EVACUATE EVANGELION 1

日の光が急速に衰えていく頃、最初の水滴が厚い雲から落ちて、ダミー都市のビルの窓ガラスに銃弾が貫通したような跡を残した。雨はアスファルトに斑点を描き、それに飽きてしまうと、あとは猛烈な勢いで降り始めた。
台風が紀伊半島をかすめたのに合わせて、宵の空を覆いつくしていた雨雲の動きが加速して、引き込まれるように流れていく。
やがて日が落ちて、明かりを放つのはぼんやりと輝く街灯だけになった。誰もいない道路にできた水溜りが、強くなる風雨に煽られて人知れず波打っている。
道路に亀裂が走り、左右に開くと扁平な二本の柱が地中から飛び出した。次の瞬間にはカタパルトが持ち上がり、弐号機が地上に現れた。
拘束具が外されると、弐号機は雨の中をゆっくりと歩き出した。
途中、街の外れでアンビリカブルケーブルを背中に装着し、再び南へ向けて歩き、次は山の起伏が激しくなる手前の中継地点でケーブルを取り替えた。
その様子を暗視スコープの目が見つめていた。その映像は司令室に送られ、巨大なメインモニターに緑色の線で描き出されている。
12分後、弐号機は雨に打たれながら、険峻な箱根山中を手探りで這うようにして進み、大笹山へ至る最後の登攀を終えたところだった。
そこで弐号機は昼間に運ばれた二本の筒、米軍が開発した高性能ハープーンミサイルを両脇に抱えあげた。
「弐号機、ハープーンをピックアップ。目標地点に向かいます」
青葉シゲルが言った。南の海上では雷光が迸っていた。そのたびに増幅された光が、静まり返った司令室を真っ白に染める。
予定通り、そこで司令部との交信が全て遮断され、弐号機は単独行動に移った。
険しい山を越えていく弐号機の姿を、司令室にいる全員が食い入るように見つめている。お喋りの葛城ミサトでさえも言葉を忘れたようにモニターを凝視していた。
弐号機はハープーンミサイルを抱えたまま、新しい山頂にむかって体を持ち上げた。その拍子に足を滑らせてハープーンを谷底へ落としかける。
あっ。と伊吹マヤが小さな声を上げた以外、他の誰一人として声を出さずに弐号機が体で筒を取り落とすのを阻止するのを見守った。
「アスカ、頑張って」マヤが小さくつぶやいた。
山頂を越えていく弐号機の先に、目的地の大笹山のシルエットが見えた。
やがて弐号機は滑る斜面に苦戦しながら目的地の一歩手前までたどり着く。
「弐号機、山頂に到達」
青葉シゲルが今は緊張をみなぎらせた声で報告した。
「使徒は真鶴半島の南500メートルで停滞中」と日向マコトが続ける。
メインモニターの映像が別の画面に変わった。やはり暗視モニターの映像だった。荒れ狂う海が見え、その中に住民の避難した真鶴半島が黒い角のようにぼんやりと見えた。その先に正八面体の巨大な浮遊物が浮いている。それが3日前に突然、姿を現した5番目の使徒だった。
「モニターを弐号機に戻せ」
碇ゲンドウが高い位置から短く言った。「了解」と青葉シゲルが答えるとモニターは弐号機の姿に戻った。
弐号機はゆっくりと大笹山の反対側の斜面を下りていく。目的の中腹までやってくると、慎重にハープーンを斜面に立てかけた。そして背中に負っていた簡易発射台を広げ、斜面に置き、足で杭を踏んでしっかりと固定する。
「発射台の固定完了。フェイズ・ツーへ移行」シゲルが乾いた声で言った。
「使徒に動きは?」と葛城ミサトが訊いた。
「動きなし」とマコト。
「12秒後に雷雲が弐号機の上空を通過します。気圧890ヘクトパスカル」マヤが震えた声で呟いた。弐号機が使徒の攻撃射程圏内に身をさらしていることへの恐怖を、はっきりと感じさせる声だった。
「雷が起こる」ミサトが傍らにいた赤木リツコに言った。「使徒から丸見えになるわ」
「大丈夫、あの使徒は熱源探知だけで、受光感覚器官は持っていないのよ。エヴァの代謝熱は雨が冷やしている。あちらには感知できない」リツコは静かに言ったが、拳を握り締めているのをミサトは見て取った。
弐号機は滑らないようにハープーンミサイルを抱え上げ、発射台を手で探った。急造の暗視装置の性能はお粗末なもので、弐号機パイロットは、ほとんど視界がない状態で作業をしている。
どうにか一本目を発射台に設置して二本目に取り掛かった。雨が急激に強くなり、モニターの弐号機の輪郭がぼんやりとした線になる。
「ぐずぐずしないで」ミサトがもどかしそうにモニターに語りかけた。
弐号機はミサイルのバランスを取りながら発射台に立てかけた。ロックさせようとしてミサイルが傾き、一本目にぶつかって止まった。
「早くして、お願い」マヤは組んだ手のひらに額を押し付ける。
弐号機がミサイルの位置を修正した時だった。頭上の雨雲が閃光を放ち、空間の切れ目のような線を吐き出した。それは糸くずのような軌跡を残して弐号機の肩の拘束具にあたり、派手な火花を撒き散らした。弐号機の体が大きくのけぞる。
「落雷が弐号機に――
「機体温度が――
「無線を!すぐに撤退させて!」
「使徒に熱源発生!」
「気づかれた。ああ、畜生」
司令室に声が奔流のように溢れ出した。ミサトが回線を開いたばかりのマイクを引ったくって叫んだ。
「アスカ!すぐに撤退!気がつかれたわ」
弐号機のパイロットからの応答はなかった。気持ちの悪くなるような沈黙が流れた。
「アスカ!聞こえている!?」
「無線機器がイカレたのかも」シゲルが手元のキーボードを叩きながら言った。
「…こんなの…どうってこと」
アスカの声がした。一同は一瞬、救われた気持ちになったが、マコトの一言が一同を地獄に叩き落した。
「使徒が弐号機を補足しました。撃ってきます」
「アスカ!早く山の裏に回って」
弐号機がミサイルから手を放し、よろけるように一歩を踏み出した。
「あと3秒。ダメだ。間に合わない」マコトが言った。
使徒の放った光線は暗視装置には強すぎた。モニターが白く反転し、何も見えなくなった。
再びモニターに黒と緑で描き出された世界が戻ってきた。全員が言葉を失った。
弐号機の頭部が跡形もなく吹き飛び、首の切断面から噴水のように血柱が迸っている。伸ばしていた手がだらりと下がった。
血のブリザードを吹き上げながら、弐号機の体は静かに斜しいで、据え付けたミサイルに肩から倒れ掛かった。弐号機は死に掛けた虫のように両手を動かした。ミサイルを支えに体勢を直そうとする。
再びモニターがホワイトアウトした。

「手の出しようが無い。使徒の射程圏内に完全に取り残されているわ」
赤木リツコが灰皿にタバコを押し付けた。すでに吸殻が山になっている。
「最悪の結果じゃない」ミサトは両手で顔を覆ってつぶやいた。「救出しないと」
「無理なのよ」とリツコが答えた。机を叩こうとして拳を振り上げ、ゆっくりと下ろして天板に手を置いた。その隣に一枚の写真が投げ出されていた。頭部を失い、胸部に埋め込んだコアを半ば露出させた弐号機が、猟奇殺人に遭った死体のように山の斜面にうつぶしている。
「この嵐じゃヘリは使えない、使えても撃墜されるわ」
「陸路がある」
「何度もいっているでしょ!」リツコが怒鳴った。
「外は嵐の上に、険しい山の中なのよ、徒歩で行っても2日はかかる」
「じゃあ、見捨てておけっていうの?この作戦はあなたの立案でしょうが!」ミサトが怒鳴り返すと、リツコは厳しく睨み付けた。
「あたしだけのせいにするつもり?あのタイミングで雷が弐号機に直撃するなんて、どうやって予測したらいいのかしら?許可を出したのはあなたよ。あなたにも責任があるのよ」
リツコは怒りに満ちた声でゆっくりと言った。
「だから、初号機と零号機を出動させるしかないと言ってるんじゃない!」
「日本語が分かってる?使徒の攻撃はエヴァのATフィールドじゃ防げない。二次被害を出すだけになる」
二人は加持リョウジが仲裁に入るまで、つかみ合いをはじめる直前の状態で睨み合っていた。
「ここは司令の出番なんじゃないですか?」
加持リョウジが言うと、冬月コウゾウが回転椅子を動かして隣を見た。「どうだ?碇?」
「救出は不要だ。弐号機パイロットはまだ生きている。そうだったな?」
はい。と部屋の隅に立っていた。マヤが答えてテーブルにおいた書類は人の手を伝って、奥のゲンドウまで運ばれていった。
「弐号機は91%の機能が停止しました。それでも生命維持装置は動作していますし、生体反応もあります。けれど、パイロットは昏睡状態か、言葉を出せないほどの重症を負っているものと思われます」
ゲンドウは手元に到着した書類を持ち上げることもしなかった。「ならいい。なんの問題がある?」
「LCIは3日もすれば汚濁して酸素を運べなくなります。2日と半日で酸素不足による脳障害が残ります」ミサトが答えた。
「なぜ使徒はとどめを刺さない?簡単なはずだ」冬月が制服の襟カラーを外しながら訊いた。リツコがタバコに火をつけた。司令部が全員と、数名のゲストが会議室に詰めていたが、タバコを吸うのはリツコと加持だけだった。
「私たちは弐号機とパイロットを人質に取られたのよ」リツコが煙を吐き出しながら言った。
「弐号機の救出も重大だが、それ以上に使徒への対処を考えねばな」冬月は立ち上がり、ゲンドウの目の前の書類を取り上げて目を落とし、途中で手を止めた。
「使徒の知能は我々の予測よりも発達していると考える必要がある」
「いけ好かない奴。最低だわ」ミサトが吐き棄てて髪留めのゴムをいじった。
「論点が散っているぜ」と加持が言うとミサトが髪留めを投げつけた。加持はそれを簡単にキャッチしてテーブルの上に置いた。
「残念だけれど弐号機は戦闘能力を失っている。残ったエヴァで危険を冒して救出するより、使徒を片付けた方がいい」
「人でなし」ミサトが言った。
「弐号機の回収よりも、使徒の対処を優先させろ。分かったか、葛城三佐?」
ゲンドウの出した結論にミサトは肩を震わせながら答えた。「了解しました」
解散が告げられると、ミサトは真っ先に立ち、一度も振り返らずに出て行った。

 待機を解除された碇シンジと綾波レイの二人は着替えを済ませて、居住区へとつながる廊下を歩いていた。台風で地上の天気は荒れていたが、地下のここではまったく実感を持つことはできなかった。
食堂は厨房と配膳カウンターには格子が下りていたが、数名の職員が冷凍食品を黙々と口に運んでいた。全員が徹夜を続けている証拠の、悲壮な疲労を漂わせていた。シンジはレイに自分が食事を運んでくると伝えて手を差し出した。
「綾波のカードを貸して」
レイは制服のポケットからカードを取り出して手のひらの上に置いた。
「なにが良い?」
「何でも良いわ。碇君が決めて」
「おにぎりでいい?」
「ええ」
「飲み物は?」
「何でも良いわ」
シンジは自分のカードを自動販売機に通してボタンを押した。冷凍ピラフが取り出し口に転がり落ちる。それから、レイのカードを手に取り、顔写真に視線を落とした。
背後から手が伸びて、シンジよりも先にカードを通す。
「それだけじゃ、背が伸びないぞ」
リョウジが笑いながら言った。「何でもおごってやるから食えよ」
「僕たち3人の食事は無料ですよ」
「おごってやることに意味があるのさ。筑前煮なんてどうだ?意外と合うぞ。俺たちネルフの奴隷が食べるにしては上出来の味さ」
「おにぎりを」
「変わった組み合わせだ」
「綾波のぶんですよ」
シンジは電子レンジに冷凍食品を放り込んだ。出来上がりを待つ間、ちらりとレイを見た。猫背気味に椅子に座って、前を見つめている。
「アスカはどうなるんですか?」シンジは何となく聞きづらかったことを口に出した。
「そのことだ。アスカには少し我慢してもらうことになった」
「見捨てるんですか?アスカを」
「それは人聞きが悪いな。手が出せないんだ」
リョウジは言って、ピラフの箱をレンジに入れた。職員はすでに去って、食堂には3人だけになっていた。
席に着き、3人は細々と食事を口に運んだ。
「助ける方法はあるんですよね?」ずいぶんと経ってからシンジが聞いた。
「りっちゃん達が考えてくれている」
「加持さんは考えないんですか?」
口につけかけたコーヒーを置いて、リョウジは揺れている水面に目をやった。「考えているさ。あの使徒は途方も無い射程を持っている。厄介な問題だよ」
レイがおにぎりの空き箱を丁寧に折りたたんで、立ち上がった。ゴミ箱に入れたのと同時にミサトが入ってきた。
「ここにいたのね」
ミサトはリョウジの方をまったく見ずに席に着いた。
「アスカはかならず救出するから、心配しなくてもいいのよ」
「俺を無視するなよ。葛城」
「あなたとはもう口をきかないことにした」
「きいてるじゃないか」
「じゃあ、今から」
「ふくれるなよ。シンジ君よりも幼く見えるぞ」
ミサトはきっとリョウジを睨んでから顔を背けた。
「もしもあなたがアスカと同じ立場になったら、私はあなたと同じ提案をしてあげる」
「別にアスカを助ける気がないって言っているんじゃない」
「同じことよ」
シンジが気まずそうな顔をしているのに気がついて、二人は口を閉じた。レイは黙って誰も手をつけていない筑前煮を見ている。
「待てば待つほど事態は悪化するわ」
何か飲みますか。と訊いたシンジの気遣いを断り、ミサトは背もたれに体を預けて天井を見上げた。
「台風は明日にはここにやってくる。使徒と戦うには最悪のコンディションよ。このままじゃ、勝てるわけがない」
シンジの視線に気がついて慌てて付け足した。「でも、なんとかしないとね」
さてと、リョウジは言ってカップを流しまで運んで中身を捨て、新しいのに注いで戻ってくると、ミサトの前に置き、そして口の端の髭を掻いた。
「何とかしなきゃいけない。というのは葛城と同じ意見だよ。おやすみ。ゆっくり眠ってくれ。またいつ起こされるかわからないから」
リョウジが去ると、ミサトはふてくされたような表情で、カップから上る湯気を見ていた。
「明日は、学校を休んでもらうわね。私から連絡しておくわ」
「いいんですよ。僕がしておきます」
うんうんと頷いてミサトは立ち上がった。
「ありがとう、シンジ君。でも私にだって電話ぐらいできるわ」
「そういう意味じゃ」
ミサトは優しく微笑んだ。「休んでちょうだい。宿直室を使うのは初めてじゃないわよね」そういい残すと、カップを両手で持って、食堂を出て行った。
シンジとレイはしばらくその場に残り、主に学校の宿題に関して、ぽつぽつと会話を交わした。初老の職員がやってきて、食堂を閉めるから出て行ってくれと告げた。
二人は長い通路を歩いた。レイはシンジの後ろを歩き、シンジが歩みを緩めても隣には来なかった。二人の部屋は隣同士で確保されていた。ほぼ同時にカードで扉を開けた。シンジが首を捻ってレイを見た。レイはそれを察知して部屋の中の闇を見据えたまま、動きを止めた。
「綾波」
「なに?」
「綾波はどうして、アレに乗るの?」
長い沈黙が落ちた。扉のカードチェッカーのランプがオレンジ色に点滅している。動いているものはそれだけだった。
「あなたはどうして乗っているの?」レイが問い返した。
「みんなが乗れって言うし、僕にしか乗れないから。みんなが僕に期待をしてるんだ。だから…」
「そう」レイは短く答えた。「乗りたくなければ、乗らなければいい。誰も止めない。初号機には私が乗る」
「綾波が?やめたほうが良いよ」シンジは言った。
「なぜ?」レイがゆっくりと顔をあげた。
「試乗テストで大怪我をしたんだろ」
レイの薄い唇がきゅっと引き締まった。
「碇君が自分しか動かせないっていう理由で乗っているのなら、何とかして私が乗れるようにするわ」
「あ…僕は…
「おやすみなさい」
扉が閉まった。
枕の上に重ねた腕に頭を乗せて、シンジは天井を見つめていた。イヤフォンから、もう何の興味も引かなくなった曲が流れている。
(怪我をして欲しくないんだ)なぜ、その言葉をすぐに思いつけなかったのか、シンジは考えていた。それでレイはなんと答えただろう?
顔を傾けてレイのいる部屋を見た。安物の壁紙を張った壁に、なぜかネルフマークが額縁に入って飾られている。シンジは毒々しい赤色をしたマークをしばらく見つめてから、背中を向けた。
プレイヤーの電池が切れて曲が突然止まり、単調な耳鳴りだけが残った。それはプラグ内で聞く、気をいらだたせる警笛の音に似ていた。
目を閉じていると、聴覚が過敏になっていき、遠くで誰かが通路を歩いていく足音が聞こえる。
「アスカは、今ごろ…」
小さく独り言を呟いた。使徒の攻撃範囲内の山の中で、大破した弐号機のプラグ内に一人でいることを考えると、彼女がひどく哀れに思えた。
恐ろしく無口なレイがクラスで気味悪がられ、ついに誰にも話しかけられなくなり、本人は孤立を屁とも思っておらず超然としている事を思った。洞木ヒカリがレイに語りかけている。
「あいつらったら、陰口しかいえないのよ。綾波さんも何か言い返したら良いのに」
「アドバイスありがとう。わたし、帰るわ」
意識が冴えて、眠れそうに無かった。何度も寝返りをうち、気を静めようとした。
突然、レイのいる部屋から水の流れる音が響いた。そして数秒後に蛇口が捻られるキュットいう高い音がした。
わずか数グラムの力で鳴らせるベルに指を当てて、核爆弾のスイッチのように長いことためらってから、押した。反応が無く、諦めかけたところで扉が開いた。
「なに」
レイは目をこすりながら言った。制服のブラウスをはおって、下着が見えない程度にだけボタンを留めていた。白のブラウスの裾から、さらに白い足が伸びていた。
「綾波も眠れないのかな。って思ったから、トイレの音が聞こえて、でも、寝てたみたいだね。起こしてごめん。僕も寝るから」
レイは手の動きを止めてシンジを見た。覚醒しきっていない顔の中に見える眼は、どぎまぎしているシンジの動きを追って細かく動いていた。
「入ったらいいわ」
レイはシンジを招き入れると、自分は椅子に座った。それでシンジが座れる場所はベッドだけになってしまった。シーツの上に皺が寄っていて、枕が頭のカタチにへこんでいる。
シンジはだいぶ考えたすえに、そのまま立つことにした。彼が話しかけないでいると、レイは薄目を閉じて首を上下にふりはじめた。
「綾波」レイが顔を上げた。「なに」
「疲れてるみたいだね」
「少し。幻覚をみていたから」
「幻覚?夢じゃなくて?」
「幻覚。夢とはちがうわ」
「いつ」
「さっきまで」
「それは夢じゃないの?」
レイはゆっくり顔を左右に振った「幻覚よ。たまにみるの」
「な、なにが見える?」
「もう一人の私。それが、私を呼ぶの」そしてレイはだいぶ覚醒した目でシンジを見た。
「碇君が来てくれてよかった」
「医療部に連絡したほうがいい?」
「大丈夫」
蛇口の管に残っていた水が落ちて、連続した音を立てた。レイは重しを載せるように、太もものブラウスの裾に閉じた手を置いた。
「用は、なんなの?」
「用はべつになくて、さっきのを謝りたくて、別に綾波が初号機に乗れないって事を言いたかったんじゃないんだ」
咄嗟の思い付きを言うと、レイはシンジを見据えた。その表情に何か注意深いものが浮かび上がっていた。
「気にしてないわ。わかってる」
「僕、部屋に戻るよ」
ドアの開閉ボタンに手を伸ばすと、レイが後ろから声をかけた。
「誰にも言わないでね」
シンジが振り返った。レイは立ち上がり、右手で左手の肘をつかんでいた。その足元には、物言わぬ靴と、脱ぎ捨てられた靴下が置いてあった。
「うん」シンジは答え、部屋を出た。通路の光がまぶしかった。自分の部屋に戻ってベッドに横になると、こげる寸前の玉子焼きが出す煙のような、もやもやしたものが胸を覆っていた。
黙っていよう。そう決めた後、シンジは眠っていた。
それが大失敗だと思い知ったのは、翌日の朝、使徒が移動を始めて、警報が施設内をけたたましい騒音に包んでからだった。