月の相貌 1
1:綾波レイ
わたしはその日、生まれて初めて街を出た。
箱根の尾根を登る車の後部座席から、林の流れる景色に目を凝らしていると、頂へ近づくにつれて、胸がうずきを抑えられなくなった。
視線をバックミラーに移したのと同時に木々が開けて湖が見えた。三日月形の芦ノ湖は光の粒子を掻き集めたように光り輝いている。半ば廃墟となった都市がそれに寄りかかるように頼りなさげに見えた。
隣に座っていた男が小さく息を吐いて、右手に持っていた物を握りなおした。その拍子にその先がわき腹を押した。わたしは身じろぎ一つせずにカーブの向こうに消えていく第三新東京市の姿を目に焼き付けていた。
男は謝りもせず、防弾ガラスで仕切られた前方座席の様子をちらりとうかがった。運転席と助手席に座った二人の頭が見えると、男は右手をそのままにして、左手をわたしの太腿の上に乗せた。
わたしが何もしないでいると、男は調子に乗って腿を撫で始めた。それでもわたしは黙っていた。
「出てくる時には何歳だ?」
男がほとんど口を動かさずに喋った。その間も手は動き続けている。街はすでに見えなくなり、車はエンジンブレーキをきかせながら急勾配の坂道を下っていた。
「碇君は」
「なんだ?」
「碇君はどこに行くの?」
「ああ、あの死刑囚のガキか。どうだろうな、東北か北海道か。そんなところだろう。彼氏だったのか?」
男は冷たく言ったのと同時に手を足の付け根まで移動させた。わたしは首を動かして男の顔を見据えた。
「アスカは?」
「おいおい、自分の心配はしないのか」
「わたしの事なんてどうでもいいわ」
「強がるなよ」
「あなたにはこんなことをする権利はないわ」
「監禁生活に入れば、すぐに感謝する気持ちになるさ。もっとやってもらえば良かったと思うかもしれないぜ」
男がスカートの裾に手をやろうとするのを、先に裾をつかんで拒んだ。男は眉に苛立ちを浮かべる。「手を放せ」そう語気を強めた。
「いやよ」
「自分の立場を忘れるなよ。今、息をしているだけで感謝すべきなんだぞ」
「誰に感謝をするの?」
「俺たち、生き残った人間に対してさ」
「あなたは生き残る権利なんてなかった。消えたままでいるべき存在だったのよ」
男の動きが一瞬とまり、そして腕に力が入った。「それで?」眉の苛立ちがはっきりとした怒りに変わっていった。男は右手の拳銃でわき腹を押した。
「向こうについたら」男は汚れた水のような目でわたしを見た。「自分のしたことをよく見るんだな。ずいぶんと派手にやってくれたじゃないか」
男はスカートの裾から放した手で、皿がきしむほどの力で膝を鷲づかみにした。
「一部の馬鹿どもが、幼いという理由だけでお前たちに生きる権利があると主張してやがる。ところが俺はそんな風に思っていない。お前も一緒に殺されるべきだったんだ」
車が坂道を下り終えた。無人の街がいつまでも続き、放置された車を縫って進んでいく。
「お前を殺してやりたい」
男はつぶやき、膝を押すようにして離した。右手の拳銃を持ち上げ、冷たい銃先を私の首に押し当てた。
「どれだけの人間を殺したと思っている?その中には俺の妻と8歳のガキも含まれていた。どうして俺のガキは死んで、お前には生きる権利があるんだ?」
前方座席の男が振り返り、後部座席で起きていることに気がついた。すぐに私を殺そうとしている男の耳につけたイヤーピースから短い声がした。「よせ」
男は鼻で長い息を吐き、同じ分だけの空気を音を立てて吸い込んだ。「長いホテル暮らしをせいぜい楽しめよ」
男は銃に安全装置をかけ、背広の中にしまった。「くそ」男は言って、車外の死んだ街に目線をやった。そして「死ぬべきだったんだ」と繰り返した。
1時間ほどして、車は街の中の緩い坂道で停まった。運転席の男が外にでて、フロントをまわり、私のいる側のドアを開けた。
「降りろ」
体を滑らせてドアに手をかけた。男は私を無視してゴミの散乱した坂道を見つめていた。
「私には初めから権利なんて無かったわ」
そう告げて、車を降りた。
そのビルは、かつて旧東京が人で溢れていた時代の遺物だった。無人からくる破壊があらゆる場所を侵食し、倒壊の一歩手前にまで追い込んでいた。
付き添われながら建物の正面ゲートにまで来た。ゲートは広く、ガラス張りだったが、全てのガラスは割れ、風が内部にゴミを吹き溜めていた。インフォメーションデスクの背後の壁に「六本木ヒルズ」の看板が傾いてかかっている。
かつては白かった壁や床に、洪水の後のような濡れたことを示す汚れがついていた。人が溶けてLCIとなり、かつての姿を取り戻すことなく乾燥していった痕跡だった。
ショッピングモールはやはり無人で荒れ果てており、テナントの大半を占めていたブティックには、マネキンがいくつも倒れて転がっていた。
奥へ向かって進むわたしたちを、風に乗った紙くずが壁にぶつかりながら追い越していく。案内役は私に対して無関心を装いながら、わき目も振らずに歩いた。
案内役はエレベーターホールで立ち止まると、私がついてきたことを確かめ、右手でボタンを押した。丹精な三角形に明かりがついて、すぐに扉が開いた。
「分かっていると思うが」と案内役は乾いた声で言った。
「これから君を最上階に送る。君はそこで暮らすことになる。エレベーターは自由に呼べるが、これは食料を運ぶために使われる。君自身は最上階から下に降りてはならない。もしも降りてくれば、君は射殺される。正式に降りて来られるのは刑期が終わる20年後だ」
案内役はボタンを人差し指で押さえながら、そう私に告げた。そして余っている方の手で、ベルボーイのようにエレベーターを指し示した。
私は一歩を踏み出し、中に入って振り向いた。案内役はボタンを押し続けている。
栄養不足で肌が荒れ、疲労しきった表情に拍車をかけている。伸びた無精ひげが年齢を覆い隠していた。案内役は唯一、精気の残っている目玉を動かして制服を着た私を頭から下まで、眺めた。
「最上階のボタンを押すんだ」
プレートの52の数字の隣には【最上階、マドラウンジ】の表示があった。そこに手を伸ばすと案内役が言った「少し待て。そのまま待っているんだ」
手を引っ込めると、案内役は押さえていたボタンから手を放し、こちらに背を向けて、引き返していく。扉が閉まり、その背中はすぐに見えなくなった。
私は小さな空間の中に立ち尽くして、言われたとおりに毛の一本も動かさずに待っていた。血が脳に流れ込む音がするほど、鉛のように重い沈黙だった。
程なくして扉が開き、案内役が姿を現した。そして拾い集めてきた服を足元に放り投げた。
「最上階のボタンを押せ」
ボタンに青い光が灯った。扉が音を立てて閉まると、エレベーターは重力に逆らって私を上へと持ち上げた。
私は空へと持ち上げられ、天空にある地獄へと落ちていった。
2:碇シンジ
やっと取り戻した意識を、何度も殴られてまた失いかけた時、生暖かい物が僕の頬に落ちてきた。それは唾で、頬を伝って首へと流れていくまで唾のままだった。
鉄の床は冷たく、殴られた腹はミキサーの熱湯のように熱くかき回されていた。薄汚れたスニーカーが目の前に現れた。僕は反射的に手を差し出し、襲い掛かってくるスニーカーから顔を守った。
スニーカーは僕の手に当たり、人差し指が激しく痛んだ。スニーカーが再び床を踏むと、靴紐が解けて、先の固い部分が甲板に当たって小さな音を立てた。
僕をここまで連れてきた男たちが何か言ったが、まったく聞き取れなかった。薬品が再び僕の意識を襲って意識が薄れた。
目を覚ますと夜だった。乾いた円盤が二つ重なり合うようにして輝いていた。そこからこぼれた粉のような星が瞬いている。一つ咳きをすると、体中が軋んだ。円盤が近づき、一つになって、月に変わった。
転がって仰向けになり月を見上げた。体が揺れている感覚がする。それはゆったりとした波の音に合わせて、永遠に続きそうだった。
体が感覚を取り戻すにつれて、ひどい寒さを感じた。凍えるような寒さで、僕は体を動かして自分の体を抱いた。鉄の床は氷のように冷えていて、寒さはますます悪化した。
床に手を着いて身を起こす。顔を上げると海が広がっていた。海原は獣の腹のようにうねり、まだらな光の縞を作り出している。
立ち上がる同時にひどい眩暈に襲われて甲板の手すりに手をかけた。海上を吹き抜ける風が襟を持ち上げる。
船は小型客船のように思えた。左右に揺れていて、進んでいるのか止まっているのかも分からない。
実用性のない、お飾りのマストがワイパーのように月を横切っている。それで、船が止まっていると分かった。耳を澄ましたが波の音の他は何も聞こえなかった。甲板を横切ったところに船内へ続く階段が見えた。
「綾波」
僕は小さくつぶやいた。「アスカ」それよりは大きい声で言った。「ミサトさん、リツコさん、加持さん、トウジ、ケンスケ、ペンペン!」
ドアが閉じる音がして口を閉じた。音のした方を振り向いたが誰もいなかった。大きな波が僕のすぐしたの船体にぶつかって、しぶきを上げた。
「誰もいないの?」
僕は階段の方へと歩いていった。足がふらつき、少しも歩いている実感がしなかった。
ところどころ塗装がはげた階段が下に伸び、木製のドアがあった。ドアは揺れに合わせてひとりでに開いたり、閉じたりする。
足を踏み外して転がり落ち、頭を扉に打ち付けた。
ひどい匂いが鼻をついた。船室はほとんど空っぽだった。備え付けの木目の出た木の寝台が壁に沿って3つ並び、反対側にはプラスティックの黒いテーブルがあった。床には笠の折れた電気スタンドが転がっていて、中身の入っているゴミ袋がいくつか見えた。
その奥は船倉につながっているようだったが、暗くてわからない。汚れた窓に僕の顔が映っていた。顔色がアイスクリームのように白かった。
恐ろしくなり、甲板へと引き返した。変わらない海原が広がっている。手すりに沿って一周したが、足がおぼつかず、ひどく苦労した。島の影も、鳥の姿も、漂う流木さえも見つけることは出来なかった。視界が揺れているのは波のせいだけではないようだった。足は膝から先の感覚がなかった。首が痛い。その場にしゃがみこみ、大きく息を吸った。両手を広げて、視線をそこに集めた。
「こんなところに」声が震えていた。「20年もいろっていうのかよ」
手で顔を覆い、激しい眩暈に耐えた。
船室と船倉とを隔てている厚いドアを押し開けた。太いパイプが壁に沿ってつながっていて、船体のあちこちへと伸びていた。
隅には真新しいダンボールが積み上げられていた。中身はラベルでだいたい予測がついた。それでも確かめてみると、思ったとおり缶詰と水だった。
ペットボトルを一本抜き取って栓を開け、煽るように飲んだ。滴が口の端から溢れて垂れる。半分ほど空になったところで、眩暈を感じ、船倉を出て、うす暗い船室の狭いベッドに腰を下ろした。
船には僕しかいなかった。他にはたっぷりの食料と、波の音だけだった。
「誰かいないの?いないのかよ!」
僕は叫び、ペットボトルを壁に投げつけ、頭をかきむしった。
「僕のせいじゃない、僕だってあんなことしたくなかったんだ」
耐え難い寒さが再び意識に追いついてきた。鳥肌の立った腕をさすると、二の腕に500円玉の大きさの桃色の斑点がいくつも出来ていた。
それを指でじっくりとさすった。盛り上がった斑点のてっぺんに、針の刺さった凹みの感触がある。
泣きたい気分になり、床に崩れ落ち、身を屈めて不規則な呼吸を続けていた。ペットボトルが鼠のように床を動き回っている。
「僕のせいじゃない。僕のせいじゃない」
波が起こす揺れを利用して仰向けに転がると、低い天井が見えた。色あせたポスターが貼ってあった。女はビキニで手にビール瓶を持ち、こちらに微笑みかけていた。「熱い夏を冷やすビール」と派手なコピーが印刷されている。
ミサトさんのことが思い浮かんだ。民衆扇動、国際倫理法違反、第一級殺人、器物損壊、国連予算横領、そんな罪でミサトさんは4番目に裁判を受けた。なにより僕にとって辛かったのは、彼女の罪状に未成年者略取罪があったことだった。
早く体を侵している薬品が抜けることを願った。抜けた後に地獄がいよいよ真実になることは分かっていた。
3:綾波レイ
光の灯らない街は炭をばら撒いたように凸凹している。ここに来たとき、ビルの幾つかには夜間に灯る自動的照明が生き残っていて、弱々しく瞬いていたけれど、次第に消えていって、遠くのビル群、たぶん池袋のひとつが消えたのを最後に、一つもなくなった。
最上階のバーの壁はガラスで床の上から天井まで続いていた。それも大半が割れてしまっている。
私は割れた窓のすぐ側に椅子を置き、風を浴びながら街を見ている。街は空に押しつぶされたように沈黙して、私を悲しくさせた。
伸びた髪が風に引っ張られる。風は枯れた鉢植えの枝を動かし、大理石の壁を引っ掻く音をさせていた。
こうして垂直な人工の崖の縁に座っていると、時々、街を難儀そうに走っていく車を見つけることが出来た。どの車もマフラーから汽車のように黒い煙を吐き、サンルーフには山のように荷物を載せていた。
街が変化していく様子も感じられた。遠くで屋上の看板が落下する音、何かが折れる音、ごくまれに車のクラクションもした。
それは街がゆっくりと息絶えていく景色だった。
最初にビルの倒壊を目撃したのは、1年目の台風の日で、私はバーカウンターと壁との間に身を潜めて、吹き込んでくる風雨から逃れていた。
雷雨に混じって、雷鳴に負けない轟音がした。カウンターの陰を這い出し、全身を濡らしながら窓際によってみると、稲光のフラッシュの中でビルが崩れていくのが見えた。その音は雷鳴よりも体に響いた。
私はビルが一つ消えた場所をいつまでも見つめた。しばらく時間を置いてから、二つ目のビルが倒壊した。
その翌日はよく晴れた。ビルの輪郭がはっきりと見え、街についた傷を癒すように光が降り注いでいた。その景色は私に一時、飢えと衰弱を忘れさせてくれた。
ヘリが現れたのは夕方で、西の方角からやってきた。ヘリはゆっくりと街の上空を旋回しながら、放送を流していた。
(生き残った人間に告ぐ。第三新東京市に集まれ。食料と水がある。繰り返す。第三新東京市に集まれ。食料と水がある)
ヘリは我鳴り続けながら東の方角へと飛び去っていった。
私には関係のないことだった。
唯一の仕事をするために椅子から立ち上がった。立ちくらみがして椅子に腰をぶつけた。椅子は倒れて半分ほど崖の先に乗り出して止まり、危ういバランスで止まった。それも一瞬で風が吹くと、背もたれの重さで傾き、下へと落ちていった。
私はバーとキッチンを隔てている蝙蝠扉の脇にある扉を開けた。そこは従業員用の支度室で、この場所でもっとも優遇された場所だった。
ポインセチアの鉢植えが一つ、カードテーブルの上においてある。ここに着た時、唯一生きていた植物で、今は元気を取り戻している。
苞葉の赤は瞳に染みるようで、好きになれなかったが、水をやり、風の吹かない日は光に当てている。私はこの植物と食料に特等席を譲り、バーカウンターの陰で眠るようにしている。食料はほぼ無くなっていた。バーには酒が大量に残っていたが、手をつける気にはなれなかった。
目を外にやり、風の強さを考えた。吹き飛ばされないだろうと判断して鉢に手を伸ばして抱えあげた。とてつもなく重く感じられる。
部屋の外に運び出したとき、異変に気がついた。久しぶりに聞く電子音だった。音はエレベーターホールからで、液晶に表示された数字が増えていった。
鉢植えを部屋に戻して待っていると、数字が52になり、扉が開いた。
人が立っていた。一年前にはスーツ姿だったのが、今はよれよれになったジーンズに首回りが擦り切れる直前のTシャツを着ていて、右手にはやはり銃を握っていた。
私は彼と視線を合わせた。彼は1年前よりも痩せこけ、髪が薄くなっていた。一年前は気がつかなかった顔のあばたが不健康そうに赤らんでいる。
彼はしまる扉を足で押さえ「生きてるじゃないか」と言った。「とっくに身を投げたと思っていたのに」
彼はそう言って私をにごった目で見つめ、私がどんな反応を示すかを観察していた。
扉が閉まろうとして、2度ほど足を押したところで、彼は根負けして左手に持っていた鍵でプレートを開き、スイッチを入れた。扉が観念したように開きっぱなしになった。
彼はエレベーターを出て最上階を見渡した。「いい部屋じゃないか」そして私から十分な距離を保って立ち止まる。
「少しは堪えたか?反省する気になっているといいんだが」
「反省?」
「楽しい生活が送れる場所じゃないと思うが、そうでもないか?」
「何とも思わないわ」
「見る限り、そうみたいだな。食料はなくなっているか」
「殆んど残っていない」
「持ってきてやったんだ」
彼は慎重にスツールを起こし、浅く腰を下ろして窓の外を見た。
「泣き叫ぶところが見られると期待していたのに、がっかりだ」
「用が済んだら帰って」
「まだ済んじゃいないよ」
「なら、あなたの仕事をしたらいい」
耳障りな声で彼は笑った。「こうして会話するのも役目のうちだからな」
彼は銃をジーンズの腰に挟んだ。ひどく疲れた様子でバーの後ろの酒棚を観察した。色とりどりの酒瓶の幾つかは落下を免れて今も棚に収まっている。
「酒を飲んでいるのか」
「飲まないわ」
「なら、貰っていっていいか」
「ええ」
男は立ち上がると、私の隣を通り過ぎた。悪臭に変わる手前の異臭がした。彼はバーの裏に回った。そこに私のベッドを発見して立ち止まり、ほんの一瞬だけ私を見た。そして酒瓶に手を伸ばした。琥珀色のカルーアの瓶を手にして、軽く振り、中身の残りを確かめた。
「思うんだが」彼は言った。
「もう少しマシな待遇にしてやってもいい」
私は黙っていた。
「俺はたまにここに来る。その代わりに君はもうちょっとマシな階に移り、それから食事も少し栄養があるものになる。それでどうだろう」
「馬鹿なことを言わないで」
彼はカルーアを握ったまま、その言葉をただの強がりか本心かを見極めようとしていた。
「ガキのクセにタフだ」
彼はそう言うと、カルーアの栓を開け、ひっくり返した。ひざ掛けを集めて作ったベッドに乳白色の液体をぶちまけて、瓶を落とした。
「本当は取り引きなんて必要ないんだぞ。お前は今、絶好の条件を蹴ったんだ」
彼はジンの瓶を取って背の高いバーの椅子に腰掛けた。
「少し待とうか。気が変わるかもしれない」
彼はそう言ってジンに口をつけた。
時が過ぎ、日が傾き始める。西日が差し込んで散らかった床に領地を広げていく。私は無言のまま立ち続け、男は酒を口に運んでいた。
日が私の足元にまでやってくると、男が言った。
「その服はどうした?ここにあったのか?」
「1年前、案内してくれた人がくれたものよ」
「ああ、あいつか。新宿に食料を探しに行く途中、ビルの下敷きになった」
「そう」
「第三新東京市に800人のコミュニティーが出来ている。日本政府の成れの果てがそこにある」
「興味ないわ」
「行ってみたいか?生活らしいものは送れる」
「思わない」
「どうだろうな」男は信じていない様子で答えた。「降りようなんて思うんじゃないぞ。1階で扉が開いた瞬間、ズドンとやられる」
「嘘よ。下にはだれもいない」
「自動監視装置があるかもしれない」彼は卑屈な笑みを浮かべた。
彼は酔っていた。スツールから離れると私のほうへ向かってきた。私は彼の襲撃に備えて体に緊張を走らせた。
テーブルがぶつかり、ガラスの割れる音と、オブジェが倒れる乾いた音がした。
私は男の手を逃れてバーの中を走った。落ちていた灰皿を踏んで足を滑らせた。夢中でつかんだコップを投げつけると、コップは顔をそらせた男の耳にぶつかった。
男は世界からはじき飛ばされるのをかろうじてこらえ、耳に手をやった。手についた血を親指でこすり、その手を素早く腰に持っていった。
弾丸が私をかすめ、背後にあった鳥を模したオブジェを粉々にした。私は身をすくめて男を睨んだ。
私はエレベーターへ大またで歩いていく男を避けて物陰に身を隠した。
エレベーターでパネルを操作する音がした。
「飢え死にしたきゃ、そうするがいいさ!」
扉が閉まり、沈黙がやってきた。物陰から顔を出すと、今では西日が最上階の全体を覆っていた。
私はゆっくりと立ち、頬にかかった伸びた髪を払いのけた。
4:碇シンジ
同じ一日が延々と繰り返される。変化と呼べるのはたまに降る雨と、波の高さだけだった。どんなに晴れた日に目を凝らしても、陸地の影も蜃気楼も見えなかった。
夜は夜光虫が水面に現れた。彼らは船を遠巻きにして漂いながら朝になると消えた。
風が南から吹いた翌日には決まって雨が降った。僕はガラクタを甲板に並べて雨を集めて、体を洗うのに使った。缶詰の数に比べてペットボトルの数は恐ろしく少なかった。
月日の感覚を保っていられたのは3ヶ月が限度だった。3ヶ月を過ぎると感覚が麻痺し、6ヶ月目には完全に失った。
朝日が昇ると最低限の水で顔を洗い、缶詰を開けて中身を口に運ぶ。それが何の料理であるかもわからなくなっている。
それから、思い出した日はポスターの裏に記しをつける。正の字はすでにポスターの半分を埋めようとしていた。
無駄と知りながら甲板に出て、海と空の間に何か見えないかと目を凝らす。時折、流木やゴミが漂っているのを見つけることがあった。
それですら、泳いでいって持ち帰りたくなる激しい衝動に駆られる。船酔いはすっかり克服していたが、泳げないことも克服できている幻想は振り払い、船室を抜けて船倉に入る。
その隅に大きなウィンチがあり、太い鎖が伸びている。そこに座り、床に落ちているガラクタで作った鋸を手に取る。
船を作ることはすぐに断念した。今は錨と船をつなぐ鎖を切ることに努力している。
太い鎖に細い傷をつけることには成功している。缶きりの刃を使いたくなるのを我慢するのには苦労した。
「流されている方がマシだ」
僕はつぶやいて貧弱な鋸を鎖にあてがった。
時計でははかれない時が過ぎ、自分のやっていることが馬鹿馬鹿しく思えてくる。
波音の奥にパタパタと音がした。何の音だろうかと訝っている短い間に、それはヘリの飛行音に変わる。
僕は鋸を捨てて船室を抜け、甲板へ通じる階段を駆け上った。こちらに向かってくるヘリが蚊の姿のように見えた。
「ここです!ここ!ここ!」
甲板の手すりに乗り出して体が精一杯大きく見えるように背伸びをし、両手を振った。そんなことをしなくてもヘリの機首ははっきりとこちらを向いていた。
やがて風で海面を円くさざめき立たせながら降下して停止したヘリの操縦席で、操縦士がこちらをじっと観察しているのを見た。
「甲板に伏せて両手を頭の後ろへまわせ。少しでも動いたら撃つ」
動かしていた両手を止めた。視線を機体に移すと、輪のついた二挺の機銃がこちらを向いている。
言われたとおりの体勢で待った。長い時間が過ぎ、誰かが甲板をよじ登ってきたのが分かった。
「頭を上げなさい。立って良いわ。ゆっくりお願いね」
知らない女がそこに立っていた。場違いな黒いパワースーツを着ていて、色白の、誰にも悪い印象を与えることのない整った顔立ちをしている。彼女は這いつくばった僕を見下ろしながら、両手で握った銃を僕の体に向けていた。
「こちらに背を向けて立つのよ」
「どうしてこんなことをするんだよ」
「怒るなら、勝手に怒りなさい」
女は肩まである髪を風に打たせるままにしながら、冷ややかに言った。そうして僕をお飾りのマストポールまで誘導すると、背中に回した手をポールに回させて素早く手錠をかけた。
マストにくくりつけられた状態で初めて彼女と対面した。ミサトさんとほぼ同年代で、いくらか若いようだった。
「あなたは誰なんですか」
僕の問いを受け流して、女は今も空中で停止しているヘリに合図を送った。ヘリが頭上へとやってきて、機体から網に入ったダンボール箱を下ろし始める。
「ここから出してください」
ヘリの爆音に負けないように声を出した。女は多少、憐憫を込めた目で僕を見た。
「できないわ」
「どうしてですか」
「あなたが刑期を受けた囚人だからよ」
「こんなところに20年もいられるわけがないじゃないですか!」
「私に言っても仕方がないのよ。もうあなたの刑期は確定しているわ。あと19年我慢しなさい」
荷物が切り離され、ヘリが離れると音と風が弱くなった。女は網を回収しに甲板を舳先へ向かって歩き出しだ。
「他の二人は?綾波とアスカは?」
問いかけを無視して女は網を回収し、綱の一端を甲板に引きずりながら戻り、手すりにかけた縄梯子の位置から、下に係留しているだろうボートに向かって網を投げた。
そして僕のところへ近づきながら拳銃を抜いた。
「手錠を外すわ。後ろを向きなさい」
「ここから出して!」
「くずくずしないで」
「嫌だ!僕は−
「はやく!」
肩を押され、僕は背中を向けた。女が手首をつかんで手錠を外し始めた。
「これ以上、一言も喋っていけない」
女は言って鍵穴にキーを差し込んだ。その瞬間、僕の手の中に何かが落ちてきた。僕は無意識にそれを握った。
「私が去ってからね」
手錠を解くと、銃をこちらに向けたまま、縄梯子の方へと後ずさっていった。僕ははっきりと、彼女に撃つつもりがないことを今は見て取ることができた。
ヘリが飛び去って全てが元のとおりになった。
僕はゆっくりと手を開いた。手がべたついている。女は僕の手に折りたたんだ紙片と、角砂糖を握らせていた。手がべとついているのは、体温で角砂糖が溶けたせいだった。
紙切れを開くと、固めの紙に手書きの文字で【あと2年待つこと】と書かれていた。
元の通りに丁寧に畳んだ紙を船室のテーブルに置いて、角砂糖を文鎮代わりに乗せた。そして甲板の食料を船室へと運ぶ。
全てが終わってから、硬いベッドに腰掛けて再び紙切れを開いた。
あと2年まつこと。それ以外のいかなる情報も読み解くことは出来なかった。
角砂糖を口に含んでみた。眩暈がするほど甘かった。 |