獣は囁く
第12章
風に乗った粉雪が渦を巻きながら岩だらけの急斜面を登っていく。山は連峰の稜線から裾野の、ようやく苔や高山植物が自生できる高地にいたるまで、薄い雪の膜で覆われていた。
雪が一箇所だけ盛り上がって、その下から2名の人影が這い出てきた。
彼らは自分たちで掘った狭いトンネルを抜け出すと、寒風の吹きすさぶ中で身に着けていた装備を次々と雪の上に捨てていく。ミサトの黒い髪が風に煽られてまるでメデューサのように広がっている。
二人は穴の入り口に隠してあった白いシートと雪を払いのけて分厚い登山用の外套に袖を通し、手袋をはめた。ミサトが暴れる髪のためにキャップをかぶるのに苦戦していると、マコトが彼女の髪を一まとめにつかんで手伝ってやった。
キャップの上から登山用ゴーグルを着けると、髪の毛の他には何一つ二人を見分ける方法がなくなった。二人は打ち棄てた装備にシートを被せ、素早く雪で覆ってから、3ヶ月かけて掘った穴に別れを告げて急斜面を下り始めた。
かなりの高所のために酸素が薄く、走るのは危険だったが、二人は高山病にかからないように交互に酸素ボンベを吸った。
予定よりも早く酸素ボンベが空になったことを除いて計画通りに、目標の巨石の下に到着し、そこで初めて二人は一息をつくことができた。
石は何百年も前に山頂からころがって来たに違いなく、今は双子のように身を寄せ合っていた。斜面側のいくらか小さい、妹のほうはその後の土砂崩れで3分の1が埋まっている。二つの石が接している下には人が入れるほどの空間があり、反対側まで続いていた。
ミサトは先にその中へ入り、途中のへこんだ空間に身を入れた。
窮屈な空間で体の向きを変えて、マコトが自分の後について入ってくるのを確認してから、用意しておいた新しい酸素ボンベを外套の中に入れた。風はここまでは入ってこなかったが、息は吐き出した途端に凍り付いて白い煙となってのぼっていく。
天然のアルコーブの中で、二人は向き合うとお互いの登山ゴーグルを隔てて目線をかわした。
「第一関門突破ね。測距儀の電源を入れて」
ミサトが言わなくてもマコトは心得ていて、岩の上の回転台座に据えた高出力収束光線の放出装置からケーブルでつながれた本体の電源を入れていた。たった今、目に見えない光線が台座から全方向に向かって放出され、地上の隆起に沿って遮るものがないかを探し始めたところだ。
ミサトは下山中にずっと気になっていた、外套の中で左に寄ってしまったジャンパーの裾を引っ張って直した。
「反応はある?」
「今のところ、ないです」
マコトがそう答えた。ミサトはテントと寝袋をまとめた袋を引っ張り出して口紐を縛りなおして肩にかけた。熱いコーヒーが飲みたかったが、携帯コンロの側に置き去りにした朝食の飲み残しはすでに氷になっていた。
「そのまま続けて。10分以内に反応がなければ出発よ」
「分かりました」
ミサトは腕時計を確認した、セイコーの時計は午後5時12分、気温はマイナス22度を示していた。ミサトは酸素ボンベの吸引口のノズルで自分の口を覆って濃い酸素を体に補給した。VVDを撃った反動がまだ腕に残り、生体保存液の中を広がっていく赤い靄のイメージも頭にこびりついている。
ミサトはこれまでに4人のクローンを始末していた。イギリス、フランス、スペイン、そしてイタリア。10年より前にそれぞれの国に「流出」していた綾波レイのクローンたちだ。イギリスではポートリーからフェルドランドに輸送される際に車ごと吹き飛ばし、フランスでは施設に忍び込んで時限爆弾を爆発させた。スペインは生命維持装置に仕掛け、それがレイのために使われるのを2年も待ってから作動させた。
けれど自ら手を下す、つまり拳銃で撃ったのはこれが初めてだった。
例えそれが14歳のまま成長ホルモンを抑制され、仮死状態にされたクローンであったとしても、レイとまったく同じ容姿の存在を撃つことは、かなり精神を痛めつける作業だった。
「だれもいませんね。まだ気がついていないのかも知れません」
ミサトは我に返った。マコトの手元のモニターではこの場所を中心に放射状に線が広がっていく様子が映っている。光線の流れはなだらかで、一切遮るものがないことを示していた。
「気づいていないとすると、これはうれしい誤算ですね」
マコトはそう呟いて装置から手を離し、手袋を片方だけ外すと昨夜を過ごした寝袋の中に手を突っ込んだ。そして嬉しそうに言った。「まだ僕たちの体温が残ってますよ」
僕たちを強調してマコトが言った。二人用の寝袋で内部は薄い布で仕切られていたが、お互いの体温を感じあいながら寝た。厳しい寒気をお互いの体温で温めあうための設計なので当たり前だった。マコトはそれを高校生みたいに嬉しそうに言っている。
マコトとはすでに何度も行為をしているし、籍は入れてなくても夫婦という立場なのだから、何がそんなに嬉しいのか、ミサトにはよく分からなかった。
マコトが夫になっていることに特に不満はない。この10年で楽しみと言えばそれぐらいしかなかったし、コンタクトに変えてメガネ君ではなくなったマコトは、髪の生え際が数センチほど脳天に向けて退却したことを除けば、そんなに不細工なわけでもない。
マコトは寝袋の中からエネルギーバーを二本取り出して、一本をミサトに渡した。
エネルギーバーは凍っておらず、二人は銀色の包装をむいてかじり始めた。
「パソコンは使えない?」
ミサトが訊くと、最後の一口を口に放り込んだマコトが答える。
「この寒さじゃ起動しませんよ。町へ、シン・ジャンまで降りないと。アスカのことですか」
「そうよ」
「シゲルが何とかしてくれますよ」
「ダウンロードされたら、シゲルにも通知が行くようになってるのよね?」
「少し修正させてもらうと、ダウンロードが始まったら。です」
そして独り言のように言ったが、口調には咎めるような気配があった。
「アスカには人を逆恨みするようなところがあるから、あの書き込みを見てもダウンロードしないんじゃないかと思ってます」
「そんなことはないわ」
「そうでしょうか。あのデータが失われたら計画は全部パーです。あれは僕たちの10年の成果なんですよ」
「あの子は素直よ。10年前は剣呑に振舞っていただけ、根はネルフにいた人間で一番素直な性格だった」
「確かに日本政府はアスカを完全に管理下に置います。けれど」
「言わないで、もう決めたことだし、アスカが気がつくのを待つしかないんだから」
マコトは口をつぐんだ。そのまま黙っているかと思ったが、ふたたび口を開いた。
「あれは僕たちの10年の成果なんですよ」
「分かっているわよ」
しつこく食い下がる夫に対してミサトは語気を強めた。「分かってる」そうしてアルコーブの岩壁の居心地の良い場所を探して寄りかかり、目を閉じた。すると目尻にこれから深くなる一方の薄い皺が目尻に浮かんだ。
「私達もはやく帰りましょう。シゲルがうまいことやってくれてると有り難いんだけど」
「次で最後です」マコトはまだ冬月コウゾウやマヤでなく、アスカにデータを託したことに納得していない様子で言った。
「測距儀に反応は?」
ミサトが妙に落ち着いた声で言った。マコトは顎を上に突き出して頭を壁につけているミサトの横顔から、モニターの黒い背景の上を水紋のように広がっていく緑の波に視線を移した。
「ありません」
「行きましょう」
ミサトが膝を突いて外に出ようとしたとき、マコトがあっと短い声を出し、それでミサトは動きを止めた。
「反応が現れました。東です」
「大きさは?機械?人?数は?」
高出力収束光線の波の中を通り過ぎた物体はほんの一瞬、明るい点として浮かんだが、すでに消えていた。岩の頂上に据えた測距儀のアンテナが180度回転して再び東の方角を向くまでの間に、マコトは装置を操作して記録された情報を確かめた。
「電子的特性は微弱です。機械ではなく人、良くてスノーモービルに乗った人、ぐらいです」
「その日本語の使い方は間違ってる」
モサトは言って、手にライフルを持ち直した。「何も良いことなんてない」
マコトは無視して画面を索敵画面に戻した。新しい波が放射状に東の方角へと広がっていく。さっき1つだった点は分裂して3つになり、こちらに近づいていた。
「まだ何も終わってない」
新しいマガジンを銃に突っ込んで、手袋をはめた指で安全装置を上に押し上げると、カチリと短い音がした。
「やるべきことはまだまだある」
ミサトは8月31日の少女のように呟き、雪の中へと飛び出した。
第13章
覚醒した時間ははっきりとは分からない。夢と現実がだんだん交じり合い、次第に現実が濃くなっていったようだ。ひどくマズい夢を見ていた気がする。
はじめは暗闇があるばかりだった。自分自身がそこにはなく、闇になった自分が他の闇を見ているようだった。
次第にはっきりしてきた。光りの玉が闇を斜めに流れていく。
天国に向かってる。ママのところに。
やっと戻れる。天国なんて行ったことないけど。
みんな許してね。わたしは色んな約束を守れなかった。
第14章
目を開けると、光の玉が闇を斜めに流れているのがわかった。今度はそれが街灯の光りなんだとわかる。
顔を動かすとものすごい違和感があった。くすぶるような痛みが脇腹を刺激し、手で触ると、ケブラー繊維の感触があった。
ふたたび意識が遠くなったが、わたしはなんとか堪えて首を持ち上げた。後部座席、運転席のシートとエリカの頭が見える。
「アスカ」
「ああ、そうか。わたしはアスカだったね。惣流・アスカ・ラングレー」
「なにを言ってるんだい」エリカがこちらを向く。
わたしは起き上がろうとして、シートから転げ落ちた。
「死んでない」
「確かに生きてるよ。二人とも」
わたしは這い上がってシートに座った。わたしの隣にはパソコンが置いてあった。泥にまみれたケースを指でなぞる。
「どうなったの。あなたが助けてくれた?」
「どうにか」エリカがため息をついた。「危機一髪ってやつだった」
わたしは夢の残滓を拭い去ろうとした。手で顔をさすると、指に乾いた泥がついた。そのまま車外をみやった。青みがかった街の景色が流れていく。わたしは窓ガラスに薄く映る自分の顔を見た。ハロウィーンのフェイスペイントのように頬に泥がついていた。
まるで別人のように見えた。わたしはうなじに手をやった。髪をつかもうとして指はほとんど空気をつかむ。
「髪が…」
「ショートも似合うさ、保証する」
わたしは何も言うことができず、おかしな長さになった髪を離し、前方座席の間から前を見た。
「渋谷に向かってる」
「車はどうしたの?」
「借りたんだ」
「盗んだんでしょ」
「ああ、そうだよ。二度ね」
「二度も?」
「追跡されないように一度乗り換えたんだ」
「そう」
眠気が襲ってきた。「もう安全?ものすごく疲れた」
「とりあえずは安全と思っていい」
「あんたは疲れてないの?」
「死ぬほど疲れた。眠りたいよ」エリカは素早く左右のサイドミラーを確認し、それからバックミラーを使ってわたしと視線を合わせた。
「あいつら、仲間のレーザーに撃たれたね。同じ国の人間なのに」
「ちがう。ロシアは衛星レーザーを持っていない。『衛星レーザー協定』があるからね」
「知らない」
「軍事バランスを取るために先進国が結んだ協定だよ。アメリカ、日本、ロシア、カナダは衛星レーザーを持つことが禁止されてる。持っているのはフランス、イタリア、中国、イギリス、インドの5カ国だけ」
「難しいことはよく分からない。考える気力がないわ。あとどれくらいで渋谷につく?」
「もう目の前」
空は明るくなってきていた。目覚め始めた町、いつだって最初に目覚めるのは朝食を運ぶケータリング業者のトラックと決まってる。そのトラックがわたしたちの前を走っていた。
246号線に合流し、マヤとヒカリのいるマンションのすぐ手前まで近づいた頃には、空腹を感じるようになっていた。
「何か口にできるものを買っていきたい」
今ばかりはアスカに賛成するよ。とエリカは答えた。
「お金は?」
「ある。私が買いにいく。その髪を人目にさらしたくないだろ」
マンションから最も近いコンビニが見えると、エリカは速度を緩めた。ウインカーを出さずに駐車場に入る。
エリカは車外に出ると素早くドアを閉め、雑誌類には目もくれずにグローサリーコーナーへと直行していった。
両手に袋を抱えて戻ってきたエリカからそれを受け取ってシートに置いたわたしは、シートの間から助手席へ移ろうとした。
コンビニの角から、突然にマヤが現れて、わたしは驚いて動きを止めた。
マヤはこちらに気がつかず、あたりをきょろきょろと見渡し、お目当てのもの、緑の公衆電話のブースのドアを開いた。
こちらが呼びかけると、マヤはわたしたちに気がつき、扉を閉めてこちらに近づいてきた。
「なにしてるの?ヒカリの様子は?」
「ヒカリさんは眠ってる。途中に一度起きたけど安定してるわ」
「で、あんたはなにを?」エリカが言った。
「両親に連絡したい」
マヤはそこでわたしの異変に気がついて目を見開いた。
「アスカ、その髪…」
「ちょっとね」
「連絡はダメだよ。場所がばれる」
「ヒカリさんは良くて、わたしはダメなんですか?」
「連絡する時は、マンションを出る時さ。その時ならいい」
「約束してくれます?」
「するよ。するする」エリカは面倒そうに応じて手元のボタンを操作してドアを開錠した。わたしは後部座席に戻り、マヤが助手席に乗ると、エリカが言った。
「さあ、凱旋だよ」
滞在型マンションの部屋の部屋に向かう間、わたしの脳裏には祝福のファンファーレが高らかに鳴り響いていた。
ヒカリはわたしの姿を見ると、不便そうにベッドの上で体を転がして床に足を下ろして立ち上がった。もう目は主人を待ちわびた飼い犬のように潤んでいる。
「ただいま、ヒカリ」
精一杯の笑顔を作って優しく言うと、猟師が仕留めてきた獲物を置くように泥だらけのパソコンを床に置いた。防弾チョッキを脱ぐと、乾いた泥が剥がれ落ちてカーペットの上に落ちた。そのまま丸めて投げ捨てようかと思ったが、隠れ家で背中に受けた衝撃のことを思い出した。背中には何の傷もなかったが、よく探ると繊維が荒れている箇所があった。
丁寧にたたんでから床に置いて、洗面所に入った。蛇口をひねるとお湯を勢いよく噴き出して、湯気が立ち上ってきた。顔や手についた泥を洗い落とし、明るい光の中で鏡に映る顔を眺めた。
右の頬は僅かに腫れて唇の端が少しだけ持ち上がっている。まるで笑っているみたいだったが、目は少しも楽しそうではなく、くまができて、見たことが無いほど疲れきっていた。
髪をつかんで肩から前に垂らし、状態を確認する。髪にも泥がついて固まっていた。根元から指で末端までを梳いていき、焦げている部分で止めた。
腰の上まであった髪は左半分は無事だったが、右側は肩甲骨の下から先がなくなっていた。焦げた先端を指で探ると、焦げて縮れていた部分が砂のように崩れて指先を汚した。
髪の焼けた嫌な匂いが、泥と火薬の匂いと混じっている。排水孔にゴム栓をしてお湯をため、身を屈めて毛先を浸し、両手のひらで揉んだ。無事だった部分にしがみついていた髪の名残が離れて水面に浮き上がる。自慢の赤みを帯びた色は失われて黒くなっている。
栓を抜くと髪の名残は排水孔の上にできた渦へと集まって吸い込まれていく。
洗面所を出てテーブルで向かい合っている三人の下へと向かった。水を吸った髪は右と左でまるで重さが違い、10回まわった後みたいにバランス感覚がおかしくなった。
三人はテーブルの上で持ち帰ったパソコンと向かい合っていた。エリカがアーミーナイフのドライバーで筺体のカバーを止めているネジを緩めているところだった。
エリカの髪にも泥がついている。ジャンプスーツは脱いで椅子の背もたれにかけている。二の腕に布を巻いていた。そこにうっすらとち赤い血が染みているのを発見し、わたしはそこで始めて、彼女が負傷していることを知った。
「あなたも怪我したのね」
「怪我のうちにも入らないよ」
最後のネジを外すと、カバーを取り外した。わたしたちは中を覗き込んだ。泥はまったく進入しておらず、様々な部品から細い色とりどりの線がマザーボードに接続されている。エリカはそれをかき分けて、目当てのハードディスクに接続された線を引き抜いて、二つのハードディスクを引き出して机に置いた。
「なんのデータが入ってるんですか?」とマヤが訊いた。
「戦利品だよ。MVPはアスカさ」
わたしたちは腰を椅子に落ち着けた。ヒカリの顔色は良く、恐怖の色もなくなりわたしよりも健康そうに見えるぐらいだった。
エリカが戦利品をジャンプスーツのポケットに独り占めしようとするのを見て、わたしは言った。
「待って、それはわたしが持つわ」
「私が持ってる方が安全さ」
二つ目をポケットに入れようとする手首をつかんだ。
「冗談じゃないわよ。わたしがいなきゃ、手に入らなかったんだからね」
エリカは手首をつかまれたまま、構わずに作業を続けようとする。わたしは力を込めてそれを邪魔した。こちらを睨んだエリカと視線がぶつかり合う。
わたしたちは10秒ほどにらみ合い、エリカが力を緩めた。
「じゃあ、片方はあんただ。それで満足でしょ」
喧嘩を始めるにはエリカもわたしも疲れすぎていた。たとえ喧嘩になってもわたしが敗者になることは分かりきっていたので、その申し出を承諾することにした。
片方だけ手に入れたハードディスクを膝の上に置いた。
それからエリカが早口に昨夜のエキサイティングな出来事のダイジェスト版を二人に説明し、これから福生に向かうことを告げた。わたしはすでに激しい睡魔に襲われていて、ほとんど耳に入ってこなかった。
名前を呼ばれて顔を上げると、三人がわたしを見ていた。
「あんたも着替えるだろ?」とエリカ。
着替える。と考えるよりも先に答えていた。
着替えの入ったバッグを探っていると、エリカが服を貸してくれとわたしに頼んだ。意地悪して膝丈の白いプリーツスカートを差し出すと、エリカは苦笑いした。
「そういうのは着ないね」
「似合うと思うわよ」
エリカはスカートを手に取り腰に当てた。「アレルギーが出そう」マヤとヒカリは遠慮していたが、わたしが吹き出すとエリカは自分のしたことを後悔するように、スカートをわたしにつき返した。色白の顔がかすかに赤く染まっている。それがまたわたしを笑わせた。
結局、一着しかないジーンズを奪い合い、エリカが勝った。エリカとわたしはほぼ同じ体体型だったが、彼女が「丈がちょっと短いのに、ウエストは緩い」と言った時には心の底から殺してやろうかと思った。
荷物をまとめて部屋を出て、車へと向かった。
エリカがマヤに運転できるか?と質問し、できる。と答えたので、運転手はマヤに決まった。わたしとヒカリは後部座席に乗った。
マヤは予想よりも運転が上手で、大通り目指して狭い道をすいすい通り抜けた。エリカの指示で一度千葉方面へと向かい、コンビニで停車させた。
「さあ、連絡してきなよ」
わたしとマヤとヒカリの3人は公衆電話へと向かった。
まずはヒカリがブースに入って受話器を持ち上げ、すぐに戻して顔を出し、マヤから小銭を借りた。
わたしはブースに寄りかかって、ヒカリがダイヤルするのを見ていた。
ヒカリは受話器を不安そうに耳に押し付けたまま待ち、留守電につながってしまうと、無事なので心配ないように妹にメッセージを残した。
ブースから出てきたヒカリは浮かない顔をしている。撃たれた痛みがぶり返したらしく、わたしは肩を貸してやって車までもどった。
振り返るとマヤはすでにダイヤルし終えて、相手が出るのを待っていた。
わたしが近づくのを手振りで制した時、相手が出たらしく、顔を反対に向けて話し始めた。
出てきた表情はヒカリと同等に浮かなかった。
わたしの番になったが、誰も連絡すべきような相手がいないことは分かっている。わたしにはマヤのように両親もいなければ、出来が悪くても愛すべき妹もいなかった。
身を切るようなひどい孤独感に襲われたが、二人に負けたくないという無駄なプライドが働き、すれ違いにマヤから小銭を貰ってブースに入った。
コインを投入すると電話機が番号を要求する音を立てた。
少し考えて心に浮かんだ番号をプッシュする。相手はこちらが驚くほど早く出た。
「冬月だ」
わたしは圧倒的な敗北感に包まれながら、さして話したくも無い相手と会話を始める。
こちらが話すのを冬月は相槌も打たずに聞いた。
「それで今は伊吹君と一緒なんだな」
「ええ」
「彼女に申し訳ないことをした。謝っておいてくれ」
「自分で言いなさいよ。呼ぶ?」
冬月は少し考える時間を取った。
「今さら私が謝ってもしょうがないだろう。彼女の安全を確保してやってくれ。それで、一緒にいるのはアメリカのNIHISの人間なんだな?」
「NIHISを知っているの?」
「もちろんだ」一瞬の間を置いて続ける。
「四号機を覚えているか。NIHISは四号機を作っていた組織だ」
周囲が静まり返って胃が持ち上がり、そのまま受話器の中に吸い込まれそうになった。
「ネルフと同じく、国連に所属する組織で独自の研究開発を行っていた。ひどい秘密主義でネルフとは研究成果を共有しようとしなかった。使徒との戦闘が終わった後の軍事転用を研究しているといわれていた。その結果があの事故だった。その責任を取って解体されたはずだが、やはり残っていたようだな」
わたしは喉の奥で唸った。
「残念ながら、NIHISのことは調べようが無い。そんなコネは持っていない。唯一ついえるのは、その女、名前は何だったかな」
「エリカよ。エリカ・キーリ」
「そのエリカと名乗る女が、真実を言っているとは限らんし、そもそもNIHISの人間かどうかもわからん。信用するんじゃない。できれば、その女の元から離れろ」
長距離電話料金があっという間に投入金額を消費して、会話の終了を警告するブザーが鳴った。
電話が切れるまでの短い間、冬月は一方的に喋った。
「とにかく、携帯電話を手に入れるんだ。その女のことや、レイのことが何か分かったら連絡してきたまえ。情報さえあれば私にも調べようがある。NIHISについても調べてみよう。もしかすると、リツコ君や碇が協力している可能性がある。いいか、絶対にその女が――
そこで電話が切れた。わたしは受話器をおいて車に戻った。エリカは助手席でコンビニの復路からパンを取り出していた。
マヤが車を発進させると、エリカは来た道を引き返して福生へ向かうように指示した。そして誰に向かって言うともなく話した。
「日本人はパンに何でも挟めばいいと思ってるね。パンにマッシュドポテトを挟むなん手信じられないよ」
わたしは彼女の差し出したパンをいくつか受け取りながら言った。
「どこかで携帯電話を買いたい」
「どこに連絡するつもりさ?」
「あなたとよ」わたしは咄嗟に言った。「それに何かと使えるわ。あなたも持ってないでしょ」
エリカはバックミラーからじっとわたしを見た。そして前方に視線を移した。
「わかった。どこかで買おう」
わたしはほっとして、ビニールにくるまれたパンを見た。冬月の言った言葉が頭の中で薄れることなく反響している。何を信じていいものかまったく分からなくなった。
それでも空腹を満たすことは何よりも最優先だった。パンを三つとおにぎりを一つ食べ、缶コーヒーを飲むと、再び眠気がやってきた。今度の睡魔は強烈で、コーヒーはまるで役に立たなかった。起きていようと思うが、勝手に頭が揺れる。
「アスカ、寝たほうがいいよ」
ヒカリが優しく言うのが、まるで眠りをさそう呪文のようだ。眠気で涙が止まり、曇った視界の中で前を確認すると、エリカも窓枠に肘をついて顔を支え、目を閉じている。
ヒカリに何かあったらすぐに起こしてくれるように頼み、ピローケースにくるんで体に巻きつけているハードディスクの位置を確かめた。
覚えているのはそこまでだった。
マヤとエリカが会話する声で目が覚めた。二人は臨海水族館について話していた。エリカが場所を知っているかと尋ね、マヤは存在そのものを知らないと答えている。
静かに瞼を持ち上げると、降り注ぐ日差しが頬を照らすぬくもりが感じられた。真っ青な空に浮かぶ雲がゆっくりと動き、その下では建物のでこぼこした輪郭が流れ過ぎていく。
太陽から延びる光のレールは時折、電柱や雲に遮られながら、時速70キロで進むわたしを追ってきた。
わたしはぼんやりとここ数日に起きた出来事を呼び起こしていた。いきなり様々なことが起きすぎて、ゆでる前のパスタを床に撒いてしまったように整理がつかなくなっている。
色々な事実が分かってきて、その事実はどれもわたしを不快にさせるものばかりだったが、一番こたえたのはファーストのことだった。
あいつがクローンだったなんて…。
10年前にあいつを人形呼ばわりしていたことが、ひどい罪だったんじゃないかと急に思い始めた。
ファーストはそのことを知っていたんだろうか?
様々な感情が混じりあっているのを感じたものの、まだ眠りから脱しきれない麻痺した頭ではそれが限度だった。
「福生米軍基地」とかかれた看板が目の前を通り過ぎると、不意に町の輪郭が途切れて広大な土地が目に入った。有刺鉄線つきの錆びた金網の向こうは芝生に覆われ、古いアスファルトの道が陽炎に霞む先までまっすぐに続いている。土地には車も人影もなく、遥か先の施設だけが陽炎でゆらゆらと揺れている。
車は元米軍基地の区画に沿った道を進み、厳重に閉鎖された正門を過ぎた。金網が3メートルはある壁に変わって車の数も少なくなった。
マヤは言われたとおりに車を道端の縁石に寄せて停車してハンドブレーキを持ち上げ、助手席を見た。エリカは指で目尻を弧を描くように揉んでわたしたちに降りるように言った。
まだそれほど古さを感じさせない鋼鉄製の門扉の前に立つと、エリカはインターフォンのボタンを押して中にいる人間と言葉を交わした。少しも待つことなく、扉はモーターの回転音とともに左右に割れた。
中に入ると外でも感じていた古い工業用油のにおいが強くなった。その発生源は平地を埋め尽くした重機の残骸だとわかり、どういう理由か風が強く吹いていた。地面はむき出しの土で昨夜の雨で湿ったままだ。重機の残骸の海に、修理工場か倉庫だったと見られるガルバリウムの建物がいつくか見えた。どれも排気ガスを含んだ雨に黒っぽく汚れ、曇りがガラスの窓の縁には苔が生えている。
「こっちよ」
エリカは建物の一つにわたしたちを案内し、1メートル半ほど開いたシャッターをくぐった。
中は薄暗く、曇りガラスから差し込む光だけが骨の折り重なったような重機の部品を照らしてる。
わたしはコンクリートの床に散らばっている薬莢の一つを手に取った。弾丸は発射済みの空薬莢だった。投げ捨てると地面に当たって転がっていく。
エリカが先頭に立って作業場を抜け、小部屋が並ぶ廊下を歩いた。エリカが急に足を止めたので、よそ見をしていたわたしはエリカに激突しかけた。
小部屋の中に入ったわたしは、また地下だ。と思った。部屋には地下へ続く階段がぽっかりと穴を開けていた。
これまでの様子から今度の場所も、府中の隠れ家とあまり変わらないものを想像していたわたしは想像とかけ離れた中の様子に驚いた。
特に中には人がいて、わたしたちを迎えてくれたことには仰天したと言ってよかった。
ウェンリと名乗った小柄な黒人の女は嘘とも言えなさそうな笑みでわたし達を歓迎してくれ、ホテルほどではないが、それなりに設備の充実した居住区を案内してくれた。
空気は循環されて体臭やゴミの出す匂いは取り払われている。壁はコンクリートの打ちっぱなしだが、くだらないポスターの類はなく、廊下もリノリウムが反って浮いたりせずに、きちっとしていた。ところどころに置かれた鉢植えは青々としている。人を不安にさせるもの、武器の類は影も見当たらなかった。
左右に分かれた廊下の突き当たりでエリカが「わたしはこっちに用がある」と言って離れていき、ウェンリは残ったわたしたちを反対の廊下を進んだ先にあった一室に案内した。
縮れ毛を伸ばして後ろで結んだウェンリの後姿を見ながら、わたしはここがそれなりの資金と労力でもって維持されていることを感じ、ここを使っているのはNIHISだけでではないのだと当てをつけた。
通された一室はこれまた清潔で、唯一違うのは消毒液の匂いがすることだった。
カーテン付きの患者用のベッドが二つあり、スチール製の薬品棚には様々な医薬品が取り揃っていた。中央には外科用の施術台が据えられ、今は怪我人の代わりに折りたたまれたシーツが積み上げられていた。
待ち受けていた体格のいいラテン系の男がこちらに微笑みかけ、すでに何をするかわかっていたわたしはヒカリを彼女の座るべき場所に座らせた。
医者はヒカリに向かって英語が話せるか?と英語で訊き、ヒカリはその質問の意味はわかっただろうが、救いを求めるようにこちらを見た。
「あまり話せないわ」
「なら君が通訳してくれ」
「あなた医者よね?」
「医者以外に見えるかい?」
わたしが首を振ると、医者はさっそく仕事に取り掛かった。手術台のシーツをどかして、ヒカリを寝かせると、わたしが貸したシャツの裾を捲り上げた。ヒカリは少し恥ずかしそうに身をよじったが、腹に巻いている間に合わせの包帯を触られると観念したように目を閉じた。
わたしとマヤはどこに居て良いのか分からず突っ立っていたが、医者の手招きに従って手術台の側に移動した。ヒカリの代わりに医者の質問に答えていると、マヤはその場を離れて入り口の側の低いソファに腰を下ろした。
脇腹の傷は乾いた血が上にかぶさり、昨夜の生々しさは消えていた。医者は自分の腕を披露するまでもないと悟ってがっかりした様子だったが、念入りに傷を調べた。
「内臓はまったく無事だ。消毒して縫うだけで大丈夫だ」
彼は確信をもってそう告げた。医者は手際よく準備を一人でこなし、必要な薬品を自分で取ってきて、ベッドの隣の移動できる台にのせた銀色のトレイに並べていった。
医者はわたしを通して全身麻酔と局部麻酔のどちらが良いかとヒカリに質問し、ヒカリは全身麻酔を選んだ。
その選択には不服も意見もないらしく、頷きもせずにトレイを載せた台の下のラックからボンベのついた吸引機を取り出した。ボンベにはわかりやすく「麻酔用」と書かれていた。
口と鼻を覆われる直前、ヒカリはわたしをじっと見た。わたしは精一杯の笑顔で彼女を安心さようとした。その効果があったかどうかも分からないうちにヒカリは眠りに落ちた。
医者は手振りでわたしを下がらせ、滅菌済みの手術用手袋に手をとおし、医者がよくやるように指を動かした。
傷を縫合する間、医者は鼻歌を歌いはじめた。
「真面目にやってよね」
とわたしが言うと、医者は振り返り「気に触ったかい?医者はよくやるさ。患者は寝ているから知らないだろうけどね」と悪びれた様子もなく答えた。
作業を中断させたくなかったので、それ以上は何も言わずにいると、医者は仕事に戻り、鼻歌はやめたが「中にはコーヒーを片手にやる奴もいるよ」と付け加えた。
縫合は10分とかからずに終わり、絹糸で傷口が閉じられると医者は化膿止めの消毒を施してわたしを手招きした。彼はまるで料理人が料理を客に出す前にするように、手術跡を見せた。医学のことは分からないが傷は丁寧に縫われているように見えた。
ヒカリを手術台からベッドへ移すのを手伝い、ほっと一息ついた。
「数時間で目覚めるよ。疲れていればもう少し眠るだろう」医者はそう伝えて後片付けに取り掛かった。
ところで君は、と医者が言った。
「エヴァンゲリオンのパイロットだったってのは本当?」
「ええ、そうよ」
「その髪型は操縦に必要なのかい?」
わたしは両手を腰に当てて言い返した。
「エリカといい、アメリカは軽口が得意な人間を選んでこっちによこしてるの?」
「エリカ?ああ、君たちをここに連れてきたNIHISの奴か」
「彼女のことは知らないの?」
知るわけがない。医者はエリカがピローケースを裂いて作った包帯を焼却廃棄用のケースに投げ込みながら肩をすくめた。
「NIHISの人間を見たのも初めてだよ。そもそも、本当にあるって知ったもの今日が始めてさ。ウェンリに髪を切ってもらえよ。彼女はこっちに来る前は美容師をしてたことがあるはずだ」
「NIHISがエヴァンゲリオンを作っていたってのは本当?」
「本当だよ。10年前に大事故を起こしてからまったく噂を聞かなくなったけど、何年か前に突然に噂が立ったんだ。それは君のほうが詳しいんじゃないか?」
「何も知らないわ。何があったの?」
医者は手術器具を手術前の状態にもどすと、立ったままのわたしと向き合った。話すべきか一瞬迷った後に話し出した。
「4年前に西部のアパラチア山脈の中で爆発がおきた。山を1つ吹き飛ばすぐらいの規模だった。爆発の後で政府は核実験を行ったって声明を発表したけど、NIHISがまた何かやらかしたって噂になったんだ。そこはNIHISのあるミッドラルパークから西に150キロしか離れてなかった。その噂じゃ、新型エヴァンゲリオンが核爆弾にも耐えられるかどうかの実験をしたんだってね」
「それって何年前の話し?」
「わたしがここに来る前だから4年前だ。世界中でニュースになったのに知らないのか?」
4年前はわたしの暗黒時代、ヒカリと偶然に再会する前で、その頃はニュースというものに何の興味も抱いていなかった。確認のためにマヤを見ると、マヤは本当だと請け負う印にうなずいた。
「アメリカ財政の大赤字の元凶は昔はNASA、今はNIHIS。どうしようもないことに莫大な金をつぎ込んで…
突然、扉が荒々しく開いてエリカが大またで入ってきた。扉の外で立ち聞きしたらしく明らかに苛立っていて、わたしの横まできてから医者を睨み付けた。眉が釣りあがったあおりで眉間に皺が寄っている。
もし彼女が医者に殴りかかったら、自分は止めるべき立場なんだろうかと考えた。
「あたしのパートナーに変なことを吹き込まないでくれる?」
疑問ではなく命令口調で言うと、医者はたじろぎを隠すためにそっぽを向いたが成功していなかった。「真実を伝えただけさ」
エリカはちらっとわたしを見て、髪を耳の後ろに掛けた。同国人同士の間に非常に気まずい空気が流れ、エリカはわたしの腕をつかむと部屋の外に引っ張った。座っていたマヤが成り行きを不安げに見ていた。
部屋を出てもエリカは腕を離さずに廊下を進んでいく。
「あんなのは嘘よ」
「NIHISがエヴァを作っていたのも?」
わたしは刺激しないように慎重に尋ねた。
「それは本当。私が言いたいのはNIHISが実験で核を使ったってところ」
そのまま110号室の前まで来ると、非接触型のカードキーで扉を開き、中に入ると後ろ手に閉めた。
そして西洋と東洋が5対5で混じっている顔をこちらに向けて息を吐いた。わたしは腕をつかまれたまま彼女が平静を取り戻すまで待った。彼女の手は熱く、指は重い銃を扱うにしては細くて華奢だった。
「あれは仕方なかった。破壊するより他に手がなかったのよ」
「新しく創ったエヴァに核爆弾を使ったのね」
エリカは手を離し、こっぴどく叱られた子供が反抗するように顔をそっぽに向けた。
「ダミーシステムの実験中に原因不明のエラーが起きた。おかげで大統領は核ミサイルのターゲットを風光明媚なアパラチア山脈にセットするハメになったんだ」
「自業自得よ」わたしは言った。
「あんなもんをまた動かそうだなんてイカれてる」
「いつだって国には、その時最強の兵器が必要なんだ」
「それは使徒がまた現れるから?それとも宇宙人が攻めてくるから?どっちも違うでしょ、あれで戦争をしたいだけなんでしょ」
「ああ、そうさ」エリカはミス・パトリオットになって言い放った。
「アスカはもう戦争が起きないって信じてる?そこまでバカじゃないよね?戦争はもう目の前なんだよ。私はフィボナッチ係数は暗算できないけど、政界情勢にはアスカよりも詳しいんだ」
3体のエヴァがエヴァを持たない国に降り立ち、戦車や戦闘機をおもちゃを潰すように破壊していく様子が浮かんできて、悪寒を覚えた。足元で逃げ惑う人間なんてわたしたちが歩くのに蟻を意識するようなものだろう。
零号機と初号機と弐号機、まるで、わたしたちがやっているみたいじゃない。
「一人よがりで独善的なのよ」わたしは言った。「あれに携わる奴はみんなそう」
今度の喧嘩はとことん買うつもりだったが、エリカは呆気なく身を引いた。
エリカは自分たちは少なくとも数時間はここで待つ必要がある、それまではゆっくりしようと言った。
「本国のお偉いさん方が、緊急ミーティング中だよ」
エリカが仲直りと息抜きにビリヤードかダーツでもしないかと誘ってくれたのを断り、彼女を残して医務室に戻った。医者がわたしを見る目は少し厳しくなっていたが、ヒカリを部屋に移したいと申し出るのを止めはしなかった。
マヤと二人で慎重にストレッチャーに移して110号室まで運んだ。エリカは部屋で低いソファに座り、足をコーヒーテーブルに載せて口に入れたキャンデイーの包み紙の皺を伸ばしていた。こちらを見もしなかった。
ストレッチャーの車輪がドアに引っかかって苦戦していると、エリカは何も言わずに手を貸してくれた。部屋に入ってからも人を散々に苦戦させたストレッチャーを押して、マヤが部屋を出て行く。
毛布をヒカリの肩までかけてやり、何の邪気もない静かな寝顔を見て心を落ち着かせてから、座れる場所を探した。ソファは2つあったが片方はエリカが占領していて、残った方に座るとエリカと向き合うことになるので諦めた。
結局、ヒカリを邪魔しないようにベッドの端に腰を下ろした。ベッドはセミダブルで、上等なスプリングはわたしの体重を喜んで押し返した。
わたしとエリカはぽつぽつと会話を交わして、揺らぎかけた関係の修復を試した。あながち失敗ではなかったが、成功もしなかった。
二人は「エヴァのあるべき論」について正反対の考え方を持っていることが分かっていた。マヤは医務室か医者のどちらかが気に入ったのか、いつまで経っても戻ってこない。
「もう少し、マシな出会いができればよかったんだけどね」
出し抜けにエリカが言った。
「わたしにはあなたが突然に現れて、望んで引っ掻き回しているように思えるけど」
「わたしはアスカのことをずっと前から知っていたよ」
「アスカとしてじゃなく弐号機のパイロットとしてでしょ」
まあね。とエリカは二つ目のキャンディーを口に入れた。
「それでも会いたいと思ってたよ」
「弐号機のパイロットとして会いに来たんじゃなかったら、少しはましだったわ。友人は部屋を盗撮したりしない」
エリカは何か言いそうにしたが、それは口に出さなかった。
「髪を切る?その髪型はさすがに良くないね」
「今から?」「そう」「あのウェンリって人は美容師をしてたらしいけど」
エリカは蠅を払うように手を振った。
「ウェンリなんて必要ないさ。あたしが切るよ」
「嫌よ」
「NIHISはアパラチアの山の中で一番近い街でも何時間もかかる。だから女性職員はお互いに髪を切りあってるんだ、ウェンリなんかよりも上手よ」
不揃いになった髪をそのままにするのは確かにまずかった。わたしは切ることを決め、どうせならエリカとの仲直りに使うことを選んだ。
部屋の引き出しに入っていた古新聞を床に広げる間、エリカはデスクの上の文房具箱から鋏をみつけてきた。
エリカは思った以上に上手かった。無事に残った左側の髪が切り落とされるとひどく頭が軽くなった。わたしは前を見据えたまま、鋏の動く音を聞いていた。
「なるだけ残すよ」
エリカはしんみりした声で言った「悪かったね、髪までは守れなかった」
「いいわ、どうせ延びるんだし」
エリカが手についた髪を払い落とす間、わたしは横を向いて、視界の端でエリカを見た。
「一応、お礼を言っとく」
切り終えてから、姿見の鏡で確認すると、髪は肩の少し下まで短くなっていた。仕上がりはまあまあだった。
片づけをしているとウェンリがやってきてエリカを呼び出した。
「さてさて、今日の夜の予定はどうなるだろね」
エリカはそう言ってわたしの肩をたたき、ウェンリと一緒に部屋を出て行った。
ここにはロクな厨房がないらしく、密かに期待していた昼食は軍隊食で恐ろしくまずかった。食欲がなかったので、大半を残してお茶ばかり飲んで、1時間の間に2度トイレに行った。マヤも戻ってきて退屈そうにしている。退屈でなさそうなのはヒカリだけだ、彼女はまだ眠り続けている。
エリカは見るからに重そうなバッグを提げて戻ってきた。心もち緊張しているように見える。それを床に投げ出すと、やっぱり重かったらしく大きな音がした。
黒い携帯電話を差し出されて、それを受け取ると、今度はトヨタのマークの入ったキーが出てきた。それも受け取ると、続いて鞘にベルトを通したナイフが出てきた。ともかく受け取ってはみた。そしてホルスターに納まった拳銃、わたしが昨夜につかってたやつ。が目の前に現れた。わたしは言った。
「人を戦場にでも連れて行くの?」
「用心だよ」
ケブラー繊維のシャツを押し付けながらエリカが言った。
「今夜も忙しくなるよ」
「何をするの」
「行方不明者の捜索」
わたしが両手の荷物を椅子に置いている間にエリカはわたしが貸していた服を脱いで、バックの中の服に着替え始めた。
エリカは鍛錬のたまものの見事に均整の取れた引き締まった体をしていた。その体に比べれば尾藤ユリなんて毛をむしったブロイラーの鶏みたいなもんだった。そんなもんを進んで人目にさらしているのも、喜んでみている方も、ただの間抜けに思えてくる。
ただもしもエリカが人前で脱いでも、誰も抜群のポロポーションに気がつかないだろう。それは凄まじいばかりの火傷跡で、右胸から始まり、腹部の大半を覆い、ショーツに隠れたあと、右足の太もも、膝にかけてまでの皮膚が紫色だった。
わざとに違いなかったが、エリカはわたしとマヤの視線に始めて気がついたような顔をして、わたしたちが自分の思惑通りの表情をしているのに満足したらしい。
「みんなそんな顔をするのさ」
わたしは何と声をかけていいのか分からず、自分の服を脱ぎ、それで胸を隠した。ケブラーのシャツは女性用らしく、いくらかデザイン性が考慮されていて、普通にはちょっとダサい無地のシャツにしか見えない。
エリカは紺色のスラックスに足を通して引き上げ、引っかかった尻を振って上手いこと中に納めてウエストを留めた。
わたしに提供されたのも、色も形もまったく同一のスラックスだった。
「これもケブラー繊維?」
「いいや、違うよ」
わたしはほっとしてスラックスを椅子に戻した。シャツを着終えると、エリカは腕に巻いた包帯の位置を直し、ホルスターを肩にかけてベルトを締めた。
わたしも見よう見まねで取り付けようとしたが、どちらが上なのかも分からずにもたもたした。エリカがニヤニヤして近づき「あんたは逆だよ」といって取り付けてくれた。
同じくナイフを左足の足首の上に巻いてもらった。そうして鏡で自分の姿を見たが、どう見てもニキータのコスプレにしか見えない。
エリカはすっかり用意を整えてドアのところでわたしを待っていた。ナイフの上からサマーブーツを履いて、紐をきつく締めた。つま先で床を叩きながら訊いた。
「シンジを探しに行くのよね?」
「ああ、私はね」
そう言ってさっさと出て行った。
「ちょっと待って」
わたしも彼女を追いかけて部屋を出た。ヒカリとマヤに声をかける暇もなかった。
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