| 一万倍 目が覚めてから、僕は部屋を出て階段を降りた。イソルデがキッチンの傍で編み物をしていた。まばゆい日差しがイソルデに降り注いでいた。 「あら、おはよう。よく眠れたかしら?」 「ええ、とても」 僕は答えてから地下へ行き、顔を洗った。 一階に戻ってくると、卵を焼く匂いがした。僕は席について外を眺めた。昨日の雨が嘘のように晴れ渡り、抜けるような真っ青な空が見えた。 「今日はお姫様を探しにゆくの?」 「まだ決めていません」 「本当に何も決めていないのね」 イソルデはコーヒーを僕の前に置いた。皺ばんだ手に生えた産毛がきらきらと光っていた。 「何時にここを出るの?遠くまで行くならランチを持たせてあげるわ」 僕はそうかと思った。僕は勝手にこの家に何週間もいるようなつもりになっていたが、もうチェックアウトしなければならない時間なのだった。 「もう一泊してもいいですか?」 「もちろん。話し足りなくて残念に思っていたから」 イソルデは目玉焼きとト−ストを僕の目の前に置いた。 僕が朝食を食べる間、イソルデはいろいろと僕に質問した。日本のどこに住んでいるかとか、兄弟はいるかとか、仕事は何をしているか、他にどんな国にいったか、とにかく思い付くままに僕に質問した。 僕は答えられることには答え、答えたくないことには適当に嘘をついた。 「やっぱりあなたは変わっているね。ここにもたくさんの人が来たけど、あなたが一番変ね」 僕が朝食を食べ終えるのを見届けてから、イソルデが言った。 「そうですか」 「どこかあなたが好きそうな場所を教えたいけれど、思いつかないわ」 「いいですよ。その辺をぶらぶらしますから」 「それなら、ここの近くに川が流れているから、そこを歩くといいわ。下流にいくと大きな公園があるから。私もたまにそこで本を読んだりするのよ」 「そうします」 「近くに大学があるから、お昼はそこで食べるといいわ。川を目印にすれば道には迷わないでしょう」 僕はイソルデB&Bを出て川沿いを歩いた。住宅街にはやはり人影はなかった。昨日、宿を探してここをさ迷ったので、川の存在は知っていた。 空気は冷たかったが、日差しは暖かかった。僕は上着を脱いで歩いた。 イソルデがいったとおり、大きな公園が見えた。公園では家族連れがボール遊びをしたり、カップルが犬を連つれていたりした。首輪を外された犬は嬉しそうに芝生の上を走り、周りの人に近寄っては愛嬌を振りまいている。 僕はベンチに座って、川を見ていた。水面が滑らかに光を反射して、その下には大きな魚の影が見えた。本が欲しいと思ったが、何も持ってきていなかった。僕は東京の少ない友人のことや、シゲルのこと、今は店を閉めてしまったウエストエリアのことを思い出していた。 突然、後ろから声をかけられて、それが日本語だったので僕は驚いて振り返った。 白人の女性がまぶしそうにこちらを見ていた。白いコートにジーパンとスニーカーを履いていた。 「日本人でしょう?」 彼女は流暢な日本語で言って、隣に座った。 「東京に住んでいたことがあるのよ」 青い瞳で僕を見る。 「どうりで日本語がうまいと思いました」 「もう五年も前だけれどね。二年間、高校に通っていたの。本郷にある大学だったわ」 僕はヘルガと名乗った女性の横顔を見た。髪は肩まであって黒かったが細く、微妙なクセがあった。耳の赤いピアスが鮮やかにみえた。 「今はこの近くの大学に通っているの」 それからヘルガは色々と僕に質問した。また質問攻めか。と思ったがイソルデのように絶え間なく質問はせずに、時々、自分のことを話しては、少し黙ってまた質問した。態度も口調もゆったりとしていて、心地よかった。 「大学では何を専攻しているの?」 ヘルガは少し首をかしげて考え込んだ。 「ゴミ分別科ね」 はあ、と僕が間の抜けた声を出すと、ヘルガはくすくすと笑った。 「本当は地球環境科よ。でもみんなゴミ分別科というの。ゴミのことばかり勉強しているから」 「なるほど」 僕も笑った。 「まだどこにも行ってないのなら、わたしが案内するよ。ドイツの川も日本の川もそれほど変わらないでしょ?」 僕は彼女と連れ立ってバスにのった。ダウンタウンまで出てから、ベルリンドームやフランデンブルク門、ニコライ教会を見て回った。 ヘルガの屈託のない笑顔と澄み渡った空が僕の心を軽くしていた。彼女は時々、日本語を忘れたと言って、もどかしそうにしていたが、その様子も可愛かった。 ヘルガに誘われてカフェに入った。どこにでもあるカフェだったが、空がよく見渡せた。 「空ばかり見るのね。門に行っても門は見ずに空ばっかり眺めてる。癖なの?」 「空が綺麗なんですよ」 「日本の空よりも?」 「日本のも綺麗ですけどね」 僕は何となく、捜し求めている女性も今日、この空を見ただろうかと思った。見ていないなら、教えてあげたいと思った。 ふーんとヘルガは言って、髪をつまみながら空を見つめた、光に照らされた髪が濡れているように光っていた。 「髪を染めているの?」 僕は頭の中で二つに分けた髪の分け目から少し金髪が伸びているのに気がついた。 「そうよ」 「どうして?ブロンドのほうがいいんじゃない?」 「そうかな?私は黒髪が好きよ。似合わない?」 「それはそれで似合っているけど」 「ならいいでしょ、ここではブロンドはいくらでもいるもの。ブロンドが貴重と思うのはシンジが日本にいるからよ」 「そうかもしれないね」 それからまた色々と話をした。ヘルガは笑顔が似合う人だった。時々、幼い無邪気そうな顔をしたかと思うと、バッグの中を探る仕草や、腕時計を見る様子はとても大人びていた。 「シンジ、サングラスを外してみてよ」 と突然言った。 「似合わない?」 僕が言うと、ヘルガは首を振った。 「とても良く似合っているわ。日本人でそこまで似合う人はそういないね。でも外してみて」 僕がサングラスを外すと、ヘルガは僕の顔をまじまじと見た。 「どうしたの。変な顔?」 気恥ずかしくなって言うと、 「ううん、やさしそうな目ね」 そう真剣に言うので、僕は恥ずかしくなってサングラスを付け直した。 「あなた、ビリヤードはできる?お酒は飲める?」 「両方とも人並みにね」 「じゃあ行きましょう。いい店があるの」 「こんな時間から?」 「冬のドイツは夜が早いの。もうすぐに日が落ちるわ」 僕たちはカフェを出て街を歩いた。空に夕闇の色が混じると、たちまちショーの終わった劇場が照明を落とすように暗くなった。 道を歩いていると、ヘルガが二人連れの男とばったり出くわして何か話している。僕は少し離れた場所からそれを見ていた。ヘルガの姿はベルリンの町に溶け込んで映画のワンシーンのように自然だった。僕は自分がとても浮いた存在のような気がした。 「大学のクラスメートなの。さあ、行きましょう」 ヘルガは学友と別れてから僕に言った。なんだかヘルガの存在が少し遠くなったようだった。 「どうしたの?早く。店が混むわ」 不自然を感じたまま突っ立っている僕の手をつかんで歩き出した。その手はみずみずしくて温かかった。 ヘルガは一軒のバーの前で足を止めた。塀が家を取り囲んでいて、バーというよりもパーティー会場のようだった。 「ここなの?」 鉄格子から中を覗くと、折りたたんだパラソルとプールが見えた。それに面した店の壁はガラス張りになっていて、間接照明の中で動く人影がまばらに見えた。 「高いんじゃないの。ここ」 「そんなことはないわ。普通よ」 僕は促されるままに格子を開いて入ってゆくヘルガの後についていった。 ドアを開けるとダンスミュージックがすごい勢いで僕の周りを通り抜けていった。 店員がヘルガを見て声をかけ、そして僕に何か言ったが、ドイツ語でわからなかった。僕達は店員に案内されて店の奥に進んだ。広い店内には背の高い鉢植えがところどころに置かれていて、それを避けるようにテーブルが並んでいた。ほとんどのテーブルにはもう客がいて、酒を飲んでいた。店内のBGMにまじってビリヤードの玉がぶつかりあう乾いた音が聞こえてくる。 ヘルガはカンパリを頼み、僕はモスコミュールを頼んだ。 「ドイツ人はビールばかり飲んでいるわけじゃないからね」 「日本人だって日本酒だけ飲んでるわけじゃないよ」 そうね。とヘルガは楽しそうに笑った。 何杯かカクテルを飲んだ後、ヘルガは僕をビリヤードに誘った。 「ナインボールは知ってる?」 「しってるよ。それしかやったことない」 「ならいいわ」 ヘルガは台の下から玉を取り出して、慣れた手つきでセットした。 台の上に身を乗り出すと、緑のラシャの上にヘルガの濃い影がおちた。 僕たちは四回ゲームをした、戦績は二勝二敗の五分だった。ヘルガはキューを構える姿もなかなか堂に入っていて、手ごわい相手だった。僕はウエストエリアで客に誘われて遊んだことを思い出しながら玉を撞いた。 それから今度はダーツをした。こちらは僕の全勝だった。 「シンジは何でもうまいのね」 ヘルガが感心して言った。 「アルバイト先にどちらもあったんだよ」 「どうしてダーツのほうが得意なの?」 「ダーツは一人でもできるからね」 酒が回ってきて、僕たちは何の価値もなさそうなことを熱心に話した。僕がウエストエリアで働いていた頃にであった、奇妙なお客のことや、火事のことを話すとヘルガはそのたびに僕の瞳をまっすぐ見た。 「日本に居るときね、歯が痛くなって歯医者にいったの。そしたら医者が『口笛を吹いてください』って言ったの。もちろんおかしいと思ったけど、日本ではその音で何かを診察したりするのかと思って、吹いたわ。そしたら、口笛を吹いてください。ではなくて『口紅を拭いてください』だったの。もう恥ずかしくて、まともに医者の顔も見られなかったわ」 僕はその話に腹をかかえて笑った。こんなに笑ったのは久しぶりだと思った。笑い転げる僕を見て、ヘルガは嬉しそうにしていた。四杯目のカクテルを注文してからヘルガが「ねえ、シンジ」と言った。 「あなたが探している女の人って、どんな人なの?」 「どうということはないよ。昔の友人だよ」 「嘘よ。そんな程度の人に会うためだけに、ここまで来るはずないもの。もっと大切な人でしょう、好きな人なの?」 「違うよ。ただ僕はその人にひどいことをしてしまったんだ。会えるならそれを謝りたいかな。でも正直、会おうかどうか悩んでるし、会えるかどうかもわからない」 ヘルガは空になったカクテルグラスの縁を指でなぞった。 「あなたにそう思わせるような人ってどんな人なのかしらね」 ヘルガは運ばれてきたカクテルを止める間もなく一気に飲んでしまった。 「その人はどこにいるの?ベルリン?」 「ポツダムだよ」 僕は言った。それから彼女が少し精神をおかしくして長いこと療養施設に入っていることを話した。なぜこんなことを話すのか、自分でも不思議だった。 目を伏せてそれを聞いていたヘルガは僕のカクテルを飲み干した。 「飲みすぎだよ」 僕が言うと、ヘルガは少し笑ってありがとうと言った。そして腕時計を見た。 「出ましょう。少し歩きたくなったの」 僕たちは店を出て町を歩いた。もうダウンタウンからは外れていたので、町の人通りは少なくて静かだった。 歩いている間、ヘルガは黙っていた。僕は一度、店の中と同じように話し掛けてみたがあまり反応がなかったので、黙ることにした。 ヘルガとであった場所よりもずっと整備された公園に入った。中央ではライトアップされた噴水が水を拭いていた。 「ここの噴水は冬でも凍らないようにできてるのよ」 ヘルガは立ち止まってこちらを見た。息が白い蒸気になって空に登った。そして上着のポケットから手を抜いて、僕の腕をつかんだ。僕が黙っているとヘルガは両手で僕の体を包み込むように抱きついた。 「あなたはとても女の人にモテるでしょう」 「そんなこと言われたことない」 「それはあなたの周りの女性の目が節穴か、あなた自身が気がついてないだけ」 ヘルガの手に少し力が入った。 「背も高いし、サングラスが似合うし、ダーツもビリヤードもうまいわ。そして何よりやさしいもの」 僕の手が居場所を探して、ヘルガの腰に手を置いた。ヘルガはそれに応えるように密着してきた。 ヘルガは囁くような小さな声で何か言った。ドイツ語だった。そして顔を見上げた。 僕たちはそうすることが当然のように唇を重ねた。まるで何年もそうしてきたかのようにスムーズな動作だった。 「部屋に来て。ここからそんなに遠くないの」 「それはダメだよ。宿に戻らないと」 「私が電話するわ。シンジは今日は戻らないって」 イソルデの皴の目立つ顔が浮かんできた。 「もう寝ているよ」 そう。とヘルガは言って、手を離した。 「明日も会える?」 「何も予定はないよ」 「じゃあ、今日会った場所で待っていて、大学が終わったらすぐに行くわ」 ヘルガはそういって、歩き始めた。 僕は通りでタクシーを止めて乗り込んだ。ヘルガがドイツ語で行き先を言ってくれた。 「それじゃあおやすみ」 「おやすみなさい」 扉が閉まってタクシーが走り出した。 僕は急速に冷えていく思考の中で、ポツダムにいる女性のことを考え、ヘルガのことを考えた。 ダウンタウンを通ると、様々な色の光が車内に流れ込んできた。そのせいで窓に移る僕の顔が赤くなったり青くなったりした。 (僕は何をしてるんだろう) 宿に帰ってもイソルデはもう眠っていて、真っ暗な慣れない部屋に帰って眠るのか。そう思うと何だか寂しくなった。 |