獣は囁く

 第19章 前

 わたしの乗る車には護衛車両が2両、前後を固めていて、まるで自分が大物政治家かどこかの国の姫にでもなった気分だった。
 隣にはシンジとファーストが乗っている。シンジは横顔を白日にさらして、うたた寝をしており、ファーストはここ数日で回復した顔色を前方の運転席に向けていた。
 車はショッピングセンターに入り、地下駐車場でわたしたちを下した。ボディガードに守られたわたしたちを買い物客が何事かと眺めていた。
 わたしはその視線をここちよく感じながら、あとを着いてくる二人に言った。
「さあ、買うわよ。テンションが上がるわ!」
アスカ。とシンジが周囲を気にしながら言った。
「別にわざわざ来なくても、通信販売でも良かったんじゃないかな」
わたしは指をシンジの鼻先に突きつけた。
「分かってないわね。ショッピングっていうのは商品の実物に囲まれてするから楽しいのよ。分かったらあんたたちも何か買いなさいよ。同じのばっかり何度も着ないでよね。汚なったらしいんだから」
ショッピングセンターのテナントは、わたしの気に入っているブランドが幾つか欠けていた、ロペやミシェルクランとか。それでもしばらく抑圧されていた買い物欲を満たすには十分だった。
 二人は金魚の糞みたいにわたしの後をくっついてきて、それで特に商品を物色するでもなく、居心地が悪そうに突っ立っている。
「ねえ、あんたたちは何も買わないの?」
「あんまりこういう場所で買い物するのに慣れてないから」
「そうやって犯罪者みたいにしてたら、いつまでたっても慣れないわよ」
わたしに促されて、ふたりはしぶしぶ物色を始めた。シンジは店員に話しかけられて、ぎこちなく受け答えをし、ファーストは気乗りしない風に、ハンガーに吊るされたスカートを図書館で本を探すみたいに見ている。時折、手を止めるのはどれも地味で、自分を老けて見せたがっているのだろうかと思った。
 わたしが一抱えの服をレジに運んだ時も、二人はまだトロトロと物色を続けていた。
「いつまで見てんのよ?今、持ってるのでいいわよ」
店員が会計は一緒でいいかと聞いてきたので、わたしは手元に戻ってきた財布からクレジットカードを出す作業を中止して、カウンターに肘から先をついてラインを作った。
「ここから先は別会計でお願い」
シンジが急にもぞもぞし出したので、わたしは薄目で見た。
「アスカ、僕たちお金がないよ」
「お金が無いのに買おうとしてたの?」
「しょうがないだろ、働いていなかったんだから」
わたしはわざと大きく舌打ちして、困惑の混ざった微笑を浮かべている店員に言った。
「会計は一緒でいいわ」
カードを装置に通し、店員が梱包した商品を受け取った。それをそのままシンジに押し付けた。
「何で僕が持つんだよ。自分で持てよ」
わたしはコルセットを外したばかりの胸を押さえた。「肋骨が痛い。誰かに撃たれた胸が」
「もうちっとも痛くないくせに」
「命の恩人を撃った上に、代金をおごって貰って、それで荷物の一つも持ってあげようって気持ちは起こらないの?あきれたもんね。犬にドッグフードを買ってあげたほうがよっぽどいいわ。そのほうが安上がりだし」
わかったよ。とシンジは小さく言った。わたしはファーストが持っている袋も奪い取った。
「あんたは病人なんだから持たなくていいのよ」
その袋もシンジに押し付けた。それについてファーストも特に遠慮はしなかった。
 わたしたちはそれからカフェに入った。
 わたしとファーストは運ばれてきたパフェを黙々と口に運んだ。
「基地の食事って美味いことは美味いけど、やっぱり甘いものに関しては劣るわね。こういう場所で食べるのが…シンジ、あんた何をにやにやしてんのよ?」
「いや、アスカは変わってないなあ。って、アスカのそういうところが好きだよ」
わたしは肩をすくめ、ストローを包んでいた紙を丸めて投げつけた。
「そりゃ、ありがとさん」
ファーストは聞いていない様子でグラスの下に残ったアイスに取り掛かっている。
 不意にわたしは強い既視感を感じた。よく考えてみるとそれは神秘でも何でもなく、10年前にまったく同じような状況があったことを思い出した。
 その時はシンジはコーヒーでなくジュースを飲んでいた。そしてわたし達の周りをボディガードが警護していなかったけど。
 買い込んだ商品を防弾加工された車両のトランクに積み、わたしたちは基地へ向けて発進した。
 シンジはまたうたた寝を始め、ファーストは血糖値の上昇が起因と思われる顔色の良さで、前を見つめている。
「わたしもそう思う」
ファーストが独り言を言った。「惣流さんは変わってない」
「わたしがどう変わっていたら満足だったって言うの?」
いいえ。ファーストはこちらを見なかった。
「羨ましいのよ」
部屋に戻ってくると、エリカが猛烈な勢いでサンドバッグをいじめていた。1年や2年では身につかない、流れるような動作で手や足を繰り出していた。
 エリカははっはっと短い息を出しながら、素人が見てもわかる腰の入った強烈な突きをバッグの一点にひたすらにうち続けている。
 バッグを自分の身に置き換えてみて、彼女がみぞおちのあたりを狙っているんだとわかった。あんな突きを食らったら脆い剣状突起は粉砕されて内臓に飛び散るに違いない。
「そんなの、絶対にくらいたくない」
エリカは肩越しに振り返ってわたしの存在に気が付くと、まるで突然に敵が背後に立ったように乱暴な掛け声を出してサンドバッグを殴りつけてトレーニングを終わりにした。
 椅子にかけていたタオルを引ったくって首にかけてクールダウンを始める。
「買い物はどうだった」胸が焼け付くような呼吸をしながら、途切れ途切れに言った。
「楽しかったよ。すごく」
わたしはそんなに自分をいじめて何が楽しいんだろうと思いながら、買い物袋をテーブルに運んだ。冷蔵庫から水のペットボトルを出して彼女に投げてやる。「ヒカリは?」
「リハビリにボクササイズは激しすぎるよ。今は外をウォーキングでもしてるんじゃない?あの子にはその方が合ってるね。いくら威力のある殴り方を教えても使うことは一生なさそうだし」
「まあね」
わたしは気のない返事をして購入してきたものの吟味にとりかかり、エリカは冷える前に汗が洗い流しに向かった。その間にヒカリが戻ってきた。彼女はストレッチ用の運動着を着ていたが、一切汗をかいていなかった。どこにいたのかと尋ねると、トレーニングルームの休憩室でお喋りをしてきた。と答えて恥ずかしそうにした。
 わたしはヒカリが体育会系の筋肉バカか熱血バカに弱いことを知っていたので、その両方が揃っているこの場所はヒカリにはさほど居心地が悪くないんだろうと察した。
 ヒカリはわたしが服を体に当ててチェックするのを手伝ってくれ、あれこれと自分の思いつくままに批評をした。時には辛らつなこともあったが、中には友情というべきものが詰まっており、わたしを怒らせずに批判めいたことができるのは彼女以外にはいない。
 その立場に今、もっとも近い位置にいるエリカが戻ってきた。黄土色のチノパンにタンクトップを着ていた。運動後のすがすがしい顔と右腕を覆う腕の火傷の跡が対照的だった。
 火傷は表向きはS2機関の搭載実験中の事故、実際は4号機に寄生した使徒が起こした災難の際についたものだ。
「あんたたちを見てると世界は平和そのもの。って感じがするよ」
はしゃいでいるわたしたちに皮肉をぶつけて、ホルスターのストラップを止め、金庫から出した銃を納めた。
 彼女の所属しているNIHISは今、エヴァとその元パイロットをめぐる一連の騒動からはじき出されまいと、必死になって米国議会と交渉をしている。彼らの言い分は自分たちは日本政府の要請に応じた米国政府によって、元パイロットの3人を保護するために使わされ、その通りの成果を上げた。であり、日米政府はそれを差し引いても、街中で銃撃戦を繰り広げ、日本国土に衛星レーザーが打ち込まれた責任を取らせようと考えていた。
 つまりはエヴァやそのパイロットたちのことは良く知っていても、戦争で役に立たないNIHISはこれ以上、事態をややこしくさせないためにご退場を願う。ということだった。
「9号機がアホなダミープラグで暴走しなけりゃ、NIHISは今頃、スタープレイヤーだったのに」
NIHISの抵抗の一部として日本に止まっているエリカは悔しそうにそう言っていた。
「10号機、環太平洋連合の唯一のエヴァは日本にあるのよね?」
商品の過剰な包装がそのまま過剰なゴミになっていた。わたしはそれをまとめてくしゃくしゃに圧縮してエリカに投げた。
 エリカはとっさに火傷跡のある腕を伸ばしたがキャッチし損ねて、床に転がった。
「日本のどこにあるの?」
「知らない」
ゴミ箱にシュートしたゴミのボールはゴミ箱をふさいで左右に揺れたが、倒れる寸前で持ちこたえた。
「教えてよ。今度は世田谷区桜新町の磯野家の下?」
「そのアニメは見たことがある。母親が見てた。わざわざ日本から送ってもらって見る意味がわからなかった。一緒に見た友達が言ってたよ、主人公の女は絶対に不倫してるって」
「磯野家の家庭事情に興味はないのよ。わたしは」
「本当に知らないよ。もしもの時に奇襲で核を落とされたらおしまいだろ?もっとも今がそのもしもの時なわけだけど」
「どこにあるんだろう」
「磯野家が?」
「バカ」
ヒカリがくすくすと笑った「二人とも面白いね」、それにつられてわたしも笑った。
 やれやれと思いつつ衣類を畳んで備え付けのたんすにしまった。
 内線電話のパターンで電話が鳴り、近くにいたエリカが子機を投げてよこした。それをキャッチして耳に当てる。
 電話の相手はすぐにC棟の応接室に来るように、と無駄な言葉を一切くわえずに告げた。
「呼び出しをくらったわ」
「私もついてく」エリカが言った。
「じゃあ、私も」とヒカリも追随する。
わたしたちは部屋のある棟を出て、暑い日差しに照らされながらカーゴ乗り場へと歩いた。
 戦略自衛隊千葉基地は2千メートル級の滑走路を一本もっていて、グラウンドや装甲車の列の向こうにヘリコプターが見えた。ゴーっと大きな音がして上空から小型ジェット機が滑走路に向かって降下してきていた。
 カーゴに載ってボタンを押すと、カーゴは磁力の力で音もなく地上から浮き上がり、滑るように動き始めた。まるで世界が動いているように景色は流れ、幾つかの中継地で人を乗せたり下したりしながら、目的地へ向かっていった。
 C棟の入り口に降り立つと、軍服姿の出迎えに導かれて応接間へと通された。ジェラルミン製の扉の前には何人かの軍人が屯していた。
 彼らはわたしだけを中に通し、エリカとヒカリには首を振った。エリカが抗議したが彼らは聞く耳を持っていなかった。
 応接室の調度は高級で、ここが軍事基地の中だと一瞬忘れてしまうところだった。
 牛革の柔らかそうなソファにはシンジとファーストがいて、窮屈そうにしていた。
 わたしが二人の反対側のソファに座ろうとすると、入り口に立っていた男にそちらの席は空けておくように。と注意され、仕方なくファーストの隣に座った。パフェの魔力はとっくに切れたらしく、ファーストは疲れた顔をしている。
 壁に掛けられたドガの絵のレプリカを見つめていると、部屋の外で動きがあり、扉が開いた。わたし達三人は誰もそちらを見なかった。
 前に腰掛けたのは見知らぬスーツの男で、外国帰りの疲れを全身から漂わせていた。その男はソファに座って私たちと対峙するなり左足を振り上げて右足の上に乗せた。折り返しのついたスラックスの裾から底にすら汚れのついていない革靴が見える。
「君たち三人は」男は出方を待っているわたし達に向かって言った。
「ここから別の場所に移ってもらう」
やっとこの場所にもなれて居心地が改善してきたところだったが、台無しにされて大仰に眉をしかめて見せた。
「ここは君たちの安全を確保するのに万全とは言えない」
「山ほどの武器と兵士がいるのに?」
「いま最もが懸念しているのは狙撃だ」
「核シェルターにでも連れてってくれるの?」
いや、男は言ってスーツの内ポケットに手をやって3つに折りたたまれた紙と取り出した。取り澄ました様子が、最初に見た時点から嫌いだったが、たった今、大嫌いにかわった。
「知っていますか?基本的に暗殺者に場所を知られてしまったら、身を守るのは不可能なんですよ。どんな厳重な警護にもいつか必ず隙が生じます。奴らはその瞬間を待って物にするんです」
「あっそ」
わたしが言うと、シンジが首を動かしてこちらをみた。
「わたし達の安全のためだっていうなら、文句は言わないけど、こっちもあちこち移動しっぱなしでウンザリしてるのよ、できればしばらく腰を落ち着けられるといいわね。あんまり田舎は嫌よ。最低でも買い物と甘い物には事欠かない…」
スーツの男が突然に手のひらをこちらに向けたので、不覚にも黙ってしまった。
「そんなことはどうでもいいんですよ」
男はこちらを小ばかにして言った。自分の話を遮られるのが大嫌いなわたしはむっとした。
「安全上の問題はですね」
まるでこちらが理解できないとはなから決めてかかっているような口調だ。
「警護対象者、あなたたちのことですよ。がウロチョロして暗殺者の前に身をさらすことなんです。じっとしていてくれれば安全性はぐっと高まる。3人まとめて外出するなんて狙ってくれと言っているような物です」
わたし達の行動が記されているらしい紙をコチラに向けて振りながら言う。
「わたしの安全と、あんたに何の関係があるわけ?わたし、あなたの名前も知らないんだけど」
「吉村です。内務省に勤務しています。先ほど、あなたたちの身辺警護の責任者に任命されました。これで十分ですか?では、まずはあなたたちの身柄を…」
「あんたがあたしを警護?」これみよがしに下から上へと体を見てやる。「ヒョロヒョロじゃない、あんたが警護じゃこっちはチワワに噛み殺されちゃうわよ。いい?まずは自分がちゃんと名乗りなさいよ。別に礼儀がどうこうって事じゃないのよ、それが…」
「警護対象者が無駄な知識をつけていないほうが都合がいいこともある。まずは移動です。すぐに準備を始めます」
吉村は話を打ち切って立ち上がろうとした。
「ぜえええええったいに嫌よ。あんたが責任者の限りはここから動かない」
今度は彼も苛立ちを隠さなかった「手荒になってもそうしますよ。理由のない馬鹿げた対抗意識に付き合って私の職務が邪魔されるのは御免ですから」
「わたしもあんたの馬鹿げたエリート意識に付き合う気はないから」
「こちらには政府に認められた権限がある」
「じゃ証拠見せてよ。首相のサイン入りのやつ」
「ヒステリー女」
わたしは一瞬、黙り、そして頭の中で血管が50本はまとめて切れる音がした。
「あんたみたいなのが一番ムカつく。そっちがその気ならこっちにだって…」
「アスカ、やめなさい」
「うるさい!」
大声を出したあと、はっとした。
「その人の言っていることは本当よ。あなたたちの身柄は戦略自衛隊から内務省情報局に移管されます」
「ミサトさん!」シンジが声を出した。
ミサトが腕を組んで扉のところからこちらを見ていた。その後ろに立っているのは日向マコトだとわかった。さらに後ろではエリカがこちらを見ている。
 吉村が革靴をコツコツ鳴らして扉に向かい、ミサトは道を開けてやった。
「噂以上の問題児だ」
「すまないわね」
吉村は最後にわたしを睨み付けて出て行った。
 ミサトとマコトが部屋に入り、エリカがそれに続こうとしてガードマンに阻まれた。扉が閉まる時、エリカは青葉シゲルと会話を交わしていた。
 二人はソファと扉の中ほどに立って、まずはシンジを懐かしそうに見て、次にファーストを心配そうに見、最後にわたしを咎めるように見た。
「つのる話は後まわしよ。まずは移動しましょう。彼の言っていたことは真実で、ここにいるのは危ないわ。明日の夜にイギリスの衛星レーザーが日本の上空を通過するから」
「ミサトもあいつの仲間?」
「ここに来る前に吉田トウジロウと話したわ」
「だれなの」
「内務省情報局長よ」組んでいた腕を解いて腰に当てた。
「彼が身柄を引き受けたいと首相に願い出て許可された。あなたたちは警護重要度で最高レベルになっている。本人の意思とかは関係ないわ」
「その人はどうしてわたしたちを?」
「彼は建造中のエヴァに関する権限が与えられている人間で実質的な責任者なの」
「戦略自衛隊が造ってるんじゃなかったのね」
「戦略自衛隊は10年前と同じ武器製造を担当しているだけ。自衛隊の基地や施設はすべて欧州連合体が把握しているから、彼らに保護を任せるわけにはいかないの。それにレイにはもっと充実した医療機器が必要だわ」
全員がファーストを見て、彼女の言葉を待ったが、ファーストは疲れた顔のまま何も言わなかった。
「レイの体は限界ギリギリのところまできてる。もう1年持つかどうか分からない状態なのよ」
「綾波を助ける方法は分かったんですか?」とシンジ。
ミサトはつかのま、うつろに床に視線を落とした。わたしはミサトがヨーロッパに保存されているクローンを破壊してまわっていたことを訊くことを考えた。だが、ファースト本人を目の前にして口に出すことははばかられた。
 ミサトとシゲルは視線を交わし、二人だけの意思疎通を図ったあとで言った。
「今はここを出ることが先よ。今日の夜、移動するからみんなは用意をして頂戴」
「どこにいくの?」
ミサトは首を振った。彼女はひどく疲れていて、10年前はなかった目尻の皺がその印象を強くしていた。彼女は10年という実際の年月以上に年を取ってしまったみたいだった。
「知らないわ。私もこれから掛け合うところ」

 荷物をまとめている間、エリカはこちらを無視してサンドバッグを殴っていた。
 全ての用意が終わったのは午後7時で、太陽は沈みかけていた。わたしが声をかけるとエリカは微笑んでこめかみから頬に垂れてきた汗を拳でぬぐった。
「お別れだよ」
エリカが肩をすくめて言った。わたしはミサトを通じてエリカを同行させて欲しいと吉村に頼んだが聞き入れられず、砂を飲む気持ちで彼に直接頼みに赴いた。吉村は鼻で笑って拒絶し、警護は自分たちで十分足りていると答えた。土下座でもして優越感を満たしてやれば望みもあっただろうが、わたしには到底ムリなことだった。
「次に日本に来る時は休暇で来てよ」
「そうする」エリカは素っ気無く言ったが、本心がどうか分かるぐらいは彼女と時間を過ごしている。
「色々、ありがとう」
わたしは荷物の詰まったバッグを肩にかけた。それから少し悩んで付け加えた。
「10年前、あなたがいてくれたら良かったのに」
「ああ、そうだね」
わたしは頷き、軽くハグをしてエリカから離れた。彼女に背を向けて歩き出した。するとエリカが腕をつかんだ。
「待って。まだ言ってないことがある」
腕をつかんでいる力の強さに驚いた。エリカの眼はシリアスそのもので、わたしを通り越して、何か別のものを見ているようだった。
「最初に会ったときのことを話してない」
「マンションの前でわたしをさらったこと?」
「そのすぐあと、トラックの荷台のなか」
「わたしを裸にしてくれたわね」
「そして私はアスカにキスした」
「レズの告白?」
「そのほうがマシかも」
腕をつかんでいる力を幾分弱めてそう訊ねたが、声は緊張している。
「あの後、数日に渡って何度も吐いたね」
わたしはこの一連の騒動に巻き込まれるきっかけとなった出来事を思い返した。彼女のいうとおり、あのあと数日に渡って嘔吐する日が続いた。
「何?何よ?」
霧のように立ち込め始めた不安を抑えて言った。
「こたえて」
「最悪だった」
「平衡感覚が狂うような、天地がひっくり返って、メリーゴーランドでそれを眺めるような感覚になったね?」
「ええ」今度は腹の底から黒いものが急成長を始める。
エリカ・キーリは目を伏せた。眉間に皺がより、謝罪の表情になった。
「どういうこと」
声が震えだしたのを自覚する。エリカは視線を上げた。
「第13使徒は細菌の形状をとっていた」
「どういうこと」頭がガンガン鳴り出した。その中で時計の音だけが大きく聞こえる。
「私の辛さを分かって欲しかった。ちがうね。同じ目にあわせてやりたかった。同じ境遇の仲間がほしかったんだ」
体が意思と関係なく奮え、息を吸っているのか、吐いてるのかさえ分からなかった。
 腕をつかまれたままじっと相手を見つめた。バッグが肩からずり落ちて床に転がった。
「ごめんよ」
アラビア語でもスワヒリ語でもいい、何か言いたかった。次にくる言葉を遮りたかった。
「この使徒は感染るんだ」
視界が白くなり、気絶しかけ、エリカが支えた。わたしは必死に意識を保とうとしたが、視界にかかった霧は濃くなっていく。
「しっかり」
筋肉が勝手に動いて、エリカの頬を張り飛ばし、その乾いた音が部屋に響いた。
「わたしに、わたしに、使徒を…」
振り上げた手を握り、真正面からエリカの顔を殴った。エリカはまったくよけなかった。鼻が曲がり、鼻腔から血が流れ出た。エリカはそれでもわたしから視線を外さず、そこをもう一度殴った。後にも先にも最高のパンチで、エリカの顔は横に弾かれた。
 震える手でバッグを拾い上げて肩にかけなおした。背を向けようとすると、エリカはわたしの腕から離していなかった手に力を込めてそれを邪魔した。
「アスカ聞いて、この使徒について私の知る限りのことをこれから話す。少しでも知って取り除く方法を探すんだ。できるだけ協力する。私のこれからの人生をそれに全て捧げてもいい」
口の中で湖みたいにたまった唾を飲み込み、睨みつけた。
「ふざけんな」
鼻が曲がり、頬がはれ始めた顔に複雑な表情が浮かんだ。罪悪と、本心の謝罪が届かない時のじれったさ、それに自分で起こした悲劇への同情が。
 エリカは押し倒すようにわたしを座らせた。自分の手を見ると、血の付いた拳骨が痛んだ。呼吸がはやく、どうにか落ち着こうとした。時間をかけて冷静を取り戻すほどの余裕はない。望むよりもずっと早口で喋った。
「何が起きてどうなるの?わたしも生身でATフィールドが出せるようになる?」
エリカは鼻を気にし、折れた軟骨をつまんでずらした。バキと音がして元のようになったが、自然な形にはなっていない。その手には自分の血がべったりとついている。
「たぶん無理」エリカは苦労して言った。
「第13使徒は増殖することはないんだ。アスカにうつったのはほんの僅かな量だよ」
「どうやってうつるの」
「粘膜感染する。キスとか、セックスで」
「どうやってそれを知ったのかきかせて」
外は夜のモンゴルの大草原のように静まり返っている。エリカは流れてくる血をシャツの裾で受け止めながら、かみ締めるように告白を始めた。息継ぎをするたびに目を開き、わたしを確認しながら。
「4号機が事故で消滅して、わたしは使徒に命を売って生き延びた。山の中で動けず、数日も吐いていたところをNIHISの生き残りたちに発見された。わたしは工作員になるための養成所に入れられた。これが9年前。それはクアンティコの近くのパントアドって町だった。
 訓練は地獄みたいにきつかったけど、わたしにはそれほど苦じゃなかった。もともと私にはこの方面に才能があったし、使徒のおかげもあった。持久力と治癒力が物凄く向上するんだ。周囲にあわせて疲れたフリをすることもしょっちゅうだった。通常6年かかるところを3年で終えて、一人前になって施設を出た。
 それからNIHISに戻されて工作員としての生活が始まった。ヨーロッパには何度も行って、その時に葛城ミサトが潜伏していることも知った。
 5年前、19歳の時に仕事で組んだヤツがいた。ビアリッツっていうメキシコ系移民の息子で年齢は10歳も離れてた。身長が2メートルあって、バッドで殴っても平気なぐらい頑丈だった。
 オランダのアムステルダムで私達は結ばれた。ファーストキスの夜がそのまま処女喪失の日になった」
エリカは様子をうかがうようにわたしを見て、晴れ上がった顔で辛そうな表情を作った。もういいわ。と言ってやる気はさらさなかった。
「ヤった日には彼は苦しみ出した。何時間も吐き続けて、最後は血を吐いていた。そうやって苦しみ抜いて死んだ。それで使徒はうつるってことが分かった。それと同時に自分の中の使徒の量が減っていることも分かった。
 次に死んだのはエドアルド、やっぱり仕事のパートナーだった。こちらは俳優ばりの色男で、私のことが好きだと言ってきた。別に嫌じゃなかったけど断った。そしたらあいつ、わたしを薬品で眠らせて、その間に強姦したんだ。私が目覚めると自分のヘドに顔を突っ込んで死んでたよ。
 その次がカイル。彼は一般人で、フランスにいるときにカフェで声をかけてきた。米国系投資銀行に勤めてるエリートで、本当にいいやつだった。この仕事から本気で足を洗おうかと考えたぐらい。
 ある時、二人でぐだぐだに酔っ払った時に、不意打ちでキスされた。彼もその数日後に死んだ。それで」
 エリカは言葉を切った。シャツの裾から片手を離して鼻をさぐり、乾き始めた自分の血を見た。
「もう血が止まった。私の中の使徒がせっせと傷を治してる」
手を握ると、みるみるうちに目にいっぱいの涙が浮かび、そうすれば流れ落ちるのを回避できるというように唇を固く結んだ。あまりに力を込めすぎて端が細かく震えている。
 次に口を開くと涙が頬を伝い、いつもの気丈な声は泣き声になった。
「私はもう人間じゃないってわかった。使徒になっちゃったんだよ。女としての、人間らしい幸福からずっとずっと、はるか遠いところにいるんだって。セックスどころか、軽い挨拶のキスもできない」
それからは言葉にならず、何とか話そうとするものの、絶え間なく続く嗚咽に邪魔され、ついにシャツを離して両手で顔を覆った。わたしは冷え切った心でそれを見つめた。彼女がまるで14歳の少女のように小さくなったように見えた。
「それで不幸をわたしに押し付けてやろうと思った」
エリカは顔から手を離した。
「でもできなかった。使徒は勝手に伝染るもので、私がその量をどうこうできるものじゃないんだ。それに、体から使徒がいなくなったら、私はたぶん死ぬ」
「わたしが死ぬ可能性は考えなかったの?」
「アスカなら大丈夫だろうと思った。免疫がある。使徒の側にいたからか、使徒のコピーのエヴァに乗っていたからか、はっきりと分からないけど。最初に見た時にアスカなら死なないって確信した。あの二人もきっと死なない」
わたしはいてもたってもいられなくなり、立ち上がって部屋をウロウロした。わたしは今、精神的にも立場的にもエリカより上の立場にて、ソファにどっしりと構えているべきだったが、とてもそんな気にはなれなかった。
 バッグをつま先でつつき、時計を確かめ、集合時間が迫っているのを確認し、腰を伸ばしてエリカを見つめる。彼女はたっぷり1時間はしかられた後のように肩を落として俯いていた。少なくとも彼女が後悔をしていることを確認した。
「わたしは使徒と生きるなんて嫌よ。何とかして追い出すんだから。わたしはあんたと違って、使徒に借りなんてない」
エリカが小さく答えた。
「そんなことない、この2週間、訓練も受けていないアスカがロシアの襲撃をしのいでこれたのは、幾分かは使徒のおかげ。ATフィールドは出せなくても、身体能力とスタミナ、それに治癒力は常人の倍以上になっているはず」
「わたしから使徒を取り除く方法のアテはあるんでしょうね」
「ない」エリカが短く答える。「NIHISがどうにかして使徒を取り出そうとしたけど、うまくいかなかった」
「赤木リツコならどう?彼女なら何とかしてくれるかも」
「ドクター・アカギはおそらく敵側の人間。彼女は欧州連合体でエヴァを造っている」
「それって初耳」
集合時間が目前に迫っており、何らかの結論を出さなければならなかったが、さっぱり浮かんでこなかった。
「どうしたらいいの分からない」
「欧州連合体と環太平洋連合が戦争を始めようとしている今は何もできない。これが終わるまで待ってから方法を探す」
「いつ終わるのよ?1年後?5年後?まだ始まってもいないのに」
「もうじき始まってすぐに終わる。欧州の7号機と8号機、環太平洋の10号機、どれが残るかがそのまま勝敗を分けるわ。エヴァを残した方が勝利する。戦車や戦闘機の出番は無いかもしれない。エヴァ決闘がそのまま第三次世界大戦になる」
「こっちが負けるに決まってる。2対1だし、こっちにはパイロットがいない。あちらさんにはパイロットがいる。たぶん、ファーストのクローンよね。リツコはそのために、クローンのある欧州の側についたんだわ。勝ち組につくために」
「クローン5体のうち、3体までは葛城ミサトが破壊したのは分かってる。残りの2対はどうなったかわからない。本人に聞くしかないよ」
「もちろん聞くわ」
エリカは落ち着きを取り戻して、普段の声に戻ってきた。
「欧州連合があなたたち3人を殺そうとしているのは間違いない。いくら使徒の力があっても衛星レーザーで打たれたらひとたまりも無い。今は大人しく日本政府に従って身の安全を考えて」
「わかった。もう行くわ。あなたはどうするの?」
「何とか日本に止まるように上層部に掛け合ってみる。アメリカに帰ったら、もう二度と日本にこられないと思うから」
わたしは扉にむかい、押し開く前にバッグから手元に戻ってきていた部屋のキーを取り出して投げた。
「わたしの二子玉川の部屋の鍵よ。たぶん閉鎖されてるけど、あなたならわけないでしょ?」
キーをつかんだエリカはゆっくりと言った。
「服も借りていい?」
「ご自由にどうぞ。冷蔵庫の中身は捨てておいて、あと、盗撮されないように気を付けることね」