獣は囁く
第2章
エントランスの中で郵便受けをチェックした。中はほとんどチラシが占めていたが、2通だけわたし宛てのものがあった。
一つはクレジットカード会社で、もう一つは聞いたことのない芸能事務所だった。だいたい中身は予測できた。
わたしが有名になってしまう前に移籍を誘う内容。だいたい毎日とどいている。
その2通を脇に挟んで、チラシの束はリサイクルボックスに投げ入れた。芸能事務所からの手紙をここでリサイクルに加えるべきかを確かめるために、バッグを床に置いて開封した。
その内容を読むのに気を取られて、そいつがすぐ側に来るまで気が付かなかった。
「すみません」
声をかけられて、わたしは振り返った。何となくさっきの警官に似た声で、心配して付いてきたのでは無いかと思った。
予想は的外れもいいとこだった。
まったく見た事もないヤツだった。背はわたしより5センチばかり高く、黒い着古したTシャツに緩めのブルージーンズ、靴屋の軒先に山積みになっているリーボックの廉価版のスニーカーを履いていた。
脇の下に挟んでいたクレジットカード会社の領収書を手に持ち直して、男の顔を見つめた。屋外スポーツの選手が紫外線から網膜を守るために着用する幅広なサングラスを掛けていて、目は見えないかわりに、万が一、彼が数少ないわたしのファンだった場合に備えて、好印象を与えようと頑張っているわたしが歪曲して映っていた。
「どうかしたの?」
芸能事務所からの手紙を折りたたみながら言い、相手の出方を待とうとして手を止めた。
わたしのところにファンが来るなんてことは滅多になく、自宅の前で声をかけられたのは始めての経験だった。それがわたしの不安を掻き立てた。
「惣流アスカだろ?」
その剣呑な調子でわたしは男への印象を一気に悪くした。サングラスを外さないのも気に食わないし、男の唇、ビタミン不足で薄皮が荒れている。の縁が嘲笑するように上がっているのはもっと気に食わなかった。
「なんか用?」
わたしは拒否の姿勢を明らかにして、手にしていた開封済みの手紙をリサイクルボックスへ放り込んだ。
男の行動は素早かった。右手を背中に回すと、背中側のベルトに挟んでいたものをさっと引き抜いてこちらに向けた。
銃だ。撃つ度にくるっと回る部分の無いタイプのやつ。
わたしは男が腰だめに構えている銃から視線を上げて男の顔を見た。
「冗談?」
まだ目の前で起きていることの半分以上が信じられずにいた。無意識に出てきたのは安全確保という見地からは程遠いものだった。
「あんたバカなの?つきあってらんない―――」
手からこぼれ落ちた未開封の封筒がわたしの足に当たって跳ね返り、飛行機が着陸するように灰色のタイルを敷き詰めた地面に落ちた。
「だまれ」
嘲笑だと思っていた男の唇が微かに震えていた。それが怒りなのか緊張なのか分からなかった。どちらでも好まざる事態で、確かなのはコイツが本気だということだった。
「どういうこと?わたしに何―――」
男は銃の狙いをわたしの腹から顔へと移した。そのまま顎で背後を指し示した。そこにはトラックの荷台が見えた。銀色の車体が控えめに光っている。
拉致だと分かった途端、男に抱いた悪い印象が黒ずんだ恐怖に変わっていくのがわかった。
「用があるならここで言ってよ」
「黙ってろよ」
男は見せ付けるように引き金に指を掛けなおした。
わたしは黙りこくった。顔に向けられた銃口がはっきりと見える。それは完全な円形をしていて、中は真っ黒だった。
そこから煙とともに弾丸が飛び出してくる映像が頭の中で流れ、あいまいだった恐怖が一気にリアルな実物になった。
「ついてこい」
男はわたしに狙いをつけたまま一歩下がった。わたしはそれには従わなかった。
「冗談ならやりすぎてるんじゃないかな」
わたしは弱々しく言った。さっきの警官がヒーローのように現れることを想像し、それから自力で逃れる方法を考えた。
「いいから付いてこいよ」
男は明らかに苛立っていた。こいつはわたしを荷台に入れようとしている。入れられたら終わりな気がする。
「人違いじゃない?わたしは金なんて持ってないわよ」
喋るうちに声が震えだした。
男がこちらに一歩を踏み出してわたしは肩をすくめた。そのまま襟首をつかまれて外へ引きずり出された。
エントランスを出たところでわたしは一度だけ抵抗しようとした、大声を出すために息を思いっきり吸い込んだのだ。それは大失敗だった。それで男は素早く察知して銃把でわたしの背中を思い切り殴りつけた。鈍い衝撃で吸い込んだ空気を全て吐き出してよろめいた。
「このクソ女」
男はふたたび襲いかかろうとしてきた。わたしは怯えた少女のように両手を顔の前にかざした。向き直されて真っ暗な荷台に閉じ込められるまでの短い間、こんな目にあう理由を考えた。
脈絡のない非現実的な理由がめぐり、最も現実的なその理由にたどり着くと、倒れるか錯乱しそうだった。
わたしが、エヴァンゲリオンに乗っていたから。それが理由で拉致されるか殺される。
男がトラックの荷台にまでやってくると扉が内側から開かれた。乗れ。と男は鋭く言った。ステップに足を乗せた瞬間が抵抗の最後のチャンスだと思った。しかし何もできずに荷台に入った。
荷台の中はまだ夜の闇が残っていた。天井からぶら下がった小さな豆電球がから発せられるかぼそい光が内部を照らしていた。床の木材とダンボールの匂いがした。
最も奥にわたし以外の人間がいることに気が付いた時、扉が閉じられて外から鍵をかける音がした。空気が一気に膨張したような気がする。
「ようこそ、アスカ」
声でわかっていたが、暗闇に目が慣れるにつれてはっきりと見えてきた。待ち受けていたのは女で、さらに男と同じように銃をこちらに向けていた。
女は荷台の隅に積み上げられた木枠に背をもたれていた。身長は同じぐらい。髪は長くてまっすぐだった。小さめのTシャツでパンツも細く、暗くてもスタイル抜群であることはよく分かった。顔は前髪が落とす影にさえぎられてよく見えなかったが、日本人のようにも白人にも見えた。
「驚かせたわね」
口調は友好的で穏やかだった。わたしはほんの少しだけ安心した。
「何がなんだか。とにかく説明して」
扉が音を立てて開き、わたしは驚いて振り返った。男が扉の隙間からわたしのバッグを投げ入れて再び閉めた。バッグはベニヤ板を敷いた床の上を転がり、底を上にして止まった。
「どうしたいの?」
わたしが再び口を開くと、女は積み上げられた木枠から背を離した。Tシャツの胸にプリントされている銀色の図柄、アルファベットを崩したやつだ。少なくとも英語かドイツ語ではない。が胸のふくらみを強調するようにきらきらと光った。拉致を実行するにはずいぶんとお洒落な服装だと思った。
「わたしにどうして欲しいのよ」
相手を刺激しない程度に語気を強めた。
「脱いで」
「は?」
「脱ぐのよ。全部。脱いだら後ろを向いてこっちに来て」
あんた、言いかけると車のエンジンがかかり、車体が揺れた。急発進でわたしは床に倒れた。女は壁に手を突いていてそれを逃れた。
「ちょっと、いい加減にしなさいよ」
起き上がろうとすると、女は一歩前で出て銃をかちゃりと鳴らし、わたしの生死を握っているのはあっちだと思い知らさせてくれた。
「お願いだから脱いで。撃ちたくないの。少なくとも今は」
「服が欲しいならバッグに入ってるのをあげる」
女は首を振った。それで前髪が揺れて顔が見えた。ハーフだ。とわたしは思った。東洋人、言葉から推測すればおそらく日本人と白人の。
「聞き分けが悪いわ。アスカ。これは本物の銃なのよ」
聞き分けのくだりを含めて、その言葉が真実なのは良く分かっていた。途端に胃袋がせり上がり、時間を稼ごうとする思考が吹っ飛び、これまで抑えていたパニックの靄がかかった。
「あんたネルフの人間なんでしょ。誰の差し金?」
どうにか言った言葉は裏返って間抜けな声になった。
「早くしろって!本当に撃つよ、手?足?どっちがいいの?どっちも痛いわよアスカ!」
女が大声をあげた。声は密閉された荷台の中をピンポン玉のように跳ね回った。そんな古典的な手口に引っかかって、わたしは諦めて服を脱ぎにかかった。
指は手袋をはめたみたいに動きが悪く震えていた。手間の掛かるボタンのある服を着てなかったのが幸運なのか不幸なのかは分からなかった。座ったまま上着を脱いでキャミソールだけになり、スニーカー、靴下、カーゴパンツと順番に脱いだ。それで相手が満足してくれている様子が無かったので青のキャミソールも脱いで、下着だけになってから相手を見た。
「全部ね」
女は機嫌を直して悪戯っぽく言った。何がしたいのか分からず、哀願するように女を見上げた。車体が揺れて下着だけの尻にベニヤ板の表面がすれてチクチクする。
「アスカはどうだか知らないけど、私はレズじゃないから心配しないで」
女は銃の先を振って促した。
「そっちの方がよっぽど心配になるんだけど」
わたしは観念して全て脱いで、床に見重ねた服の上に下着を置いた。荷台内に空調があるとは思えなかったが、不思議と熱くも寒くもなかった。
「背中で手を合わせて、こっちに来て」
言われたとおりに背中で手を合わせて後ろ向きに近づいていった。手を縛るつもりだとはっきりしていた。そうなったら全て相手のなすがままだ。手を縛る瞬間に一か八かを掛けてみるべきか、真剣に悩んだが、それは呆気なく終わった。手首に冷たい感触がして重くなった。振ってみると鎖の揺れる音。
足にも手錠が掛けられて、いよいよ絶望的な状況になった。
女はそれで安心し、安全装置をかけた銃をベルトに挟んでからわたしを折りたたんだダンボール箱の上に移動させた。
こうなると恐怖が去って怒りに取って代わった。
「やっとゆっくり話せるわね。アスカ」
「アスカアスカって気安く呼んでもらいたくないよ」
その言葉に女はひどく傷ついたような顔をした。わたしのブラの肩紐の片方に指をかけて持ち上げた。ブラはひどく貧相な吊り上げた魚のようだった。
「私たちは友達になれると思うの」
「友達になりたいの?なら人付き合いの仕方を勉強しなおした方がいいね」
女はぶら下がっていたもう片方のストラップを指でつまんだ。まるで売り場で吟味するように、またはわたしのカッブを調べるようにして裏と表をひっくり返し、足元に落とした。
女は何も答えずに車内の中央まで進んで振り返った。ちょうど頭上に豆電球があり、顔がこれまでで最もよく見えた。
女はそんな私をじっと見つめながらウロウロと歩き回った。何かの決断を迫られているように見えた。
かなり長い時間(といってもせいぜい10分ぐらいだろう。わたしの脳内時計は完全に狂っていた)が過ぎて、こちらが根負けして投げかける言葉を探していると、女が急に近づいてきて、言葉の捜索作業を中断せざるを得なかった。女は手を伸ばしてわたしのヘソの辺りに手のひらを当てた。手は冷たかった。
「きれいな肌ね」
「あんたほどでは無いよ」
「それはお世辞?」
「本当にそう思ってる」
女はふーん、と鼻を鳴らして上からわたしを見つめた。両手を背中で拘束されているので、わたしの体勢はバランスが悪く、車が角を曲がるたびに倒れそうになった。どこを走っているのか見当もつかない。
「わたしからの質問は受け付けないの?」
「いいわ、言ってみて」
あおぐように手を振って見せた。
「あんたはネルフの人間なの?あれはまだ存続してるの?」
間があった。「それはまだ言えないわ」
じゃ、わたしは今できる精一杯の復讐に満足した。「じゃ、ネルフの存在は知ってるんだ。あんたはネルフと何らかの関係があるってことだよね」
女はそれが気に食わなかったらしく口を尖らせた。
「当たり前でしょ。それ以外にあなたに何の価値があるって言うの?美人ならこの世に幾らでもいるのよ」
苛立ちと不安が雨のように降ってくる。
「目的が何なのか教えてよ。ネルフに連れてかれるの?」
「こっちにも事情があってね。迷っているのよ。私は」
「わたしを殺すかどうか?」
「それも選択のうちにあるけど。できればそうしたくない」
わたしは首を振った。もうどうにでもなれと思い始めていた。
「今度は私の番」
女はそう言ってわたしの前で立てひざを突いた。蹴り上げてやりたかったが、足は微妙に届かない位置だった。
「エヴァに乗ってるとき、どういう気持ちだった?」
わたしは一切の動きを止めて女の顔を見つめた。
「思い出したくない」
「言って」
「嫌よ」
「なぜ?」
「思い出したくないから」
女はやれやれと言う風に俯いた。次の瞬間には左のこめかみに銃口が突き付けられていた。
「自分の立場が分かんないぐらいバカなの?それとも私の事をバカだと思ってる?どっちにしても気にいらない」
その剣幕にわたしは口にしたことを激しく後悔した。心臓が悲鳴を上げて緊張し、反対に股間が緩んだ。漏らすまいとわたしは必死に力を入れた。
「家に帰してあげる」
目を閉じて人生が終わるのを待った。連絡が途切れればヒカリが心配して部屋に来るだろう。そしてヒカリはわたしを見つけてくれる。
死体になったわたしを。
目を閉じて人生がぷっつりと途切れるのを待った。自分の汚点の多い人生を振り返る余裕なんてなかった。
顎をつかまれたと理解した瞬間、ひどく柔らかいものが唇に触れた。目を開くと女の顔が最大にまで接近して、女の額の際に生えている産毛がみえた。
わたしは反射的に顔を背けて拒否しようとした。
そこで女は顎をつかんだ手に力を入れて、混乱しているわたしの口を開かせた。
舌が入ってくるのかと疑がったが、そんなことはなく、女はそれで振り切るように顔を背けて口を離した。
軽い嗚咽のような仕草の後、女は銃を握った手の甲で荒っぽく口を拭った。わたしのほうはたぶん自分でも見たことがないような表情をしていたに違いない。
女は何も言わずにポケットから携帯電話を取り出して片手で番号をプッシュし、すぐに切った。
わたしの思考は混乱の極みに達していて、全てが遠くに感じられた。
しばらくするとトラックが止まった。女は銃をこちらに向けつつ手錠を解いた。
「服を着て」
わたしはそれに従った。すると扉が開いた。男がそこにいた。
「帰っていいわ」
女が言った。驚いたが歓迎すべきだった。わたしは這うようにして外へ出た。そこはわたしのマンションの前、拉致されたのと同じ場所だった。女は中からわたしを狙い続けている。
「後ろを向け。エントランスまで行ってそこで立ち止まれ。こっちは向くなよ」
男に言われたとおりにすると、バッグが足元に転がった。
「忘れ物よ」
運転席のドアが閉まる音がした。トラックのエンジン音が聞こえなくなってから、振り返った。朝の日差しが誰もいない道に降り注いでいた。
床に落ちていたクレジット会社の封筒を拾い上げた。そしてその場にへたり込んだ。
頭がぐらぐらし、視界が曇った。酒のせいじゃなく、涙のせいだった。
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