一万倍
ベルリン駅では最終便の新型ICEが電磁モーターを暖めていた。ホームに人は少なく白い車体からは冷却水の湯気が出ている。ヒビの入ったプラスティックベンチに腰をかけていた僕は寒さに耐えながら電光掲示板を見つめる。
赤い文字がひっきりなしに点滅しているが、何と書いてあるのか分からない。誰かに聞きたくてもホームには人がいない。三両前の窓際に男がいたが窓に頭をつけて眠っている。
発射時刻はすでに三十分もすぎていた。なんらかのトラブルで今日は列車の運行が中止になったのだと見切りをつけて、駅の事務室へ向かった。
事務室には私服の男が二名、電話に向かっている。その口調は激しかった。僕を見つけると一人が受話器を手で押さえて待っていろ。という仕草をした。
先に電話を終えた男は僕のところへ来ずに、構内アナウンスのマイクを取って何か放送を始めた。それが終わってから僕のところへ来た。
ドイツ語で話しかけるので僕が首を振ると、まいった。という顔をしてまだ電話している男を振り返った。もう一人の男は電話に夢中になっている。
「申し訳ないが、今日は電車がでるかわからない」
ひどいドイツ語アクセントの英語でそう言った。
そのうちにグレーのスーツに赤いトランクを持った乗客が現れて聞き取りやすい英語で話しかけてきた。
「何かあったんですか?電力が足りないとか」
「確かにこの頃は慢性の電力不足だけれど、ICEへの電力供給は最優先だよ」
「じゃあ事故?」
「まあ、事故といえば事故だね。それに等しい」
「何があったんですか」
「電車を動かす人間が足りてない。明日からストライキなんだ。降ってきた休暇を存分に楽しみたい人間が待ちきれずに帰宅しちまったのさ」
「代わりの運転手は?」
トランクのベルトに挟んでいた切符を私服の駅員に渡してから彼はふっとため息をついた。
「いないよ。この国は人口減少に悩んでる。電車を動かす人間、先頭と最後尾、たった二名の運転手も融通できないんだ」
「ストライキの予定は?」
「明後日までだ。今、あの二人が別の運転手を叩き起こしているところだよ。来るかどうかは分からないけどね。」
「じゃあ、動くかもしれないんですね」
「ああ、私は待たないけれど。この国の人間は頑固だよ」
僕はホームへ引き返してヒビの入ったベンチに座った。気温はどんどん下がって凍えそうなほどだった。息は吐く側から凍り付いて白くなった。
(結局、救った世界も大したことない)
初老の女性客が先頭車両のドアから出てきて、中に向かって手招きしながら大声を出している。母親と娘が荷物を抱えて出てきた。
僕の前を通り過ぎ手袋をはめた手を引かれた少女がこちらをじっと見ていた。微笑むと少女はニセモノとわかる笑顔を作って視線を外してしまった。
(愛想笑い)
体が小さくぶるぶると震える。それでも僕はなぜか車内に入る気持ちになれなかった。
ポケットから切符を取り出して裏に書かれているドイツ語を無理やり読んだ。読み終わると今度は空港で受け取ったベルリンの地図を見た。イゾルデB&Bの場所はダウンタウンから遠くて載っていない。ヘルガの通う大学も出会った公園は場所がよく分からない。
荷物の一番奥へ手を入れて手帳を取り出した。予定も住所録も真っ白なページをめくって、時間を潰した。日本のシゲルへ電話をかけてみようかと思ったが、大して話すこともないと気が付いて止めた。
コートの襟を立てた駅員が近づいてきて、乗れ。と言った。慌てて手帳をしまって立ち上がると、不服そうな独り言をぶつぶつ言いながら先頭車両へと向かっていった。
僕が乗り込んでシートに座ると、エアの抜ける音がして扉がしまった。車内放送があり、それから列車はゆっくりとホームを進み始める。
席に座ったまま僕は窓の外を見た。ホームを囲うガルバリウム鋼の壁が終わると、闇の中に町の明かりが浮かんでいた。さらさらに乾燥した粉雪が窓に触れては闇の中へ消えていく。
五分も進まないうちに町の明かりはなくなり、そこからICEは急激に加速した。至るところが分断されて高速で走れなくなった新幹線を抜いて、世界最速を手に入れたICEは矢のような速度で目的地へ向けて走っていく。
体の震えが収まってから、僕は薄緑色の封筒を開けた。
破ったノートのページが入っていて、保養施設の名前と住所、電話番号が走り書きされていた。
僕は裏側に何か書かれているのに気が付いた。そこには下手くそな、きっと本人は丁寧に書いたらしい日本語が書かれていた。
あなたが戻ってくると信じている。私が今も神を信じているように、私は私の運命も信じている
ぶ厚い闇を切り裂いて走っていたICEが急に減速した。そうしてゆっくりと駅のホームへと入っていく。
そこがポツダム駅だと知って、僕はあわてた。封筒をしまいこんで発車のベルが鳴り響く中、僕が飛び出すと同時に扉が閉まった。何が起きたかわからない僕を残してICEはホームを出て行った。
赤いテールランプを見送った僕はいつまでもぼんやりとそこに立っていた。そうして寒さで体が震えだし、沸きあがってくる気持ちの悪い笑いをこらえた。
ポツダムが遠くに、まるで地球の反対側にあるように勝手に思い込んでいたのだった。時計は一時間も進んでいない。
駅の改札は開いていたが、駅員はいない。駅員室の明かりはついていたが無人だった。改札にチケットを置いて勝手に外に出た。
駅前は真っ暗で自動車もほとんど走っていない。僕は途方にくれてホテルのネオンサインを求めて当てもなく歩き始めた。ネオンのHだけが不規則に点滅している古びた小さいビルを見つけた。入り口のドアは錆びかけた防犯の鉄格子が降りていて、呼び鈴のベルを何度も押すと男がでてきた。男は両手で自分の体を抱いて外へ出て、ドアと格子の間の僅かな隙間に立って格子の鍵を外した。
手が張り付きそうな冷たい格子を空けて中に入ると、男はカウンターの向こうへ回って書類を上へ置いた。
記入しながら奥を見ると、開いたカーテンの向こうに簡素がベッドがあり、足元にはウィスキーの空き瓶が転がっていた。
鍵に張られた201のシールを見せて、エレベーターを指差した。僕はお礼を言ってエレベーターに乗り込んだ。見送ることもせず、男はカーテンの向こうへ引っ込んでしまった。
薄暗い部屋に入り、硬いベッドに腰を下ろして何度かヘルガの走り書きを読んでから僕は横になった。体が芯まで凍えていた。 |