獣は囁く

第18章 前

 外は眼を背けたくなるような極寒の世界だった。雪を含んだ吹雪に近い風が吹きすさび、搭乗口のデジタル温度計は零下40度ちょうどを表示している。耐寒燃料を積んだジェットですら離陸できるぎりぎりの温度だ。
 モラン・モレラは厚い外套の襟から手を突っ込んで下に着たネオプレンの襟の具合を直した。それは薄いタイツに過ぎなかったが、宇宙飛行士が零下100度の宇宙空間で作業をする際に使う宇宙服と同じ素材だ。
 強化グラスファイバーの扉がこすれる音を立てて開き、付着していた氷の塊が足元に落ちた。
 目の前に広がる光景を見ただけで鳥肌が立つ。
レシトヒア軍用空港は氷に閉ざされ、一面が輝いている。かつてはフランス空軍第4位の規模を誇った空港も今は見渡す限りの氷の海に漂う筏のようだ。第三滑走路にはミラージュ38戦闘機がきちんと整列していたが、どれも氷の彫刻と化して地面に縛り付けられたまま再び大空を飛ぶ日を夢見ている。
 その前をカブト虫のような角をはやした巨大な砕氷車が煙突から黒煙を吹き上げて通り過ぎていった。
 ナイフのような凍えた風が耳朶を打ち、モレラは眉をひそめて一歩踏み出した。
 唯一残された第一滑走路には大統領専用機が待機している。すでにエンジンを温め終えた機体から湯気が昇り、機体に描かれたフランス国旗を霞ませている。コックピットではサングラスをかけたパイロットが背を伸ばして機器を操作しているのが見える。その様子には緊急出動に対する不満の色は認められなかった。
 モレラは機体から地上へと渡されたタラップへ向けて歩いた。あまりの寒さにむきだし耳が痛み、冷えた血液が心臓に流れ込んでくるのを感じる。ここが北極圏だと痛感せずにはいられなかった。
「大統領、お伝えしたことが」
後をついてきた若い秘書官がそう告げる。短く刈り込んだくすんだ金髪に氷の破片がまるで虱のようにくっついている。31歳の彼は大統領副補佐官助手という目立たない役職に就くにしても若すぎる年齢だが、運動部のような髪型のせいで、大統領に握手を求めにきた大学生のように見える。
彼が息をするたびに吐く息が湯気となって風にさらわれていく。
「機内で聞こう。あまりに寒すぎる」
タラップの階段を登り終えて、モレラは脱いだ外套をキャビンアテンダントに預けて奥へと進んだ。外套の下はストライプ模様の紺色のスーツを着ていた。
フランス大統領専用機は快適だと各国の首相から羨ましがられる。そして贅沢すぎだと。真紅のカーペットにリクライニング可能な革張りの椅子が二つ。それは互いに向き合っており、間にはマホガニーのテーブルが一つ。上には白いレースの布がかけてある。
 かつての自国の余裕が残っている部屋を通り過ぎて防音加工された壁の扉をくぐった。そこは個室になっており、首相官邸の執務室と同じ調度で揃えられていた。
 彼は椅子を自分の方向に回して、多少、肥満気味な体を沈めてから床を蹴って机を向いた。秘書官助手は冷気にさらされた赤い頬をし、緊張した面持ちで直立していた。
「日本から詰問の連絡がひっきりなしに続いています」
「事実を調査し、速やかな回答を返すと答えておけ」
「もうしています」秘書官助手は答えた。
「先ほど、新しい連絡がありました」
モレラは指を広げた手を机の上に置いた。「何だ」
「衛星レーザー誤射に関して大使を派遣したいと言っています。大使館を通じた正式な要請です」
「それは断れないだろうな。誰が来るんだ?大臣か?」
「トウジロウ・ヨシダです」
「誰だ」
「役職は内務省情報査察局副局長。7人のサムライの一人です」
「官僚か」
指で鼻を二度たたき、思案してから言った。
「モスクワに連絡しろ。日本のフチュウにセカンドチルドレン以外の何があったのかを聞くんだ。こちらはロシアの緊急要請に応えた。今度はロシアがフランスの要請に応える番だと付け加えるのを忘れるなよ」
秘書官助手は頷き、壁に備え付けた電話を取りに行った。
 ジェットが動き出した。極寒の滑走路へ向けて移動していく。
 安定高度に達するまで目をつぶって過ごしたモレラは赤いランプが消える音と同時に目を開いた。椅子から離れて窓の外を見下ろす。眼下にはなだらかな平地が広がっている。かつては牧草地か豊かな麦を実らせていたに違いない平地は人々の暗鬱をあらわすように黒ずんでいる。あと10年もすれば地下3メートルまで凍りつくだろう。そこは夏の間に3センチだけ溶けた表層に僅かな苔と寒さに強い草が生えるだけの凍土となる。
 いまやフランス国土の4割が凍土になりつつある。フランスだけではない。地軸がずれのせいでヨーロッパ全土が同じ憂き目にあっている。
 秘書官助手が戻ってきた。
「ミスター・ヨシダはすでに日本を発ってこちらへ向かっています。それも軍用の高速輸送機で」
モレラは何も言わず、窓の外を見つめ続けている。そしてCAにとにかく濃いコーヒーをリクエストし、それがCAの手から自分の手に渡ると、二口で飲み干した。
「これから戦争相手になるかもしれない国に腹心を送り込むのか」
平和の使者ではない。心のうちでそう呟いた。平和はもう風前の灯だ。エヴァがある限り、力の均衡は崩れ続ける。
「軍に通達を出せ。いつでも動けるように。もしかすると明日が開戦の日になるかもしれん」
飛行機はフランス南部のピレネー山脈の上空に差し掛かった。かつて秀麗な姿を見せていた連峰は長年の爆撃によって崩れ、引き裂かれた傷口のような醜悪な姿になっている。
 その裾にすがりつくように街が見えた。凍土を捨てた人々が新しく作り上げた都市だ。
 凍土と険峻な山脈の僅かな隙間に建物が密集し、山脈の裾野を縁取るように東西に果てしなく続いている。
 モレラは自分の家庭教師をしていたドロクワの柔和な顔を思い出す。彼は国連総長をしていた頃にネルフ憲章でエヴァの軍事転用を禁じた。それは教え子によって反古にされることになりそうだ。
飛行機は高度を下げ、町の上空をイタリアへ向けて飛んだ。
「もうヨーロッパに人の住める土地ではないのですよ。先生」
モレラは呟き、空になった紙コップを握りつぶして屑籠へ投げた。それは屑籠の内側の金属の輪に当たって落ち、屑籠が僅かに揺れた。
 CAが新しいコーヒーが要るかと訊ねた。モレラは彼女に言った。
「ラドゥエリエルを知っているかい」
CAは自分は無宗教主義だと答えた。モレラは世界を覆い始めている無宗教化の波が身近に迫っていることに軽い不安を覚えた。
「ですが、それは天使の名前ですね」
「偉大な天使だ。審判の日に備えて天地で起きた全ての出来事を記録している」
「その天使がどうかしましたか?」
モレラが何も答えないので、CAは持ち場に引っ込んだ。
 イタリアからドイツ首相のホットラインを鳴らす必要がありそうだ。モレラはドイツで進んでいる計画の進捗具合を確かめる必要を感じていた。
 パイロットを調達できれば、旧式のエヴァでも日米合作のエヴァを破壊できるだろう。
 そうでなければ、ヨーロッパの人民は凍土の上で飢え死んでいくしかない。


 モレラの投げた紙コップが屑籠の輪に当たって落ちたのと同時に、ミサトは顔をしかめた。サングラスをはめていたが、細く整えた眉がへの字型に曲がるのが、隣で運転しているマコトにもはっきり分かった。
 サングラスの表面に上空を飛び去っていく飛行機が映っている。
「どうしたんですか?」
マコトの問いかけにミサトは持っていた手のひらサイズのパソコンの画面を彼に向けた。
「ダウンロードが終了したっていう通知が来ていない」
二人が山を下ってまずしたのはメールのチェックだった。それによるとロシア国内のサーバーに残したデータに誰かがアクセスしたことは間違いなかった。けれど完了の通知はまだ来ていない。
「確かめられないの?」
「それはダメですよ。ミサトさん。ダウンロードが始まったってことは2067番ポートが開かれたっていうことですから。KGBの監視システムが察知したはずです。僕たちが確かめに行ったりしたら、すぐにこの場所がバレます」
 車は渋滞にはまり、ほとんど動かなかった。シン・ジャンの街はかつてのアジアを思わせる密集都市だった。
 道は狭く、両側には壁のようなアパートが立ち並んでいる。町の面積に対して、人口があまりに多く、通りは人で埋め尽くされていた。歩道には各地から運び込んだ統一性のない街灯が並んでいるが、その大半は割れて、通行の邪魔をする役にしか立っていない。
人々は歩くたびに向かってくる人を避けるために身をよじり、そのせいで別の人の肩にぶつかる。
ランチタイムで町のあちこちから食事の匂いがしてくる。狭い店の席は全て埋まり、ほとんどの客は立ったままで食べている。店の軒先で具のないパスタを食べていた男にだれかがぶつかり、地面に落ちた。男は火がついたようにぶつかってきた男を怒鳴り始め、怒鳴られた方も同じ勢いで言い返した。
野良犬が駆け寄ってきて地面に落ちたパスタを奪い合い始める。
「壮絶な街ね」
ミサトは小型パソコンをスタンバイ状態にして閉じた。ロシアでは人は地上に住めず、地底人のように地下に都市を移していた。ここでは地上に住めるだけマシだが、その過密ぶりは凄まじかった。
「ピレネー山脈沿いの細長い土地にフランス人がほとんど全て引っ越してきたんです。こうなって当然です」
「他に住める場所はないの?」
「ないですね。他の土地は全部凍土か、凍土になる土地です。地中海から吹いてくる風が山脈を越えてフェーン現象を起こすおかげで人が住めるんです」
「ひたすら山を爆撃しているのもそのためなのね。少しでも低くして風が通りやすくするために」
「無駄なあがきですよ。でもそれぐらいしかすることがないんでしょう」
マコトが地図を取り出し、現在位置に指を置いて、あらかじめペンでつけてあった道の
りを指でなぞった。
「この町を抜けて山脈を越えてから、フランスに入り、欧州横断道と合流してロシアを目指します。予定では二日でモスクワに到着できます」
「横断道路に入ったら運転を交代しましょう」
車は街を抜けて山脈を縫って走る曲がりくねった道を進んだ。フランスに入ると、凍てついた大地をまっすぐに伸びる道を徐々に速度を上げていった。
 ミサトはいつの間にかうとうとしていた。絶え間ない緊張を強いられた年月の疲れが蓄積して、それは睡眠では解消できない性質のものだった。最近は不眠症がますます悪化して深刻な段階にまで達している。
 目覚めたら過去に戻っていてくれたら、と思った。10年よりもっと前、加持と二人でベッドの中でダラダラと一日を過ごした大学生の頃であってくれたら。悪夢のおぼろげな輪郭は残っているかもしれないが、全てが夢であったなら、どんなにいいだろう。
「どこまで来た?」ミサトは頭を振り、頬についたシートの模様を気にしつつ訊いた。
「そろそろ横断道が見えるころです」
「運転を代わるわ」
「休んでてくださいよ、交代はフランスを出てからで」
「あなたも疲れてる」
「まだ平気です」
外はまだうっすらと明るく、上空では低い雲が驚くような速さで西に流れている。時計は夜の11時を示しているが白夜のせいで時間の感覚がまるで来るってしまっていた。
 4体目のクローンを破壊してから、すでに26時間近く寝ていなかった。その半分を下山に使い、残りはロシアへの運転に費やしている。
 ミサトはマコトに宿泊の予定を早めにしようと伝え、マコトもそれには反対せず、フランスを出る前に横断道を出た。
 極寒の侵食に抵抗して持ちこたえている町でモーテルに車を止めた。
 久しぶりに温かいまともな食事を取り、火傷するぐらい熱いシャワーを浴びた。ベッドで丸くなっていると、ミサトの後に浴び終えたマコトが隣に滑り込んだ。
「よく、そんな元気があるわね」
ミサトはマコトの手が胸をまさぐり始めるのを感じつつ言った。
 マコトが何も言わずに覆いかぶさってきたので、目をつぶり、したいようにさせておいた。そして自分の口から吐息が漏れると、ひとまず目の前の行為に集中することにした。
 行為が終わり、眠気がどっと押し寄せてきた。ミサトはそれに逆らって身を起こし、全裸のままパソコンのスイッチを入れ、パソコンがスタンバイ状態から回復するのをぼんやりと見守った。
 画面を見つめたミサトはあっと短い声を上げると、マコトをたたき起こした。
「シゲルから連絡がきてる!」
マコトは跳ね起きてパソコンの画面を見つめた。コンタクトを外しているので鼻が画面にくっつくぐらい顔を近づけている。
 シゲルは約束どおり、いくつもの国を経由して音楽ファイルを送ってきていた。マコトがクリックするとFlee loopを歌うファブリシア・ヴィーナの声がゆっくりと部屋に流れた。
「解析しますよ」気がつくとマコトが黒ぶちのメガネをかけている。
キーボードを叩く音と歌を聴きいていると、無意識のうちにネックレスを握っていた。細いチェーンの先に通されたVVDの専用弾丸の空薬莢だ。
「なんだか、複雑なことになりましたね」とマコトが呟いた。
「日本政府にデータのことがバレたらしいです」
マコトと場所を交換して暗号解除した文章に目を通す。その間も甘ったるい歌声が流れている。
「どうしますか?」
「計画に変更はないわ。ロシアに行って、最後のクローンを破壊する」
「そのあとは?」
「政府と私達の目的は違うわ」
曲がループして最初から流れ始めた。
「政府はレイをエヴァに乗せたいのよ。私達の目的は違う。シゲルにあの事を話さなくてよかった」
「シゲルは裏切ったわけじゃありませんよ。どうしようもなかったんでしょう」
「自白剤を使われる可能性だってある」
「政府の助けがあれば帰国はずっと楽になります」
「政府に手を出させてはだめよ。レイを死なせたくないのは同じでも、結局のところ、最終的な目的は相容れないものだわ」
口の中があっという間にからからに乾き、喋りにくくなった。水でもあればと思ったが、そんなに都合よくは無く、舌で探ってどうにか湿らせた。
「この、ヨシダという人物に連絡はしますか?」
ミサトはしばらく考えたが、答えは出なかった。政府は私たちがヨーロッパを脱出するのを手伝うと言ってきている。けれど、まずはロシアのクローンを破壊してしまわなければならない。あらゆる可能性を残しておかないために。
「そろそろ、レイの肉体は限界のはず」
ミサトが突然に言ったので、マコトは驚いたようにミサトを見つめた。
「レイにはぜったいに生きていてもらわないと」
それが私達のエゴで生み出してしまった少女へのせめてもの贖罪になるんだから。
マコトが答えを求めて見つめ続けるので、ミサトはそれを避けるようにベッドに戻った。
「計画通りにロシアへ向かう。ヨシダって奴への連絡は後で考える」
そして思い出したように毛布から顔を出した。
「その曲、止めておいて。眠れなくなるから」

 空薬莢を握り締めているうちに眠ってしまった。夢でこの10年が走馬灯のように過ぎる。
 全ての始まりは加持の残した情報から始まった。
 10年前、ミサトはネルフの自室で目を覚ました。全ては終わった後だった。
 全てが夢、ネルフの作戦本部長として使徒と戦ったことも含めて夢だったような気がした。ミサトは部屋を出て大地震に見舞われたような施設の中をさ迷った。
 気がつくと加持の部屋に向かっていた。そこに至るまでの通路には大量の死体が転がっていた。それらは焼け焦げたものを除いて腐敗し、耐え難い臭気に包まれていた。
 加持はネルフに自室を与えられていたが、そこにいたことはほとんど無かった。それでもミサトは部屋にたどり着き、苦労して部屋の扉を開けた。中は空っぽで、生きている加持も、死んでいる加持もいなかった。
 机の上に銃が一丁、置き残されていた。ヴィヴィド社、リボルバー式VVD28の38口径で、当時は最強の拳銃の一つに数えられていた。
 ミサトはしばらく泣いた後で、震える手でその銃を取り、リボルバーをスライドさせた。弾倉には一発だけ弾丸が詰まっていた。
 その一発が発射されるように位置を調整して元に戻し、こめかみに銃口を押し当てて親指で撃鉄を起こしてコックした。なんのためらいも浮かばなかった。撃つ直前に思ったのは、もうエヴァと自分の引け目を相手にダンスを踊るつもりはない。ということだった。
 弾は出ず、劇鉄が薬莢の底を叩く乾いた音がしただけだった。
銃を頭から外し、ふたたびリボルバーをスライドさせてピンを押し、弾丸を引き出してみると、それが空の薬莢を装填しただけであることが分かった。
 銃弾と弾薬が詰まっていた場所にはメモリーチップが差し込んであった。
 死体や瓦礫に躓きながら部屋にとって返し、パソコンにチップを挿入し、表示された幾つかのファイルを順番に見た。
 1つはネルフの施設地図で、見たことのない秘匿区域までが記されている。加持はそれに手を加えていて、一筋の道順が赤く点滅していた。それはセントラルドグマの手前にある人口進化研究室から脇に反れて、さらに地中深くに続く一本の通路を経て、ある部屋で止まっていた。その通路はその部屋のためだけに作られた通路だった。
 もう1つのファイルはその部屋にたどり着くまでに必要な方法、20にも及ぶ扉を開くためのパスワードや必要な認証方法を記していた。
 最後のファイルはミサトへのメッセージだった。

 葛城へ
 元気かい?と訊いたら、きっと怒るだろうな。
 俺は今から数時間後には死んでいるだろう。その点については後悔も不満もまったく無い。そうなって当然な事をしてきたし、それだけの罪を犯してきた。
 近いうちに使徒との戦いは終わるだろう。それが勝利で終わっていることを願っている。君がこれを読んでいるということは、きっとそうなったんだろう。おめでとう。君は自分の抱えた葛藤を克服して能力以上の働きをした。
 俺たちは確かに使徒から人類を救ったが、同時に新しい問題の種も撒いてしまった。これからエヴァは戦争のために、殺人のための兵器となっていくだろう。
 それそのものはどうってことはない。人間はいつだってそういう生き物だ。エヴァを手にした人類の未来は、人類自身が決めるべきことだ。
 ただ、二つ問題がある。
 一つは綾波レイのことだ。クローンである彼女の肉体はあと数年もすれば衰え始めて10年後には死を迎える。彼女はどうやっても24歳以上にはなれない。
 彼女にこんな過酷な運命を背負わせたのは他ならない俺たちだ。彼女を少しでも長く生かしつづけるには、肉体を移し変えるしかない(※これがどういう意味かは分かるだろ?りっちゃんから全て聞いているはずだ)。
 レイの肉体は5体が仮死状態でヨーロッパ各国に保存されている。この5体は破壊した方がいい、今後の技術の進歩によってはエヴァの戦争兵器化に使われる可能性がある。
 りっちゃんは日本にあるクローンを破壊してしまったが、実は1体を秘密に隠している。
 その場所と行くのに必要な方法はデータで残しておく。
 10年以内にこの肉体にレイの魂を移し変えて欲しい。そうすればレイは10年ながく生きられることになる。34年の寿命は長いとは言えないが、人らしい思い出を残すには十分な時間だ。
 魂を移し変える方法はりっちゃんががっちり隠していたもんで、手に入らなかった。彼女は本当に鉄の女だよ。この方法は君がなんとかして手に入れて欲しい。
 もう一つの問題。これは残る2人のパイロット、シンジ君とアスカに関係している。
 パイロット不足は今も10年後も変わらないだろう。りっちゃんがこの問題を解決する『画期的な方法』の研究を進めている。分かったのはその研究がラドゥエリエルという名前で呼ばれていることだけだ。まったく彼女のことは、鋼鉄の女。って前言を修正すべきかな。
 ラドゥエリエルは記録の天使だ。その名前から推測するに、二人の思考回路や判断基準を完全にダミープラグに移しかえる事かもしれない。
 この研究があの二人に危害を加えるような物であったら、シンジ君とアスカを守ってやって欲しい。
 これが俺の残す最後のメッセージだ。君にこんな役目を押し付けてすまない。他に頼めそうな人間も見当たらなかった。
 ネルフもゼーレも自分たちが神になったつもりでいる。この馬鹿げたパーティーの最大の被害者はレイだ。彼女を救ってやって欲しい。

 ともあれ、ミサトは彼が残した情報で、心に決めていた自殺を決行せずに済んだ。
 ミサトが夢の中で記憶の海を漂っていると、隣に寝ていたマコトがゆっくりと身を起こしてミサトを見た。胸の空薬莢がどこから来たか分からない光りを跳ね返している。
 マコトは顔と空薬莢を交互に見て、そして立ち上がった。
 明かりの消えた部屋に換気が染みてきているのを感じつつ、エアコンの温度を上げるためにベッドを離れた。

 翌日の昼には二人はフランスとドイツの国境に近づいていた。寒さに屈して故郷を捨てようとする家財をつんだトラックの列と幾度となくすれ違った。
 国境の検問所が見えてくると二人は緊張で身を硬くし、出国と入国に必要な口裏合わせの確認をした。
 確認を終えたマコトがパソコンを開くと同時に声を挙げたので、運転していたミサトは減速して路肩に車を寄せた。
「連絡が来ています」
「誰から?」
「ヨシダ・トウジロウ。という人物からです」
「見せて」
パソコンを奪い取ってモニターに視線を走らす。
 そのメールには挨拶も名前以外の自己紹介もなく、ロシアで目的を達成したあとはフランスに戻って連絡するようにとだけ書かれていた。
「最終手段として考えておくわ」
ミサトとマコトは国境で念入りに調べられた。パスポートもビザも信頼できる偽造品だったが、国境を後にしたときには二人とも背中にびっしょりと汗をかいた。
 ドイツに入ったあとは運転を交代しながらポーランド、ベラルーシを一気に通り抜けた。
 凄まじい寒さのせいで車のエンジンは何度も止まりそうになった。前回の入国で得た経験を元に、ボンネットを開けてそこに毛布を被せ、窓には全てダンボールで眼張りを施した。
 モスクワ郊外に残してきた隠れ家に到着すると、隠れ家はまるで雪で作ったかまくらのように凍り付いていた。
 一酸化炭素中毒にかからないように注意して灯油を燃やし、部屋が暖まってくると外より暖かい冷凍庫から冷凍食品を出して簡単な食事を取った。とっくに賞味期限は切れていたが、少し水分が足りない他に問題はなかった。
 ミサトが私宅をする間にマコトは地下室から持ち出した武器を整備していた。
 翌日には隠れ家を出てモスクワ、今は地下の都になった新モスクワ市へ入り、前回の訪問時に残した準備が全て生きていることを確かめた。
「全て準備完了です」
マコトが受話器を置いた。二人はスーツに着替えて出発を待つのみになっている。マコトは散髪を済ませた髪を撫で付けて七・三分けにして、この方が日本人らしい。という理由でコンタクトでなく、メガネをしていた。ミサトはその姿を見て笑った。
「怪しいわね。途中で笑い出しそう。耐えられるかしら?」
「笑われながら死ぬなんて御免ですよ」
黒いスーツ姿のミサトはビジネスウーマンが板についていた。耳たぶで光っているピアスは8ユーロかそこらのダイヤのまがい物だったが、髪の合間からちらちら見えると、それなりの高級品に見えた。
 ちょっとしたコスプレが性欲を刺激したのか、マコトが近づいてきてミサトの頬にキスをした。彼女は初対面の大人にされた少女のようにそれを受けた。
 二人は地下都市を抜けて軍事区域に入った。検問で三菱重工の人間と名乗ると、検問の兵士は来訪者リストに二人の偽名が確かに記されているのを確認してゲートを開いた。
 内部に入るとガイドが付き添い、明日にも殺人に使えそうな技術を披露し、二人の背後に透けて見えるジャパン・マネーを少しでも多くぶんどってやろうと奮闘した。
 たっぷり一時間ほどして、熱源探知のプログラムが豚と人間の体温を区別できると説明を受けたあと、ガイドはブリーフファイルを閉じ、昼食にはお望みの技術開発担当者を同席させると語った。
「ありがとう。でも私達は専門的なことはわからないから、その人を退屈させるだけだわ」
「では私がご一緒させてよろしいですか?」
ガイドの問いにミサトは笑顔で答えた。
「ええもちろん」
応接間に通されると、すでに食事はテーブルに載っていた。高級レストランと見間違うばかりで、食器もフォークもプラスティックでなく銀製で、赤ワインのボトルが2本、氷を詰めたクーラーに入っている。3人で飲むには多すぎだ。
 ワインには惹かれたがミサトは椅子を引いてハンドバッグを載せてからガイドに言った。
「トイレはどこかしら?」
「お連れしましょうか?」
ガイドは下ろしかけていた腰を浮かせた。
「そんなところまでガイドしてくれなくても結構よ」
マコトはガイドと二人きりになり、世間話をして時間を潰しながら何気なく部屋をチェックして監視カメラが設置されているであろう場所を探した。
「遅いな」マコトは手首を振りながらスーツの袖を捲り上げて腕時計を見た。
「迷われたのかもしれない。探してきます」
「申し訳ないね」
ガイドが応接室を出たあと、30秒待ってから、さもやはり自分も一緒に行こう。という風を装って席を立った。部屋の扉を閉める瞬間、腕時計のスイッチを押した。
 駐車場に停めてある二人の乗ってきた車が切なげな声を漏らして大爆発した。
二人が送った小包は集積場でX線の内部検査を待っていたが、検査を受ける前に、まっとうな荷物を木っ端微塵にして火を吹いた。
 施設中の警報装置が鳴り出して、昼時の平穏を破った。施設は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
 マコトは2つめの爆発では誰かが死んだだろうな。と思いながらミサトを追って走った。

 途中で何度か職員から誰何を受けたものの、ガイドと合流すると言って切り抜けた。そのガイドは今も日本企業からの客を探しているか、その二人が疑わしいと気が付き、まったく違う意味で探し始めたかだろう。
 生物研究室の区域に入ると人が少なく、仕事を邪魔された研究者たちが不満そうに扉から顔を覗かせている。
 目的地へ続く扉に手をかけると、後ろから肩をつかまれた。
「うわ!やめてください。僕です僕」
振り上げた拳を下し、ドアノブをひねると、事前の計画通りに鍵がかかっていた。
 ミサトは靴底から薄い木札のような爆弾を抜き出すと、両面テープをはがすために爪をかけた。
 するとドアが内側から開いて、ワイシャツ姿の細面の男が現れた「この騒ぎは何だ?」二人は男を突き飛ばし、男のもっていた書類が紙吹雪みたいに飛び散った。
 背後で男が叫ぶ声がする「不審者だ!東洋人の男と女!」
「爆弾を1つ得しましたね」
次の扉は幸運には恵まれず、二人は扉を爆破して突破した。その先の通路が左右に分かれる場所で立ち止まった。
「地図は頭に入っていますよね?」
「目をつぶったって行けるわ」とミサト。
「しっかり仕事を果たしてきて」
「ミサトさんの方こそ」
パンプスの靴底に隠すのは、いかに薄型爆弾といえども左右あわせて6枚が限度だった。クレジットカードを3枚ほど重ねた厚さで、一つの角に起爆のための紐がはみ出している。この爆弾には金属が一切使われておらず、起爆はマグネシウムを含んだ紐に唾をつけて水分と反応させてカード部分の爆薬に着火する仕組みになっていた。
 この爆弾を3つ消費してミサトは迷路のような施設を奥へと進んでいった。もうすでに職員の姿はなく、警報音だけが廊下に響いている。ここで働く職員でもこの場所の存在を知っている者はごく僅かだろう。
 地上の冷気がここまで降りてきたように肌寒い通路をまっしぐらに駆けた。そのうちに照明が落ちて緑色の非常灯だけになった。
 最後の扉は想定よりも頑丈で、こう書かれていた「維持保存室 綾波レイ」。爆弾を2つ使わなければ破壊できなかった。間抜けな職員が最初のドアを内側から開いてくれなかったら、ここで全て使い切っていたことになる。
 崩れ落ちた扉をまたいで中へと入ったミサトはそこで立ち止まった。まるで今とおったのが、どこでもドアだったのかと疑った。
 部屋はがらがらだった。イタリアで見たような機器が部屋を埋めてはおらず、生体保存液を満たした筒の中は空っぽだった。片付けられるのを待っている水槽のようだった。
 生命維持に必要な計器類は部屋の隅に積み上げられて、かつて機器の置かれていた場所の跡が床に四角くなって残っている。
 機器を押しやってできたスペースに病院で使う組み立て式の簡易ベッドがあり、厚手のクリーム色の毛布とピーローケースに入っていない枕が乗っている。枕には頭の形がはっきりと残っていた。
 なんてこと。ミサトは心の中で呟いた。発泡剤を飲み込んだように胃が膨れてくる。
 ベッドの脇のテーブルには、おそらくサーモンの食べ残しがトレイに載っていた。グリルした肉には一切手をつけていなかった。
 天井の配管から吊り下げられた棒にハンガーがかかっていて、地味なスゥエットが昆虫の抜け殻のようにぶら下がっている。
「レイ、いるの?」
ベッドに近づき、手を置くと温かかった。
「いるなら−」
背後に誰か立ったのがわかった。振り向きざまに高々と振りかぶられた鉄パイプが目に入った。
 身をよじったが間に合わず、鉄パイプが肩に食い込み、ミサトは衝撃でベッドに倒れかかった。ベッドは床に固定されておらず、ネズミの鳴くような音を立ててすべり、テーブルにぶつかり、トレイが床に落ちた。
再び振り落とされた一撃はベッドをしたたかに打ち、衝撃は最初の一撃をこらえたテーブル上のものを残らず床にぶちまけた。
さらにミサトを狙った一撃はスゥエットをハンガーから引き剥がした。
「止めなさい」
そう叫んだ顔に投げられた鉄パイプが飛んできた。それをかわすと、部屋の外へ逃げていく存在を追いかけた。
 扉を出たところでタックルし、床に引き倒すと両腕を床に押さえつけて上に乗った。
「あなた誰!なにするの」
レイは下からミサトを睨みつけた。
「あなたこそ、誰なの」
レイは猛々しい怒りを瞳にみなぎらせていたが、その奥には恐怖もくすぶっているのを見て取った。
「わたしが誰かわかる?」
レイは記憶の海に手を突っ込んでミサトの顔から浮かぶものを必死に救い上げていたが、何もないと判断すると答えた。
「知らない。誰なの。私を殺しにきたの?」
ミサトは一瞬、迷った。それで十分だった。レイが助けを求める金切り声を張り上げた。
 口をふさぐためにレイの腕から手を離すと、レイは自由になった手でミサトの目玉を狙ってきた。目を守るために彼女から離れなければならなかった。
「消えてよ!私に何の恨みがあるの!?」
ミサトはレイと対峙しながら、分かり始めていた。これはレイじゃない。
「私の話を聞いて」
「私を殺しにきたんでしょう?私を殺そうとしている人がいるって聞いたもの」
「殺さない。わたしは武器を持ってない」
「じゃあ!あれは何!?」
レイが指差した。その先に爆破されたドアがあった。つられてそちらを見たのが失敗だった。レイはその隙を逃さずに逃げ出した。
「待って!」
延ばした手は寸前で届かず空気をつかんだ。
「ミサトさん!」
部屋からマコトの声がした。レイは通路を曲がった。その時、横目でわたしを見た。
「早く!」
時間がない。
ミサトは部屋に戻ると、天井の送風孔から顔を出しているマコトを見た。
「逃げられたわ!始末できなかった」
「早く!ベッドに乗って手を伸ばしてください!」
ミサトはベッドに乗った。枕に髪の毛が一本落ちていた。それを摘み上げてスーツのポケットにしまい、マコトの手を握った。

 ダクトを伝って地上に出てから5キロはノンストップで走り、ようやく街らしい区画に辿りつくと、小道に注文どおりのバンが止まっていた。
 運転手は蒸気機関車のように湯気を吐き出しながら走ってきた二人を見つけると、リアウインドを開いた。
「エクササイズにはふさわしくない格好だな」
「話は聞いてるわね?」
「聞いてるよ。あんたたちのことは何一つ知らないが、自分の役割はしっかり分かってる」
運転手が手元のボタンを押すと、ルノーのハッチバックが開いた。マコトがそこに飛び込む。
「モスクワ大学よ」
そういい残してミサトも後部に回って乗り込み、扉を閉めた。工具や鉄の板を納めた麻袋があり、マコトはすでに体の半分を同じ袋に突っ込んでいた。
 車が動き出し、モスクワ川のほとりの大学まで到着する間、二人は祈るような気持ちでいた。
 10年前、リツコは肉体は魂がないとそれはただの容器にすぎないと言っていた。だがレイは動いていた。外見と声はレイそのものだったけれど、口調や態度はレイのものではなかった。レイは鉄パイプを振り回したりしない。彼女は何事もなく運命を受け入れようとするだろう。それが死であったとしても。
 なら、レイの容器の中に入っているのは誰だ?誰であれ、そんな事、魂を詰め替えるような事ができる技能と知識を持った人間は限られている。
 リツコだ。リツコがヨーロッパ側でエヴァに関っているに違いない。
 車が止まり、麻袋から顔を出すと目の前に凍りついたモスクワ川が見えた。
「駅はどこ?」
「モスクワ大学駅だな」
「そうじゃなくて、入り口よ」
「あっちだ」
二人が手を取り合って車を降り、車はかすかに立ちこめる霧の中に消えた。
「少しでも早く戻らないと」
布団のような分厚い外套の襟を合わせて道を横切り、地下へ続く階段を下りていった。
 隠れ家に引き返すと凍てついた空気を暖める間も惜しんで着替え、車に乗り込んだ。
 エンジンを温めている間に全ての出来事を話した。マコトは眉間に皺を寄せて聞いていたが、最後にうーん、と唸ってステアリングに手を載せた。
「それで、行き先はどこにしますか?リベンジ?それとも日本に帰国しますか?」
ミサトは黙り込んで、車の下から湯気が立ち上るのを見ていた。5人目のクローンを破壊するのは失敗した。再び挑戦するには再び何年もの準備が必要になるだろう。そんなことをしているうちに日本に残してきたレイが寿命を迎えてしまう。
 意思を持って動くようになったクローンを破壊することなど不可能だ…。
ミサトは自分を殺そうとしてきたレイのことを思い浮かべ、身震いした。
 レイのクローンを覚醒させる理由は一つしかない。エヴァを動かそうとしている。
(何かが起きてる。情報が足りない)
「日本に帰るわ」
「ではウクライナですね?」
いえ、ミサトは短く答えた「フランスへ」