獣は囁く

18章 後

 アンティークに見せかけた電話が手元で鳴った。
 男は手を伸ばせばすぐに取れる受話器を上げず、しばらく鳴りっぱなしにしておいた。周囲の者たちがやきもきし、相手が諦める寸前になって取った。
「ずいぶんと人を待たせますね。ミスター・ヨシダ」
トウジロウはふんと鼻で笑った「テレビが面白くてね」
「そりゃそうでしょうな。テレビドラマ、茶番の演出家になった気分はどうです?」
「次はもう少し真実味のある朗読ができる人をキャスティングしてもらおうか」
「次などない。我がフランスは友好国たる日本にこれ以上ない謝罪を示している。次は大統領に土下座をお望みか?それとも切腹を?それで満足ですか?」
「わたしの満足など問題ではない。日本国民の満足が重要だ」
「フランスは日本国民のために毎年たっぷりワインを輸出している。この国がもうワインを生産できる気候でないことを日本国民はご存じない。日本人が今飲んでいるのは先祖たちが大切に保管してきたヴィンテージばかりだ」
「あいにく、私は酒が好きでない」
「たくさんだ!」電話の相手が怒鳴り、漏れた声で部屋にいた全員がトウジロウを見た。トウジロウ自身は眉一つ動かさなかった。
「用事が済んだなら、さっさとご帰国することだ。この国が気に入ったなら休暇に来て欲しい。衛星レーザー誤射に付いてこれ以上、何を調べるというんだね」
「帰国の判断は首相に任せている。私は自分の役目を果たすだけだ」
相手が受話器を叩き付けて切ると、同行者の一人が前に来て、指向性盗聴器から守るための板を口の前に当てた。
「これ以上、ここに止まると本当の目的が露見するでしょう。ロシアからの連絡を受けて察しても不思議ではありません」
「連絡は必ず来る」
トウジロウは指を組んだ手を口の前にもってきた。
「葛城がまともに計画を遂行できたことは一度もない」
日本から同行してきた者たちは海外メディアから7人のサムライと呼ばれる、ナガノ首相の腹心を薄気味悪く見守った。
 経歴には第一東京大学の在学中に内務公務員国家試験T種に合格し、卒業後は内務省に入省せずにナガノ首相の秘書を勤めていたとあるが、同期の大学生で彼を校内で見たという人間は一人もいなかった。
 テレビではフランスの会見の様子が何度も繰り返し放映されている。
 フランス議会議事堂の会見室には報道官を挟むようにして日本とフランスの旗が掲げられている。詰め掛けた各国記者の目には日の丸がフランスの三色国旗よりも僅かに高く掲げられているように見えた。
 報道官は沈痛な面持ちで時折、書類に目を落としながら話している。
「わが国の衛星レーザーが誤作動し、偶然にも日本の国土に命中してしまったことは、この上もない遺憾である。友人である日本国民はこの件に関して格別の理解を示してくれている。これはフランスと日本が培ってきた友情の賜物であり、フランス国民は両国の恒久の平和と友好を信じるものである…」
「茶番だ」
トウジロウは口元を歪めてテレビのスイッチを切った。

「こっちもダメだ。どこも一切、応じてくれません。マズイですね」
マコトがため息をついてリストの電話番号に横線を引いた。
「これは本気ですよ。ブラックマーケットにまで手が回ってる。何が何でも僕たちを出国させないつもりです」
「陸路で出国できないかしら」
マコトはそんなのはもうとっくにムリだとわかってる。と目で訴えた。
「ロシアで監視カメラに映ってしまいましたからね。街中を歩くのも危険な状態です」
「シゲルからの連絡は?」
「二日前のが最後です。新しいのはまだ…来たとしても同じ催促の連絡でしょう」
「打つ手なし、袋小路、どんづまりに陥ったってことね」
「このままだと捕まりますよ。ここもすぐにばれます。もうばれてるかも」
マコトは部屋を見渡した。ここはパリの隣にある人口が著しく低下した街で、その住宅街から使えそうな住宅を探した。それがこの10年で、唯一、世間一般が夫婦生活と呼んでいるものに一番近いものだった。
 今はその住居はマコトがミサトを説得するために使われている。
「少なくともここは引き払うべきです。この国に滞在するなら、ほとぼりが冷めるまでは一箇所に長く止まらない方が賢明です」
「移動は目立つわ。足跡を残してしまう」
「日本政府の助けを借りるべきなんじゃないですか?」
「気乗りがしないのよ」
「気分どうこう言っている状況じゃないでしょう」
口喧嘩が始まりそうな雲行きになってきたので、ミサトは会話を切り上げて地下へ降りた。典型的なフランスの一軒屋で、ありがたいことにベースメントがあった。食料の貯蔵や洗濯などに使われることが多いが、ミサトたちはここを作戦会議室にしていた。
 どこを見ても書類が山積みで、写真が散らばっている。この10年の活動に関係ないものはマコトが買ってきた日本語のマンガ本ぐらいのものだ。つけっぱなしのパソコンがチチチとかすかな音を立てている。
 キャブレーターのバルブをひねり、管の中を蒸気が流れ始めたのを確認してから椅子に座り、マコトのいうとおり、ヨシダという人物に連絡する可能性を検討しなおした。
 理性の方はそうするしか手がないと、とっくに結論を下していたが、本能の方が反対を唱え続けている。連絡することで事態がとんでもない方向に拡大をする予感があった。
 結局、答えは出ず、代わりに久しぶりに酒を飲んでみる気になった。こちらで活動し始めて以来、酒は控えていた。
 一階へ上がっていくと、ダイニングでマコトが外を眺めていた。時刻は夜の11時で、外はようやく暗くなり始めている。
 その背中は疲れ果てていた。ミサトより背の低いマコトの体がますます小さく見える。そろそろ限界だろうとミサトは思った。マコトも自分も。
 声をかけて酒に誘い、二人でベースメントへ降りてささやかに乾杯した。最初の一口を飲んだ後でヨシダに連絡すると伝えるとマコトは黙ったまま頷いた。

 翌朝、二人は家を出て家から少しでも遠い公衆電話を選んで電話をかけた。
 3度目の呼び出し音で相手が出た。マコトが名乗ると彼はミサトにちらっと視線を送り、受話器を差し出した。「ミサトさんでないとダメだそうです」
「葛城ミサトです」
言ったが、何の反応もなかった。転送か受話器を渡している最中らしかった。受話器に軽く息の当たる音がした。
「根をあげたようだな、葛城三佐」
全身に鳥肌が立ち、ぶるりと震えた。一瞬、どうしてよいか分からなくなった。
「碇司令ですね」
「ああ、そうだ。今はその名前で呼ぶ者はいない」
「官僚になっていたとは存じませんでした」
「必要があればどこででも働く」
「私達の帰国を妨害しているのは司令ですか?」
「必要がればそうした。その件はフランス政府が行った。我々ではない」
「碇司令、吉田次官とお呼びすべきですか?」
「どちらでも構わん」
「今度は何をするおつもりですか?」
「それは今ここですべき話ではない。今、どこにいるか教えたまえ」
「答えてください。私はもう部下ではありません」
「全ては会ってから話す」
胸に徐々に恐怖が広がった。碇ゲンドウは沈黙したままこちらの言葉を待っている。一瞬、相手が忍び笑いを漏らすのではないかと疑った。が、やがて聞こえてきたのは追加料金を要求するブザー音だった。
「どうする?通話が切れるぞ」
ミサトはマコトからコインを受け取って呼吸を整えてから投入した。
「条件があります」
「なんだ」
「帰国したら直ちにあの子達に会わせて下さい」
「いいだろう」
ミサトが場所を告げると、ゲンドウは迎えをやると告げてすぐに電話を切った。マコトは扉が閉まらないように支えて、心配げに見ていた。
「まさか碇司令が生きていたなんて」
「あの人は化け物よ。本物の化け物」
「平気なんでしょうか?」
シゲルは昨日まで連絡しろと主張していた立場を忘れたかのように訊いた。
「分からないわ」ミサトは言った。さっさと歩くミサトを小走りで追いかけてくる。「私たちは5体目の破壊に失敗した。日本ではネルフ米国第二支部の奴らが3人と接触し、戦略自衛隊が保護をしてる」
「そしてナガノ首相のブレーン、通称『7人の侍』の一人は吉田と名乗る碇指令だった」
マコトが言葉を継いだ。ミサトは車の中に身を滑らせて勢い良くドアを閉めた。
「事態は急激に変わってる。このままここにいると取り残されてしまう」
「いくら碇指令でも、僕たちを出国させることなんてできるんでしょうか?僕たちは国際指名手配されているテロリストですよ」
「もちろん、ファーストクラスは期待してない」
隠れ家に戻ると、ドアの下に紙が滑り込ませてあった。その指示に従って二人は必要最小限な物を取りまとめた。日本に持って帰らなければならない物なんてほとんどなく、ミサトは加持の形見のVVD、マコトはTヶ月分のコンタクトレンズと、漫画本だった。
「そんな物もっていくの?」ミサトが眉をひそめた。この本を蚤の市で見つけた時のマコトの喜びようは尋常ではなかったが、まさかこんな事態になってまで持って帰るつもりだとは思いもしていなかった。
「日本にもって帰れば高く売れますよ。当面の生活費にはなります」
残りの物を地下室に積み上げている間にマコトが灯油の入ったポリタンクを掲げて戻ってきた。
ミサトは場所を譲って火器類の処分を始めた。火器の類はこの10年でかなりの量がたまっていた。爆弾の類はちょっとした博覧会がひらけるほどだ。全て一階に運び、使ったことのない暖炉に放り込んだ。最後にストップウォッチと接続した手製の時限装置式のプラスティック爆弾を置いた。
 マコトは地下室に灯油を撒いて二階にあがり、新しいタンクから中身を撒き散らしながら降りてくる。あっという間に灯油の匂いが家に充満した。
「ちょっと待って」マコトは灯油の最後の残りをリビングに巻きながら玄関にいるミサトのところにまできた。
 マコトがポリタンを中に投げて家を出ると、ミサトは新聞紙に火をつけた。
 炎は玄関からリビングを横切り、階段のところでドミノ倒しのように二手に分かれて地下と階上に別れた。
 ミサトたちは多少の寂寥に駆られた。隠れ家のうちでもここはもっとも長い時間を過ごした場所だった。マコトのシゲルの三人暮らしの痕跡は、急速に熱気を感じる炎に包み込まれていく。
 車を発進させ、パリ市街への道に乗ったとき、背後で爆発が起きた。何一つ残らない。ミサトは助手席にいて、心のうちで呟いた。この10年の活動につながるものは全て破壊された。レイのクローン5体のうち4体は始末ができた。それで十分だと自分自身に言い聞かせる。胸に抱いているVVDは氷のように冷えていた。
 まずは笑み、次に嘘、最後に銃声。加持の言葉を祈りの言葉のように繰り返す。
 指定のあったパリのレイベニュー通りの喫茶店の前で車を乗り捨てて、電話をかけると布団のように厚い外套をはおった日本人が現れて、二人を別の車に乗せた。
 30分ほど市街をぐるぐると回った。こうすればもしも追跡されていてもすぐに分かる。とその男は言った。「パリも今じゃほとんどゴーストタウンですからね」
 追跡者がないことを確かめると、車は最初の喫茶店のすぐ近くのビルで止まり、今度はトラックに乗り換えた。
 その頃には二人とも覚悟は決まっていた。シゲルの手を握ると、強く握り返してきた。トラックは2時間近くも走って急に停車した。男が荷台の扉を開けて出るように顎で指示した。
 二人は促されるままにトラックを降りた。凍土と化した古い畑の跡が見えた。
 さらに大きい長距離用のトラックに写ると、荷台の中では5人ほどの人間が待ち構えていた。
 再びトラックが走り出すと彼らは荷台に積み上げた装置の電源を入れ始めた。全員がスーツ姿だったが、おそらく、ほとんどの人間がスーツとは縁のない職業と思われた。そのうちの一人、卵のように頭の禿げた男がミサトを出国させるための計画を説明した。
「お二人には仮死状態になってもらいます」
「仮死状態ですって?」
「ええ、その状態で荷物としてバッグに詰めて政府専用機に乗せます」
「とんだファーストクラスだ」とマコト。
彼はマコトを睨むように見た。散々待たせたせいで、好感はもたれてないようだ。
「貨物区に載せますから、給仕はありませんよ」
「それって日本についた頃には本当の死体になったりしないでしょうね?」
「平気ですよ。呼吸器の確保と体温を維持できれば心配いりません」
「貨物区って温度調節も気圧調節も無いんじゃなかったかしら?」
「人間用のはね」と意地悪に彼は言った。
「荷物がダメに成らないための最低限の気圧と外気温は確保されています。断熱材でちゃんと『梱包』してあげますよ」
文句を言ってもしょうがないので、諦めて話題を変えた。
「吉田次官は?」
「出国の準備中です」と別の男が答えた。ざっと見たところ、この中年がもっともスーツが板についている。
「勝手に出て行く。というわけにもいかないですからね」
その独特な調子で、ミサトたちは政界の人間だと何となく予測をつけた。
「あなたたちに任せるわ」
袖をたくし上げた腕にゴムバンドを巻かれながら言った。注射器の針がちくりと腕に刺さり、中の液体が腕に入っていく。
「大丈夫ですよ。万事心配いりません」
意識が急激に薄れてきた。
「頼むわ」
そう言いたかったが、早くも呂律が回らなくなっていた。白い靄が降りてきた。