獣は囁く
第12章
エリカは内側からゲートを開くと、止めていた車のエンジンをかけて基地の中に乗り入れて、酸性雨で元の色が分からないほど錆びたピックアップトラックの後ろに止めて戻ってきた。
それから車庫へと移動し、他の車に混じって並んでいるBMVを指差した。まったく同じ車種で、色はシルバーと黒。エリカが指したのは黒のほうだった。
「あんたはあっち、私はこっち」
「一緒に行くんじゃないの?」
「そうしたいところだけどね」とエリカは答えて折りたたんだ紙を差し出した。
「碇シンジはその地図の場所にいる」
「一人で行くなんて嫌よ!」
エリカは駄々っ子を見るような目でわたしを見た。
「私は臨海水族館があった場所にいくつもり。こっちのほうが遥かに危険だけど、交代する?」
「本当にシンジはここにいるの?」
エリカはキーのリモコンを押して開錠した、シルバーのBMVのヘッドライトが一瞬光り、子犬が首を絞められたようなブザーが鳴った。
「どうだろうね、彼の居場所がこんなにはっきり分かったのは初めてだから、なんとも言えない。もう移動しちまった後かもしれない」
「どうやって調べたの?」
「あんたの情報からだよ」
「どうして150万借りたってだけで居場所がわかんのよ?」
エリカは黒のX3の運転席に回りながら車の中を覗き込んで、それからもう習慣になっているらしい行動、車体の下に手を伸ばして不審な物がないか確かめた。手についた汚れを指でこすり落としながらわたしを見やった。
「彼の事は交友関係もふくめてこの10年であらゆることを調べつくしてる。リストアップされている関係者の銀行口座で、ここ半年で150万円の金額を振り込んだ口座がないか洗いざらい調べた。該当は8名で、21件あった。相田ケンスケは第三新東京市時代のクラスメイトで、最も仲の良かった友人の一人。彼の口座から福井の魚津市で開設された口座に5月1日付けで150万円が振り込まれてた」
言いながら髪の毛を一つにまとめて手首につけていた髪留めのゴムをずらして留めた。
「その口座は定期的な収入がなく、振り込まれた150万は数日後に旧川崎で全額現金で引き出されてる。それから5月1日前後に相田ケンスケの携帯電話の発信記録を照会して旧川崎への発信が無いかどうか調べた。
これで150万円を引き出した人間が旧川崎にいることと、電話番号が特定できる。分かった番号がどの基地局から発信されたかを調べて…まだ聞く?」
「もういい」
「そこに碇シンジがいる可能性はかなり高いよ。この10年で最も高い」
「だったら、エリカが行けばいいでしょ」
「100%の情報じゃない。だけど、臨海水族館には青葉シゲルか、何らかの情報がある可能性はほぼ確実よ」
エリカは急に声を落とした。
「できれば、アスカのもってるデータを貸してほしいんだ。何かあったとき、データが開けないと取り返しのつかないことになるかもしれない」
わたしは軽くなった頭を振った。「もしもそういうことがあったら、すぐに連絡して」
拒否されたエリカはさほど不満な様子は見せなかったが、こういう時のほうが口に出す時よりも不満なんだと何となく分かっていた。
エリカはBMVのドアを開けて、乗り込む直前に動作を止めてこちらを見た。
「10年ぶりの再会を楽しんでおいでよ」
再会したら殴るつもりなんだけど。そう返そうとしたが、彼女はすばやく運転席に乗り込み、わたしを轢かんばかりの勢いで車庫を飛び出していった。
温まっていないエンジンの排気ガスの匂いをかぎながら、わたしは車に向かった。本当に久しぶりに運転席に座り、地図を確かめてダッシュボードにしまってからイグニションにキーを挿した。
深く息をついて、埃っぽい車庫から光りに溢れた外へと、時速3キロのクリープで進んだ。
ニューBMWのX3プラスはとても正直な奴で、主人に忠実だった。アクセルを踏むと喜んでぐいぐい加速し、離すとしょんぼりしたように減速した。ステアリングは羽みたいに軽くて、運転手が良ければこんなに快適な車はないんだろう。
わたしにはその正直さがうっとうしかった。
X3は福生を出て多摩川沿いの府中街道をひたすら南に向かっていた。左手には向こう岸を行きかう新山手線の車体が見える。太陽は頂上を過ぎて地上へ向けて落ち始めていたが、空はまだ抜けるように青い。
ステアリングを握るわたしには景色を楽しむ余裕はなかった。周囲をにらみつけながら、寄せてくる車には大声で文句を言いまくった。
クーラーはかび臭い風でわたしを冷やそうと必死だったが、わたしは色んな意味で熱くなるばかりで、この良質な車の主人には向いてないみたいだった。
というか、無免許なんだから資格すらないんだった。
車の運転は大の苦手だった。教習所は仮免の筆記試験は一発だったが、実地試験で3度も落ちた。4度目の試験中に教官に呆れられて腹を立てて通うのを止めてしまった。
エヴァに乗ったら、こんな面倒な乗り物を操縦できたもんじゃない。
2車線を並走していたセダンが前に入ろうとして、無理に寄せてきた。
「バカヤロー、近づくんじゃねえよ!」
わたしが横を睨んで叫ぶと、窓を開けて風を楽しんでいた助手席の妻が驚いて目を丸くした。
夫婦水入らずのドライブに水を入れられた車はすごすごと減速した。
自宅の、正しくは元自宅の側を通り過ぎる時は緊張で胃がきりきりした。
そこから言われたとおりに川岸を離れて第三京浜道に乗って、旧川崎を目指す。広い道に入ると流れは安定し、挑戦してくる車もなくなった。
眉間の皺がいくらか浅くなる。
「なんだってわたしが行かなくちゃいけないのよ」
そう一人ごちて路肩に車を寄せて停車し、ダッシュボードを開けて地図を取り出す。
わたしはたった一人だった。心細くてマヤを連れてくれば良かったと後悔した。
紙には一筆書きのような乱暴さで旧川崎市の沿岸部へ至る道順が書いてあった。モヤシのような線がスタート地点から延びて、何度か曲がった終着点にSeaとある。そのモヤシ線と海岸線もないSeaとやらの間にはKenji.Iと筆記体で書かれていた。
ケンジじゃなくてシンジだよバカ。と地図を描いた人間に文句を言い、紙を元のとおりに折りたたんでダッシュボードの中に投げ入れた。
「あー、やだやだ」
空気に向かってそう言って、オートマチックのギアを前進に入れて発進した。ウインカーを出し忘れて、後続の車にけたたましくクラクションを鳴らされながら、再び車の流れに乗った。
川崎市までの距離が4キロを切ったところで空調のカビ臭さに耐えかねてスイッチを切って窓を開けた。
すぐに海の匂いがしてきた。久しく海には行っていなかったので、塩気を含んだ海風の匂いは懐かしかった。街に近づくにつれて車の流れが滞り始め、進みが遅くなった。
その頃には運転にもだいぶ慣れていてステアリングを左手で握り、右手で頬杖をつけるぐらいにはなっていた。
標識が新川崎市庁舎まで残り3キロで、東名高速のジャンクションまでは1キロだと告げた。各所から集まってきた車が合流して悪水の沼みたいに澱み、自転車の方がよっぽど速いぐらいの流れになった。ジャンクションの入り口前の信号がそれすらも定期的にせき止める。
わたしはそのまま高速道路に乗って、戸籍上の故郷である徳島県へ向かう事に真剣に悩んでいたので、流れの遅さは気にならず、かえってありがたいぐらいだった。
ステアリングに掛けた指を順番に動かしてステアリングを叩き、気分を紛らわそうとした。この先にシンジがいるかもしれないと思うと、羽で胃と肺を内側から撫でられているような気がする。
自分はなんでわざわざ悪夢を思い出すようなことをしてるんだろう。自分の身を守るだけなら、アイツに会う必要なんてまったく無いのに。
首がぎりぎりと絞められる錯覚に襲われ、唇をかみ締めて、悪夢を記憶の奥に押し込めようとした。
高速に乗るかダウンタウンを目指すかの選択する順番が目前に迫った。車体を鏡のように磨き上げたベンツがウインカーを出して高速へ登る車列の間に滑り込み、その後の軽自動車もそれに追随した。マフラーを改造したカワサキのバイクは列の間を縫ってダウンタウンへと向かっていった。
わたしは自分のことはよく分かっているつもりだ。わたしは逃げずにやってきた。いつだって困難に立ち向かってきた。それはどうしようもなく臆病で、不安定な自分を隠すためには良い方法で、結果的に失敗に終わることも多かったけど、誇りに思っている。
シンジに首を絞められたことも整理がついていて、今なら思う存分殴って罵倒してやれば許してやれるぐらいになっている。あの時は何もかも異常だったんだから。
前の車がウインカーを点滅させ、高速に乗る意思表示をした。わたしは顔を支える役目から右手を開放してウインカーのレバーにかけた。
何より問題なのは、あいつがわたしを捨てていったこと。わたしはあいつに自分の全てを捧げてやるつもりだった。おしとやかになれって言うんだったら、ちょっとばかり無理して演じていた惣流アスカから、恋人の隣だと俯きたくなる惣流アスカに戻ったって良かった。
首を絞めることでしか愛情を表現できないんだったら、顔がうっ血するまで絞めてくれたって構わなかった。
それで、あいつがあいつの全てをわたしに与えてくれたなら。
くそ。
レバーを押し下げて右のウインカーを点滅させ、車体を右に寄せた。前の車は上手いこと対向車線の流れに隙間を見つけて横断し、ジャンクションの螺旋に延びる合流道を上っていった。
同じ事をするのはわたしには至難の業だった。二度ほど微妙なタイミングをやり過ごすと、後ろの車がクラクションを鳴らしてこちらを急かしはじめた。
それを無視していると、さらに後ろの車もそれに加わった。バックミラーを見ると、クラクションを連打しながら眉をしかめている男の顔が見えた。
くそ。くそ、くそ。
ウインカーを消し、アクセルを踏み込んだ。X3はタイヤと地面のこすれる短い音を立てた後、一気に加速した。
あいつに会ったら、一発殴ってからすぐに立ち去ろう。エリカに連絡すれば自分で来るか、誰かよこして保護するだろう。
何があってもそうしてやる。
セカンドインパクトで海面が上昇したせいで、内陸側に押し出された街はこの10年で神奈川県で最も近代的な街にかわりつつあった。特にたった海抜10メートルの差で沿岸部の大半が水没してしまった横浜市が再生不能と宣言されてからは、その変貌の度合いは加速している。
クレーンを添わせたいくつもの作りかけのビルが街並みの向こうに見え、歩道には真面目な勤労者とそうでもない買い物客が行き来している。
店の軒先にはFCブラングルズの旗が飾られ、熱心な店は「祝4連覇 祝勝セール実施中!」の横断幕を掲げている。親子連れがアジア家具の店の軒先で李朝風のキャビネットを吟味していた。青いパンダのぬいぐるみを抱いた女の子が信号待ちをしていたわたしと視線を合わせ、彼女はチュッパチャップスで膨れた頬を緩ませて手を振った。
わたしも快心の微笑で手を振り返してやり、少女が母親に手を引かれて店の奥に行ってしまうと、手を持ち上げたまま指をとじた。
ダウンタウンを抜けて海が近づくにしたがって街は次第に古臭くなり、廃ビルや空家が目立つようになった。ここに住んでいるのはホームレスかその一歩手前の人たちで、食料品やリサイクル雑貨を売る店が幾つか営業していた。廃棄木材にビニールシートを被せただけの粗末な屋台が出て、肉を焼く匂いが、海の腐ったような匂いと混じって車内にまで漂ってくる。
今日の仕事にありつけなかった日雇い労働者たちが道端に座り込んで酒を飲んでいた。
道を走っている車はわたしのBMWだけだった。彼らは旧市街に向けて疾走するわたしを不思議そうに眺め、指を指して言葉を交わしている。
最初の看板が見えた。古い道路標識にペンキで書き付けてある。
Uターン これより先は行き止まり
わたしは構わずに道路標識をくぐり、さらに道を進んだ。海の匂いは強くなり、街の荒廃ぶりはもっとひどくなった。住人はネズミと鳥と、それを食料にしている野良犬と野良猫ぐらいだった。
波の音が聞こえたところで、BMWを止めた。傾いた電柱のプレートで住所を確認し、地図に書かれた住所と間違いないことを確かめた。
道はまっすぐに続いていたが、整備を止められて凸凹になっており、所々に雑草が生えている。
道は錆びかけた鎖によって遮断されていた。鎖から垂れ下がる看板は黄色と黒のストライプ模様で「進入禁止」と書かれている。車を降りてリモコンでドアにロックをかけて、徒歩で鎖に近づき、それをまたぎ、まったく人気のない道を行くと、海が見えてきた。
潮位の高いときはこのあたりまで海水に浸かってしまうらしく、道路は赤茶けた色に染まり、波が運んだゴミが散乱している。
静かな波の音の外には何の音もしない。空気はうんざりするほど暑く、湿っていて日陰を選んで歩かなければ汗みずくになってしまいそうだ。
波打ち際がはっきりと見分けられるようになった。道は洪水にあったように水につかり、今は海底都市となった街へと続いている。
今度はさっきよりもはっきりと、何の遠慮もせずに警告する看板が目に入ってきた。
危険 これより先に立ち入らないでください。
海水には有毒物質が含まれています。
海面と地面がほぼ平行なので、波は何十メートルもの距離をいったり来たりしている。深さは見通しが効く範囲で10センチもない。
周囲を見渡して現在位置を調べてから二枚目の地図を見る。二枚目の地図は衛星写真を最大にまで拡大したもので、ビルと住宅の屋根が詰まっていた。そのうちの一つに赤い印がついている。そこは明らかに海の上だった。
分かっていれば長靴を持ってきたのに。そう思いながら両手を広げてバランスを取って歩道の縁石の上を歩いた。
縁石にぶつかる波が小さな飛沫を飛ばした。
「うわ」
飛沫がサマーブーツにかかって小さな染みをつくった。
水没した街からは今もダイオキシンをはじめとする有害物質が染みだしている。すこしかかったぐらいで死にはしないだろうが、肌がかぶれたりするのはごめんだ。
猛毒と海水にやられた街路樹は完全に枯れている。それに手をついて体を支え、改めて地図で曲がるべき場所を探した。
海は深さ10センチ未満のままいつまでも続き、わたしは最初の交差点に到達した。縁石はそこで終わったが、石やゴミの上に板が渡され、その上を歩けるようになっていた。
こんな場所でもまったくの無人というわけでもないらしい。
交差点を右折し、再び縁石の上を歩いた。海水に侵された街はまさに異世界か、特殊効果が売りの映画に迷い込んだようだった。
こういうのはクーラーの効いた部屋でポップコーンを食べながら見るのが一番だと思いながら、目印にした公園を探した。そこから印のある建物はすぐ側のはずだ。
公園は見つかり、そこはどういうわけか海水がなった。縁石からジャンプして飛び移った。公園は大きいもので、噴水や遊具をはじめ、ドッグランまで整っていたが、植樹は例に漏れず一本残らず枯れていた。
公衆トイレからは鼻を刺すような糞尿の匂いが漂ってくる。
手で口と鼻を覆って、ひどく悲しい気分に包まれて通り過ぎた。広場にはBBQのあとがあちこちに残っていたが娯楽のためにやったんじゃないだろう、薪には枯れた植樹の枝を折って使っていた。
公園は端に近づくにつれて下っているらしく再び海水に覆われていた。沼地のような泥の上に廃材を敷いた道が作られている。
そのアパートは公園のすぐ隣だった。二階建ての建物で、一階は膝の高さぐらいまで海水に浸かっている。ドラム缶や冷蔵庫、洗濯機が飛び石のように置かれて、それを辿って二階への階段まで行けるようになっていた。
わたしはポケットから携帯電話を出した。時刻は4時38分だった。エリカに電話をかけようとして、圏外なことに気がついた。
携帯をしまい、万が一に供えて拳銃を握り、レバーを指ではじいて安全装置を解除した。
飛び石を渡って階段にたどり着いた。階段は海水に浸かった根元が侵食して基礎から離れていて、載った途端に左右に揺れた。
ゆっくりと階段を上がり、部屋の扉が並ぶ二階の渡り廊下で止まった。8つの部屋が並んでいて、扉は全て閉まっていた。
「だれかいる?」
仮に誰かいたとしても気がつかないような声で言った。耳を澄ませても波の音しかしない。
覚悟を決めて201号室号室の前に立ち、慎重にノックした。
204号室までの扉は全て鍵がかかっていた。このまま全て鍵がかかっていて欲しいと願いながら、205号室をノックし、ドアノブに手をかけた。
ドアノブは呆気なくまわり、扉が開いた。わたしは唾を飲み、隙間に向かって言った。
「だれかいる?」
反応がなく、ほっとして閉めようとしたときだった。
「だれ?」
わたしは雷に打たれたように動きを止めた。頭ががんがん鳴り出した。脳は必死に次の言葉を探していたが、やっと一言をひねり出した。
「わたしよ」
長い間があった。
「ミサトさんの知り合い?」
ああ、間違いない。
「わたしの声を忘れたっての?」
部屋からガタガタと音がして扉が勢いよく開かれた。わたしたちは呆然と視線を合わせた。
「どうしてここに」
シンジが言った。
わたしは取り乱さないように冷静に言った。
「あんたに借りを返しに来たのよ」
シンジの身長はわたしと変わらない170センチそこそこで、その身長にしては痩せていた。顔つきは記憶にあるものとあまり変わっていなかった。ちゃんと髪を切って、まともな服を着せれば、それなりに見栄えするだろう。
シンジはわたしを中に通した。シンジが拳銃をじろじろ見た「なんか文句がある?」安全装置をかけてホルスターに戻して言うと、シンジは「ないけど」と答えた。彼は10年前からあんまり変わっていないようだった。
ブーツを脱いで玄関に置くときにシンジの靴を見た。トップスターのスニーカーだったが、ボロボロで、つま先はソウルが剥がれてしまっている。
アパートの間取りは六畳間の1Kだったが、シンジは壁を壊して204号室とくっつけて12畳の大部屋にし、206号室は壁の一部だけ壊して別の部屋にしていた。
部屋に入ったわたしはざっと内部を見渡した。
キレイに整理されていたが、どれも拾い物と分かるものばかりで、電気も水も通っていない証拠に、水を入れたポリタンクが二つと、レバーを回して発電する災害用の発電機があった。もっとも電気を必要とする電化製品は電池式ラジカセぐらいだった。
キッチンにはボンベ式のコンロが置かれ、床には空のボンベが壁に沿ってきちんと並べてある。
オフィスの接客用テーブルの上に空き缶を切っただけの蝋燭立てがあった。皿の上に食べたばかりのリンゴの皮が載っている。
部屋の隅には寝椅子がひとつあり、毛布が置かれ、枕元には読みかけの本が伏せられていた。
窓際に視線を移すと、洗濯物が見えた。Tシャツが2枚と短パンが一つ、靴下2組。そして男物のパンツが2つに、白いスポーツブラとショーツが2つ。
「これは」
わたしの視線に気がついたシンジは慌ててそれを物干し竿から外し、寝椅子の毛布の中に押し込んで隠した。
「あいつも、ファーストもいんのね」
覚悟していたが、分かった途端に胸が焼けるようになった。やっぱり来なきゃ良かった。
「ファースト!出てきなさいよ!」
その声はとげとげしく、でかかった。壁の穴をくぐって206号室に向かうのをシンジが止めた。
「待って、綾波は寝てるんだ」
「知るか」
シンジの腕を払いのけて、穴をくぐった。
「ファースト!あんた隠れたって…」
部屋はカーテンが引かれて暗く、そして暑かった。外よりもずっと水分を含んだ空気が肌にまとわりついてきた。まるで夏のひどい熱帯夜のようだ。
まずは壁際のコンロが目に入った。ボンベ式のコンロには今にも消えそうな青い火が灯っていて、上に載せたやかんの注ぎ口から弱々しい湯気がのぼっている。
その隣には大量の未開封の4本セットボンベが腰の高さぐらいまで積み上げられている。全て同じメーカーのもので、その一角だけは夜のホームセンターを思わせた。
湿気に溶け込んだ甘ったるい匂いが鼻についた。その匂いは直ちにわたしの記憶を刺激して思い出したくもない記憶を呼び起こした。
病院。薬品漬けの重篤者が吐く息、清潔この上ないが空気は死の予兆がもたらす灰色の気配で煙っており、耳に鳴るような静寂に包まれている。長い廊下は必ずこの匂いがした。観察用の窓がついた、ママが閉じ込められていた部屋はその先にあった。
惣流さん。とファーストの声が聞こえ、わたしはベッドに目をやり、そこで眼にしたもので肩から力が抜けるのが分かった。
「あんた…」
ファースト、記憶にある綾波レイは小柄な上にかなり痩せていたが、不健康そうではなかった。
ところが今のファーストはガリガリに痩せており、肉が落ちて頬骨の輪郭がうっすらと頬に浮かび上がっている。Tシャツ、見たところSサイズを着ていたが、それも余裕があるくらいで、半袖から延びた腕は小枝のようだった。
青信号待ちの人が次に何を行動するかを予想するよりも簡単だった。
すぐ側まで死が迫っている。
ファーストは足を毛布に入れたままベッドの上で身を起こしていた。
わたしはなんとか彼女から視線を引き剥がして、説明を求めてシンジを振り返った。
「いったい、どうなってんの」
「綾波、寝てなきゃ」とシンジはわたしを通り越してファーストに言った。
「大丈夫よ碇君」
ファーストはかすれた声で言って、ベッドに手を付いて体をずらして立ち上がろうとした。途端に咳き込み始め、両手で口を覆い隠すために動作を中止しなければならなかった。
乾いた咳は長く続き、シンジがわたしを追い越していって、肩を支えてやった。
それが止まると、ファーストは目をこちらに向けた。涙で潤んでいたが瞳は力を残しており、病魔がまだ彼女の意思までは蝕んでいないことが分かった。けれどそれも時間の問題のように思えた。
わたしは何も言えずに二人を見つめた。
「寝ててよ」シンジはファーストの視線を要求するように呟いたが、ファーストはわたしをじっと見つめたままだった。
抑制した咳とともにファーストはベッドをおろしかけた足を元のとおりに毛布に納めた。
「あまり体を動かせないの」
その言葉にわたしは頷き、背中を見せて部屋を出た。
居間には椅子がなく、わたしは床においたテレビの上に座った。シンジはテーブルの上の残飯を袋に移して口を縛って窓際にどけた。
ジーンズの尻が擦り切れかけて白くなっている。その尻を寝椅子に落ち着けたシンジはこちらは見ずに窓の外に視線を向けて言った。
「綾波は病気なんだ」
「でしょうね」とわたし。「見ればわかるわ」
「8年くらい前からちょっとずつ悪くなって、今は少し運動しただけで2,3日は動けなくなるんだ」
「何の病気?」
シンジは首を振ってうなだれ、足に乗せた手に視線を落とした。期待してもいないが、お茶を出そうという気配はまったくない。
「で、ここで療養中なの?」
「ミサトさんに言われてここに隠れてる」
「ミサトに?」
シンジは拳の拳骨で鼻筋をこすり、何もついていないか確認した「そう」
「何から隠れてるの?」
「何も知らされていないんだ。8年ぐらい前に突然連絡があって、綾波と一緒に見つかりにくい場所に隠れているようにって言われた」
「今も連絡がある?」
ないよ。とシンジは咎めるような声を出した。
「以前は1年に1回ぐらいあったけど、2年前ぐらいから急になくなった」
シンジはこちらを見た。目は心労と不安に苛まれて曇りかけていた。目だけ見ればファーストの方が健康そうに見える。わたしは首筋に鳥肌が立った。
「綾波は静かにしていないと、寿命が縮まってしまうんだよ」
「それはミサトがそう言ったの?」
「綾波の病気を治す方法を探してくれてる。でも…」
そこでいい澱み、察してくれという表情をした。
「病院に連れていったほうがいいわよ」
「だめだよ。居場所がばれちゃいけないんだ。それに病院で治る病気じゃないし」
もしかすると…シンジの唇がそう動いたのを見て取った。
「わたしには連絡があったわ」
シンジははじめ、わたしが何を言っているのか分からないらしかったが、急に身を乗り出した。
「本当に!いつ?」
「昨日、あぁ、正確にはもっと前だわ。昨日まで気がつかなかった」
「ミサトさんは無事なんだよね」
「そうみたいね。なんか厄介ごとに巻き込まれてるみたいだったわ」
「何ていってた?」
「あんた達のことは何も言ってなかったわ」
シンジは落胆した様子で体を元に戻した。
どうしちゃったんだろう。とシンジが呟いた。沈黙が落ち、アパートの一階の床上まで達している海水が波の動きに合わせてさざめく音が聞こえた。
「じゃあアスカはどうしてこの場所が分かったのさ?」
「うんざりすぐらい色々とあってね。あんた達を探しに来たのよ」
シンジが顔を上げ、緊張した目でわたしを見た。「誰かに頼まれたの?」
「そうよ」テレビの上は固く、すぐに尻が痛くなりそうだった。わたしが何から話そうか悩んでいる間にシンジが先に言った。
「帰ってよ」
「え?」
「誰に頼まれたのか知らないけど、ミサトさんに頼まれたんじゃないなら帰って」
「こっちはまだ何も話してないけど?」
シンジが勢いよく立ち上がった。
「帰ってよ。帰れってば!アスカは何も知らないんだ。僕と綾波はここから出ない。ミサトさんが綾波の病気を治す方法を見つけてくれるまで動かない」
わたしは床から足を上げ、太腿の血行を改善してから、こちらも動くつもりがないことの意思表示のために足を組んだ。
「待ってよ。ファーストの病気っていうのは何なの?」
シンジはわたしの様子をじっとうかがった。好ましい顔とは言えず、ひとつの事に執着する顔だった。彼の父親みたいな顔だ。
「わたしが誰に頼まれてここに来たかを隠すつもりは無いわ」
「分かってるよ。綾波をまたエヴァに載せようとしてる奴らだろ。体をいじくりまわしてエントリープラグに閉じ込めようとしてる奴ら」
「それはないと思うけど?ファーストもわたしもあんたも、もうエヴァには乗れないのよ」
わたしはシンジに落ち着く時間を与えるために髪に左手を差し入れて持ち上げて、ゆっくりと下した。シンジは何も言わずこちらを見ている。
「難しいことは知らないけど、あれには14歳の人間しか乗れないそうよ。だから、ここにいる3人はもうパイロットとしての価値はないのよ」
「信じられるもんか」
「だったら、ファーストじゃなくてわたしでもいいじゃない。わたしに操縦させればいいんだから」
「アスカは一人でここに来た?」
「そうよ」
シンジはまだ何か言いたそうにしていたが、ベッドを離れて窓際へと行き、外に身を乗り出して周囲を見渡した。
わたしは再会したらまっさきに殴ってやろうと決めていたことを思い出したが、もうその機会は逃してしまっていた。
シンジは戻ってきたがベッドには座らずにまるで守衛のように壁に開いた穴の側に立った。「誰に頼まれて来たの?」
「日本政府の要請でわたしたちを保護しようとしているアメリカの機関よ」
「どうして今頃になって僕たちを保護する気になったのさ」
「目的は分からないけど、わたしたちを拉致するか、殺そうとしてる奴らがいる。わたしは二度ほど危ない目に遭ってる。昨日なんて衛星レーザーで撃たれて蒸発させられる寸前だった」
「平気だったの?」
「平気じゃなかったら、今こうしてここに来ることはなかったわね」
「そいつらはどういう奴ら?」
「ロシアとフランスが関係してることは分かってる」
「拉致されたら、どうなるの?」
「そんなこと知らない」
「アメリカの機関っていうのは信頼できる?」
「少なくとも、わたしを殺そうとはしてない」
「本当に一人でここに来た?」
「しつこいね。本当だってば」
シンジは息を継ぎ、いくらか緊張を解いて壁によりかかった。
「わかった。とりあえずアスカを信用するよ。でも僕も綾波もここを出るつもりはないよ」
「そんなにミサトの言いつけが大事なの?」
当然だよ。とシンジは言った。
「このままだと綾波は・・・何とかしてあげたい」
わたしは肺を針でつつくような痛みを感じたが黙っていた。
「ミサトさんがアスカに何て言ってきたか教えてよ」
つまらない感情で意地悪すべき場面でないと自分に言い聞かせた。
「データを預かって欲しいって言われた。それで先に帰国しているシゲルを探すようにって」
「シゲルさんが日本にいる!?どうしてそれを言ってくれないんだよ!」
「あんたが質問攻めにするからでしょ!」
「シゲルさんは今、どこにいるの」
「臨海水族館って場所にいるらしいわ。わたしの…パートナーが向かってる」
「誰?」
「エリカって女よ。彼女がわたしを助けてくれた」
「シゲルさんとそのデータは関係があるんだよね」
「たぶんね」
シンジの顔がテストで0点を取った後に、おもちゃを買ってもらえると言われた子供のように明るくなった。
「きっと綾波を治療する方法がわかったんだ!」
シンジは踊り出しそうな勢いで部屋をうろうろと動き回り、急にわたしの方を向いた。
「シゲルさんと連絡を取らせてよ。どうすればいいの」
わたしは腹が立ち始めていた。シンジはまるでわたしのことなど眼中になく、懐かしいメッセンジャーぐらいにしか思っていなさそうだった。
「シゲルと話せれば、こっちを信用するってことよね?」
「うん。するよ」シンジは上の空で答えた。わたしは足元に転がっている古雑誌を投げつけてやりたくなった。
「なら、エリカに連絡してみるわ」
これ以上ここにいないほうが自分のためになりそうだったので、わたしは組んでいた足を解いて立った。
「携帯の電波が届くところまで戻るわ」
玄関へ向かう途中、隣の部屋の気配を探った。まるで無人のように静まり返っている。
わたしはそれを振り切って玄関の扉を開ける直前に部屋へと視線を向けた。シンジはこちらを見ておらず、ベッドの上でご満悦の表情を浮かべている。
くそったれ、死んじまえよ。バカ
「ねえ。シンジ」わたしはゆっくりと言った。その声でシンジは始めてわたしに気がついたようにこちらを見た。
「わたしはあの日、あんたにされたこと、忘れちゃいないからね」
シンジが何か言うよりも早く、どういう表情をしたかも確認しないまま、わたしは扉をたたきつけた。
階段に足を乗せた途端、体重でぐらぐらと揺れた。咄嗟に手すりをつかんで体を支える。腐食防止の塗装はとっくに剥がれ落ちて手に赤茶けた錆の粉がついた。
それを振り払うこともしないまま洗濯機、ダイニングテーブル、スチールボックスへと飛び移った。スチールボックスは不安定で大きく揺れ、わたしは両手をあちこちに振ってどうにか落下を免れた。
波打ち際まで戻ったものの、電波は届いておらず、車に乗ってエンジンをかけた。
携帯が電波を捉えたところで停車し、エリカにかけようとしたところで、不安な予感に胸がぞっとした。
呼び出し音をじれったく待った。そのまま留守電に接続され、一度電話を切って再びかけなおした。
「アスカ!電源を切んないでよ!おかげでこっちがどれだけ大変だと思ってるのよ!」
「シンジのいるところには電波が届かないのよ」
「こっちは大変だよ。銃を向けられてる」
「シゲルに?」
「そうだよ。ひどい分からず屋だね。あんた、あいつに何とか言ってやってよ」
「話すわ。シゲルに代わって」
「ああ、ちょっと待って」
一瞬の間を置いてエリカが怒鳴る声が聞こえる。(あんた!アスカと話しなさいよ!電話はここに置いておく。話したらこっちの話にも耳を貸してよね!)
「アスカ、頼んだよ」
「わかった」
ゴツっと携帯を置く音がした。それから5分が経ち、10分が経った。15分になり、イライラが限界を迎えたところで声がした。
「アスカか?」
「シゲル?本当に青葉シゲルなのね?」
「そうだ。そっちも本当にアスカなのか?」
「そうよ。惣流・アスカ・ラングレー。本人よ」
「あのデータは松本に送ったか?」
「松本?松本市?」
「そうだ」
「そんなの聞いて無い。ミサトはあんたを探せってことしか書いてなかった」
「すまない。カマをかけたんだ。あの女は誰なんだ」
「NIHISの一員だけど、わたしを保護してくれてる」
「NIHISか。あまり歓迎できないな」
「彼女がデータの半分を持ってるの。このデータはいったい何?」
「綾波レイを助けるためのデータだよ」
「その綾波レイに今、会ってきたところよ。シンジと一緒にいた」
「二人の居場所を知ってるのか」
「わたしたちで調べたのよ」
シゲルはいまいましげに舌打ちして黙った。口調も言葉遣いも有能なスパイという風情にかわっており、彼が10年をどう過ごしてきたかが推測できた。
「もう半分のデータは君が持っているのか?」
「もってるわ」
「あの女は今も残り半分のデータを持ってるのか?」
「持ってるわ」
「すぐに取り返さなくちゃいけないな」
「手荒なことはやめて。彼女は本格的な戦闘訓練を受けてる。それよりもエリカと一緒にこっちに来てくれない?シンジのやつ。まったくこちらを
銃声が鳴り響き、わたしは咄嗟にしゃがんで、肩から吊るしたホルスターに手を伸ばした。が、それは電話の向こうから聞こえてきたものだった。
「今のは何!?」
返答はなく、電話が落ちて地面にぶつかる音がした。続けて三発の銃声が聞こえた。
「ちょっと!お願いだからやめてよ」
わたしが叫ぶと新しい銃声がこだました。
そして鈍い音がして通話が途切れた。
途方にくれて携帯をしまい、次に何をすべきかを考えた。
わたしは臨海水族館が千葉の葛西にあるという以外に正確な場所を知らなかった。例え知っていても川崎からでは水没した旧東京の都心の海岸線を迂回していけばゆうに1時間以上かかる。その頃にはどちらかが死んでいるだろう。
仮にエリカが勝利したら、ミサトの計画が狂ってデータに関する情報が失われてしまう。シゲルが勝ったとしたら、どうなるか想像もつかない。
わたしは再び携帯を取り出して福生へと電話をかけた。
男が英語で電話に出た。わたしは相手の名前も訊かずに事態を説明し、すぐに人を臨海水族館へ向かわせるように頼んだ。男は短く唸ってすぐに本国に報告する。と答えた。
「報告なんてどうでもいいから、あんたが行きなさいよ!」
そう叫んだ時にはすでに電話は切れており、わたしは覚悟を決めた。
シンジとレイの二人を乗せて臨海水族館に向かうしかない。あのバカが駄々をこねたら銃で脅してでも連れ出してやる。
X3に飛び乗ってアクセルを踏んだ。タイヤは地面を引っ掻いた後、一気に発進した。
公園を走り抜けてアパートの前まで来たところで銃を抜いた。細かい説明は車に乗ってからで良かった。
陸上選手のように飛び石を飛び移り、階段を駆け上った。ドアノブを引っつかんで開け放って言った。
「すぐに来て!シゲルが大変なことになってる」
わたしは事態が飲み込めず、言葉が出てこずに口をぱくぱくさせた。シンジは部屋の中に立っていた。
そして銃をわたしに向けていた。
彼が歯を食いしばり、こちらを睨んでいる。10年前、シンジには優しくしてやらなかった。わたしが少しばかり恋愛ベタだったからだ。でもどんなに嫌われていたってこんな顔をされたことはなかった。
それ以外には何ひとつ認識できていないまま、わたしが取った行動は至極当然のものだった。銃を向けられ、こちらも同じ武器を所持している時に当然取るべき行動。
わたしは握っていた銃を持ち上げた。
安全装置も解除していない銃を。
シンジが何か叫んだが聞き取れなかった。世界がぐるりと回り、まるで猛スピードのトラックに激突されたような衝撃が全身に襲い掛かってきた。
わたしは後ろに吹っ飛ばされて玄関から飛び出し、背中から渡り廊下の手すりに叩きつけられた。世界は物凄い勢いで上下を入れ替えながら、わたしを押しつぶそうとしてくる。
立ちくらみを起こしたときに見える黒い塊が視界を狭め、そこを何かが横切り、次に錆びた手すりが現れたと思うと、それらが体に食い込んでくるのが分かった。
視界がフラッシュして真っ暗になった。何か言おうとしたが喉を締め上げられているようだった。手足の感覚がなくなり、消え行く意識だけが空中に浮かんでいる。
今度はためらわずにやってくれた。絞殺と銃殺のどっちがマシなんだか。あんたは結局、わたしの手の届かないところにいる。
手すりの下側の横パイプに腕をかけ、うつぶせに倒れたわたしの背中を誰かが踏みつけた。涙が目にこみ上げてきた。体のどこかにでも力が、自分の意思で動かせるところがないか探した。そんな心をあざ笑うように体が痙攣した。
お願い、言うことをきいて。
死ぬなら死ぬで、もういいわ。
いや、良くない。
ちっとも良くない。
まずは見て、ちゃんと目の前を見るのよ。
目の前にタイルが見える。霞んでいるけど、継ぎ目に埃がぎっしり詰まってるのがわかる。誰も掃除してないのね。
空気の塊が口から出た。撃たれたのはどこだろう?まずは動かないと。指からでいい。
両目からあふれ出した涙が、埃の詰まった継ぎ目を力なく流れていく。その弱い流れが埃にまみれた青いガラスの欠片を飲み込んだ。
もういい、わたしは寝るから。
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