獣は囁く

 ネルフ憲章
 前世紀、我々全人類は二度にわたる悲惨な戦争により多くの犠牲を払った。人類の危機を救ったのは他ならぬ平和を願う人類の意思であった。
 今、人類はこれまで体験したことのない危機に直面しつつある。来たるべき使徒との闘争に備え、我々はまったく新しい力を創出する必要に迫られている。
ネルフで研究・開発される技術はこの危機に備えるものであり、その力を他の目的に転用してはならない。その理由を未来永劫、見つけてはならない。
 ネルフに関係する者は人類を危機から救う使命と不動たる信念を持って職務に当たらなければならない。

正義と自由が永遠に平和を照らし続けることを願う

国連事務総長 ジャン・ドロクワ


 第一章


 吉祥寺から新山手線に乗り、目的地の二子玉川駅で降りると改札を抜け、まだ人気のない早朝の駅内を限界ギリギリの速度で突っ走って、トイレに駆け込んだ。駅員に不審な目で見られているのが分かったが、そんな事はお構いなしだった。トイレ以外の場所でやられるよりはずっとマシだろう。
 個室に飛び込むと、鍵もかけずに便器の上に前かがみになって吐いた。ほとんど全てが液体だった。撮影が終わってから飲み始めて日付が変わってもさらに飲み続けていたのだから当然といえば当然だった。
 その場にへたり込みたかったが、それには耐えた。バカ騒ぎのつけが二日酔いの形になって一気に降りかかってきた。
 それもかなり急に、最悪の症状で。
 一歩でも動いたら即死するんじゃないかと思うぐらいの状態で、わたしは壁に手を付きながら、這いずるようにして何とかトイレの出口へとむかった。
 いつもそうだ。四角い大理石の模造品の床タイルを睨みつけながら、わたしは手で口の周りを拭った。指にかすかに赤いものが付いた。口紅にしては赤すぎで、気づかないうちに唇を噛んだらしい。
 嘔吐感はたえず胸の奥にわだかまっていたが、さしあたって必要なのは水分と休めるベンチだった。出せる物は全て出してきたので、これ以上は吐く心配はなさそうだった。トイレを出たところで目線を上げると、目に飛び込んできたのはわたしを待ち構えていた男性駅員だった。
 背筋を伸ばそうとすると嘔吐が襲ってきて、わたしは逆に腰を曲げて手を膝にあててお辞儀をするように頭を下げた。
 嘔吐を必死で堪えているわたしを駅員はまるで勝者が敗者を見おろすような、たっぷりの間を置いた。そして彼はわたしの中で癪にさわる行動、気安く触られたりとか、答えたくもない質問をダラダラされたり、に劣らない行動をとった。
「アーユーオーケイ?」
全速力で頭に登ろうとした血液は万力のような圧力で頭を締め付ける頭痛に押し返された。
「喋れるわよ…日本語」
力なくいうと駅員は「ああ、そうですか」と素っ気なく答えた。そしてこちらに手を差し伸べてきた。それを振り払おうとして、その手にわたしの財布が握られているのに気が付いた。
「改札機の上に置きっぱなしです」
財布をバッグにしまう間、駅員はわたしの顔やらうなじやら胸やらを観察していた。財布をしまい、改めて彼と対峙しようとして、再び吐きかけて二度目のお辞儀をした。
「だいぶ酔ってるね。中で休憩しますか?」
わたしは無視して他人の物のような眼で周囲を見渡した。船に乗っているような感覚のせいで、すべてが虚ろで薄っぺらく見える。駅はがらんとしていて、駅内の本屋もそば屋もシャッターが降りていた。わたしが乗ってきたのとは逆方向から来た電車が通過する音が聞こえる。
 流れこそしないものの、過剰に分泌される涙を手で押さえて、改めて見渡す。事態は一向に改善せず、はっきりしているのは駅員のニヤついた顔だけだ。
 わたしが駅員室のドアをくぐったのは、ひとえに駅のベンチが全て浮浪者のベッドとして使用済みだったせいだった。
 広い駅員室は誰もおらず、それにしては明るすぎだった。何に使うのかわからない機器の青いランプが灯っている。駅員が座っていた改札窓口の机にはボロボロの時刻表が広げてあり、閉じないように色の揃っていないルービックキューブが載せてある。
 部屋の奥の休憩室と書かれたプレートのある扉の前まで案内された。ドアノブはひん曲がり、ちょうど腰の高さが大きく内側に凹んでいる。中からは先客の意味不明な呟きが聞こえてきた。
 扉の脇の粗末なベンチに座らされると、駅員は水が欲しいかとわたしに訊ねた。
 駅員は水のはいったカップをわたしに手渡すと、曲がったドアノブを押して頭を中へ突っ込んだ。それからドアノブの具合を確かめて舌打ちした。
「壊されたんだ。警察を呼んだよ」
「そう、酔っ払いの相手は大変ね」
わたしはその言葉の間抜け具合に気が付いたが、駅員は気にする様子もなく腕時計を気にしてから定位置の改札へと向かっていった。
 両手でカップを持って小さい水面に視線を落とし、意識をしっかり保とうとして薄く映っている自分の髪を眺めた。カップの洗浄具合が気になったが、一気に飲み干した。

 身に着けた装備品をがちゃがちゃ鳴らしながら入ってきた警官はベンチに座っているわたしを見て怪訝な顔をしたが、医務室から何語ともつかない言葉が聞こえると合点してドアノブを押した。
 酔っ払いと警官の非常に興味深い会話を聞きながら、わたしは壁に寄りかかって痛いほどの光を放つ蛍光灯を見上げていた。嘔吐感は去っていたが、空いた場所には頭痛が居座っていた。いつもの馴染みの頭痛だったが、慣れるということはない。
 警官が酔っ払いを叱り付けており、わたしはそれを聞いて、ヒカリにまた怒られると思った。この十年で身に付いた悪癖を取り除く作業、ヒカリが「生活習慣改善計画バージョン3」と大層な名称をつけたプロジェクトはわたしから喫煙の習慣を取り除いてくれたが、飲酒の方は頓挫していた。
「器物損壊だよ」警官が苛立ちながら言っているのが聞こえる。酔っ払いは「なんだそんなもん、そんなもんは…」と呂律の回らない言葉で応じた。
 警官は医務室から出てくるとわたしを見てウンザリという風に首を振った。
「あなたは?」
「気分が悪かったの」
「飲みすぎないように、先日も道端で泥酔した女性が悪ガキに暴力される事件があったんです」
「忠告どうもありがとう」
「自宅はどこです?送りましょうか」
「新丸子橋を渡ったところだけど、近いし遠慮しとくわ。」
「気をつけてください。最近はここらも治安が悪くなってきているんです」
それで警官は改札にいる駅員と話をしにいった。わたしは給湯室でカップをすすいで(口をつけた箇所は特に入念に)戻した。電子レンジの液晶時計は4時13分を示していた。
 警官にアドバイスされながら調書を書いている二人に割って入った。
「タクシーってこの時間もいるかな?」
駅員はペンを止めて少しあきれたように答えた。
「一台や二台はいることもあるけどね。何なら呼びましょうか?」
「いや、いいよ。外で捕まえるから」
わたしはそう答えてバッグを肩に掛けなおして、自宅へ向けて歩き始めた。

結局、多摩川に掛かる橋を歩いて渡りはじめた。疲労と酔いのせいで足がふらついている。
 橋と並走している高架橋を乗客のほとんどいない電車が通過した。道路を走っているのはほとんどがトラックでタイヤと橋のこすれる音を立てて通り過ぎていく。
また軽い嘔吐感、今度は眩暈付き、を感じたが、構わず歩いた。すでに口の中がからからに渇いて頭痛はひどくなっていたが、素面には近づいていた。
空は雲の形がわかるぐらいに青さを増していた。川べりの朝の静寂を車と電車が汚しているような感じだ。
 エンジンに問題を抱えた2トントラックが通り過ぎていき、その黒煙をしたたかに吸い込んで激しく咳き込んだ。空気を吐き出すごとに視界がゆれ、胃を吐き出してしまいそうになる。
 橋が接岸する場所にある交番が見えてきた。さっきの警官はここからやってきたんだろう。その奥には排気ガスで汚れたマンションが見える。屋上に電車の乗客を狙った看板が設置されていて、新しいものに変わっている。
 わたしはそれに気がつくと、歩みを止めて呆然と広告を眺めた。
 それは新発売になった化粧品の看板で、今朝ここを通った時はお茶の看板だった。わたしが撮影をしている間に取り替えられたらしい。
 合成した南国の空の下で、4人の女がそれぞれにポーズを決めている。真ん中、ほかの3人よりも前で映っているのは、わたしの所属しているファーストライト芸能事務所の看板娘で稼ぎ頭の19歳だ。彼女は片手を膝に置いて前のめりになり、整形に間違いない噂されている二重の目を開いてこちらを見つめていた。
彼女は雑誌社がインターネットで行っている「恋人にしたい芸能人」「セックスしたい芸能人」「料理の下手そうな芸能人」のランキングで先行者を猛追していた。存分に画像処理が施されたくすみ一つない顔で笑顔を作り、漂白した白い歯を見せている。
その背後にいる3人は、この稼ぎ頭を猛追したい女たちで、主役より目立ってはいけない制限の中で許される限り目立とうと体を傾けている。
 その左端には他より5センチばかり背の高い女が立っている。24歳、他の3人より少しだけ年を食っていて、透ける素材のベールのついたフレアスカートにノースリーブのセーターという格好だ。
 髪はほどよく乱雑にみえるようにセットされて、赤みが強調されるようにライトをたっぷりと浴びせかけられていた。これだけみると野菜と大豆以外は口にしない健康体に見える。
 その頭の上、南国の空の背景に「惣流アスカ」と丸みを帯びた字で書いてある。
 それがわたしだった。

 橋を渡りきり、右に曲がって土手の内側の道を歩いた。駅へ向かう通勤や通学者の自転車の洪水が始まるまでにはまだかなり時間がある。今はまだ人気がまったくなかった。
 仕事のことを考えるぐらいには回復していた。次の撮影は明日で今日はオフだ。わたしは帰宅してからの予定を考えた。まずは何よりも水分だった。冷蔵庫に残っているはずのお茶を一気に飲んで、ソファで一息ついてから、シャワーを浴びて眠ろう。
 起きる頃にはこの最悪の二日酔いも和らいでいるだろう。そしたらヒカリに電話していつものお粥を作ってもらう。それからゲームで対戦してヒカリを凹ませてからまた眠ればいい。
古いマンションが見えてきた。その四階にわたしだけの空間が待っている。わたしは歩く速度を速めた。
マンションの手前にトラックが停車して道をふさいでいた。
わたしは心の中で毒づきながらトラックを避けてエントランスへ向かった。運転席では帽子を深くかぶった運転手がシートに深くもたれかかり、白い靴下を履いた足をステアリングの上に重ねて乗っけていた。
悪い事は重なるってことだった。警官に付き添われるか、タクシーに乗っていたら、あんな目には遭わずに済んだ。それも一時的で、結局は同じ目に遭遇することになっただろうけど。少なくとも最悪の二日酔いの状態じゃなかっただろう。
わたしはお茶とシャワーのことばかり考えていた。地球が破滅することになっても計画を遂行するつもりだった。
 でも、計画は中止になった。わたしが正体不明の女に拉致されたからだ。