二章 雪

 僕が初号機の内部に閉じ込められてから、まる二日が経った。
ここに至って、僕は救助の望みを完全に捨てた。もともと、期待などすべきではなかった。外の世界は人間がいるかどうかも怪しいのだから。
目を覚ました時、小指の先ほどの省電力灯が、残量1%以下の内部電源にすがって生き延びていた。10時間後にはそれも消えた。
それからの二日間は文字通りの地獄だった。完全な闇と静寂は、思い出したくないものを、幾つも、絶えず思い出させた。僕はただ、救助を待って震えるより仕方が無かった。
空腹と恐怖に耐え切れなくなり、行動を開始した。
悲鳴に近い叫び声を上げながら、プラグの壁を何度も蹴ると、突然、どかんと音がして、ハッチが勢い良く開いた。
僕がそこで目にしたのは、大きなふわふわした白い物体が音も無く降っている光景だった。
「雪だ…」
僕はつぶやいて空を見上げた。雲は厚く、低く垂れ込めて、空一面を覆っている。おそらく、地軸がまた狂ってしまったのだろう。
プラグスーツの手袋の上に、雪がひとひら落ちて溶けた。それを握り締めてもう一度、言った。
「これが……雪」
一面に広がる雪原に人跡は皆無だった。踏み出した足はくるぶしまで埋まり、両手でバランスをとりながら、いつまでも歩き続けた。
雪の向こうに赤い塊を見つける。僕は駆けていき、それが弐号機に間違いないことを確認した。弐号機は初号機以上に破壊しつくされて、ほとんど原型を留めていなかった。
ちぎれた首が足だったと思われる場所に転がっている。眼窩から飛び出した目玉にも雪は積もり、白いとんがり帽子をかぶせたようになっていた。
僕は苦労した末に、エントリープラグを見つけた。それは半ば肉の中に埋まった状態で、あばら骨と内蔵との間に突き出していた。
巨大な手が、プラグをつかんでいる。偶然なのか、抜こうとして停止したのかは分からなかった。
「アスカ! いるの? 返事をしてよ!」
金属の壁を叩くと、中から声がした。
「シンジ……? あんたなの?」
「アスカ、生きてる?」
「死んでたら…返事なんてしないわよ」
「良かった。本当に良かった」
「それは……こっちの。セリフよ。外は……どうなっているの?」
「雪が降ってる。誰もいない」
「雪が…? 外は寒い?」
「すごく寒い」
「外に出ないと…。真っ暗で何も見えないの。すごく怖い」
「ハッチを探すから待ってて」
ハッチは、プラグをつかんでいるエヴァの手の下にあった。それが分かった時、絶望的な気持ちになった。
僕一人の力ではどうしようもない。アスカは完全に閉じ込められてしまっている。
「どう? 見つかった?」とアスカが訊いた。
「弐号機の残骸が邪魔しているんだ。これから、取り除くよ」
「わかった。早くしてね」
邪魔している弐号機の手を力いっぱい押してみるが、びくともしない。試す前から分かっていたが、いざ、実際に証明されると、頭がくらくらした。
「少し時間がかかりそうなんだ」
「そうなの。わかった待つわ」
「怖くない?」
「声が聞こえるから、大丈夫」
僕はエヴァの手を動かそうと、知恵と体力を振り絞り、時々、アスカを安心させるために声をかけた。
周囲が次第に暗さを増し、降り続く雪を闇に溶かしていった。
「続きは明日するよ」
僕はプラグの中のアスカに呼びかけた。
「わかった。シンジはどこで寝る気?」
「プラグと装甲版の間に寝られそうなスペースがある」
「凍死してしまうわよ。初号機のプラグに帰って」
「スーツの保温性が高いから平気だよ」
プラグが屋根の役割を果たしてくれる場所にもぐりこみ、両手で膝を抱いた。スーツの中の汗が冷えて凍えるように寒い。
「シンジ、どこ?」
「ここだよ」
拳でプラグを叩くと、内部でアスカが移動してくる気配がした。
「ここ?」
「うん」
夜は急速に広がり、ほぼ完全な闇となった。僕は想像以上の寒さに震えた。
「シンジ、寒くない?」
「大丈夫」
「わたし、ここから出られそう?」
「明日には出られるよ」
「うん……。おなか空いたわね」
「僕も」
「外に食べられるような物はないの?」
「一面、雪だらけなんだ」
「少しとおくに行ってみたら?街とかあるかもしれない」
「見える限りでは無さそう。仮に食料があっても、今のままじゃアスカに渡せない」
「わたしのことはいいわ。わたしをここから出す前に、シンジが餓死か凍死してしまう」
「平気だよ」
僕は膝の間に顔をうずめて、凍えながら眠りに落ちた。

「シンジ…いる?」
小さな弱々しい声に目を覚ました。物音一つせず、静まり返っている。雪は止んで、青黒い空に月が輝き、雪原の色を銀に変えていた。
「シンジ、いるでしょ?」
「いるよ……。泣いてる?」
重く湿った沈黙があった。
「ここは暗くて怖いの」
「明日には助ける」
「ありがとう。でもそんな気休めはいらない。わたしはここから出られずに死ぬの」
「そんなこと無いよ」
「すぐそこにあんたがいるのに、顔が見えない」
「そんな弱気、アスカらしくないよ」
「わたしに、死ぬまで強がったままでいろって言うの?」
「僕は、勝気でわがままなアスカが好きだよ」
「こんな状況になる前に聞きたかった。あんたは綾波レイが好きなんでしょ。人形みたいに、無理やりキスしても、抵抗しないようなのが」
「綾波はそんな性格じゃないし、無理やりキスなんてしたことない」
「わたしとあいつの、どっちが先だった?」
「何が」
「キスよ。わたしとのを忘れたなんて言ったら、わたし今ここで死ぬから」
「綾波とそんなことをしたことないよ」
「嘘だったら承知しないわよ」
「本当だって」
「どうしても先を越されたくなかったのよ」
アスカが体を動かす気配がした。
「近くにいるわよね?」
「すぐ下に」
「こんなに近くにいるのに、あんたの顔を見ずに死ぬのね」
「死なないよ」
「もしも出られたら、抱きしめてあげる」
「うん」

僕の衰弱がアスカよりいくらか遅かったのは、雪を口にできたからだっただろう。日ごとにアスカの声は弱くなり、反応も鈍っていった。
ハッチを閉ざしているエヴァの手をどかす方法はまったく見つからなかった。僕も衰弱し、少しの力も出なくなっていた。
「アスカ、起きてる?」
プラグを叩いて声をかけた。何の反応も返って来ず、重い鉛が胸に広がり始めたところで、彼女の声がした。
「ん……」
「もう少し頑張って」
「もう、だめみたい……ごめんね。シンジ」
「そんなこと言うな」
「だって…。もう…寝てるのか、起きてるのかもわからない」
それっきり、アスカが何も言わなくなった。僕は血が出るまでプラグを叩き、雪に膝を突いた。
彼女の最後の声が聞こえた。
「ずっと…」
僕は弐号機のプラグを離れ、初号機のある場所まで戻り、中に入った。
既に幾度と無く試していたが、今ならできそうな気がした。操縦桿を握り締めて動かした。
機体がぐらぐらとゆれ、プラグ内にかすかな明かりが灯った。
僕は初号機で弐号機のところまで這い進み、腕を伸ばして、プラグをつかんでいる弐号機の手を払った。
そして外へ飛び出し、逆さになったハッチをこじ開けた。
暗闇に光が射し、扇のように開いていく。そこにアスカの顔が照らし出された。


「アスカ」
ゆっくりと瞳を開いたアスカは、荒れた唇を動かしたが、声は出なかった。
彼女の左目は潰れていて、膿みが黄色い涙となって頬で固まっている。腕の傷もひどくこちらもやはり膿んでいた。
衰弱した体を引き寄せ、外に引っ張り出した。雪が再び降り始め、赤いプラグスーツに触れては溶けた。溶かしておいた水を乾いた口にそっと注ぎ、それから彼女を背負った。
僕も衰弱していて、雪原を歩くのは並大抵の苦労ではなかった。
誰もいない町を病院まで運び、溶けてしまった人の後が染みとなって残っているベッドに寝かせた。
病院は非常電源がまだ生きており、どうにか応急処置を施すことが出来た。僕は椅子に座って、窓の外に降る雪が町をスケッチのように見せるのを眺めていた。
眠っているアスカの乱れた髪を指で梳いてやり、しがみつくように残っていたヘッドセットの片方を外した。
少し眼を離すと、左目からは黄色い涙が流れる。僕はそれを拭い続けた。

彼女の言葉の中には痛みがあった。金色の髪がほの暗い朝の光の中で、濡れたように光っている。
「わたしは……」
明日香はそこで言葉を切り、僕の胸に頬をつけてうつむいた。
僕は頬に彼女の体温を感じながら、ようやく姿を現し始めた太陽と、腕の中で震える彼女の決意の気配とを、感じていた。
明日香が何か言ったが、言葉になっていなかった。彼女がこれほど激しく泣くのを見たことがなかった。僕はこれまで、明日香が、静かに、にじみ出るような泣き方をしているところしか見た事がない。
細い金髪に包まれている小さな頭に唇を寄せてから、顔を両手で挟んでこっちを向かせた。
彼女は両目を閉じていた。傷つき、光を失った左目からも涙があふれていた。水をたっぷり吸ったスポンジを挟んでいるようだった。
「もう見ないで……。お願い」
明日香が懇願するように言った。
もしかすると、また気がおかしくなるんじゃないか。と思った。それでも一向にかまわなかった。その結果が再生でも、破滅でも、唯一、残ったものを失うよりはマシだ。
「どこかにいって来て」彼女はいった。「こんな顔をこれ以上、見て欲しくない。これからいい子になって、馬鹿な騒ぎなんて起さずにあなたと一緒にいたいの。手と顔に取り返しのつかない傷がついてしまったけど、今は、わがままをきいて、わたしが落ち着いた頃に戻ってきて」
彼女をベッドに寝かせ、その場を離れた。
誰一人いない街の、暗く沈んだ道を歩いて、蛍光灯が力なく点滅しているコンビニまで行った。中は商品が散乱していた。ここにもやはり、汚れた水が乾燥したような染みがいくつもあった。
水と食料を拾って引き返す途中、一匹の犬が道端に倒れたゴミ箱に顔を突っ込んでいるのにでくわした。
「何が欲しいの?」
僕は言って、ゴミ箱の中を覗いた。底にガムの包み紙がへばりついてるのと、正体不明の黒い塊が、底と胴体の継ぎ目にある他には何もなかった。
「何もないじゃないか」
こちらを見上げて待っている犬に言った。ビスケットの封を開いて、いくつか投げてやると、犬はそれをくわえて道路を横切り、ビルの間の空間へと入っていった。
それを見送って僕は言った「君の方が、まだいい顔をしてるね」
昼過ぎ病院にもどってみると、アスカは眠っていた。髪が呼吸にあわせて頬を掃くようにして動いていた。僕が近づいたのに気がついて、目を開いた。
「気がついたね。寝ていていいよ」
「町はどうだった?」
「誰もいなかった」
「そう。本当は戻ってくると思ってなかった」
明日香は憔悴しきった様子で顔を傾けて、青と赤が複雑に入り混じったように見える空を見つめた。そのまなじりに光が浮いた。
翌日は雨が降った。
暗い空から存在を圧するような猛烈な雨が降った。僕はその中に立って大声で何かを叫びたかった。
その日は終日、豪雨が降り続いた。明日香の左目から、黄色い涙が出ていた。
隠しているが、使徒に貫かれた目がどれほど痛んでいるのか、僕にはわかっていた。
雨が小降りになってから、倉庫から消毒液と清潔なガーゼを運んだ。明日香は起きていて、僕が集めてきた新しい服に着替えていた。
左目の周りを消毒液に浸したガーゼで拭いている間、彼女は残った目でじっと僕の顔を見つめていた。
「どうしてわたしを捨てていかないの?」
「そんなことできないよ」
「わたしは何とも思わないわ。よそで、最悪の女だって言ってもいいのよ」
「そういう風に思ったときもあったけどね」
「今は違うの?」
「違うよ」
「わたしも同じよ」
明日香は僕の手からガーゼを奪い取ると、それを足元に脱ぎ捨てたプラグスーツの上に落とした。
「嫌だと言われるまで、あなたと一緒にいる。そうしていいのよね?」
「うん」
お互いの顔がゆっくりと近づいた。