一章 牛乳
その月の終わり、ミサトが仙台の支部へ出張することになった。
出発当日の朝、目覚ましよりもうるさい音で目を覚ました。慌しく廊下を走り回る音とミサトとシンジの声がする。
「まずい間に合わない。シンジ君、わたしの服を適当にバッグに詰め込んでおいて。一週間分だからね」
シンジが困惑した声で答える。
「ミサトさん。あの……。下着はどうしたら……」
「七枚よ!」
「そういうことじゃなくて」
「黒を中心にあなたの好みで選んで!」
「はあ……。わかりました」
廊下を走る音。蛇口から水の流れる音、スーツケースを無理やり閉じる音。
わたしはあくびをして、部屋から顔を出した。
「うるさいわね。こっちは寝ているのよ」
「こっちは急いでるの!」
バッグを受け取ったミサトが、わたしの前を通り過ぎて、玄関に向かいながら言った。
「二人ともいい子にしてるのよ。行ってきます!」
そういい残して飛び出していった。わたしとシンジは開けっ放しのドアがゆっくりと戻ってきて、閉まるまで呆然としていた。
「だから昨日、用意しておくようにいったのに」シンジがこちらを向いた。
「ミサトに事前の準備をさせるなんて無理よ」言いながらあくびを噛み殺す「絶対に何か忘れ物をしてるわよ」
「大丈夫だよ。最低でも報告書さえもって行けばいいらしいんだ。無い物はあっちで買えばいいんだから」
「それって、昨日テーブルの上にあった、ネルフのマークが入ってる白いやつ?」
「そう」
「ふーん」
「アスカ。朝ごはんはどうする?」
「食べるわよもちろん」
「実は荷造りの手伝いで、ぜんぜん用意できてないんだ」
「なら、できたら起こしにきて」
「トーストとか、簡単なのでいい?」
「まあいいわ」
「じゃあ、できたら呼ぶよ」
「よろしく」
わたしは扉を閉める前に言った。
「ところで、あんたが今、手に持っている封筒は何?」
「電話が通じないんだよ」
サクサク音を立ててトーストを齧りながらシンジが言った。わたしとシンジは制服姿で、テーブルに向かい合っている。
「もう空の上なんでしょうね」
「こまったなあ、どうしよう」
「ファックスかメールかで送れば?」
「だめだよ。極秘資料扱いになってる」
「そんなもんを、あの女に預ける時点でまちがってんのよ。月に一回は極秘資料を無くす人間なのに」
「とにかく、連絡を待つしかないよね」
「そうね」
「一応、学校にも持っていったほうがいいかな」
「そうね」
オレンジジュースのカートンを持ち上げたが空っぽだった。それを丁寧に押しつぶしてゴミ箱に投げた。
「アスカ、僕の牛乳ならあるよ」
「牛乳は嫌い」
「おいしいのに」
「牛乳なんて、ガキの飲むものよ。お腹がゴロゴロする」
「朝にオレンジジュースよりは、体にいいと思う。少しだけでも飲んでみたら?」
わたしは食べかけのトーストを皿に置いて身を乗り出した。
「あんたはいつから牛乳大使になったの? あんただけ飲んでればいいの。ガキのあんたにお似合いなんだから」
わたしは腕時計を確かめて、椅子から立ちあがった。
「そろそろ行くわよ」
登校してすぐに教師を通じて連絡があり、下校後に報告書をネルフに持ってくるように言われた。
二人で校門を出てネルフへ続く二車線の道路の歩道を歩いた。車どおりは少なく、ネルフのマークを入れたトラックが専用車線を百キロはあろうかというスピードで飛ばしていった。
工場の前を過ぎて、新国道一号線へ分岐する交差点にかかる歩道橋の上に差し掛かると、乾燥した風が吹いてきた。
昨日までの暑さが和らいで、快適な一日だった。遠くでひぐらしが弱々しく鳴いている。
再び、ネルフを目指して進んだ。シンジはいつものむっつりした顔で後ろをついてくる。第22番ゲートが見えてきたとき、わたしは後ろを見ずに言った。
「……というわけで、これからあんたは、わたしより先にお風呂にはいったらダメ」
「なんでだよ。いちいち、アスカを待たなくちゃいけないのかよ」
「そうよ。なんでわたしが、あんたの残り湯に浸からなくちゃいけないのよ。変な菌がうつったらどうしてくれるの」
「ひとを変な病気みたいに言うな」
「わたしの残り湯に入れるってことで、満足しなさい」
「意味が分からないよ」
「とにかく、そういう風に決めたの」
「なんでいきなり、そんなことを言い出したの」
わたしは振り返った。
「いいから! 言うとおり……」
「なんだよ。急に黙って」
「……」
「アスカ?」
「もういい」
わたしはシンジに背を向けて歩き出した。
おかしい。
どうかんがえてもおかしい。
そんなはずが……。
「アスカ、どうしたの?」
わたしは立ち止まり、疑念を確かめるために、もう一度、振り返った。シンジも足を止めて、不審の目でわたしを見つめる。
やっぱりだ。
心配していた事態が始まってしまった。とわたしは確信した。
成長期がはじまりやがった。
呆然と歩き出したわたしに、シンジが声をかけたが、もう聞いていなかった。
赤木リツコのオフィスは相変わらず雑然としていて、煙草くさかった。中央のテーブルとパソコンを載せたデスクに、吸殻の積みあがった灰皿が放置されている。
リツコはなかなかやってこず、長いこと待たされた。シンジは宝の隠し場所でも読み取ろうとするかのように、壁にかかった世界地図を熱心に眺めている。
わたしはバレないように、その背中を見つめた。
今まで気がつかなかったのがうかつと言うより他に無かった。シンジの身長は明らかに成長しており、その証拠に、学生服のズボンの裾が少し短くなっている。
わたしの身長は百六十一センチで、先日、計測したところでは、わたしはそれよりも半センチだけ伸びていた。シンジは一センチ伸びたが、それでもまだ差は数センチほどあるはずだった。
わたしの成長期は日本に来るより前に始まり、すでに終盤に差し掛かっている。一方、シンジは始まったばかりだとすれば、あっという間に抜かれる可能性が高い。
彼の父親のゲンドウは、見た目の印象に比べて、実際はずっと大きく、百七十八センチある。息子が同じだけ伸びたとすると、十六センチ近い差になってしまう。
シンジに見下ろされる日が近いかもしれない。そう思うと、とても耐えられそうにない。
「リツコさん遅いなあ」
シンジが地図から目を放して、白衣のかけてあるデスクのところまで歩いていった。そして、絶妙のバランスで積みあがっている書類の山に手を伸ばした。
途端に書類が崩れて床の上に散らばった。
「なにやってんのよ、もう」
わたしは席を立って書類を拾い集めるのを手伝った。
「ちゃんと元のとおりに戻してよ」
書類の束を差し出した。
「ああ、ありがとう。アスカ」
そう言ったシンジと目が合った。彼の目はすでにわたしの高さと同じ位置にあった。これまで下に見えていた瞳に真正面から見つめられた瞬間、胸がおそろしくすっぱい物を飲まされたみたいに疼いた。
「し、お、おと……」
「塩音?」
「しっかり、大人しくしてなさい!」
「なんだそれ?」
その時、ドアが開いてリツコが入ってきた。向かい合っているわたし達を見ると、面白がっている時の癖の、目を細めたうつむき加減になって「仲がいいわね」と言った。
「このバカが、わたしの気を引こうとして書類の山をわざと崩したのよ!」
「わざとじゃないだろ!」
「いいわ。どちらでも。以後、わたしの部屋では、そういうことは禁止でお願いね」
リツコが回転椅子を引いて腰を下ろし、足を組んでから煙草を口に咥えた。ライターを手で覆いながら煙草に近づけ、火を着ける寸前に顔をあげた。
「忘れ物は持ってきてくれた?」
「はい」とシンジが答えて、バッグから封筒を取り出す。
「結構よ。ありがとう」
煙草に火をつけて深く吸い込んだ。中に含まれている毒がすけて見えそうな濃い煙を吐きながら「そこらへんに置いておいて」と言った。
「今夜、直送便が仙台に飛ぶ予定よ。経費はあの人の給与から払ってもらうわ」
「またですか。僕達の食費にも影響が……」
「あら、葛城三佐の給与には、あなた達二人分の養育費が上乗せされているはず。成長期なんだから、しっかり栄養を摂ってもらわないと。ちゃんと食べさせてもらっているわよね?」
リツコは例の他人事のような口調で言った。
「冷蔵庫には何かしらありますけど……」
「それなら安心だわ」
リツコは灰を灰皿に落とし、品定めするように、並んで立っているわたし達を見た。
「二人とも、成長期の真っ只中という感じね。食費ばかりでなく、他にも色々とお金がかかるようになるわ。葛城三佐に、お酒ばっかり買わないように言っておいて」
12番ゲートへ向かう長い平面エスカレーターの上で、今夜の食事について話した。
「二人ぶんなら、そんなにたくさんは買わなくてもいいね。あ、ペンペンの分も買っておかないと。アスカは何か食べたいものある?」
「ない」
「じゃあ、カレーでいい?」
「いいわよ」
「残るぐらい多めに作っておいてもいいかな。どうせ食べちゃうだろうけど」
わたしはシンジにむけて体を反転させた。
「あんたは最近、食べすぎなのよ! すこしはダイエットしなさい!」
シンジは煙に巻かれたような顔をした「そう?」
「そうよ。何でもかんでもバクバク食べて、太っちゃえばいいのよ」
「どっちだよ。さっきから言うことが変だよ」
シンジの頭にカバンを叩きつけて、ゲートに向けて早足で歩いた。
立ち寄ったスーパーで食材を買い込んだ。
シンジがカートを押し、二人で食材を放り込んでいく。
「あ、そうだ牛乳を――
「ダメ! 今日から牛乳は禁止!」
カートを右折させようとしたところに、両手でバツを作って立ちふさがる。シンジが抗議した。
「どうして」
「牛乳は悪魔の飲み物よ」
「そんなわけないだろ」
「じゃあ怨霊の飲み物! 地獄の水! 鬼の精液よ!」
「アスカ……。」
「これからは牛乳っていう言葉も禁止!」
わかったよ。とシンジはしぶしぶ答えた「じゃあ、ヨーグルトを…」
「それもダメ! 乳製品は禁止!」
どうにかカートを直進させ、乳製品売り場から遠ざけた。
「牛乳なんかよりもいいものがあるわ」
「なに?」
「これよ」
わたしは商品棚から取り上げたビール缶を、シンジの目の前に突きつけた。
「お酒じゃないか」
「ミサトがいない今夜こそチャンスよ。アイツったら、昨日しっかり全部飲んでいっちゃったんだから」
「ダメだよ」
わたしの手を払いのけながらシンジが言った。
「かたいこと言わないの!」
ビール缶をカートに放り込んだ。
「あとは……。デザートのケーキね」
「クリームは乳製品だけど」
「じゃあ、シンジは禁止」
「えっ!」
「あんたははレジに並んでなさい。わたしは自分のを探してくる」
「ずるい」
夕食を食べ終え、わたし一人でケーキを食べた。シンジに皿を片付けさせてから、自分で冷蔵庫からビール缶を取り出し、シンジと自分の前に置いた。
「いよいよ。真打ちの登場ね」
わたしは缶を取り上げて、ラベルを調べた。
「……。なにこれ『こどもエビチュ』って」
「アスカがケーキを買いに行ってる間に取り替えておいた」
「あんた余計なことを!」
頭を押さえつけてやると、シンジが言った。「ダメだって。まだ未成年なんだから」
「しょうがないわ。今日は練習のつもりで我慢する」
缶が炭酸の抜ける小気味よい音を立てた。味は苦くもなんとも無く、むしろ甘かった。
「しょせん子供の飲み物だわ」
わたしは言って、さらに飲んだ。
二十分後、わたしはぐだぐだに酔っていた。
「アルコール分1%もないのに……」シンジが困惑してわたしを見、そしてくすくす笑い出した。
「何がおかしいのよ」
「アスカは下戸なんだよ。安心した」
「なんで?」
「別に」
シンジが空の缶を洗って分別ゴミ箱に投げ込んだ。そして足元からペンペンの餌入れを拾い上げて、冷蔵庫を覗き込む。
「言いなさい!」
「いろいろと。だよ」
わたしは、プルタブも起こしていないシンジの缶を奪い取り、全て飲み干してから投げつけた。缶はシンジの背中に当たってポコンと音を立て、床に落ちた。
ペンペンがキッチンの入り口に現れ、のろのろと歩いてきて、落ちた缶をくちばしでつついた。
「まったく……」
缶を拾い上げるシンジをじっと見つめた。昼の、リツコの部屋で感じた息苦しさが、あっという間に蘇ってきた。
頭を振ってそれを追い払い、トイレに入った。用を済ませて手を洗う時、鏡に映る自分を見た。頬が赤くなっている。
それをまじまじと眺め、率直な感想を自分に下した。
「なかなか、可愛いわ」
キッチンに戻ると、シンジが皿を洗っていた。わたしは皿を拭く役割を買って出て、隣に立った。
肩の位置がほぼ横並びになっている。腕の動きにあわせて上下する肩に、なぜか緊張してしまい、拭くだけの作業が、時計を分解するぐらい難しかった。
まな板を洗いはじめたシンジの肘が腹のあたりにぶつかった。
「あ…」
思わず声が出た。すると、シンジが驚いてわたしを見た。
「痛かった?」
「ううん、平気よ」
「変な声をだすから、びっくりした」
「気のせい」
「アスカ、何かあったの?」
「何も無いわよ。まったくなんにも無いわよ」
「本当に?」シンジは手を拭きながら言った。わたしを気にしてる。その瞳がそう告げていた。
胸が凄まじい勢いで焼ける感触がした。
「終わったなら、あっちでテレビでも見てなさい」
テレビに集中しだした後姿を、テーブルに頬杖をついて観察した。テレビの声は異次元よりも遠いところから聞こえてくるようだった。
「アスカ」シンジが頭を動かして、顔をこちらに向けた。
「ん?」
「また変な声……」
我に返って言った。 「なによ?」
「最近、足が痛い」
「リツコに診てもらったら?」
「そうしようかな……」膝を折ったり伸ばしたりするのを見ていると、頭がぼんやりしてきた。
「もう寝る」
部屋の明かりを灯すのも面倒だった。窓を開けると、月が美しく光って夜空に光芒を作っていた。暑くも冷たくも無い乾いた風が、カーテンと髪を揺らした。
着替えるために服を脱ぎ、しばらく悩んだ末にブラは外した。雑誌によれば、美容のためにはよくない事だったが、そんな気分にはなれなかった。拘束されている感触が嫌いだし、近頃は、ごっそり買い替えることを検討しなければならないぐらい、きつくなっている。
シンジが起こしてくれたときには、朝になっていた。
朝食を運ぶシンジが、昨夜よりも背が高くなっているような気がした。このまま成長を続けて、見下ろされた場合のことを想像した。
昨日ほど嫌じゃなかった。
でもやっぱり嫌だ。
昼休みに図書館に行った。人気がほとんどなく、勉強熱心な生徒がテーブルと参考書にかじりついて食後の有意義な時間を過ごしていた。
わたしは書棚の並ぶ通路を歩いていって、いくつかの本を取り出し、仕切りのある机に並べた。目を閉じて、手を伸ばし、指先に触れた本を開いた。
翌日の朝、シンジがますます高くなっているような気がした。それは不安から来る誇張された錯覚に過ぎなかったが、何とか阻止せねばと思った。
スーパーで食材を買い込んだ。明日にはミサトが帰って来る予定になっていた。
「待って」わたしは言って、図書館で借りてきた『オックスフォード・栄養学辞典』を開く。
「味噌汁のダシにニボシはダメ。卵もダメ。あと、ビタミンDが豊富なのもダメ。お肉は鳥のささ身だけOK。水は軟水のみよ」
「僕に何を作れって言うんだよ」
飽きれたようにシンジが言って、ニボシだしの味噌を戻した。
「こんにゃくは?」
「待って」
「また調べるの? 栄養士にでもなる気?」
「ちがうわよ」
「何がしたいのか、見当もつかないよ」
「こんにゃくは大丈夫」
「じゃあ、それにする」
「あと、こどもエビチュね」
その夜、夢を見た。夢の中でシンジは百八十センチ近くになっていた。いつか、六番目の使徒と戦った時の記憶を再体験していて、シンジはわたし用のプラグスーツを着ようとして、ぜんぜん入らない。こんな小さいのは着られない。と不満を言った。
「子供用みたいなサイズだ」
スーツの肩をつかんで広げている所を見ると、わたしのスーツは確かにどうしようもなく小さく見える。
「アスカも別に小さい方じゃないのに」
「あんたがデカくなりすぎなのよ」
「アスカが嫌だって思うから、大きくなったんじゃないか」
「わたしのせいにしないでよ」
「実はまだ伸びてるんだ」
「ちょっと! それ以上は困るわよ。届かなくなるでしょ!」
夢の中のシンジがぽかんとした表情になった。
「何が?」
わたしは夢の中で真っ赤に赤面し、あわてて取り消そうとして体を動かしたらしく、目覚ましが落ちて頭を直撃する痛みで目を覚ました。
のろのろとベッドの上で起き上がり、髪に手を差し入れて、夢の反省をしながら、抜かれる覚悟を決めた。
春のある日の出来事だ。 |