獣は囁く

第17章

−10年前− アメリカ合衆国 ノースカロライナ州 ミッドラルパーク

施設の合金の壁に挟まれた通路が見えた。天井の送風孔から何度もリサイクルされた空気が肌に吹きつける感触が感じられ、建物全体が息をしているような唸り音がかすかに聞こえる。
一般区域と秘匿区域を隔てる扉はバズーカでも破れない特殊な合金でできていた。威圧するような重厚な扉は「これより秘匿区域−P5以上の権限の無い者の通過を禁ずる」と赤字で警告していた。
壁のカードスルーにパーミッションカードを通すと、赤いLCDが点滅して照合をはじめた。
そのわずかな時間を私はまるで職員室に怒られに入る子供のようにして待った。
カチリと音がすると扉が炭酸飲料の栓を開けるような音を立てて開き、真っ暗な通路を天井の照明が手前から奥へと順に灯っていく。
生体管理室はまるで人を詰め込んだ教室のようだった。狭い空間に人が詰め込まれ、機器と人とが発する熱で空気が澱んでいる。職員たちはそれぞれの持ち場に着いて、担当する機器に設置されたキーボードを猛烈な勢いで叩いている。
職員同士で盛んに言葉がやり取りされ、外からの無線もひっきりなしに続いていた。
私は紙束を抱えて出て行く職員に肘をぶつけながら中へ入り、強化アクリルの窓から見えるゲージに拘留された機体を見つつ部屋の隅へ行った。その場所なら誰の邪魔にもならなかったし、誰にも邪魔されずにゲージ内を眺められるからだった。
ゴミ箱と並んで私は自分の膝を抱いて床に座り、これから乗る自分の機体をずっと見ていた。
途中、一度だけ私は視線を部屋の一段高い席に座っている指令に移した。
彼はそれに気がつかず、操り人形のような機体からコードが外されていくのを観察している。
誰かが緊張した声で準備完了を告げると、それまで黙っていた指令がこちらを向いて私を促した。素直に立ち上がって居心地の悪くなったスカートの生地を引っ張った。
「初めてだな。怖くないか?」
指令はそう訊ね、私は黙って首を振った。指令はそれで満足してまたゲージの方向を向いてしまった。
管理室を一人で出て、狭い通路を通ってシャワー室に入り、脱いだ服を金属性のカゴに入れて蓋をすると、天井から滅菌材入りの霧が噴出してきた。
俯いて身じろぎもせずにぬるいシャワーを浴びた。かすかに白みを帯びた水が幾筋もの列になって排水口へと流れていく、自分の毛が網目の排水栓に引っかかっていた。
私は落ち着いていた。これが実験の最終段階であることは知っていた。けれど胸の高鳴りや緊張とは無縁だった。
シャワーを浴び終えてから、ロッカー室でプラグスーツに袖を通した。新品のスーツは羽毛のように軽くて柔らかかったが、胸の部分が少しキツく感じられた。すでに初潮を済ませていたが、女になったという実感はなく、スーツの胸がきつくなったことで、それで始めて自分が女だと実感した。
それからエントリープラグに入るまでの間は、まるで早送りの無声映画のようだった。
初めての本物のエントリープラグは思ったより窮屈で、閉塞感を強く感じた。音声だけが通じていて、管理室のせわしない声が届いてきた。
私は操縦桿の感触を確かめつつ握り、LCIが室内を満たしていくのを待った。
第一回起動実験開始、と誰かが言ったのと同時に機体に電気が通う鈍い音がした。
「起動します」別の誰かが言った。プラグ内の磨き上げられた壁面が揺れ、虹色に光り、機体の収められているゲージを映し出した。
管理室のモニター画面が現れた。緊張した面持ちを並べている職員たちに混じって指令もこちらを見ている。彼は腕を組んでカメラを通して私のことを見ている。
ヘッドセットを通して私の中に波が流れ込んできた。それに同調しようと試みる。そのコツは昨晩の夢を思い出すようにすることだと聞いていた。
動く。そう思った瞬間だった。
何かがはちきれるような音がした。鳥の骨を折る音に似ていた。途端に腹から胸へと異物感が競りあがってきた。
照明の色が変わって私は赤い色に包まれた。警報音と共に照明が減滅と点灯を繰り返す。
パルスが逆流している。と司令室の誰かが叫んだ。拒絶とか遮断とか、そんな言葉が飛び交った。
私は操縦桿から離した手で口を抑えて嘔吐をこらえる。機体がゆっくりと揺れ始めた。気絶しそうになるのに耐えるのが精一杯だった。機体の動きはだんだんと力強さを増してきた。私と同じように苦しんでいると分かった。私と機体は苦痛から逃れようともがいた。抑留具が轟音を立ててはずれ、千切れた破片が冷却水のプールに落ちる音がした。
司令室は絶望的なパニックに陥っていた。悲鳴と、それを抑えようとする命令とが入り乱れている。
機体が怒り狂ったようにゲージ内を暴れ始めた。壁を殴り、肩からぶつかり、頭突きをくらわせる。そのたびに私は操縦席から投げ出されそうになった。
恐怖が滝のように降りかかり、意識が白く霞んでいく、操縦席の内壁に映っていた画像が途切れて銀色の壁に戻った。音声も排出という言葉を最後に切れた。機体が大きく右へ傾いて、私は操縦席から転げ落ちた。
苦しかった。肺への酸素の供給が止まって、溺れていた。意識が飛んでしまう前に、私は最後に残された司令室の映像に目をやった。映像は乱れていて、慌てふためき、部屋から逃げて行く背中があった。目を剥き、歯を食いしばって接続を試みている顔があった。私は司令官の姿を探した。
まばゆい光りが溢れ、私をたたきのめした。その光りの中で意識を保つのは不可能だった。光が意識を吹き飛ばす寸前、はっきりと目にした。私は自分の意識にしがみつき、見えてきたものに必死で手を伸ばした。
光りの世界を抜けると、そこには海か湖が広がっている。
灰色の薄い明かりが水平線のかなたまで続き、島や船はいっさいなかった。とにかく寒くて、両手で体を抱いた。息をするたびに口から湯気が立ち上る。
重く汚れた空気で胸を悪くしながら、ここが教会でシスターをしている叔母から聞かされた冥界って所だろうと思った。
名を呼ばれて振り返ると、そこには私が居た。髪型からプラグスーツまでそっくり私と同じで、声だけは違っていたが、それは私が自分の本当の声を聞いたことがなかったせいだ。
「あなた、だれなの」
私の問いかけには応じず、もう一人の私、あるいは私にそっくりな者は低く笑った。
「私と一つにならない?」
「なに?なんの話し?私に双子がいるの?そんなこと聞いてない」
わたしは後ずさりながら助けを求めて周囲を見渡した。視界の及ぶ限りまで波ひとつない水面が広がっている。
「あなた、死ぬのよ」
その存在は勿体つけるようにして言った。「私が起こした事故のせいで、一つまみの欠片も残さずに死ぬのよ」
死ぬんだから。その存在は何度も言った。
「私と一つになれば生きられる」
私は恐怖に震え、足は根っこが生えたように動かなかった。その存在は水面に波を立てずに近づいてきて、近すぎるほど私の前まで来た。
「受け入れなさい。失うものも多いけど、それ以上にたくさんの物を得られるから」
その存在が手を伸ばした。その手はわたしの胸へめり込み、わたしの心臓を握った。
「それでいいわ」
意識が急激に遠くなった。その手と心臓が溶け合っていく感触だけがはっきりと分かる。
意識の糸が擦り切れるまで、その存在は甘く囁き続けた。
人ではない者の囁き、獣の囁きを。

「気がついたら、わたしはアパラチアの山の中に寝ていたわ」
部屋にはわたしと二人きりで、エリカは絶えずドアを気にして、盗み聞きしている奴がいないかをチェックしている。
「何日かその場にいて動けなかった。そのうちにNIHISの生き残りがやってきて私を保護したの。扱いに困った上層部は私を工作員として育てるために、とっても素敵な教育を施してくれた」
「誰もあなたが使徒と一緒になったことを知らないの?」
わたしはそう訊いた。胸に巻いたコルセットがきつくて手も足も青あざだらけだ。テーブルの上では食べ残しのサンドイッチが乾燥しかけていて、握りつぶしたビール缶は3つ、まだ中身のある缶はそれぞれの手に納まっていた。
「NIHISの人間はみんな知ってるよ」
缶に口をつけてから、エリカは少し悲しそうにした。
「上層部の奴らは私を死なせたがってた。だから過酷な任務ばかりまわされた。あれが使えなきゃ、ランボーもダイ・ハードの主人公、名前はなんだったっけ?ブルース・ウィリスでも不可能な任務ばっかり」
「あなたと融合したのは、第13使徒ね。3号機に寄生した使徒」
「融合じゃない、わたしも寄生されてるんだ。たぶん第13使徒は自分のほんの一部だけを私に預けたんだと思う」
「どう違うの?」
「私は自分の意志で動いてる」
エリカは立ち、窓へと行ってブラインドに指を突っ込んで開き、できた隙間から外の様子を眺めた。外は暗く、戦略自衛隊の車両が敷地内を走っているはずだがここからは見えない。
「使徒が今も話しかけてくることはある?」とわたしが訊く。
ブラインドから指を抜いてぱちんと音をさせてエリカはこちらを向いた。
「ないね。一度もない。ひどい無口な奴なんじゃないかな?」
「わたしたち以外にエヴァに乗っているパイロットがいたなんて、まったく聞かされていなかったわ」
「ミッドランドじゃ、自分たちの棲家をネルフと表現する奴は一人もいなかった。正式にはネルフ米国第二支部だけど、みんなNIHISの方を使ってた。ほとんどアメリカ合衆国の専属機関だったし、日本のネルフ本部とは仲が悪かったからね。わたしもNIHISが独自に発見したパイロット候補だったんだ」
エリカはまだ残っているビールをテーブルに放棄して、新しい缶のプルタブを起こした。
「あたしは、あんた達のことはよく知っていたよ。会うこともないってこともね」
「どうして?」
「アメリカは4号機を使徒との戦闘に使おうとなんて思ってなかった。それは3号機の役目だった。4号機の役割は…わかるだろ?」
「使徒との戦闘が終わった後、核に変わる兵器として使おうとしていた」
「大正解。だから。私の事も極秘だったんだ。わたしのコードネームは『デカルト』だった」
「フランス語で『未知数』ね」
軽くうなずいて、ドアに注意を払い、そしてわたしを見た。訴えかけるような目だった。
「最初の搭乗テストであの事故が起きたから、結局、操縦できずに終わった」
「それでわたしに何度も訊いたのね」
「操縦してみたかった。できればあんたたちと一緒に使徒と戦いたかった。私はミッドランドで一人っきり、同い年のあんたたちと友情を持つことを考えていた。あんたたちが絶体絶命に陥ったところで、私がかっこよく登場して使徒を倒すってシナリオを夢見てた。かわいいもんだろ?」
「そうね」
気の利いた言葉を咄嗟に組み立てることができず、曖昧に返事をした。彼女が突き放されたような印象を受けないことを願った。
「叶うはずもなく、事実、叶わなかった夢さ」
「あなたの」わたしは空になった缶を、他のと一列になるように並べ、新しいのを手にするべきかを考えて、結局やめた。
「母親はエヴァのコアのために犠牲になった?」
そう質問するのを抑えられなかった。
「母親は死んだよ。エヴァのためにじゃなくて普通の病気で、肝硬変が原因の癌で死んだ。エヴァのコアになるような価値のある人間じゃなかった。通訳を夢見てニューヨークに来て、見た目だけは人並み以上の白人男性に熱を上げて、そのまま『沈没』した日本人女性。
街のパン屋で働いてた。店主が無償でホームレスに配るパンをちょろまかして、食費とマリファナの購入代金に充てるようなヤツだった。父親はそれに輪をかけたジャンキーでね」
エリカは特に悲しそうでもなく呟いた。
「エリカ・キーリって名前も本当の名前じゃない。自分でつけたんだ。名前なんてどうでもよかった。両親とはわたしと引き換えに麻薬所持の前科の帳消しと、今後いっさい麻薬で罰せられることがないって条件を喜んで飲んだ。それ以来、会って無いし、友達がいたわけでもない。施設ではデカルトがわたしの名前だった」
アパートでファーストが言っていた言葉を思い出して胸がちくりと痛んだ。
「嫌なことを訊いて悪かったわ」
構わない。とエリカは手を振って表現し、話題を変えた。
「傷の具合はどう?」
「平気に見える?」青あざだらけの腕を見せた。
「ものすごく痛い。コルセットのせいでブラができないのよ。どうやって外を歩けばいいわけ?」
「ジャンヌ・ダルクはそんなこと気にしない」
そう言って笑い、皿の上のピーナッツを口に放り込んで、あまり噛まずにビールで飲み込んだ。
「勲章ものだよ。エヴァの元操縦者3名の命を守ったんだから」
ファーストはここに運ばれるとすぐに施設内の病院に担ぎ込まれ、シンジもそれに付き添っていた。ヒカリとマヤはまだ福生にいて、明日にはこちらに移ってくる予定になっている。ファーストの様子を見に行く気にはなれなった。人づてに命に別状はないが絶対安静が必要だと聞いただけで十分だった。シゲルはどうなったのかさっぱり分からない。この施設内にはいるはずだ。
「碇シンジに撃たれたんだってね」
「もしも顔や腕に当たってたらと思うとぞっとする。どん臭いくせにかっこつけようとするから、いい迷惑だわ」
「福生に連絡してきたとき、アスカを助けてくれって叫び続けていたらしいよ」
その言葉は気にしないことにした。
「あの二人をどう思った?」
「そうだねえ…ミス・アヤナミは話に聞いたとおり」
「シンジは?」
「思ったよりいい男だった。でもあの人の様子をうかがうような態度は我慢なんないね。ああいうのがいいって人もいるだろうけど」
わたしは椅子から足を伸ばした。ホットパンツから伸びる足に点々と散っている青あざを指で軽く押しながら、薄赤に塗っている足先までもっていった。
「あたしたちはこれからどうなるの?」
「大きな外交的危機が始まる。衛星レーザーを打ち込まれて日本政府も動かざるを得なくなった。もうNIHISの手には負えないところまで問題は大きくなってる。各国元首たちにボールは渡った。これからは彼らがプレイヤーだよ」
「どういうこと?戦争が始まる?」
「前哨戦はもう始まってる。エヴァ操縦士獲得競争とでも言うべきかな」
「そろそろ教えてくれない?ファーストはともかく、どうしてもうエヴァに乗れないわたしやシンジまで狙われるのか」
「あんたたちは可能性なんだ。エヴァそのものがどんなに高機能化しても、操縦士がいなければ真価が発揮できない。生身の操縦士と比べてダミープラグは劣りすぎている。あちらさんはこちら側にどんな可能性も所持させたくない」
「じゃあ、最初から拉致なんてせずに殺したらよかったじゃない」
「相手も可能性は1つでも多く欲しいのさ。当然でしょ?」
「あちら側、にはパイロットはいるの?」
「たぶんいる。もしくは非常に高い可能性を有している。具体的に何かは分からない」
「ファーストは自分が『四人目』になればエヴァを操縦できるって言っていた」
エリカはゆっくりと手で髪を梳き、長い沈黙のあとで重々しい声で言った。
「葛城ミサトが青葉シゲルとあんたをつかって、首脳たちが仰天する情報を持ち込んだ。今頃は国家情報分析室の連中が給料以上の成果を求められてるだろうね」
「あのデータね?一体なんだったの?」
わたしが治療を受けている間、エリカとシゲルは分割されたデータを統合した。暗号を解除するキーはシゲルが知っていた。
「データは14使徒を殲滅した後、ネルフがマギを使って行った行動を記録したものだった」
「シンジの救出作戦…」
わたしは当時のことを思い返した。わたしは14使徒に言い訳が立たないほど完敗した。14使徒はネルフを破壊しつくし、シンジがどうにか撃退したが、紙一重の際どい戦闘だった。シンジは代償に肉体が液化してエントリープラグに閉じ込められた。
赤木リツコがLCIに溶けた有機物をかき集め、DNAを元にシンジの体を復元して、精神、ミサトは魂と呼んでいた。を定着させて救出したのだった。
その数週間はわたしも腑抜けになっていた。当時のわたしが自分に必死に否定していたシンジへの想いに確信の署名をさせられた出来事だった。
エリカが話しを続けたので、わたしは記憶を漁る作業をやめてそちらに意識を戻した
「ドクター・アカギはその時にレイに使っていたクローン技術を活用していた。作り物の肉体に魂を入れるノウハウをね。データはその部分を含んでいた」
「つまり、14歳のファーストの肉体があれば、再びエヴァのパイロットがこの世に誕生する」
「そして、レイの肉体はいくつかヨーロッパに存在していることが分かっている」
「じゃあ、ミサトはこの10年間、レイの肉体を捜してた?」
ところが。とエリカはホームズの助手のワトソンのように切り替えした。
「やっていたことはまったく逆。ミサトはレイの肉体を破壊して回ってる」
「なぜ?」
「さあね。これについては青葉シゲルもよく分かってない。ただ、葛城ミサトは何か奥の手を隠してる」
「ミサトは政府に頼まれて活動しているんじゃないのね」
「彼女は独自に動いてる。日米の政府は――」
エリカはそこで奇妙なあくびをし、目尻に浮かんだ涙を掌で拭った。
「ヨーロッパのどこかにいる葛城ミサトを連れ戻すことを決定した。今、捜索部隊の人選が進んでる」
「あんたも行くの?」
「私?」
エリカはビールの残りを一つの缶にまとめて首を振った。
「言っただろ、この問題はもうNIHISの手を離れてる」
「じゃあ、わたしの側にいてくれるのよね?」
エリカはゴミをビニール袋にまとめてからドアのほうへと歩いた。
「NIHISはベンチに引っ込んだ。このゲームから退場する」
「それって…」
急に胸が締め付けられるようになった。
「お別れになるってことさ」
今度はあくびのフリでごまかせなかった。彼女は涙を浮かべている自分に気がつくと、信じられないという風に首を振って部屋を出た。
扉がゆっくりと戻ってきて、静かに閉まった。
わたしは冷房の風でかすかに震えているビニール袋の取っ手を、自分の思い通りにならないもの、わたしにいつでも孤独を押し付けようとする目に見えない力、それらの根源であるかのように睨み続けた。

 病室に入ると、二人はわたしを見て、二人でバツの悪そうな顔をし、二人でわたしに言葉をかける役目を押し付け合い、シンジだけが立ち上がった。
「碇君!綾波さん!」
後ろに控えていたヒカリが待ちきれずに声を上げた。ヒカリがわたしの前にでるより先にシンジに近づいていって、手が届く位置までくると、腕を振り上げて叩きつけるように頬を張った。
ヒカリが小さな悲鳴をあげた。消毒液臭い病室に乾いた音が響いた。
「何するんだよ!」
シンジは頬を手で押さえて怒りすら込めて言った。
「わたしを撃ってくれた分よ」
それを聞くと、シンジは怒りを急激に萎ませて肩を落とした。「しょうがなかったんだよ」
「あんたは病人だからカンベンしてあげる」
ファーストはベッドの上から無表情のまま、こちらを見ている。患者用の服に着替えていた。ベッドの下に深緑色のスリッパが並んでいる。
「喧嘩するのはやめて」
ヒカリが10年前とまったく同じタイミングで仲裁に入った。
それぞれが思い思いの場所に落ち着き、ヒカリは淹れたてのお茶を配っていった。怪我人なんだから止めてと言おうかと思ったが、それが彼女の性分なんだと思い出して思いとどまった。
気詰まりに最初に音をあげたのはマヤで、マヤは部屋に入ってから一度も口をきかなかった。懐かしさはあるようだったが、慙愧の気持ちがそれに勝っている感じだった。
マヤが出て行くと、雰囲気が緩くなった気がした。残った面々はひとまず同い年の同級生で、共有している思い出も多かった。ヒカリが巧にタブーを避けてポツポツと思い出話を始めると、少なくともシンジの表情はいくらか緩んだ。ファーストはもともと緩む余地がなさそうだ。
「それは覚えてる。わたしがフリーダイヤルはイギリス英語でアメリカだとトール・フリーだって教えてあげた」
「あの先生、それをテストで出したのよね」
「それでもケンスケは間違ってた」
ヒカリが笑うと、わたしとシンジも笑った。ヒカリがいてくれて本当によかったと思った。
ひとしきり思い出の再確認を終えると、ヒカリはトイレに立った。
3人だけになり、シンジが遠慮がちに切り出した。
「アスカ、その、傷は何ともない?」
「動くと痛むけど平気」
「その、ごめん。なんて言うか、あの」
「いいわ。あんたの肋骨にヒビをいれてやるわけにもいかないから」
「ごめん」
どんなに自分が悪くても謝れない男はいくらでもいる。素直に謝罪ができるだけコイツはマシなのかもしれない。
布を巻いて豊胸手術をしたようになっている胸を軽く押さえてファーストを見た。ファーストは窓の外を見つめている。わたしの視線に気づいてこちらを見た。
「寝てたきゃ、寝てていいよ」
「大丈夫よ。楽しいもの」
「楽しいって今いった?あんたがそんな言葉を言うなんて思わなかった」
ファーストは元の場所に視線を戻した。雲を脱した太陽の光りが強くなり、部屋全体が浮かび上がった。
「綾波は変わったよ。感情を表に出せるようになったんだ」
それが真実か思い込みなのかはともかく、わたしの感情の方をあまり刺激しないでくれるように願った。せっかく機嫌が上向きなんだから。
冷えかけたお茶を飲み、わたしはぶつ切りの会話をシンジと交わした。二人とも意識的にエヴァとミサトに関することを避けた。そろそろ潮時かという頃にヒカリがエリカと二人で戻ってきた。
わたしは二人を押し戻して、きた道を引き返させようとしたが、エリカは従わずに言った。
「葛城ミサトを帰国させるための一団がヨーロッパに向かったよ」
その場の全員がエリカを見た。
「彼女が見つかるまで、あんたたちは戦略自衛隊の保護下におかれる」