獣は囁く

 第16章

 ヒステリックな絶叫で目が覚めた。誰かがわたしを呼んでいる。
ひどく騒がしい最悪の起こされ方だ。ここはベッドでもなんでもなく、冷たいタイルの上だ。眠る前に見た涙はガラスの欠片から5ミリほど前進している。
わたしはうつぶせになっていて、咳だかえづきだか分からないものが体の奥からこみ上げてきた。その苦痛に口を押さえよとして手が手すりの支柱に引っかかる。
自動追跡照準映像の丸と三角が合わさるように、心と体が少しずつ近づいていくのが分かって視界も次第にはっきりしてくる。
大声と共に荒々しい多数の足音が聞こえた。頭を踏みつけられるのが恐ろしかったが、それらは地面伝いに頭に響く震動を残して耳元を通り過ぎていった。
手すりの間に通っていた腕をゆっくりと引き抜いた。その手で支柱を押しやって仰向けになろうとしたが、まったく無理だった。
タイルと体との間に手を差し込み、撃たれた場所を探した。上着に穴か開いているのが分かる。血の感触はなくケブラー繊維のカサカサした手触りがあった。
死んでない。防弾シャツがわたしを守ってくれた。
もう一度挑戦し、今度は成功して仰向けに転がった。意識が急速に回復し、色んなものが聞こえてきた。銃声がしている。
さらに一回転して肘をタイルに突いて、体を浮かせた。膝を突いて四つんばいになると、誰かに肩をつかまれて引っ張られた。そのまま引きずられていく。
部屋に引っ張り込まれ、壁に背を持たせかけられた。目の前にシンジの顔がある。わたしを撃った奴だ。絶対に殴ってやろうと思ってた男。
わたしが腕を上げると、シンジは手首をつかんで引き寄せた。わたしは呆気なく彼の腕の中に納まった。
「後ろにいたんだ。一か八か撃ったけどアスカに当たったんだ」
シンジはそう言って腕に力を込めた。まだ力が入らず、なされるがままシンジの肩に顎を乗せた。
「アスカが出て行った後に誰か来た。何とか追い返して、次にドアが開いたらアスカがいたんだよ」
顎を肩から離して周囲を見渡した。そこはシンジの部屋で、部屋の隅にファーストが立っていた。右腕の肘を左手でつかみ、下げた右腕にはわたしの銃を握っている。
ふたたび引きずられて部屋の中まで来てから、もう一度体を点検した。体を伸ばすと左胸に激痛が走った。
「あんたの方は大丈夫なの?」平気を装ったが痛みで声が震えた。
「平気よ」とファーストは答えた。
わたしは壁から体を離して肋骨が放つ痛みに耐えて立ち、よろめきながらファーストへ近づいていって、その手から銃を取り上げようとしたが、思わぬ強い力で抵抗された。
「あんた病人でしょ、病人らしく寝てなさいよ」
「あなたは怪我してるわ」
「これはあたしのよ」
銃を奪い取ると、弾丸は薬室に装填されていつでも撃てる状態になっていた。
「何とかしないと」
シンジは部屋にあったガラクタを玄関に積み上げ始める。後ろから肩をつかんで制止して、こちらを振り向かせる。
「自分から逃げ道をふさいでどうするの」
言葉を吐くたびにクジラの骨が胸につかえているように感じる。わたしは1メートルほど積み上がったガラクタを崩した。左手を伸ばすと胸を内側から切り裂くような痛みが走り、わたしはその場からまったく身動きができなくなった。
「アスカ、どうしたの」
「あんたに撃たれたあとが痛むのよ」
「ごめん。アスカ」
「許さないけど、今はいいから窓の外を見張って」
シンジはわたしを見つめ、頷くと窓へと向かった。彼の銃はわたしのと比べると玩具みたいに小さいやつで、そのおかげでわたしは助かったんだろうけど、どうしようもない不安に駆られた。
わたしは握りつぶせそうなほど薄いファーストの肩をつかんだ。
「あんたはさっさと隣の部屋に行って」
「いやよ」
「大人しく言うことをききなさいよ!」
わたしが無理やりに壁の穴まで彼女を押しやると、シンジが近づいてきた。「綾波に乱暴しないでよ」
今度こそ、頬を張ってやろうとした時、シンジを狙った銃弾が窓ガラスを抜けて天井にいくつもの穴が穿った。
「囲まれてるわ」
とファーストが他人事のように言った。「音がする」
信じられない思いで、本当かどうか耳に意識を集中すると、窓ガラスを突き破って何かが部屋の中に飛び込んできた。その物体は白い尾を引いてテーブルの上に当たって跳ね、床に落ちてラグビーボールのように回転しながら再びバウンドし、崩したガラクタにぶつかって止まった。
金属で覆われた容器はお湯から出したばかりのように、白い煙を立ち上らせる。
わたしたちは顔を見合わせた。
「入って!」
三人が穴をくぐって206号室へ飛び込み、床に伏せると同時にバンと電子レンジに入れた生卵が破裂するような音がした。
シンジが一番先に認識を取り戻し、穴から顔を出して爆発が起こった部屋の様子を見た。
「何だよこれ!」
穴をふさいでいるシンジを押しのけて205号室を見た。わたしが予期していたのとはまったく違う世界が広がっていた。
部屋は水色のねばねばした液体が天井から床まで部屋中に飛び散っている。
そしてまるで感じたことのない冷気が皮膚を刺した。
「ニトロゲン(液体窒素)だわ」
ファーストが相変わらずの口調で言った。
「何の意味があんのよ」
ファーストが答えるより先に答えがはっきりした。液体のついたカップが念力を使ったみたいに砕け散り、テーブルは液体のかかった場所から圧力をかけられたように変形し始めた。壁が軋み、木の折れる音と共に亀裂が次々に走る。
高圧力で液化させた窒素は付着したものの熱を一瞬で奪い去り、収縮させて破壊する。ということをファーストが言ったが、部屋中のあらゆるものが収縮する悲鳴に邪魔されてうまく聞き取れない。
聞こえるのは様々な物が収縮に耐え切れずに次々に砕け散っていく不協和音だ。
シンジが息を呑んだのがはっきり分かった。「拉致じゃなくて、僕たちを殺すつもりじゃないか!」
「今も拉致するつもりだなんて、一言も言ってないわよ」
シンジがわたしに食って掛かってきた。
「音がする。次が来るわ」
遠くでシュコンとガスの抜けるような音がした。液体窒素を充填した擲弾は今度はファーストの部屋の窓を突き破り、カーテンを引き倒してわたしたちの目の前に止まった。
「出て!」
わたしが叫ぶと同時に3人は壁の穴に向かったが、絶望的なことに気が付いた。
壁の穴が狭すぎる。
今やっとシンジが穴をくぐり、205号室からファーストに手を伸ばしたところだ。
絶対に間に合わない。
「ちくしょおお!」
わたしは胸の痛みを忘れて大きく踏み出し、思い切り擲弾をキックした。
窓の外に飛び出した金属の塊は上空で閃光を放って炸裂し、青く着色された液体窒素を周囲に撒き散らす。
と同時に部屋のドアが開いた。完璧な陽動作戦っていうのはこういうのを言うんだろう。
突入してきた兵士はこちらが女でも、何のためらいもなく体当たりしてきた。彼らの作戦を何度も切り抜けた結果、彼らのわたしに対する評価も上がっているのかもしれない。
エリカみたいに訓練されていると思われているのかも。
右腕をとられたかと思うとよく分からない関節技をかけられて銃が手から落ち、次の瞬間には体が浮いて床に叩きつけられた。
敵はわたしを引き倒すと、右手を背中に回してひねり上げた。そして動きを封じるために背中に膝を置いて、折れるか亀裂の入っている肋骨の上に全体重をかける。
痛めた骨が軋むのが分かり、その激痛にわたしは身をよじって絶叫した。
しかし敵は力を緩めてはくれず、逆にさらに力をかけてきた。意識が苦痛から逃れようとして急速に縮んでいく。
意識を失う直前、圧力が軽くなって気絶せずに済んだ。それでもわたしの口からは苦痛のうめきしか出ない。
「うごくな!この女を殺すぞ」
敵が威嚇しながらわたしの頭に銃を突きつけた。英語だったが意味は十分に通じた。それで銃を構えたシンジの動きが止まった。シンジはわたしにのしかかった敵に銃口を向けたまま、敵とにらみ合った。指が白くなるぐらい拳銃を強く握り締めている。
「アスカから離れろ」
わたしの上の男に比べて見るからにびくびくしている。レイの姿は見えない。外から飛び散った液体窒素で窓ガラスが音を立てて割れた。
緊張が張り詰め、あらゆるものが収縮を続ける音がする。
このまま膠着状態になるのかと考え、すぐにそれは誤りだと気が付いた。敵は一人じゃない、どうにか均衡を保っている状況は敵の仲間が駆けつけて絶望的な不利に変わるだろう。武器を持っていないファーストに期待はできない。
何とかしないと。わたしは焦ったが銃口は頭にぴったりと押し付けられている。わたしの銃は手の届かない床の上に落ちていた。
窓の割れたベランダで何かがうごいた。ファーストだった。ファーストは205号室から206号室へとベランダを伝って来たらしい。物陰に隠れて顔を出し、わたしと視線を合わせた。
敵は荒い息をしてシンジに集中し、ファーストには気が付いていない。ファーストはゆっくりと物陰から出てきた。その手には何かの容器を持っている。
壁が裂ける音に合わせてファーストが立ち上がった。
わたしの頭から銃が離れた。動こうとして圧力をかけられ、針で刺された虫のようにばたついた。
わたしに向けられていた銃が今度はファーストに向いている。男が引き金を引こうとしたのが分かった。わたしは渾身の力を込めて身をよじった。男がバランスを崩し、弾丸はファーストの髪を揺らして空へ飛んでいった。銃声が二つして圧力から開放された。
シンジの撃った弾は男に命中し、男の着ていた防弾プレートに食い込んで、男を床に倒した。シンジは3発目を撃ち、それは外れて床に穴を開けた。男は身を起こすと、まるで天国から地獄に垂れたくもの糸に群がる餓鬼のようにわたしに飛び掛ってきた。
ブーツの底を相手に繰り出して男の胸を押し、その反動で床を転がる。
男はわたしをふたたび人質にするのを諦め、まだ持っていた銃をシンジに向けた。
その時、ファーストが部屋に飛び込んできた。わたしを飛び越し、まるでテニスをするように腕を振った。手にしていた真空耐熱加工の施された水筒から青い液体が飛び出して男の顔に襲い掛かる。
わたしたちは呆然として男が死んでいくのを見守った。皮膚にかかった液体窒素は一瞬でその下の毛細血管を流れる血液を凍らせ、血管に栓をし、膨張した血液が血管を破る。
男の顔が見る間に真っ黒になり、目から血が流れ出した。それも忽ち凍りつき、超低温が脳へ向けて浸透する。男は耳をふさぎたくなる断末魔を上げて、顔をかきむしった。
男が倒れた。胸が痙攣し、吐き出した息が真冬のように白く凍った。そして脳が凍りつき、動かなくなった。
「アスカ!」
シンジがわたしの背中に手を置いた。わたしは燃えるような胸の傷みが和らぐまで待って携帯電話とX3のキーを差し出した。
「大通りの波際に車がある。ダウンタウンに向かって5分も走れば電波が入るわ。福生の米軍基地に電話して助けを呼ぶのよ」
「アスカと綾波はどうするんだよ」
「わたしが何とか食い止めてみる」
わたしはふらつきながら銃を拾い上げた。
「無理だよ!」
「全員でここにいても同じよ。シンジの方が土地勘があるでしょ」
シンジは携帯電話だけを受け取った。「10分だけ待って。電波が入るビルがあるんだ。そこに行く」
「待って」とファーストが言った。手には空っぽの水筒を持ったままだ。「私が行くわ」
「あんた(綾波)はここにいて」
わたしとシンジが声を揃えて言い、わたしは壁を支えにして立ち、シンジは携帯をズボンのポケットに入れた。
「ドアから出るのは危険だけど、わたしが援護するわ」
シンジはそれに答えずにガス缶の詰まった段ボール箱を部屋の角に押しやり、壁の低い位置に掛かっていた布を引き剥がして、箱の上に投げかけた。
壁にしゃがんで通れるぐらいの穴が開いている。
「もしもの時のために道を作っておいたんだよ。208号室から108号室に下りられる」
「108号室からは地下通路か何かあるの?」
「ないよ。玄関から出る」
「狙い撃ちされたら終わりじゃない。敵は全体が見通せる場所にいるはずよ」
「いないわ」ファーストは死んだ男の側にしゃがんで、男の使っていた銃を持った。「敵は南側に移動してる」
「どうして分かるのよ」
「音よ」
「あいつらの音が聞こえるって言うの?」
ええ、ファーストはわたしとシンジを順番に見た。そして空の水筒を床に置いて銃を握りなおす。
「ずっとこの部屋にいたから」
「綾波、敵は何人いるかわかる?」
ファーストは今頃になって運動の疲れが襲ってきたようにベッドに腰を下ろして少しうなだれた。
「正確にはわからないわ。たくさんいる」
「とにかく、今はチャンスってことよね?シンジはさっさと行って頂戴」
ぐずるシンジの肩を銃尾で軽く殴る。「早く。時間がもったいないじゃない」
シンジが小さな穴の奥に消え、足音が遠ざかるとわたしは床にうずくまった。胸の痛みがひどくてもう一歩も動けそうにない。
「あんたは隣の部屋に隠れていて。207号室」
ファーストがベッドからわたしをじっと見下ろしている。それは10年経っても屈辱以外の何物でもなかったので、無理やり立ち上がった。
まだ燃えていたガスコンロの上のやかんを外して火を消し、新しいボンベを一つと一緒に205号室に入った。
撒き散った液体水素はほとんど蒸発しおわっていた。部屋は超能力者が暴れたような有様で、壁はヒビだらけ、テーブルは万力で挟んだように曲がっている。
床に散らかった陶器の破片を払いのけた。破片は氷のように冷たい。携帯コンロを床に置き、その上に新しいガス缶を載せてスイッチをひねってから206号室に戻る。
ファーストがわたしに問うような視線を送ったが無視し、207号室へ通じる小さな穴に頭を突っ込む直前に言った。
「あれで時間を稼ぐわ」
隣の207号室は女性が住んでいたらしい。シンジもファーストもこの部屋の物には手をつけなかったらしく、住人がこの部屋を出た状態のままだった。
わたしは穴からできるだけ遠い場所に行き、座って壁にもたれた。もう少しも動きたくないのが正直なところだ。
部屋に入ってきたファーストがわたしから着かず離れずの場所で立ち止まり、またこちらを見下ろした。
「あまり動かないほうがいいわ。肋骨が折れていたら肺を傷つけてしまう」
「あんたに心配されるなんてね。死んだほうがマシかも。あいつら、わたしたちが自爆したと思うわよ。そう思うよね?ねえ、ファースト」
わたしが見上げると、触れ合った視線が火花を発するかのように思えた。
ファーストは口をつぐんでいたが、やがて喋り始めた。
「ファーストと呼ばないで」
「ファースト以外にどんな呼び名があったっけ?」
「レイよ。綾波レイ」
「わたしにそう呼んで欲しいの?」
「もし…」
そこでファーストは咳き込み始めた。激しい咳で音が外に漏れそうだった。ファーストは口をふさいで懸命に咳をこらえている。
わたしはそれを妙に落ち着いて見ていた。まるで安っぽいソープオペラを見ているようだった。人に言えない出生の少女、その少女は不幸を乗り越えたが、今度は病がその身を蝕んでいる。それは不治の病で、クロ−ンにしかかからない病、エリカはクローンから作ったクローンは10年ほどしか生きられないと言っていた。
なら、ただのクローンはどれだけ生きられるんだろう。
「わたしは、あんたらが、アツアツの結婚生活を送ってるもんだと思ってたけど」
ファーストは咳をしながら上目でこちらを見た。
咳が小康状態になり、ファーストは口を覆っていた手を外した。
「そんなことないわ」
言葉と同時に血が一筋、口から出て顎を伝った。彼女は滴る血を手で受け止めた。まるで部屋を汚すと住人に叱られるとでもいう風に。ふたたび咳が出て、頬が一瞬、風船のように膨らみ、新しい血の筋が顎を汚した。
わたしはコイツと一緒に死ぬかも。そう絶望に似た諦念を感じたとき、コンロの上で熱されたガス缶が爆発した。
爆発はわたしの期待よりもあっけなかったが、敵にわたしたちが死んだと思わせるには十分だった。
抜け穴から風が吹いて部屋の埃を巻き上げた。それで部屋のカーテンの隙間から差し込む光りが一直線になって浮かび上がった。
ファーストは座らず、壁によりかかると顎を突き出して上を向いて目を閉じた。口元は2歳児がナポリタンを食べたみたいに汚れている。
「どう、何か聞こえる?」
ファーストはそのままの体勢で眠ってしまったように身じろぎせずにいた。
沈黙が部屋を支配し、わたしたち二人の呼吸する音だけが聞こえる。薄闇の中でファーストの髪は油分をすっかり取り除いた毛皮のように見えた。
5分が経ち、わたしが希望の蝋燭に火を灯そうと準備を始めたところでファーストが囁くように呟いた。
「水の音がする。こちらに近づいている」
「死体を確認するまで安心できないってことね」
計画失敗。そう心の中で呟いた。こうなれば敵が建物に入るタイミングを見計らって、シンジを追って外に出るしかない。
億劫さを追い出して立った。そして208号室へ通じる穴へと近づく。
穴に顔を突っ込み、208号室を見渡した。こちらは空気が湿っていてカビ臭く、何かが腐ったような匂いがした。
「ずっとそうしてる気?」
穴から顔を戻してファーストに言葉を投げた。ファーストは同じ体勢のまま、短かく細かい息をしていた。
「動けないの?」
ファーストが目を開いた。寝起きのような目で視線はわたしの体を通り越すようだった。
わたしはファーストの左手を引っ張って自分の肩に回した。触れるのもいやだった奴にこんなことができるなんて自分でも意外だった。
唇をかたく結んで、ファーストを208号室に押し出した。205号室では火災が始まり、石油製品の燃える刺激臭がかすかにしてきた。
208号室の床には穴が開いていて、伸ばした折りたたみ梯子がかかっていた。ファーストはその梯子に手をかけて待っている。
下はほとんど真っ暗で、何も見えなかった。
「降りるのに手は貸せないわよ」
ファーストは無言のまま梯子に足をかけた。腕で体重を支えるのも困難らしく、梯子に体を預けるようにしてゆっくりと降りていく。
わたしも左手を伸ばそうとして胸に激痛を感じ、右手だけで108号室へ降りた。
降りると同時に膝までぬるい水に漬かった。雨戸が閉じられていて、光りは天井の穴からとどいている灰色の薄明かりだけだ。
ゴミ袋がクラゲの化け物みたいに水面に浮かんでいる。
床はぬめぬめしていて、脚をとられないように慎重に歩き出す。
水を蹴って歩くのには力が必要で、踏み出すごとに骨が痛んだ。ファーストはつかめる物は何でもつかんでようやく前進している。
玄関までやってきた。耳を済ませると外で何かを話し合う声が聞こえる。ファーストが足を滑らせて転びかけた。
「そういえばあんた裸足だったわね」
玄関の靴箱を開いてみると、スニーカーがあった。けれど見るからにファーストには大きすぎだった。
「少しはマシよ」
サンダルを差し出すと、ファーストはそれを受け取った。わたしは扉に耳を押し付けて話し声を聞いた。やはりロシア語だ。聞こえるだけで三人はいる。
「あいつらが、二階に登ったら出るわよ」
ファーストは何も答えなかったが、わたしは外の様子に集中いていた。階段を登るゴツゴツという重い足音がした。
ドアを押したが水のせいで重く、体重を使ってどうにか押し開いた。隙間から顔を出すと、10人ちかい兵士が階段の下で二階を見上げていた。全員が肩に小型の銃を提げている。慌てて扉を閉めた。
全員で二階へ登るという期待が外れた以上に、その人数が衝撃的だった。
ファーストをひっぱり、尻を押して上に上がらせ、わたしも後に続いた。2階にもどると、205号室から悲鳴に似た声が聞こえた。敵が205号室で隣室に転がっている仲間の死体を発見した声だった。
この部屋に通じる抜け穴も見つかっただろう。こうなったら一人でも道連れにして…。
左手は銃を十分に扱える握力を失いかけていた。右手で持ち、安全装置を解除した。
敵が穴から顔を出したところを打ち抜くつもりで側に立った。

 1階に仲間を残して205号室に入った3人は燃える部屋の中に入ってすぐに仲間の死体にも気がついた。けれど206号室に飛び込むようなことはしなかった。彼らはまさに部屋に入った途端に頭を撃たれる危険があることを知っていた。
だから、まずは206号室の安全を確保しようとした。兵士の一人が足につけていた手榴弾のピンを外し、206号室に投げ入れた。
彼らは爆発の巻き添えを食わないように壁に隠れた。狙い通り、手榴弾はきっちり1秒で爆発するはずだった。

わたしはこんな目に遭う自分の不幸を呪いながら銃を構えたまま待っていた。
つい先週までの平穏な暮らしが恋しかった。何も考えなくても自分の容姿が人生にそれなりの待遇を保障してくれていたのに。
わたしは涙をこらえた。自分の中に残っているあらゆるものを使って、外に出ないように押しとどめた。絶対に後ろにいる存在には涙をみられたくない。
わたしが泣いているのを見たファーストが、腹を抱えて笑い出す光景が頭に浮かんできた。
そんな思いにとらわれていると、ファーストが唐突に呟いた。
「動かせるわ」
思わずファーストを見た。
「私が四人目になれば」
その意味を問い返そうとすると重いものが床を転がる音がした。
「たぶん、手榴弾ね。誰もいないのに」
そういい終えた時、手榴弾が炸裂した。

 爆発が終わるとすぐにロシア兵は銃を構えてファーストの寝室だった206号室に突入した。部屋全体が先の尖った金属片にびっしりと覆われ、ベッドはまるで中世の拷問具のようで、仲間の死体はそれを使って拷問された囚人さながらだった。真っ黒に変色したその顔をみて、瞬時に何をされたのかを悟る。
次に目を留めたのは壁に開いている穴だった。
彼らは訓練で教わったままに、退避しかけた。穴から爆弾が飛び出してくるかと疑ったのだった。だがすぐに思いとどまって部屋の確認を継続した。
爆発音で一時的に麻痺していた聴覚にシューっという空気の抜ける音が届いた。と同時に鼻に付く奇妙な匂いにも気がついた。
音と匂いの出所を求めて部屋の角に目をやる。
部屋の角に積みあがっていた箱に、破片が開けた数え切れない穴が開いている。
奇妙な匂いはそこから発せられていた。彼らは箱に書いてある日本語は読めなかったが、その下に添えられている英語は理解できた。

 Highly flammeable gass

彼らは顔を見合わせた。全員が驚愕で目を見開いていた。
穴の開いたガス缶から高引火性のガスが部屋に漏れ出していた。背後の205号室では炎が燃えている。空気を満していくガスが引火濃度にまで達すれば…
「退避だ!」
そこで突発事態が起こった。
火山が噴火したような轟音と共にアパートから炎の塊がほとばしり、屋根が爆圧で持ち上がった。その下から巨大な炎の柱が姿を見せて、炎をまとわせた瓦礫を空中に放り出す。瓦礫は次々に水面に落ちてジュっと炎の消える音と水柱を立たせる。
猛火は3名のロシア兵に身動きする時間も与えずに命を奪っていた。
208号室で敵を待ち受けていたわたしの目の前でも、穴から炎が噴き出した。アパート全体が激しく揺れた。横に吹き出た火柱は穴に立てかけた梯子を包み込み、反対側の壁まで達すると行き場を求めて、渦を巻きながらわたしとファーストに襲い掛かってきた。
「いやあぁ!」
わたしは悲鳴を上げて肩と足に燃え移った炎を叩いた。
炎はファーストにも取り付いた。就寝用の木綿のズボンのあちこちが燃えている。
わたしたちは床を転がって火を押し消そうとした。火はしつこく一度消えた場所からまた燃え出す。穴から1階に落ちる案がよぎったが問題外だった。穴の周りはカーペットが燃え上がっている。
「水!叩いて!持ってくる。すぐに!」
どうにか自分の火を消し、叫んで立ち上がった。トイレのタンクに水が残っているかもしれない。二歩も進まないうちに派手に転んだ。
起き上がろうとして、とんでもないことになっていることに気が付いた。部屋が斜めになっている。
10年間、海水に浸食されて建物の基礎は腐りきっていた。どうにか支えていたが爆発の衝撃で完全に破壊されてしまった。今は爆発のあった206号室を中心に崩れ落ちかけていた。
「お願い、もう十分でしょ…勘弁して…」
ファーストが短い悲鳴をあげた。消した場所から再び火がちらついている。
わたしは床に転がっているファーストの体に手を回した。火事場の馬鹿力そのもので、お姫様抱っこすると、傾いだ部屋をつきぬけ、窓ガラスを蹴り割った。
そのままベランダからファーストを投げ落とし、わたしもベランダの手すりをつかむと、容赦ない光が降り注ぐ空へとジャンプした。

 海面から顔をだして空気を吸い込み、髪から伝ってくる海水を振り払って見渡した。
アパートは屋根が失われて燃え上がっている。見る間に傾いていく。わたしよりも建物に近いところでファーストが顔を出した。そして沈み、また顔を出す。
海水をかき混ぜながら彼女に近づき、腰の高さもない深さで溺れかけている体をがっしりと受け止めて水上へ引き上げた。
「ありがとう」とファーストは全身から水をしたらせながら言った。
「逃げるのよ」
わたしたちはかつて駐車場だった場所を必死に進んだ。錆ついた車両が群島のように海上に姿を見せている。
轟音をたててアパートが瓦解すると水面がひときわ赤くそまった。わたしは銃弾から身を守ってくれるものを探し、ひとまず車の陰に隠れることを決めて、ファーストをひっぱっていった。
乗り捨てられた配送業者のトラックの裏側にまわって一息ついた。目から黒い涙を流した黒猫と見つめあい、何気なく手を車体に突くと、かつて鉄だった板は完全に酸化鉄となっていて、ボロボロに崩れて穴が開いた。
「こんなんじゃダメだわ」
再びファーストの手首をつかみ、駐車場を出て、隣のマンションへと進み始めた。
「撃ってくるわ」
ファーストの声で肩越しに振り返る。燃え上がるアパートの残骸の向こうから男たちが現れた。一人が海水を蹴って進むわたしたちを指差すと、銃の下に取り付けたランチャーをこちらに向けた。
ガス圧でグレネードを押し出す気の抜けるような音が聞こえ、次の瞬間には配送トラックが華々しく爆発した。
わたしたちは爆風に煽られながら、全身が警告を発するぐらいの、それでも遅すぎると感じる速さでマンションへと駆けた。
マンションの非常階段を必死に駆け上がる。肺が張り裂けそうになった。
1秒前に通り過ぎた場所がマシンガンの掃射を浴びてボロボロになる。
最上階までたどり着き、最後の螺旋を曲がると、階段の先は銀色の扉に閉ざされていた。
「ああ、ちくしょう」
扉には鍵がかかっていた。蹴ってもびくともしない。
銃をホルスターから抜いて鍵穴に向けた。銃は濡れていたが機能に問題はなかった。引き金を引くと轟音がして鍵穴はただの穴になった。
屋上に出ると視界が開け、わたしたちを乾かそうとするかのように風が吹きぬけた。
金網に手を置いて見下ろすと、男たちは上からの銃撃を避けてジグザグに走って非常階段に向かってきていた。わたしは金網の間に銃を差し入れて撃った。
誰も倒れず、弾丸もどこに着弾したのか分からなかったが、男たちは身をすくめて、散り散りに思い思いの場所へ避難した。
「あんたはあそこに隠れて」
送水装置の納められた四角い小屋を指差すと、ファーストは蒼白の顔を振った。
「私も戦うわ」
「あんたに何ができるっての、もうまともに立つこともできないじゃない」
「支援はできる」
「あんたの銃を貸して」
わたしは受け取った銃の銃尾を押してマガジンを引き出し、ストッパーを外すと淡い金色の弾丸を手の平に落とし、それを思いっきり金網の向こうに投げた。
「これでもう出来ない」
ファーストはきらめきを放って落下していく弾丸は見ず、わたしの目を見据えた。
「なにするの」
「こけおどしぐらいには使えるよ。あんたにはお似合い」
防弾シャツの下に巻いていたハードディスクを外して、空の銃と一緒に差し出した。
「あんたが死んだら、色んなことがムダになるんだよ。ミサトとかシンジのしてきたことが」
無理やりそれらを押し付けて、背を向けた。
「あんたは死なない。この惣流アスカ様が守ってやるんだから」
わたしは非常階段へ向けて走り出した。
格好のつけすぎも問題だと思いながら階段を下る。
敵は階段を登る隊と地上に残った支援隊の二つに分かれてこちらを追い詰めようとしていた。地上に残った支援隊がわたしに向かって狙撃ライフルを撃ってきた。
身を屈めて壁に隠れながら下っていくと、階段を登ってくる敵の気配がした。
踊り場で膝をついて下に銃を構え、踊り場に敵が現れるのを待つ。
地上の支援部隊が突撃銃の下に装着したランチャーからグレネードを放った。身をすくませるような爆発が上の階で起きた。砕かれたコンクリートが互いにぶつかり合いながら落下して水面に水柱を立てる。
下の階にたどり着いた敵は狙いもつけずに滅茶苦茶に撃ってきた。銃弾を浴びせかけられたコンクリートの壁に無数の穴が開く、その欠片を浴びながらわたしは待った。
一人が銃を構えた前傾姿勢で下の踊り場に現れた。わたしはそいつに狙いを定めた。シンジのより格段に威力の高い銃弾は防弾プレートを突き破り、兵士は胸から血を噴いて壁に激突し、階段を転げ落ちて視界から消えた。
それに逆行して、手榴弾がこちらに飛んできた。手榴弾は金属の継ぎ目が見分けられるほどの近さに落ちる。
スライディングの要領で階段に蹴り落とした。手榴弾はカツカツと階段を跳ねて落ち、わたしは踊り場を曲がって階段の上に背中から転がる。
爆発音と共に輝く金属片の波が目の前を通り過ぎていく。
一体どれだけの時間、一人で戦っていられるんだろう。

 地上に残っていた支援隊の全員が銃を構えていた。非常階段の壁から時折、美しいブロンドの髪が見え隠れする。モグラたたきの要領で、それを打ち抜こうと身構える。
突然、そのうちの一人がライフルから顔を外し、空を見上げた。
真っ青な空に浮かんだ雲の向こうに小さな点が見えた。点は猛スピードで接近し、あっという間に円を描く回転翼と前に傾いた機体を現した。
「ヘリだ!」
男が叫ぶと、その場にいた全員が同じ方向を見た。
「敵の援護!」
誰かが叫ぶと兵士たちは散り散りにその場から遠ざかろうとした。
流麗なシルエットの雫型の2機のヘリのうち、片方は風に煽られるように上空へ離れ、もう1機は直進しながら機体の腹に突き出した機関砲から火を噴き出した。
次々と水面に立つ水柱の列が逃げ惑う兵士を掠めると、背中を上にして浮かんだ兵士の体から染み出した血で水が濁っていく。

 敵はわたを容赦しなかった。
破片手榴弾と銃撃の猛攻撃に晒されて階上へとじりじりと後退するよりなすすべがなかった。ここまで一発の銃弾も破片も食らわなかったのが奇跡だった。
2つ目の、最後のマガジンを装填すると黒い影が下の躍り場で動いた。牽制のために3発を撃ったが敵は余裕そのものだった。
それが分かっていてもどうすることも出来ない。
わざとこちらに聞こえるように手榴弾の起爆装置を作動させる音がする。踊り場に落ちた影はビール瓶でもシェイクするように腕を上下に振った。わたしが影を見ていると知ってそうしているのだ。
そして破片手榴弾が飛んでくる。
敵は狩を楽しむようにわたしを上へと追いたてていく。
肘や膝をぶつけながら上へ必死に逃げるわたしの背後で手榴弾が爆発し、壁に飛び込んだ。間に合わなかった足を金属片の群れがかすめていく。
お気に入りの一点もののサマーブーツが切り裂かれ、露になった皮膚にうっすらと血が浮かんだ。
絶対に弁償してもらわないと。
激しい銃撃は10秒近く続き、あたしは壁に体を押し付けて跳弾の雨から逃れた。そうしながら目の隅に何かが飛び込んでくるのを捉えた。
降下した戦闘ヘリが視界に突然に現れた。ヘリはわたしを観察するようにローター音を響かせて空中に停止すると、太陽を映す強化ガラスの奥にヘルメットをかぶった操縦士が見え、彼はわたしを発見すると、口元のマイクで何か喋った。
そしてヘリは竜が顔をもたげるように射界に敵が入るまで機体を傾けた。
5秒で80発の弾を発射する機関砲が撃てる限りの銃弾を浴びせかけると、非常階段のコンクリートの壁が原型を留めずに砕け散った。
もうもうと埃の煙がたちあがった。わたしがほっとして体から力を抜きかけた時、埃の中からロケット花火のようなミサイルが飛び出した。
ドイツ製の肩撃式DVC貫通ミサイルは地下シェルターの壁も突き抜ける威力でヘリに襲い掛かり、布を通る針のように機体を突き破って空のかなたへ消えた。
ミサイルに貫通されたヘリはバランスを失ってきりもみに旋回しながら正面のビルに突っ込んで、しぼんだ水風船のようになって落下していく。
目を覆いたくなる現実を見せ付けられて、言葉も力も失った。
そして手榴弾。
わたしは死をもたらす兵器から逃れるために必死で上の階へと登り始めた。

 屋上にいるレイの頭上にヘリが降下し、上空で扉が開いた。スライドした扉には「戦略自衛隊 第十八隊」文字がはっきりと見て取れる。
扉からロープが放り出され、それを伝って女が滑り降りてきた。女は三メートルの高さから見事に着地して、風に髪を乱されながら立ち尽くしているレイの脇を猛烈な勢いで駆け抜けていった。
その後に続いて屋上に降りた男はゆっくりとレイに近づいてきた。黒いタンクトップで長髪を後ろで一つにまとめている。10年前よりはるかに逞しい体育会系の体つきになっていた。
青葉シゲルはレイの前に立つと、兄がするような笑顔をした。
「長いこと待たせた」
レイはシゲルのほうは見ずに、そのかわりに乱れて口に入りそうな指で退けて、続々と降りてくる兵士が屋上の安全を確保していく様子を観察していた。
「もうすぐだ。もうすぐで助けてやれる。あとはミサトさんが帰国すれば、仕上げにかかれる」
レイは表情を動かさなかったが、興味がないというわけではなかった。その証拠に顔を動かして始めてシゲルを見た。
「私は別に望んでいないわ」
それに落胆した様子も見せず、シゲルはレイが持っているハードディスクに目を留めて訊いた。
「それはアスカの持っていたデータかな?」
レイが何も答えないでいるとシゲルは手を差し出した「俺に渡してくれないか」言葉は質問だったが、拒否することを許さない態度だった。
「嫌よ。私の物じゃない」
「君でも、アスカでも持っていてもしょうがないんだ。俺たちがやっとの思いで手に入れたデータなんだよ。さあ」
促されたが、レイは横顔をシゲルに見せた。「私は生きたくなんて無い。無理して生きてもしょうがないもの」
「君は生きるべきなんだ。君の寿命は天から与えられたものじゃない。延長すべきで、当然、そうするべきだよ。それが可能な限り」
ハードディスクはもぎ取られ、望むものを手にしたシゲルはそれを大事そうにポケットにしまった。

 破片が唸りを上げて飛び、わたしはそれをやり過ごしてから撃ち返した。右膝がたまらなく痛み、それを言ったら全身がほぼ同等の痛みを発していた。
階段に幾度となくダイブしたのだから当然だった。
飽きるほどしつこく恐怖を味わった破片手榴弾が再び弧を描いて落ちて爆発し、今度はわたしの髪の何本かを切り落とすぐらいに際どかった。遮蔽物の壁に隠れてすぐに駆け上ることになるだろう階段の続きを見やった。
そこで背筋が凍った。
階段が途中で破壊されている。グレネードによる破壊で完全に崩れ落ちてしまっていた。下から飛び移るにはあまりに遠すぎた。これ以上登ることはできない。
それどころか身を守る遮蔽物すらない。
ついに死地にまで追い込まれた。
下の踊り場に敵がついた。敵はすぐに手榴弾を使おうとしなかった。獲物、つまりわたしはもう袋の中に入っている。
「ファック・ユー!」
わたしは叫んだ。「クソ!ヘンダイ!ロクデナシ!しんじまえ!」
敵は答える代わりに壁の裏から手を伸ばし、あてずっぽうに撃った。弾は足元に当たり、わたしは思わず足を持ち上げた。
「ヘリは2機で来てた。さっさと逃げなさいよ!」
敵は踊り場に見えている影をつかって細長い筒をこちらに見せた。
「これでまた打ち落としてやるさ」
持ち上げた筒の先が壁からはみ出して、白く塗装された筒先が見えた。わたしはためらわずにそれを撃った。筒先に火花が散って凹んだ。これでもう撃てない。
「この!くされズベタ!」
もう一度、引き金を引いたが、弾は出なかった。今のが薬室に残った最後の一発だった。
それが分かった途端、敵は壁から身を乗り出して、階段を駆け上り、わたしの喉を荒々しくつかんだ。興奮で目が充血しきり、腕にはミミズのような血管が浮かんでいる。
「このズベタ!」
気管を握りつぶされ、その手を外そうと相手の腕をつかんだ。丸太のように太く、びくともしない。敵はわたしの喉を握り絞りながら上へと引きずる。
わたしを崖になった階段の端まで連れてくると、一方の手でわたしのズボンを握って体を持ち上げようとする。
懸命に体を動かしてそれを拒んだ。ブロンドの髪が首をつかんでいる腕に当たった。
浮かびかけた体が沈み、待ち望んだゴツゴツとした感触が背中に当たった。
敵が短く息を吸った。再び重力に逆らう感覚がした。がむしゃらにそれに抵抗しながら、何とか逃れるすべを探した。弾切れの銃は落としてしまった。
全身の神経がねじれ、全身の隅々まで冷たいものが広がった。ミキサーで攪拌したように世界が回る。
ありったけの平常心を掻き集めると、自分の体勢がどうなっているのか分かった。
敵はわたしの左足の腿の部分をつかんで引き上げている。頭は足よりも低い位置にあった。右足は自由になっている。
光りの針のようなアイデアがほとばしり、かき集めた平常心にぶつかって青く燃え上がった。
右のブーツに隠したナイフは薄く、軽く、わたし合わせて作ったように手になじんだ。
懇親の力でそれを相手の足に突き立てる。
圧迫から開放されて横転すると、敵は足に根元まで刺さったナイフを抜こうとしていた。
両足を使って蹴り飛ばす。
敵は尻餅をつくと、背中から階段を滑り落ちた。
わたしが咳き込んでいると、下で悲痛な呻きとナイフが落ちる音がした。
「その腐れまんこを二つに裂いてやる」
「自分のケツでもしゃぶってろ」
わたしは壁の後ろに後退した敵にどうにか言い放った。自分でエリカみたいな口調になったと思った。
それが最後の強がりなことはよく分かっていた。
敵は返事せず、2つの手榴弾で答えを送ってよこした。
破片手榴弾と液体水素爆弾。
色の違う二つの手榴弾が、悪夢のようにゆっくりと回転しながら宙を舞う。
「アスカ!」
その声に振り返ると、まさにそのエリカが崩れ落ちた階段の先に現れた。階段を飛ぶようにして駆け下りてくる。
「こないで!あんたも殺される」
「黙って伏せてろ!」
エリカが跳んだ。
階段の端のギリギリに着地したエリカは、そこからさらに反動を使って跳躍し、しゃがみかけた頭を飛び越した。そしてわたしと手榴弾との間に立った。
自分の体を盾にしようとしている。
風が吹き、電子機器が作動するような耳鳴りに似た高音がした。それはどんどん高音になって、ついに耳でなく脳で聞くような音域に達した。
二つの爆弾が破裂してその怒りをぶちまける。
ドラム缶を木の棒で叩いたような音がし、金属を熱したような匂いがした。
覚悟した痛みも衝撃もなかった。目を開くと、背を向けたエリカの前に赤い縞模様の膜が広がっている。ねじれた金属片はそれに突き刺さったように空中で止まっていた。
飛び散る青い液体は膜に触れた瞬間に残らず蒸発していく。
再び鼓膜がその音を認識できるまで音域が下がると、膜は霧のように消えて破片は重力の存在にやっと気がついたように落ちた。
エリカは銃を抜いてゆっくりと階段を下り始めた。二度、彼女を銃弾が襲ったが、彼女の体に届く寸前に縞模様が現れて弾をはじき返した。
踊り場を曲がって姿を消すと、悲鳴と銃撃が沸き起こり、そして静かになった。
わたしは胎児の姿勢のままでいた。
使徒との戦闘の後はいつもそうだったように、涙が出て止まらなかった。
戻ってきたエリカは銃をホルスターに納めてわたしを抱き起こした。
「最高だよ」
エリカは優しく言って、握り締めていたわたしの指をゆっくりと解き、両手をわたしに強く巻きつけた。
わたしはエリカの胸に顔をつけて身を震わせた。
「シンジ・イカリから福生に連絡が入ったんだ。そこからアメリカ大統領、そしてナガノ首相、千葉の戦略自衛隊駐屯地からヘリが離陸するまで5分とかからなかったさ」
わたしは顔を埋めたまま呟いた。
「その途中で拾ってもらった。あたしたちも教われていたんだ。10人はぶっ殺してやったよ」
「いまの、ATフィールドよね」
短い沈黙のあと、エリカが肯定した。「そう」
「あなた、使徒なの?」
ちがう。エリカはきっぱりと言った。
「使徒と共生してるんだ。持ちつ持たれつね」
わたしはエリカの腕に包まれながら、それがどうでもいいことのように感じた。
今のところは。
「あいつに、あの二人に言ったら承知しないからね」
「泣いてることを?」
「ええ」
エリカはまるでペットにするようにわたしの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
「あんたって最高にクールだよ」
あんたほどじゃないけど。それは口には出さなかった。