が最後なの」
「そうね。わたしにはしったこっちゃないけど」
「レイがアレをできるようになるまで、シンジ君を待たせるのはかわいそうよ」
わたしは10年待ってる。もうじき11年。でも、シンジと一度もそういうことはなかった。これからもない。そう言ってやりたかった。
嫉妬で胸が焼けるようで、こんなに辛いなら死んだほうがマシだ。
「あのね」急に改まって言うので、わたしはミサトの顔を見た。
「一生、シンジ君を好きでいるつもりなんでしょ?」
「バカったらしくて、答える気になんない」
「10年前にも同じようなことを言ったわね。あの時は正直、ムカついたわ。この世間知らずの自己チュウの小娘め、と思ったわよ。でも今夜はそんな風には思わないわ。むしろ誇らしいぐらい」
寒くもないのに体が震えていて、そのうち関節の全てが外れてバラバラになにちがいない。
「エンジェル・リングって映画を知ってる?」
「リリー・レインの出てるやつ」
「そ、アスカはそのリリーみたいに一途なくせに、リリー以上に自分に嘘をつく。見てるこっちの胸が痛くなるのよ」
「初耳ね。自分では正直だと思ってた」
「どうでもいい事にはね」
ミサトは首を振り、憂いを含んだような目でわたしを見た。
「嬉しいとか、楽しいとか、ムカつくとか、そんな事には正直よ。でも大事なことにはいつも嘘をついてる。周りにいる人はみんなそれが嘘だって気がついてるのに。だからみんな、あなたを憎めないのよ」
「リツコばりの分析ありがとう。できればその技法でファーストの分析もやってほしいわね」
あの子のことは分からない。ミサトはそう呟いて余った手の指で自分の唇を触った。
「わたしも苦手なのよ。でも、悪い子じゃない。あなたもよく分かってるでしょ」
「うん」
「どうしても届かない想いもあるわ」
「そうなの。へえー」
どうにか答えた。お願いだからやめて。お願い、やめて。お願いだから、やめて。
「シンジ君のことは諦めなさい」
言った!ついに言った。わたしが10年間、恐ろしくて言えなかったことを。わたしは全力と振り絞って部屋を見た。マコトは寝袋の上で眠っていて、シゲルはソファでヘッドフォンを耳に当て、満員のライブ会場で一心にエアギターを奏でている。
「ちくしょう、どうして?わたしが悪い?」
「あなたは悪くない」
「じゃあなんでよ!」
ミサトを思い切り突き飛ばした。
「どうしてなのよ。シンジもいない、エリカもいない、ヒカリもいない、加持さんもいない、ママもいない、家もない、自分の体すらなくそうとしてる。ないことばっかり、わたしは!」
息を吸うと、ひゅっと喉がなった。何かが破裂しそうになっている。
それ以上、何もいえなくなり、その場にしゃがみこんだ。頭を抱えてやたらに振ると、自分が破滅に向かっているのがよくわかった。混濁していく頭の中で、あんたは超弩級のヒステリーを起こしたんだと誰かが笑っている。
急激に眠くなってきて、これは最悪の最も怖れていた兆候だった。重度の鬱病が戻ってくる。歯を食いしばって眠気に耐えた。
わたしはぜったいに負けない。
でも何のために?
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