4章 変わらないもの
アスカへ
僕たちがまだ、ミサトさんと暮らしていた頃、僕が誰かに手紙を書いていると、君が来て「わたしにも書いてよ」と言った。
「毎日、そばにいるのに?」
その質問に君は「長いのがいい」と答えた。
「年賀状とか、暑中お見舞いとかじゃだめ?」
「そんなのいらない」
「なら、何をかけばいいのさ?」
「あんたが、わたしに伝えたいと思うことなら何だっていいのよ」
今、僕は手紙を書き終えた。十分とは言えないけれど、たった一年で終わってしまった同棲のこと、そこに現れては過ぎて行った少しの喜びと、たくさんの苦悩。何度も変質しかけては結局、元に戻った関係と、突然にやってきた離別と、その後の空白。
君に伝えたいことはなるだけ書いた。
加えて、さよならを。
それでも、僕にはまだ、短すぎる気がする。
…
血豆のように膨らんだ雲が割れて、叩きつけるような雨が落ちてきた。
僕はその時、第三新東京市を貫いて旧東京へ向かう幹線道路にかかる歩道橋の上から、絶え間ない車の流れを見つめていたところだった。
凄まじい雨が景色をあっという間に灰色に変えた。僕もその中に押し込まれて全身が濡れ、息が白く変わった。
僕は髪を伝って流れる水滴を頬に感じながら、自分でもわかる暗い顔を道路へと向け続けた。
足元に流れる鋼鉄の川は真逆に、南北に向かって流れ、激しい騒音を引き起こしている。
この鋼鉄の激流は街を削り取る。日々の生活から出るゴミ、解体された古いビル、ネルフが絶え間なく出す廃棄物を運び去る。
人の生活と心とを引きずり込み、時に人の逃げ道を断ち、あらゆるものを押し流す。
この流れに呑まれたら最後、はるか彼方にまで押し流される。流れに意識はなく、容赦もないから、どこに行き着くかは、流れのきまぐれ次第だ。
うまいこと岸に流れ着くこともあれば、水門の柵に引っかかって絶え間ない流れに圧迫され続けることもある。すくい上げてもらえることはほとんどない。底に汚泥の堆積した海まで流されれば最悪だ。そこでは何の循環も起きず、腐敗だけがゆるやかに進む。
こうなれば人はひとたまりもない。腐敗の焼けるような痛みを感じながら、奇跡的な循環、天地をひっくり返すような地震か、誰かがシャベルを差し入れてかき混ぜてくれるのを待つしかない。シャベルに愛情がこもっている可能性など皆無だ。
僕は足元に置いたカバンにしゃがみ、中から赤いヘッドセットを取り出した。
それはアスカのもので、奇跡的に僕に残された彼女の持ち物だった。
三角錐の緩やかなカーブの縁に描かれた02の文字に雨が当たって跳ね、鬱陶しいほどの水滴が指を伝ってくる。
それを握り締め、雨白に霞んでいる街を見つめる。道路の果てにある高層ビルで、航空障害灯が息づくような赤い瞬きを繰り返していた。
僕たちが、政府によって引き裂かれ、お互いの所在も知らされぬまま、生活を始めて四年がたった。
今では僕は碇シンジではなく、静岡県出身の田中なんとかだった。田中なんとかはこの街の公立高校を卒業し、そしてこの街の大学に通っている。
その間、アスカに会うことはもちろん叶わなかった。最初の二年は、政府に嘆願を繰り返した。エヴァを失った僕たちがいかに無力で、無害な存在であるかを、繰り返し訴えたが、返事すら来なかった。
それから自力で探し始めた。
これだけ膨大にいる人間の中から、何の手がかりもなく、一人の女性を探し出すことなど不可能だと気がつくまで、二年かかった。そもそも生死も分からないし、仮に、ここか旧東京にいたとしても、僕と同じように名前を変えて生活しているだろう。
その時に身に着いた癖が、あてもなく街を歩くことだった。
現実と願望に折り合いをつける時期が来ている事を、僕はずっと前から知っていた。ただ、先延ばしにしてきただけだ。
初秋の雨に、夏の気配はどこにも残っていなかった。雨は刺すように冷たく、体が震えた。
僕はヘッドセットを強く握り締め、なるだけ遠くに行ってしまうように、思い切り鋼鉄の濁流へと投げた。
警報がカンカンと音を立てて、遮断機が僕の行く手をふさいだ。闇と雨の中を電車が轟音を立てて横切っていく。車窓からこぼれた光が足元に光の帯となって広がり、水溜りに僕の足を映した。
濡れそぼった僕を、隣の女が傘の下から哀れっぽく見ていた。
駅から大量の人間が吐き出され、街に散っていく流れを逆に歩いた。すれ違いざまに、彼らの傘が、肩や顔に何度も当たった。
靴をぐじゅぐじゅと鳴らしながら錆びたアパートの階段を上がる。
遠くから電車が通る音が小さく聞こえる。裏の工場の鋼板屋根から、滝のように雨が落ち、窓の奥には帰り支度をする人影が動いていた。
部屋は狭く、暗く、空気がこもっていて、出る前は絶妙のバランスで積みあがっていた教材が崩れて、床に散らばっていた。
その一つ一つを集めていくと、喉が震え、抑えようもなく涙が出た。
作業を中断してタオルで頭を拭き、頭からかぶったまま、畳の上にうずくまった。いくらでも泣いていいのだった。この四畳半のぼろい部屋が、僕に残された唯一の世界なのだから。
僕は猛烈にアスカに会いたかった。加地さんやミサトさんにも会いたかったが、アスカに対する想いとは次元が違っていた。もし仮に彼らと再会したとしても、きっと僕は困惑した微笑をするだけで、抱きしめたいとも、話を聞いて欲しいとも思わないだろう。
ヘッドセットが、何度もタイヤに踏まれているイメージが脳裏をよぎる。事実、そうなっているに違いなかった。僕の四年間の中心にあった存在が、そんな風になっているかと思うとやりきれなかった。それぐらい残酷にしなければ、何一つ断ち切れないことは分かっていたものの、やはり辛かった。
部屋は寒く、体の震えはますます強くなった。歯を打ち合わせながら顔を上げると、窓ガラスに雨が筋になって流れているのが目に入った。
鉛のように重い体を動かして乾いた服に着替え、床に点々と残る水滴を見つめた。体は熱を出していた。
布団は期待したほどやさしくなかった。それでも僕は毛布を頭からかぶり、少しでも小さくなれるように、膝を抱いて目を閉じた。
*
ケンスケが僕の事を「田中」と呼んで、近づいてきた。その手には小型のノートパソコンが握られていた。
彼はそれをテーブルに置き、講習が始まるまでの時間を確かめた。「ちょいと待っていてくれよ」と言い残して、生徒が入ってくる扉を入れ違いに出て行った。
僕は頬杖をつき、誰かが前の講習で残った黒板の文字を一生懸命に消すのを眺めた。
ノートパソコンがぴろぴろと音を立てた。僕はそれを引き寄せて、画面を覗いた。
メールが届いていたが、別に覗き見る気はなく、ウインドウを開いたままのホームページに目を留めた。
「見るなよ」
ケンスケが言って、画面を僕から隠した。
「見てほしくないなら、電源を切っておきなよ」
「お前は言うことがもっともすぎて、つまらないんだよ」
そう言って眉をひそめてから、嘘とも言えなさそうな顔で笑って中指を立てた。
「見ただろ。ゲロっちゃえよ」
「見たよ。ホームページだけ」
「なんだ」
ケンスケは隣に座って、僕に顔を近づけた。
「黙ってろよ」
「うん。……でも知らなかったな。ケンスケにそういう趣味があったなんて」
「ロマンチックに浸りたい時だってあるさ」
「いつから、ああいうの、集めているの?」
「ずっと前だよ」そして声を潜めた。「お前が碇シンジだった頃からさ」
「そうなんだ」
彼は口調を元に戻した。
「なあ、どれが一番、ぐっ、ときた?」
「ぐっと。って?」
「見たんだろ?」
「そんなによく見てないよ」
ちっ、とケンスケが舌打ちした。そして画面をこちらに向けた。
「これとか、ぐっ、とこないか?」
僕はあいまいに笑って、ケンスケが指差した先を見た。
『ロマンチック名言集』なるホームページには、たくさんの名言が並んでいた。ケンスケが指差している文字を読んだ。
愛に出会えば、旅はそこで終わる
ウィリアム・シェークスピア
「ぐっ、ときただろう?」
「うん……。まあ」画面をケンスケのほうへ直した。「ぐっ、ときたよ」
「嘘つけ」ケンスケが僕の肩に腕を回す。「お前は恋人に対しても、そんな無味無臭なのか?」
「彼女のこととは関係ないだろ」
教授があくびをしながら入ってきて、教壇にノートを広げた。
「な、今度、俺の彼女と四人で海に行かないか」
「海?」
「な、いいだろ? 誰もいない晩夏の海、閉じた海の家、揺れる胸、何か起こる夜」
ケンスケはイッヒッヒと気持ち悪く笑った。「来週末だぞ、いいか、彼女にもちゃんと話しておけよ」
「そんな……」
ケンスケはそこで会話を打ち切り、教壇に視線を向け、手元でペンをくるくる回し始めた。
「ねえ」と僕はためらいつつ言った。
「なんだよ」
「泊まり……なのかな?」
ケンスケは答えず、ノートの角に走り書きをして、僕に見せた。
お前は本物のムッツリスケベ!
*
第三新東京駅から、新都線の電車に乗って藤沢駅で降りた。駅は人が多く、夏の最後の気配が、潮を含んだ風に乗って漂っている。
僕は改札を出て、柱の前に立ち、マナやケンスケが来るのを待った。
アスカが、改札に現れたのはその直後だった。
自動改札を抜け、カバンから目を上げたところで、僕に気がつき、動きが止まった。
「アスカ」
「……シンジなの」
後から出てきた男にぶつかられて、小さく声をあげ、前のめりになって、僕の前に立った。
アスカは記憶よりもずっと小柄で、体が細かった。
何時間にも思える一瞬が過ぎた。
「ひさしぶり……だね」
アスカが何か答えようとしたとき、隣に男が立った。その距離で、それが誰なのかすぐに分かった。
アスカの恋人が僕の事を尋ねると、アスカは取り繕うように「昔の友だちよ」と答えた。
「はじめまして」
僕は言った。二人の背後に、マナが改札を出てくるのが見えた。
彼女はすぐに僕に気がついた。
僕が先ほど悟ったことを、アスカも悟ったようだった。微笑を浮かべて「じゃあ、またね」と言った。
恋人と並んで、人ごみにまぎれていく背中を見送った。マナはそんな僕を不思議そうに見ていた。
「誰?」とマナは訊いた。
「昔の、友だち」
僕は答えた。
霧島マナとの出会いは、大学に入ってからだった。
彼女は、彼女曰く「ひどく苦労して」僕と交際するようになったが、僕はその苦労に報いるだけのことを何一つしてやれていなかった。
昼の熱気を残した砂浜は温かく、風は乾いていた。秋に向けて高さを増す空に、夕日を浴びて赤みを帯びた雲が浮いていた。
僕とマナは砂浜の見渡せる位置に並んで座り、波打ち際ではしゃいでいるケンスケと恋人の姿を見つめた。
「さっきの人、誰なのかな」
とマナが訊いた。短く切った髪が喉の皮膚の柔らかい場所にかかっている。
「昔の友だちだよ。久しぶりに会った」
「どれくらいぶりに」
「四年……かな」
「そう」彼女は砂浜に視線を落とし、片手で膝を抱いて、余った手で砂に円を描いた。
「そんなかんじじゃ無かったな」
「そうかな」
「わたし、あなたの事を何も知らないよね」
「話してるよ」
「あなたがそう言うように言われている嘘をね。ケンスケさんも同じ嘘をつくのよ。補欠だった陸上部や、バスに乗り遅れて迷子になった修学旅行のこと。どれも、綿の入った人形が動いているみたいな印象しかないの」
マナの手が円を描く事をやめ、僕の腕をそっとつかんだ。
「本当のことを、話せないの? 話したく、ないの?」
「どっちでもないよ」僕はゆっくりと言った。
「そう」と彼女はつぶやいて手を離し、今度は両手で膝を抱いた。「シンジ君は、心に穴があいてるよね。わたしじゃとても埋められないぐらい大きくて、深い」
ケンスケと恋人が砂浜をのぼってきた。その手には靴を持っている。二人の足跡が水際から乱れも無く続いている。水際の足跡はすでに波にさらわれていた。
その夜は全員、同じ部屋に泊まった。僕は三人が眠るまで待ってから、布団を抜け出した。
月が金色の粉になって海面に散らばり、波の動きにあわせて輝く海辺を、誰かが忘れていったビニールシートのところまで行き、そこに腰を下ろした。
アスカは僕が何千回も繰り返した想像をはるかに超えて美しくなっていた。通った鼻筋、少し大きめの口、色のうすい赤みを帯びた髪。大好きなワンピースの上に薄いショールを羽織っていた。
あの頃は目に付いた勝気なものが、表情と態度からすっかり抜けていたのが、想像と最も異なっていた。
会いたいと思い続けていた人が、突然、恋人と共に突然に現れて、一気に去って行った。風に痛烈なビンタを食らったようなものだ。我を取り戻して振り返っても、手の届かないはるか先まで行ってしまっている。
夜の散歩を楽しむカップルが何組も僕の目の前を通り過ぎて行った。
それに目を取られていたので、マナがすぐそばに来るまで気がつかなかった。
「座ってもいい?」
僕が移動して作ったスペースに、彼女は腰を下ろした。
「歩きたいなら、言ってくれればよかったのに」
「起こしちゃ悪いと思ったから」
「悪いことなんて無いよ」
「少し寒いね。風があったら、もっと寒かった」
「うん」
沈黙。僕は神経を静めるために抱いた膝の上に顔を乗せた。彼女は僕が会話に乗ってこないのを見て、また話し始めた。
「単位は大丈夫? 危ないんでしょ? 一緒に卒業できないのは嫌だからね」
「大丈夫だよ」
「わたしは来年はかなり時間に余裕が出るから、やりたい事をしようと思う。料理教室とか、旅行とか、卒業旅行に備えてバイトもしないと。従兄弟のやっているすし屋でもいいけど、知り合いだったりすると、お互いに返って気を使うから悩んでる。結婚式場の配膳のバイトはどうだろう? 将来の事を考えると厨房とかでもいいかも。盛り付けを手伝うだけでも、何か得るものはあると思うし、まかないが出れば食費も浮くでしょ。そういうところって結構、余った料理を安く持たせてくれるところも多いから、あなたに差し入れもできるかな。って。たまには部屋に呼んでくれたら、何か作るよ」
「ありがとう。でも僕のために時間やお金を使う必要は無いよ」
マナがすっと息を吸い込むのがわかった。存在から発せられる気配が、急に冷たくなったのが分かった。
そして言った。「見て」
「こっちを見て」
僕は見た。
「わたしの後ろの、遠くをみないで」彼女はうつろに響く声で言った。
「街を歩き回って、何を探しているの?」
アイスの包み紙が風で転がってきた。それがまた風に吹かれ、地上三十センチに舞い上がり、来た方向へ引き戻されて行った。
僕たちはそれを眺め、そして白波が浜に寄せる水際の縁取りを見た。そして、遠くに去った包み紙が海に着水したのが合図だったように、マナが背後の民宿の方を見たが、その前に一瞬、僕の顔を見つめた。
その目には、不安と希望の両方が表れているようだった。僕はこれまで、そのどちらにも答えらしいものを、彼女に与えていなかった。
僕はなんと答えたのか、覚えていない。
翌日、藤沢駅でケンスケたちと別れ、僕とマナは二人で新都線の電車に乗った。
電車が目的地に着き、僕が先に降りても、彼女は何も言わず、ただ、蒼白な顔にふさわしい冷たい目で膝の上のバッグを見ていた。
扉が閉まり、電車が動き出しても、マナは二度と僕を見なかった。
*
アパートのたった一つ生き残った電灯の下に、ケンスケが立っていた。
僕が先に階段を上り、扉を開けて先に中へ通し、鍵をかけると、彼はこちらを振り返り、低い声で言った。「あの子に何をしたんだよ?」
僕は真鍮の皿に鍵を置いて、冷蔵庫を覗き込みながら「何を、って?」と言った。
「彼女、昨日、俺のところに来て、ひどく泣いたんだぞ」
先日の小旅行の事を含めて、思い当たる節はいくらでもあった。マナに対して引け目を感じていないことなどひとつも無かった。だから、僕はそう言うしかなかった。
「やっぱり」
彼は差し出されたジュース缶を無視した。うつむき加減になり、中指でメガネを押さえて言った。「お前ってひどいやつだよな」
「自分でも……そう思うよ」
「ものすごくいい子じゃないか。お前にどれだけ惚れてるのか、おしえてやっただろ」
そして顔をあげ、暗いままのキッチンをぐるっと見渡した。
「惣流はもう見つからないよ。どこか遠く、ドイツにいるかもしれない」
僕は缶を冷蔵庫の上に置き、キッチンと部屋を隔てている引き戸を開け、闇が凝縮されている部屋へと入った。
「見かけたんだ」
ケンスケが僕を見た。メガネの奥の目は見えなかった。
「本当かよ。どこで?」
「この前、藤沢に行った時」
「それで、何を話したんだ?」
「何も。恋人と一緒だった。その人に僕の事を古い友達と紹介した。それだけ」
「驚いたな。連絡先とか、交換したのか?」
僕は首を振り、部屋の明りをつけた。ケンスケは静かだが、あいかわらず低い調子で言った。
「あいつのことは忘れろよ。連絡を取り合ったってお互いに何の得にもならないんだぜ」
「わかってる」
「探したりしないって、俺と約束してくれよ」
「どうして」
「お前が心配だからだろ。いいかい。連絡を取ったって何の得にもならないぞ」
「アスカに伝えたいことがあるんだ。どうしても伝えないといけないことが」
ケンスケはメガネの下に指を入れて目を掻いた。そしてため息をつき、僕の前に来た。
彼の肩が流れるように動いた。まったくの予測のつかない不意打ちで、顎に強烈な衝撃が走り、その拍子に唇を噛んでしまい、口に血が広がった。膝から力が抜けるのを、壁にすがってこらえた。
彼はつとめて表情を変えないで、拳骨をさすり、眉をしかめ、ここまで全力で走ってきたように肩で息をした。
僕は体をまっすぐに起こした、痺れている唇を血が伝って口のわきから畳みの上に落ちた。僕は血を飲んだ。
「彼女が僕を殴ってくれって、頼んだの?」
「いや。俺に碇を殴る権利はないよ。だけど、霧島にはあるよな」
僕のパンチのほうが、はるかにきれいに入った。
鼻骨のつぶれる音がした。
ケンスケはよろめき、右手で鼻を押さえて野犬のようにうめいた。
「ちくしょう」
彼は流れる血を袖で受け止めた。
「お前みたいな奴と二度と口をききたくない。少なくとも、霧島には謝っておけよ」
彼は荒々しく玄関を開いて出て行った。
僕は洗面所へ行き、血を吐き出して、噛んでしまった唇をそっと指で触れた。痛みが喉の後ろまで伝わっていった。
蛇口を開き、顔を洗って自分の顔を見つめた。
「友情のある監視役っていうのは、無理があるんじゃないかな」
僕は呟き、また血を吐いた。
|