獣は囁く
第10章
あらゆる音がしている。標識が風に煽られてギシギシと揺れる音、草木が燃えあがる音、そして自分の心臓の音。それに激しい耳鳴り。
匂いもした。刺激のあるゴムが焼ける匂い、タマネギに似た鉄の焼ける匂い、頬についた泥の匂い、切れた頬の内側から出る血の匂い。そして、わたしの髪、わたしが大ッ嫌いなわたしの中で唯一、自分で好きと思える部分、それはママの髪の色だ。それが焼ける匂い。
ああ、ママ。この際シンジでもいい。
わたしを助けて。
第11章
その目は永遠に続くと思える闇の中に向けられている。物の気配をまったく感じさせない空っぽの闇。背後でマコトが動く物音がしなければ、そのまま闇に膝を屈して空虚な空間に落ちていきそうだった。
「点けますよ。ミサトさん」
葛城ミサトは無意味と知りつつも習慣に従って頷いた。同時にペンライトのか細い光りが二人の間の間に点った。二人の姿が浮かび上がり、通路の壁に男女の影が映し出される。
ペンライトの光線は居場所を求めてあちこちを向き、最終的にマコトの顔を下から照らす位置に落ち着いた。マコトは眼鏡をしておらず、ボシュロムのコンタクトレンズに変えている。陰影が強調されて堀の浅い割りに眉の濃い顔が歌舞伎役者みたいに見える。
マコトは体をひねり、特大のリュックサックを背中からずらして床の上に置いた。チャックを開けてペンライトで中を照らしはじめる。
ミサトは彼に背を向けて通路の奥を見やった。ペンライトの光りは膨大な闇を追い出すには力不足で、まっすぐ続く廊下は数メートルのところでふたたび闇の中へと消えている。
それが10年前に廃墟となったネルフの中をさまよった体験を彼女に思い出させた。
まずは笑み、次に嘘、最後に銃声。
葛城ミサトは人生で何百度目かにその言葉を思い浮かべる。
それは『ダーク・タワー』でギリアドのローランド・デスチェインが言った言葉だそうだ。時間と空間が崩壊しかけた世界を救うためにローランドが永い旅をする物語で、ミサト自身はその物語を読んだことはない。ある男がこの言葉をたいそう気に入っていて、よく彼女に語って聞かせたから自然と覚えた。
もともとその物語を知らないので、ローランドという拳銃使いがどんな人間なのかは知らないし、推測もできない。
ただ、その言葉を好きだった男のことはよく知っている。
その男の人生はまさにその言葉の通りだったように思う。
「ゴーグルを着けてください」
明かりが消えてふたたび真っ暗になった。ミサトは感触だけを頼りにカチューシャのように頭に着けていたゴーグルを顔に降ろした。こめかみの位置にあるスイッチをいれると、暗視レンズを通した緑色の世界が広がる。
ペンライトの光りを頼りに肉眼で見るよりもずっと奥までが見渡せる。それでもなお、闇は通路の奥を隠していた。
輪郭の曖昧な緑色の通路をはっきりとした二本の筋が床と平行に横切っている。
あいかわらず、すぐ後ろではマコトがごそごそと動いている。狭い通路の壁にその音が跳ね返ると、耳元で木の棒を擦り合わせるような音になった。
「二本よ」
「ええ、見えてますよ」
腰に手を当てられて、ミサトは振り返った。マコトはミサトが振り返って自分の方を向くまで手を離さなかった。彼も同じように暗視ゴーグルを装着していた。暗視ゴーグルはカタツムリのように目玉が飛び出しているように見えるので、どんな美男美女でも滑稽な変装をしているようだ。
二人は廊下を横切る筋の前まで近寄って止まった。
マコトは冷たいコンクリートの床に置いた装置を二度たたいてから頷き、壁から壁へと通路を横切っている線にその装置を向けた。
「やりますよ。ミサトさん」
「始めて」
ミサトは万が一、警報装置が作動してしまった場合に備えてすぐに走り出せる用意をする。
装置に電源が入ると、新しい光りの筋が延び、壁に小さな点を作った。マコトが装置をずらして通路を横切っている線の根元に当たるように位置を調節する。膝歩きに近づいていって、二本の筋が一点に集約されているのを確かめる。そして彼はミサトに向かって親指と人差し指で輪を作った。
ミサトはライフルの銃筒を持ち上げて光りの筋に通す。一瞬、これが単なる遮蔽物探知の線でなく、不可視レーザーで鋼鉄の管がマカロニのように切れて落ちるのを想像したが、銃筒はすんなりの線を通った。
それを見たマコトはすぐに足元をよぎっている二つめの線に向けて同じことをした。何も問題は起きなかった。
「完了です」
ミサトとマコトの二人は線を横切って不気味な沈黙に包まれた通路を奥に進んだ。
静かだった。闇は、ただ冷たく、重く、体に圧力を押し付けてくる。ミサトは気の動転が悪化しない程度に足を速めて緑の世界をずんずんと進んでいく。マコトも後を着いてくる。
長い通路は一枚の扉でようやく終わった。ミサトは胸のジャンパーの内側の胸ポケットから、スーパーで朝食を買った際に貰ったレシートを取り出し、丸めて投げた。レシートは金属製の扉に当たって落ちた。
電流が流れていないことを確認すると、マコトはミサトの細く整えられた眉がへの字型に歪むのがはっきりと見えた。
ミサトが何も印刷されていない白いカードをチェッカーに素早く通すと、チェッカーに小さい光が灯った。暗視ゴーグルを通すとそれはまるで太陽のように輝きだった。
「これがすんだら」ミサトがマコトに小さく語りかけた。
「乾杯しましょう」
「舌がしびれるくらい辛いのがいいですね」とマコトが応じた。ミサトは右手で暗視ゴーグルを上にずらし、マコトも同じようにした。
チェッカーの光りは弱く、世界は闇に包まれたが、これでよかった。もしも扉の向こうに蛍光灯でも灯っていたら、暗視ゴーグルは職務に忠実にその光りを増幅させて、装着者の網膜を二度と使用不可能にしてしまう。
ミサトは闇に目を慣らすために目をつぶり、開いてから息を吸った。闇の中でもマコトが緊張しているのが分かる。この扉の向こうに自分たちのお望みの物があるように、イタリア政府が自分たちの計画を察知し、どこかへ移動させてしまっていないように。
ミサトはゆっくりと扉を押した。闇の切れ目に控えめな光りがあふれ出し、それは次第に広がっていく。
「ああ、いた」
開かれた扉の前に立ち、マコトが呟いた。
部屋は広かったが無機質な装置に埋め尽くされている。色とりどりのコードが蛇の死骸のように床を這って装置同士を接続いていた。一人の魂のない人間を維持するのに、必要な装備のなんと多いことかとミサトは思った。
部屋は居住スペースがまったくなかった。まるで先端機器の物置小屋で、イタリア人には死にながら生きている人間を、もしくは逆、生きながら死んでいる者を鑑賞する趣味はないらしく、ミサトはそれを好ましく感じた。
マコトは部屋の中央に目線を固定したまま、ミサトが動くのを辛抱強く待っている。
ミサトはコードを踏まないように注意を払いながら部屋の中央へと進んだ。部屋を埋め尽くす装置は全て生きており、鼠のような息遣いで侵入者を見ている。
二人はまるで芸術品の彫像のように部屋の中央に屹立した透明な柱の前に立った。
透明な柱の中は液体で満たされ、その円柱の形状と液体の屈折で向こう側が歪んで見える。液体は湖のように静止して見えたが、循環が行われているらしく、小川のせせらぎのような音がする。
かすかに黄色みを帯びた液体の中を、定期的に下から出る泡が揺らめきながら上へとのぼっていった。
「レイ、綾波レイ」マコトがまるで悪魔の名を呼ぶように呟いた。
綾波レイの肉体は絶妙のバランスで円柱の中に立った状態で浮いている。両手は白さの際立つ太腿の横で、自身の浮力に任せてかすかに左右に揺れていた。
ふたたび底から泡が出て、泡は脛から14歳のままの足を撫でるように浮いていき、股間で薄い陰毛に引っかかって1秒にも満たない時間をそこに止まってから、ふたたび浮上を開始した。腰から腹へと、そして成長を止めている胸のふくらみを過ぎて、目を閉じたままの顔を過ぎ、髪の毛を巧にかわして水面に達して弾けた。
ミサトはそれをあまり長いこと鑑賞する気分にはなれなかった。それは溺死体のようだったが、確かに息づいており、足や首にうっすらと見える血管には血が通っている。その血色の良さと良好な肌の具合を見ると、背筋に冷たいものが走る。
「何度見ても嫌ですね」マコトは額からずりおちてきた暗視ゴーグルを上に押し上げた「何の邪魔も入らない安らかな眠り。夢ぐらいは見るんでしょうか」
「夢?」とミサトは聴き返した。マコトがそんな事を思っていたのが意外だった。
「そんなもの見るはずない。夢は記憶が呼ぶものよ。このレイには記憶がまったくないんだから、夢なんて見るはずがない」
マコトがそれ以上、何も言わないのを確かめるとミサトが言った。
「始めましょう」
ミサトは言って、目で柱との距離を測って二歩後ろへ下がった。足にコードが引っかかって危うく倒れそうになるのを、マコトが手を伸ばして支えた。
保存された綾波レイの体から目線を離さないまま、手にしていたライフルを持ち上げた。ライフルの銃身から体を支える鉄棒を引き出して肩に当て、身を小さくして照準を覗き込む。
先が膨らんだ銃口が綾波レイをしっかりと捉える。トリッガーに指をかけた。レイは眠っている。まるで銃など恐れないと言わんばかりに。
銃声が響くと同時に短い奇妙な音がした。照準から目を離してみると、円柱に小さな傷ができている。
「超硬化グラスファイバーですね」
マコトが冷静な声で分析した。分かりきっていることだったので、ミサトは聞いていなかった。
ミサトはライフルをマコトに預け、ジャンバーのチャックを下げて手を突っ込んだ。爪に紺色のマニュキュアを施した手が現れたとき、そこには青光りする大きな拳銃が握られていた。
ヴィヴィド社、リボルバー式VVD28の40口径、10年前は最強の拳銃で、今は最強の座を後継型に奪われても、ランクが1つ下がっただけの銃。
VVDを両手で持って構えた。巨大で重く、火薬にチルチレンを染み込ませた専用の弾丸しか装填できない銃はひどく扱いにくいが、恐ろしい貫通力を備えていた。
衝撃に備えて腰を下ろし、銃声に備えた。マコトは耳を押さえている。先ほどのライフルはパンと乾いた音を立てるが、こちらはまるで大砲のような音がする。
まずは笑み、次に嘘、最後に銃声。
ミサトはマコトに聞こえない大きさでこの銃の持ち主だった男が好んだセリフを言った。
凄まじい爆発音が部屋に響き渡った。
ビシッ!と音がして超硬化グラスファイバーに小さな穴が開いた。そこからかすかな粘度をもった水が噴水のように吹き出てきた。
黄色みを帯びた液体にレイの胸に空いた穴から出た血の靄がゆっくりと広がり、その体を包み込んでいく。
ミサトは反動で上に跳ね上がった腕を元の位置に戻し、靄にさえぎられていく顔を見守った。そして耐え難い脱力感に包まれながら、腕をたらす。
銃をジャンバーの中につけたホルスターに納めた。「行きましょう」
マコトが先に出て、暗視ゴーグルを着けなおす間にミサトは一度だけ振り返った。
すでにレイの姿は生体維持液に広がった靄に覆いつくされて、円柱は一本の赤い柱になっている。膝から下の輪郭だけが判別でき、その足は小刻みに痙攣していた。
これでいい。ミサトは自分に言い聞かせてマコトの後を追って走り出す。
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