章間 スワロウテイル

 嵐が去ると来る日も来る日も晴天が続いた。深い青空のところどころに斑らをなす雲の群れが、稠密に青葉を敷き詰めた山肌の上に覆いかぶさっている。

そちらへと伸びている旧東海道線のレールは、風雨と潮風のために赤く錆びて、終点に着いても交わらない赤い糸のように見えた。

雪をなくした富士を右手に見ながら、二人はひたすらに西を目指す。

「明日香、大丈夫?」碇シンジが気づかうと、惣流アスカは疲労した笑顔で答えた。
「もうすぐ、旧静岡駅だよ」
「人は住んでいるんだっけ?」
「誰もいないよ」
「よかった」

二人は背後に気配を感じて振り返った。

影が後方から迫ってくる。その中に入ると体が浮き上がるような感覚がした。手を眉庇にしてシンジが空を仰ぎ見る。アスカは少し俯いて帽子のつばを押さえた。

雲の影が追い越していくと、二人はお互いに見えぬ眼を閉じたまま、視線を合わせてかすかに笑った。

  静岡駅に着くより前に夕暮れが来て、二人は線路わきの林で夜を過ごすことにした。
柔らかい草の上に重ねたシートにアスカが越を下ろすと、シンジがその膝に毛布を広げた。自分の提供した眼が見えなくなったと知ってから、重病人のように扱われるのが何とも複雑だったが、気が済むようにさせることにした。

彼女はこのまま、自分たちが西の果てのエデンにたどり着けるとは思っていなかったし、逃亡生活も七日間を経て、捜索範囲がそろそろ追いついてくる頃だと感じていた。

シンジは二人の寝床を整えると、粗朶を集めて小さな火を焚いた。

「静岡に着いたら、少し休もう。家か倉庫かに隠れていれば見つからないよ」
「出た途端に捕まりそうだけどね」
「諦めるまで隠れていればいいよ」
「少し疲れてきた」
「そんなこと言うなよ。捕まったらどうなるか分からないよ」
「それでもね……」

アスカはそこで言葉を切った。火に固定されていたシンジの視線がアスカの方へ動く。木にもたれていたアスカは美しい横顔を見せていたが、見られている事を知って、長いまつ毛を伏せていた左眼をゆっくり開いた。

「これさえあれば、他は求めないわ」

すでに語るべきことは語りつくし、無理に口を開く必要はなかった。同じ木にもたれて、夜が更けて行くのを待った。

うとうとしかけた頃、突然、巨大なディーゼル音を聞いた。

線路に這い出したシンジを、強い光の筋が照らし出した。

すぐに駆け戻るとアスカの手を引いて、線路とは逆の方向、林の奥へと駆け出す。
頭上まで張り出した梢が方向感覚を失わせるのと戦いながら、二人は駆けた。栄養不足のせいですぐに息が上がり、足に草が絡みつく。羊歯に覆われた斜面に遮られて、左に曲がってさらに駆け、今度は古い段々畑の名残の石積みの壁にぶつかった。

シンジは様子を見に林の中に消えた。

アスカはクヌギが寄せ合っている合間にうずくまって、見えぬ眼で空を見た。相変わらず、白い色しか見えなかった。

すぐ傍でコオロギが鳴いている。アスカはじっと待ち続けた。

突然に左眼から涙が溢れ出した。それで、シンジが捕まった事を悟った。

木陰を出て、かすかに感じる気配に向けて歩くと、二組四人の男が闇から生じるように現れた。

「泣いているな」とそのうちの一人が言った。
「とうぜん泣くわ」

アスカは背を向け、線路の方へと歩いた。もうどんな言葉も浮かんでこなかった。

パトカーのガラス窓にうっすらと横顔が反射している。
街灯の下を通り過ぎるたびに消えたり、映ったりするのを通り越して、光芒を放つ月を見た。