3章 左眼
秘密の部屋は、海へ続く捨てられた道の半ばにあった。
手入れを忘れられて久しいイチョウの樹が陽光を遮って深々と道の上に覆いかぶさり、穴だらけのアスファルトや、捨てられた車の上に、黒々とした木陰を落としている。
こういう誰もいない道を、何も持たずに歩くのが好きだった。
この近辺はエヴァと使徒の戦闘によく使われた場所で、今もその痕跡を色濃く止めている。ビルの瓦礫は今では鳥の憩いの場になっている。
わたしは崩れずに残っていたビルに入った。入り口で目が慣れるまで待ち、靴のかかとを鳴らして階段を最上階まで登った。
そこにはビルの所有者が住んでいた部屋があり、窓ガラスはミサイルの爆圧に耐えて割れずに残っていた。
わたしはシンジが学校に行っている間、よくここに来て、自分だけの時間を過ごしている。ここを発見した時は家具も無く、もぬけの空だったが、階下からテーブルや椅子を運んで、小さなリラックススペースを作った。
水の供給は止められていたが、電気が生き残っているのが何ともありがたかった。
シンジが高校を卒業したら、ここに移ることも考えている。それまでに、もう少し部屋らしくしておくつもりだ。
窓を開けて空気を入れ替え、ベランダに出た。折り重なる山並みの低くなった場所に、第三新東京市の姿がよく見える。その町はこの国の新しい中枢として、爆発的に巨大化し始めている。
それをしばらく眺めてから中に戻り、頬杖をついて椅子にかけた。住人が残した唯一のもの、壁にかかっていた、小さな壜にドライフラワーを挿したオブジェを見つめた。
わたしはその枯れた花びらに指を伸ばした。指は花弁に触れるか触れないかのところで空振りした。
やりきれない思いが胸を噛んだ。
ときどき、左眼の視力が低下することがある。視界がぼやけ、ひどいときには何も見えなくなる。
左眼がぼんやりとした白い光しか捉えられなくなるとき、わたしは、ほとんど何も考えられないほどの哀しみの沼に追いやられる。
シンジには絶対に知られたくなかった。
だから、その時が来た場合に備えて練習をしている。片目が見えない苦労はよく知っている。物の遠近がつかめず、ちょっとした動作に不都合が出る。その不都合を知っているだけに、シンジはすぐに気がつくだろう。
眼圧が倍になったような感覚に、両眼を閉じた。まぶたの上から左眼に触れ、発作がおさまってくれるのを祈った。
左眼だけをゆっくり開くと、白い世界が広がっていた。
白い光以外の何も見えない。
右眼に交代すると、枯れた花と小さな青い壜がはっきりと見える。
ゆっくりとテーブルに突っ伏し、腕に顔をうずめて亀のように耐えた。
神さまがわたしの眼を欲しがるなら、午後のゴルフに、ボールの代わりに右目のほうをさし出してもいい。
それがド下手なスイングで、とんでもない方向に飛んで、砂に埋まろうが、藻の生えた池に落ちてロストしようが、ナイスショットと言って上げられる。
泣くのだけはなんとかこらえた。赤い眼をしていたら、シンジはすぐに気がついて理由を知ろうとするだろう。そういうことにはとにかく鋭い。
ばかみたいに部屋をうろうろ歩き回って、右目だけで動くことに慣れようとした。それからごく自然に物をつかむ練習。どちらもなかなか上手くいかなかった。
夕日が射して部屋を赤く染めた。練習を切り上げて窓に鍵をかける前にベランダに出た。
憂色の深まる空の下で、第三新東京市は夕べの安息の中に沈みつつあり、逆の方向から夜が滅びた旧東京の廃墟の上に立ち上り始めている。
恐る恐る開いた左眼は何も変わっていなかった。
夜に突き刺さるような町の明かりも、その逆にある、町に覆いかぶさる闇も無かった。左眼はそれらを無視して、真夏の太陽のような白い光を見ていた。
その光の渦の中に、中空を飛ぶ鳥の列だけが黒い点となって見えた。
やがて飛鳥の影も暴力的な光の中に溶けて消え、それから、左眼は二度と物の形を捉えることはなくなった。
*
その晩は嵐だった。窓ガラスを叩きつける雨音で目が覚めた。ベッドを抜け出して居間へ行くと、ソファベッドからはみ出したシンジの足が見えた。誰かがドアをノックしている。
慎重にドアを開けると、レインコートを着た人が立っていた。その背後で雨が暴れまわっている。
「あなたが、明日香さんですね」
「そうだけど」
「わたしはANOの者です」
「聞いたこと無いけど、こんな時間に何の用?」
後ろで名前を呼ぶ声がした。シンジが起きて警戒しながら近寄った。
「どうしたの? 明日香」
男が雨水の滴っているフードを外して顔を見せた。見たことのない顔だった。シンジが明かりをつけて、わたしと位置を変わった。
「明日の朝、政府の人間がここに来ます。あなたたちは逮捕されます」
男はわたしたちが逮捕される理由を明確には教えてくれず、自分は信頼できる。今はただ逃げろと繰り返した。
シンジが困惑気味にこちらを見た。わたしは肩をすくめて首を傾けた。
男の顔は内側から漏れる光に照らされて、半分が影になっていた。突然、携帯電話でどこかに連絡し始めた。
「話してください」シンジが携帯を受け取って耳に押し当てた。相手の声がかすかにもれ聞こえたが、誰かまでは判別できない。
シンジは携帯を男に返し、わたしにも覚えのある旧ネルフの職員の名前を告げて「言うとおりにしたほうがいいみたい」と付け加えた。
「そうしてください」男は言って、レインコートの中から財布を取り出し、紙幣をつかみ出してシンジに預けた。
「まずは名古屋に。連絡先は……です」
「待って」わたしはメモを取って戻り、番号を書き付けた。
男が嵐の中に消えて、わたしたちはドアに鍵をかけて部屋に戻った。
「どうするの?」とわたしは訊いた。
「よく分からないけど、行こう」
「この嵐の中を?」
「風が強くて、雨が降っているだけだよ」
「世間ではそれを嵐って呼んでいるのよ」
「明日香は荷物をまとめて」
もともと、生活に不自由するぐらいだから、荷物をまとめるのも簡単だった。
「この時間に電車なんて動いてないわよ。きっと明日だって動かない」
「だけど、ここにはいないほうがいい」
部屋を出たとたんに強い風が頬を打った。傘はあっという間に強風にあおられて骨だけになってしまった。
「どこかで雨宿りしよう」
「いいところがあるわ」
わたしが差し出した手をシンジが握る。
そして雨と風に打たれながら歩き出した。
秘密基地にたどり着き、明かりをつけると生きた心地がした。全身が濡れて、バッグの中身も同じ状態になっていた。
わたしたちは下着だけになり、濡れた服を絞って椅子に掛けた。さすがに寒さが身に染みる。拾ってきて一度も使っていないポットで湯を沸かそうとしたシンジに、水は出ないことを教えてやる。
「雨水はまずいよね」
「絶対にいやよ」
そう言いながら、そんな事を言ってられなくなる日も近いんじゃないかと思った。
ベランダに向かってソファに並んで座る。光の届くベランダの向こうは巨大な闇に包まれていた。タイルにいくつも水溜りが出来て、水が跳ねている。
雨音以外に何の音もせず、世界はこの部屋を残して、すべて切り捨てたようだった。
「何のために、僕たちは使徒と戦ったんだろう」タオルを頭からかぶったシンジがそっと言った。
「人類を救うためでしょ?」
「その人類は、僕たちに何一つ報いてくれないじゃないか。僕にも、アスカにも……綾波にだって」
「あんたは、あいかわらず、ぐじぐじとそんなこと言ってんのね」
「捕まってしまった方が、よかったのかも」
「ちょっと、あんたが行くっていうから、わたしはついてきたのよ」
「僕じゃなかったら、行かなかったの?」
「根本的に、一緒に住んだりしないわ」
「そうなの?」
「当たり前でしょ」
「加地さんでも?」
「加地さんなら考える」
シンジはタオルの下からわたしを見た。左目を閉じている。空っぽになってしまった眼孔には、義眼が入っているはずだが、シンジは決してそれをわたしに見せようとはしなかった。
白い光しか見えなくなった左眼の眼圧が強くなったような気がした。左眼のせいで、シンジの顔がよく見えなかった。わたしは顔を少し傾けた。
「アスカ!」
突然、シンジがわたしを押し倒し、ソファが音を立てて動いた。
上になったシンジの頭からタオルが滑り落ちて、穴の開くほどこちらを見つめる顔が見えた。
「明日香、まさか……」
シンジがゆっくりと左眼の前で手を動かす。わたしは芝居をすることを止めて、次第に変わっていくシンジの表情を見据えた。
水滴が胸に落ちた。続いて頬に。外の雨ほどきつくはなかった。
巣の中のように温かかい手が左頬に添えられる。
体とソファの間から腕を抜いて、彼の左頬を同じように包んでやる。シンジは、わたしには想像できない何らかの理由で、それを外した。
「隠しててごめんね、シンジ」
「ひどいよ。どうしてなんだよ」
「悪かったわ」
「どうして……」
「ごめん」
「明日香じゃない! どうして! なんでなんだよ!」
いいのよ。わたしはシンジの頬を撫でた。「大したことじゃないわ。嫌なものを見なくて済むようになっただけ」
「やっと明日香のためになることができたと思ってた……」
「そう謙遜しなくたっていいのに」
シンジの体が降りてきて、柔らかい髪がわたしの顎を押しあげた。ドライフラワーがこちらを向いているのが見えた。
相手の体温で、自分が生きている事を確認しながら、嵐の夜を過ごした。
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