| 一万倍 京都駅前は人でごった返していた。海面の上昇で大阪と神戸のほとんどが水没したので、今では西日本の中心は京都になっている。 立ち直れ日本。第四新首都建造中 −名称公募中― 銀色の車体を光らせているバスの車体にはそう書かれていた。 十台も並んでいたバスが労働者を満載して次々と走り出していくのを見守っていた。バスが去ってしまうと、それに群がっていた群衆も散り始めた。そうして僕はまだ人だかりの残っている広場の一角を見た。そして体に電気が走ったような衝撃で僕は目を見開いた。熱気で波打っているように見える人の群れから、トウジが走り出てきたように見えたからだった。 彼は関西弁で何かこちらに向かって大声を上げた。するとすぐ側にいた夫婦がそれに応えて走り寄っていった。 (どうかしてるな) 軽く頭を振ってから握り締めていたメモを取り出す。シゲルの筆跡で冬月の墓所の住所が書かれている。彼は東山の外れにある菩提寺に眠っている。 駅前から乗り合いタクシーで客がいっぱいになるまで待っていると、反対側の席に座っていた男がちらちらとこちらを見ていた。その視線を無視して荷物からCDプレイヤーを探していると男はかぶっていた古びた野球帽を脱いで、こちらに向けてひらひらと振った。 「君はどこへ」 「知り合いのお墓参りですよ」 ほほう、と禿げ上がった頭に浮いた汗の雫を手で拭った。 「私は電車で君のすぐ後ろに座っていたんだよ。旧東京から」 僕の素っ気ない返事を無視して男は続ける 「私は里帰りだよ。実家が旧東京の赤羽根橋でね。尤も今は海の底だから海岸から眺めただけだけれど」 親子連れの客が乗り込むとミニバンのタクシーは人を掻き分けるようにして広場を抜けた。 高いビルがないので京都の空は広かった。28年前と14年前の破壊を不思議に免れた町並みは受難以前の色彩を色濃く残していて、昔を懐かしむ多くの人々がこの町に移り住んだ。こちらの迷惑を顧みずに旧東京のことを話し続ける男もそんなうちの一人なのだろう。 大きな伽藍を持つ寺の前で最後の客が降りると僕一人になった。運転手がこちらを振り返って墓地の前まで連れて行ってくれると告げた。 バスのクーラーはほとんど故障同然だったが、それでも幾らかの役には立っていたようで、車を降りると刺すような日差しを浴びた。 尾根を登る階段にかぶさるように張り出した枝葉から濃い光の染みが無数に落ちている。蒸れた草木の匂いが充満していた。草むらの向こうの山肌に墓石の群れが見えた。伝統の家名を刻んだ古い墓石がいくつも倒れているのがここからでも見て取れた。 手入れもされず延び放題の生垣の戸口をくぐる頃には額から汗が流れた。僕は何度も立ち止まって汗をぬぐった。 墓地は人影がまったく無かった。手にしたメモの番号と朽ちかけた看板を頼りに何度か道に迷いながら、僕はようやく目的地までたどり着いた。 真っ白な日傘が目に飛び込んできて、僕は立ち止まった。女は墓石の前で屈むこともせずに墓をまっすぐに見詰めていた。 「マヤさんですか?」 僕が後ろから声を掛けると、伊吹マヤは驚いて振り返った。 「シンジ君・・・なの」 伊吹マヤは異常に肌色が白いことを覗いては年齢相応に年を取っていた。数秒間の沈黙があり、二人はほぼ同時に沈黙に耐えかねて視線を外した。 ずいぶんと長い間、記憶にも残らないような当たり障りのない会話をした。マヤはあの出来事の後は岐阜の実家に戻ったあと、すぐに家族と共に京都に移った。父はシステムインテグレートの会社を営んでいたが、父が死ぬとマヤの母が会社を相続したが、全ての実権は副社長の手に渡った。今は母と妹と奈良に近い場所に邸宅を買って、そこに今も住んでいるという。 「それは大変でしたね」 「いいの。副社長は父のころより会社を大きくしたし、私たちには気を使ってくれているから」 そんなことを長い時間をかけて話した。お互いに会話は窮屈だったが、そのまま去るには忍びなかった。 僕は柄杓をつかむと木桶から水を掬って墓石にかけた。からからに乾いた古い御影石が水を吸って小動物のような音を立てた。二度三度と水をかける間、マヤは紙くずに灯した火を線香の束へ移してから立ち上がった。 「お墓参りに来たのに線香も持ってこないなんて。きっと教授も呆れているわ」 「墓地なら買えると思ったんですよ」 細い白煙を立てる線香の束を供えてから、僕たちは手を合わせた。線香の匂いが鼻につく。 「朝、大学へ出向く途中に発作で倒れたそうよ」 マヤが目を開いて独り言のように行った。その目元に小さな皴が刻まれている。肌が白いので皴がやけに目立った。 「心臓ですか」 僕は一度、施設のトイレで冬月が薬を飲んでいるのを見たことがある。心臓の薬だと彼は自分から話した。 「それはわからない。何も聞いていないの」 「知らせたのはマコトさんですか?」 「いえ、私のところに直接連絡があったわ。年賀状はやりとりしていたから、遺族がその住所を頼りに知らせてきたの」 「冬月教授に家族がいたんですか。マコトさんとは連絡を取っているんですか?」 「教授の甥と言っていた。教授は家族のことは何も話さない人だったから」 桶に残った水を地面に流して柄杓を桶に入れた。カコンと木がぶつかり合う音がした。マヤは二番目の質問には答えなかった。 それを合図にしたようにマヤが立ち上がった。髪型は14年前と変わっていなかった。それにしても肌色が白すぎた。 「マヤさん病気じゃないですよね?」 「健康よ。でもあまり外出しないの。日光が強すぎて」 白地に薄く百合のプリントを施した日傘に遮られてマヤの顔は見えない。 「すぐに帰る?」 「いえ、今日はここに一泊します。帰るのは明日」 「聞きたいことがいくつかあるの。いいかな」 はい。僕は石段の下に見える本堂の瓦を見つめながら答えた。 本堂の濡れ縁は長いあいだ風雨に晒されて色素が抜けて骨のような色になっている。菩提樹の影になっている場所にマヤが腰を下ろした。 「私もおばさんになったでしょ」 「いえ、そんな…」 「十四年だものね。長い時間ね」 本堂の扉は閉まっていて人気がない。脇の住居の窓も雨戸が閉まっている。住職はもっと便利な、きっと市街に近い高級住宅地に移っているのだろう。この十四年で最も儲かったのは鉄鋼業と葬祭業なのだ。 「聞くわ。先輩…赤木リツコ博士はこっちに戻ってきたのかしら」 「わかりません。噂も聞きません」 「そう。葛城三佐はどうかしら」 「いえ…きっと戻ってきていないと思います」 自分の周辺に黒い靄が掛かってくるような気分でそう答えた。 「戻ってきていないのは二人だけね。あ、あとは指令、あなたのお父さん。ごめんなさいね」 「いいんですよ。父のことは忘れています」 それまでかすかな風に揺れる菩提樹の葉を見ていたマヤがこちらを見つめた。重大な決意を決めたときにする目だ。 「本当に知らないの?」 「知りません」 「何か隠しているのだったら教えて。教えてくれたら、私もあなたが知りたい事を教えるわ」 「僕の知りたいこと?父のことですか」 「違うわ。じゃあ、言い方を変えるわ。先輩の物でなにか持っている物はない?私のこと性格が悪くなったと思っている?」 「僕の知っているマヤさんとは少し変わりました」 「私も必死なの。何かある?」 「何もありません。そういうことはシゲルさんかマコトさんに聞いたほうが良いと思います」 「そう。ありがとう」 マヤは日傘を手にしてかすかに腰を浮かせた。 「待ってください。僕の知りたいことって何ですか」 マヤはじっと僕の顔を見つめる。相手を値踏みするような目だ。 「いいわ。教えてあげる。その代わり二人のことで何かわかったり、物が手に入ったら必ず私に教えること。これが交換条件よ。私だってこういうことを望んでいるわけじゃないの。わかってくれる?」 「はい」 マヤは開きかけた日傘を閉じてひざの上に置いた。 「アスカのことよ」 沈黙。やっぱり止めた。交換条件の中止を申し出るのは簡単だ。いやだめだ。僕には聞く義務がある。 「シンジ君。アスカの首を絞めたわね」 僕は殴られたような激しい衝撃でマヤを見た。驚きで醜いほどに目をむいていたに違いない。 「アスカがそう言ったんですか?」 いいえ。マヤは首を振った。その言葉に侮蔑は感じられない。 「私がこの世界に戻ってきて目を覚ましたとき、私は第三東京市の道路の上だった。目の前に、あの施設のあった場所には大きなクレーターがあった。 それから新箱根湯本駅へ向かったわ。あそこには第二諜報部の施設があったでしょ。そこを目指したの。その数日後にアスカが運ばれてきたのよ」 沸きあがってくる唾を音を立てないように飲んだが、大きな音がした。マヤは視線を合わせるのを拒むように前を見据えている。 「首に指のかたちまで分かるひどい痣がのこっていたわ。あれはシンジ君でしょ」 僕はパクパクと口を動かした。喉に栓をされたように何の言葉もでなかった。 「大騒ぎになったのよ。諜報部の人間、正しくは元諜報部はあんな状況でも自分の仕事とその義務を忘れてなかった。犯人、つまりあなたを捕まえようというところまでなったのよ。あの時にアスカの首を絞められる人間はあなた以外にいないもの。あの世界にはあなたたち二人しかいなかったんだから。でもそうしなかったの」 「アスカが僕をかばった?」 「いいえ、彼女は一言も口を聞かなかった」 「じゃあどうして」 「アスカの傷という傷には全て手当てがしてあったわ。それでみんなあなたを追うのを止めたのよ」 骨が見えるほど大きく裂けた眦の傷が呼び起こされてきた。 「それでアスカはどうなったんですか」 「3ヶ月ほどそこにいたわ。私が世話をしたの。そのうちに傷は癒えたわ。でも目の上には傷跡が残ったの」 「ショックを受けてた…?」 「受けてないと思うわ。アスカは一度も鏡を見るようなことはしなかった。すこし酷なことを言うわよ。いい?」 すでにマヤの声は遠く感じられていた。僕は死刑宣告をまつ囚人のようにして次の言葉を待った。 「アスカは破爪病型精神病になっていたの。失語と重度の自閉の症状が出ていた。それで…」 「もういいです」 僕は顔を振って耳をふさいだ。僕は彼女の首を絞め、そして僕に追いすがって、その時のアスカには地獄の道を行くよりも辛い道を歩かせた挙句、置き去りにしたのだ。 「アスカはポツダムにいる」 「そんなことは僕が知りたい事でも何でもないじゃないか!」 立ち上がって絶叫した。木々から鳥が飛び立ち、蝉の声が止んだ。僕は逆上して手激しく肩で息をした。 「死んだ人にはお詫びもできなくなるのよ。末期の破爪病は人格が崩壊して言葉の理解も困難に…」 「やめろ!」 再び叫んで僕は走り出した。数歩も行かないうちに足がもつれて転倒した。口にかび臭い土の匂いが広がった。袖口で拭ってから振り返らずに寺門をくぐった。 上に人間一人を簡単に丸焼きにできる電気を流している鉄条が張り巡らせてある塀の前で黒塗りのハイヤーが止まった。 |