| 一万倍 ウエストエリアと部屋とを往復し、母のノートを広げるだけの日々を抜け出すのに半年かかった。 抜け出すきっかけをくれたのは尾藤ユリという、家に同居している住人の一人だった。 彼女は夜の街で占い師をしていた。明け方になるとウエストエリアから戻ってくる僕とよく顔を合わせることになった。 「シンジ君。お疲れさま」 明け方の薄闇の中でそう声をかける彼女の顔は、いつも疲れきっていて、とても老けて見えた。年はそのとき二十七歳だったが、年齢よりも老けて見えた。 「夜の街で人の不幸話を聞いて、同情するフリをするのも結構疲れるのよ」 ユリは決まって家の門の前にいる猫の背中をさすってやりながら、帰宅途中に買ってきた餌をその猫にあげていた。 「占いは全部適当なんですか」 僕は彼女と会ったときは塀にもたれて、猫が餌を食べ終えるまで待った。 「そんなことはないわよ。これでも結構、当たるんだから」 ユリは厚い化粧をしていて、眉を細く剃っていた。明け方の崩れた化粧を見ると、水商売の女にしか見えなかった。 「私はね、恋愛とかはあんまり得意じゃないのよ」 隅々まで皿を舐める猫の顎下を撫でながら、ユイは眠そうにあくびをした。そんな時のユリはとても薄幸そうに見える。 「何が得意なんです?」 「人の死だったら、一発ね。すぐに分かるの。ああ、この人は死ぬなって」 「当たって欲しくないですね」 「さすがに、お客さんにいきなり『あなたはそのうち死にます』とは言わないわよ」 「じゃあ、僕はどうですか?死にますか?」 そういうと、ユリはひざに手を置いて立ち上がった。酒とか煙草とか、夜の雑踏の匂いがした。 「死なないわねえ、当分」 「そうですか」 僕たちは家に入ると、それぞれの部屋に戻る。そのうち、ユリが部屋を出て風呂にゆく音が聞こえる。 年長者が先に風呂を使う。という規則のために、僕は彼女があがるまで待たなければならなかった。 「おまたせ。どうぞ」 頭にタオルを巻いたユリが僕の部屋を覗いて言った。化粧を落としたユリの顔は、眉毛が半分しかなく、安い化粧品で肌がいつも荒れていた。こうなると老けていた顔が年齢不詳になってしまうのだった。 いつもはそのまま部屋に戻るユリがその日はじっと僕の顔を見ていた。 「なんですか?」 「あなた、今の生活でいいの?」 「どういう意味です?」 僕は少しむっとして言った。 「学校にも行かず、仕事場と家を往復するだけの生活よ」 「僕はそれでいいと思ってます」 「そう、下らない人生ね」 僕は思わず立ち上がっていた。ユリは脱いだ服を持ったまま僕に挑みかかるような目をしていた。なぜ急にユリがこんなことを言い始めたのか、僕にはさっぱりわからなかった。 「そういう自分はどうなんです?」 「私には夢中になれるものがあるわ。人から見ればくだらない占いでしょうけどね」 その時、ユリはとても悲しい顔をしていた。 「眼をそむけて、逃げる事だけしている人は死んでいると同じよ」 「僕は生きてる。ちゃんと生きています」 僕は必死になって答えた。握り締めた手が震えていた。ユリはしばらく僕の様子を悲しそうな目で見たあと、部屋へと戻っていた。 その翌日、ユリは行方不明になった。いつものように夜の町へ占いに出て、そのままいつになっても戻ってこなかった。 同居人が相談して警察に届け出たが、半年経ってもユリの消息はつかめなかった。 「あの女は少し頭がどうかしてたからな」 シゲルはユリの部屋で、占いの本を段ボール箱に放り込みながらそう言った。 「占い師が好きな奇特な男にでも誘われたのかもしれないな」 僕は主のいなくなった部屋で遺族に送るものと捨てる物の区別をした。もともと物のない部屋だったが、それでも部屋中のものを分別するとなるとかなりの手間だった。 「あの夜、ユリはこの家の近くまで来ていたそうだよ。警察が教えてくれた」 シゲルはクローゼットを開けて、そこにかけてあったユリの服を箱に投げ込み始めた。 「近くの公園でただ突っ立っていたらしい」 化粧の崩れた顔で、公園に佇むユリの様子が浮かんできた。 「ここまで帰ってきたんですか」 「ああ、公園からここまで五分とかからないから、殺されたり拉致された可能性は低いって言ってたよ」 埃の舞う部屋の中で、僕は机の上のカレンダーを手にとった。僕はユリが行方不明になる前日の日付を見た。予定の書き込めるカレンダーだったけれど、何一つ書き込みはしていなかった。 行方不明になる前日、ユリはなぜ急にあんなことを言ったのだろう。僕の生活を逃げているだけの人生。そう言ったときの、悲しい顔がありありと浮かんでくる。 公園からこの家に来るまでの短い間に、ユリに何かが起こった。僕は彼女に起こった変化を想像してみたけれど、何一つ思い浮かばなかった。 「写真だ」 シゲルの声で僕はわれに返った。 「誰だろうな。弟かな」 手渡された写真には川が写っていて、弓なりの橋が架かっている。その上を観光客らしい人が歩いていた。 橋の前では小学生たちが引率の教師の周りを取り囲んでいる。手前には坊主頭の少年がまぶしそうにこちらを見ていた。 「これ一枚ですか?」 「俺にはあの女が写真を持っていたことも意外だけどね」 「誰なんでしょう」 「知るかよ。よせよせ、考えたったってどうしようもないよ」 シゲルは僕の手から写真をひったくると、箱に入れて、その上にヨレヨレの下着を積み重ねた。 (逃げたのは、自分の方じゃないか) 荷物を遺族へ送った後、僕はじっと考えた。 何にも夢中になれない人生。悔しいけれど、それは当たっていた。 自分の身を焦がすような、焼けるような心。僕はそれをあの時、捨ててきてしまったのだ。 もしかすると、ユリは占いよりも夢中になれるものを見つけたのかもしれないと思った。 すると、これまでユリが逃げ出したとばかり思っていた心が急に高鳴った。 それから僕はウエストエリアのマスターに頼んでまとまった休みを貰い、京都へ行くことにした。すこし旅をして冬月教授の墓参りをしようと思った。 |