獣は囁く
第19章 後
ひっそりと静まり返った廊下を抜けて、突き当たりの角を曲がると、ロビーに人が集まっているのが見えた。シンジにファースト、それに知りすぎてしまったヒカリとマヤの4人が、忙しく立ち回っている軍人の中で所在無く隅に集まっていた。
ヒカリの困ったような浮かない顔を見て、とんでもない事実に気が付き、思わず歩みを止めた。
3号機とそのパイロットを抹消させた使徒がわたしの体にいる。そのパイロットは鈴原トウジだ。
わたしは平常心を保つために深呼吸をした。まるで自分がトウジを殺した犯人のような気がした。ヒカリはわたしに関して誰よりも詳しい人間で、こちらの嘘や気分をすぐに見破ってしまう。
絶対にバレちゃダメ。そうしたらわたしは何より大事なものを失ってしまう。
「アスカ!遅いよ」
彼女はいちはやくわたしに気がつき、こちらが必死でかき集めた平常心をサッカー選手のように蹴散らして、こちらに迫ってきた。
「エリカとお別れしてたから」
「ああ、わたしも挨拶してこよっかな」
「ヒカリの分もしてきたよ。少しは体を鍛えろって」
ありったけの真実味をかき集めて言うと、ヒカリは怪訝そうにわたしを見、身がすくむ思いをした。
このまま、ヒカリに黙ったまま一生を過ごさなきゃならないんだろうか?
そんなの絶対にムリ。
ちょうどそのとき、ミサトがやってきて、わたしの遅刻を責めた。
全員集合すると、吉村がスタッフを含めた全員を念入りに黙らせ、自分は内務省情報局長吉田トウジロウの代理で、全ての指揮権、決定権は自分にあると前置きした。
「A班は惣流アスカ、洞木ヒカリ、伊吹マヤ、葛城ミサト、青葉シゲルの五人を警護して東北自動車道へ、B班は残りの人数を連れて中央道から北陸道へ抜けること」
わたしたちは驚いて顔をあわせた。
「待ってよ」
吉村が軽蔑の目でこちらを見る。
「また君か、今度は何が不服なんだ」
「全員一緒じゃないの?」
「当たり前だ。適度に分散した方がリスクが減る。それぐらいは分かるだろう」
「あんたはどうして人の気に食わないことばっかり思いつくの?人に嫌われるのが趣味?」
みんな、愛想の欠片もないこの男にウンザリしているらしく、場の雰囲気がわたしに同調した。
「アスカ、やめなよ。しょうがないよ」
シンジが小声でわたしに言った。
「あんたは黙ってなさい」
わたしを止めたのはまたしてもミサトで、彼女は事前に知っていたらしい。直感的にミサトは何かを隠していると感じた。
その5分後には基地に出入りする車両の中でも、もっとも疑われる可能性の低い車両、配送業者のトラックの荷台にいた。
ひどく揺れて尻の痛くなる荷台は嫌でもエリカに拉致されたときのことを思い出させてくれた。ヒカリはバッグを抱き枕みたいに抱いた体勢で時々、わたしに話しかけてきたが、彼女とおしゃべりを楽しむ気分にはなれず、この気分が一生続かないことを願いながら、面白みのない荷台の床に視線を固定していた。
ヒカリが耳元に口を寄せて言った。
「アスカ、もしかしてアレが始まった?」
すぐに生理のことを言っているのだと思い当たった。そろそろその周期に入る頃で、ひどい貧血と頭痛と腹痛に苦しめられる一週間がやってくるのかと思うと、気分はますます沈んだ。
「まだよ」
「そう、なんか様子が変だよ。何があったの?」
「何にもない、わたしだって心配なのよ」
それでヒカリは納得したフリをしてくれたが、なんとなく気まずい雰囲気が流れた。
ミサトはなんの表情もなくその様子を眺め、隣のマコトは電池に直結された豆電球の明かりを見つめていた。
1時間ほどして、最初の休憩があった。トラックがゆっくりと停車し、扉が開かれると、マグネシウム灯の青っぽい帯が床に落ち、扇のように広がった。
「トイレ休憩よ」ミサトは立ち上がりながら呟いた「アスカは?」
「わたしは、いいわ」
そう答えたのに、ミサトはわたしの手を引っ張った。
「行けるときに行っておいたほうがいいのよ」
トラックは高速道路のパーキングエリアに停車していた。他にエンジンをかけたままの乗用車が1台、少しはなれたところに止まっている。護衛だろうと当てをつける。
ミサトと二人でトイレに入り、手洗い場でぐずぐずしているミサトを残して個室に入った。
掃除されていたが古い洋式トイレで、どうやってもそこに座る気分になれず、用を足さずに出てしまおうとした。そのとき、仕切り板の上から紙が飛んできて頭に当たった。
「紙がないの?これを使って」
ミサトの声がした。
ポケットティッシュを拾い上げると、異質な紙が挟まっていて、それを開いて中の文字に目を通す。
「本気?」隣に入ったミサトに問いかける。
「本気も本気よ」
「どうして逃げる必要があるの?」
「このままじゃマズいからよ」
「何がまずい?」
「レイが死ぬわ」
「クローンの限界…がきてるのね?」
ええ、わたしがそのことを知っていたことに驚きも見せずにミサトは続けた。
「すでに不整脈が始まってる。心臓はいつ止まってもおかしくない。1年以内には必ず止まる。その前に助けるのよ」
「どうやって?」
「新しい体に移すのよ」
「新しい体?クローンがあるの?」
「あるわ。加持君が見つけていてくれていたの。今もネルフの奥深くに眠っている」
「加持さん…」
加持リョウジの姿は今も心に男の理想像としてしまってある。とにかくセクシーで、やさしくて、格好よかった。10年前、ミサトは彼が死んだことをわたしに言わなかったが、ちゃんと分かっていた。その時のミサトの様子を見ればすぐにわかった。当時のわたしは、加持さんへ寄せる想いは世界一という自信があったけれど、それが思い込みだと思い知った。
なぜなら、わたしはミサトほどには泣けなかったから。
「どうして私たちだけでやる必要があるの?日本政府に頼むのは?」
「だめ。政府は信用できないわ。吉田トウジロウは碇ゲンドウよ」
「まさか」
「全身整形して、骨格まで変えているから傍目には分からないけど、以前を知ってる人はすぐ分かる。性格がアレだもの」
「シンジは知ってるの?」
「知らない。彼はあなたたちに自分の存在を伝えないように私に言ってきたの」
「どうして」
「しらないわよ。でもレイを新しい体に移せると知ったら、どうなると思う?あの子は10年前に逆戻りよ」
「あいつなら喜びそうよ」
アスカ、とミサトは起こった声で言った。どうも再会以来、怒られてばかりいる気がする。
「あの子はおもちゃでも兵器でもないのよ。あの子には普通の人生を送る権利があるのよ。私たちは一度、彼女からそれを奪ったわ。私達は当然の権利をレイに返したいの。それだけ。それが私たちと加持君の意思なのよ」
「なんでヨーロッパのクローンを破壊してたの?」
「日本のレイを救っても、ヨーロッパで同じ境遇のレイが生まれたら、何の意味があるの?でも、1体はしくじった。破壊できなかった」
「それって」
「それについて今は考えたくない。今は私たちがよく知っているレイを救うことが先決なのよ」
「ヒカリとマヤはどうするの?」
「あの二人はこのまま日本政府に保護してもらったほうがいい」
「わたしに対してはそう思わない?」
「あなたは当事者だし、レイの親友でしょ?」
「わたしが親友?あいつの?」
「そろそろ疑われるわ、やるわよ。手順は覚えたわね?」
「まってよ」
ミサトは言い終わる前にトイレを出た。わたしはトイレに止まって待った。
すぐに大勢の人間がやってきて、ドアをたたいた。わたしはメモに書かれたとおりに答えた。それはわたしの本心だったので難しいことじゃなかった。
「絶対に出ない!東北なんて行かないからね」
ボディーガードたちが騒ぎ出し、押し問答がしばらく続いた。
一人がしびれを切らして、出てこないなら力ずくで引っ張り出すぞと脅し、やれるもんならなってみろと言うと、扉の上から男が顔を出した。
「見んなよスケベ」
投げたトイレットペーパーのロールが顔にあたり、男が向こう側に落っこちると、ドアががたがた揺れ始めた。両手でそれを押さえていると、わたしに平穏な日々は二度とやってこないんじゃないかという気がした。
ドアが壊れる寸前で鍵をあけて外に出て、宇宙船から引きずり出された宇宙人よろしくボディーガードに囲まれてトイレを出た。
トラックの荷台の外にヒカリとマヤが姉妹のように立っていて、多少あきれた様子で連行されるわたしを見ている。
駐車場を取り囲む防音樹林の茂みの中から立て続けに2発の銃声がすると、ボディーガードたちは訓練どおりの反射的衝動にしたがってアスファルトの上に伏せた。
わたしも同じように伏せの体勢を取らされたまま、次に起こることを待っていた。ボディガードの数人が銃を構えて遮蔽物から遮蔽物へと移動しながら茂みの方へと近寄っていく。
わたしは一気に立ち上がると、彼らか注意を払っているのとは逆の方向へ全力で走った。
たちまちにその場は大混乱に陥り、止まれと命令する怒号が静寂を押しやった。茂みに近づく者とわたしを追っかける者とが二手に分かれたので、駐車場が瞬間的に無人になった。
指示の手順を思い返しながら、何が収納されているのか分からない小屋へと駆け寄り、ぐるっと迂回して裏に回った。そこでマコトに抱きとめられる。
マコトはわたしを追ってきたボディーガードを次々にスタンガンで気絶させ、今度は駐車場にむけて走り出した。わたしもその後を追う。
ヒカリとマヤは荷台の中に避難したらしい。わたしたちはトラックを通り越して乗用車を目指した。ただ一人、防弾ガラスで守られた車内に残っていた一人がわたしたちに気がついて扉を開ける。
マコトは開けてくれた後部座席にはめもくれず、運転席のドアを開くと、驚いている運転手の頭にスタンガンを押し付けて外に引っ張り出した。そのまま後部座席に滑り込む。
マコトがサイドブレーキを解除してアクセルを踏むと、車は急発進した。体勢を崩しながらも、どうにか素早く助手席に移動した。
車がトラックの側を通り抜けようとしたとき、サイドブレーキのバーを引っ張り上げた。凄い衝撃でフロントガラスに前に投げ出されそうになり、マコトはハンドルに頭をぶつけた。
「なにするんだ!」
「あの二人も連れて行くの!」
助手席を飛び出してトラックの扉を開くと。マヤとヒカリの二人が身を固くしている。
「二人ともはやく来て!」
二人が後部座席に乗り、助手席に足を踏み入れると車は発進し、慌てて扉をつかんでスタントマンさながらに乗り込んだ。
車はパーキングを出て先細になって続く合流斜線をすっとばし、先端のところで待ち受けていたミサトを拾い上げた。
「大成功。ちょろいちょろい」
ミサトはヒカリとマヤの足の上に乗ったままピースサインを作ってわたしに向ける。
「ぜったいにロクな死に方をしないわよ」
わたしが言うと、ミサトは狭い車内で身を起こしながら「でしょうね」と言った。
ヒカリとマヤの目ははっきりと説明を求めていた。だがそれを言葉にしたのは別の人物だった。
(いったいどうなってる?おい!報告しろ。聞いているのか)
本来カーオーディオがあるべき場所には無線機が納まっており、螺旋状のコードにつながった通話機が運転席の床に落ちていた。コードを引っ張って通話機を取り、後部座席を振り返ると、ミサトが肩をすくめた「言ってやんなさいよ」
通話機を口に寄せて、スイッチを押した。
「聞こえてるわよ」
吉村は黙り、そして言った。「惣流アスカだな。無事か?いったいそちらはどうなってるんだ」
「これであんたのマヌケっぷりが証明されたわね。あなたの大切な警備対象者はまんまと逃げ出したわ。どうぞ」
「引き返せ、今すぐに引き返すんだ」
吉村が怒鳴ったのを胸がすく思いで聞いた。
「わたしの何が気に入らなくて、あんなに見下してたわけ?まっとうな理由があればその気になるかもね」
「そんなものない。お前の被害妄想だ」
「そう?顔にははっきりとそう書いてあったけど」
「私の言うことを聞いて、今すぐに引き返せ。警告だ」
「あんたはわたしの言うことを聞いて、始末書の文面の構想を練ればいいわ」
無線機の電源を切り、わたしは笑った「あー、すっきりした」
「よくやったわ。アスカ」
ミサトは笑っていたが、その両脇の二人は笑っていなかった。混乱の深まった目でわたしとミサトを交互に見た。
「説明はミサトに任せるわ」
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