| 一万倍 あの女性と別れてからのことを、僕はあまり覚えていない。あの出来事の直後よりも、僕の心は人間らしくなっていたはずだが、その時のほうのことはすっかり忘れてしまっている。 世界に人が少しずつ戻ってきて、町にちらほらと人の姿が見えるようになった。みんな野犬のように町をうろついて、合流し小さな集団をつくって食料をさがす日々だった。 ある程度の数まで人が戻ってくると、細々と生産が始まった。そのうちにも人はどんどん戻ってきて、野犬に等しい毎日から、生活らしい生活が送れるようになった。 電線が電気を流すようになると、以前と変わらない生活が戻ってくるまでは早かった。 電車が動き、工場が稼動し、学校や会社が再開された。物の流れはさらなる物の流れを呼んで加速していった。 僕は一人でその世界を生きた。友人や知人が戻ってきているかもしれなかったが、あの町、芦ノ湖の湖畔の町に戻る気になれず、箱根を越えて富士山が綺麗に見える小さな町で暮らし始めた。 幸いなことにここには自衛隊の駐屯地があったから物資が豊富だった。多くの人がその物資を目指して集まってきて、その町は周辺で一番にぎやかな町になった。 僕はそこで自衛隊の出す小さな仕事のおこぼれを貰いながら二年間暮らした。僕には食料と寝る場所が保障されている学校に行く権利があったけれど、行くつもりはなかった。 仕事がある日は外にでて、荷物を運んだり、飛行機や戦車の整備をしたりした。無い日は無人の図書館へ行って本を読んだり、勉強してみたりした。 何人かの友人ができたが、彼らは生活が安定してくると元々の住処だった東京や横浜へと家族と一緒に去っていき、また新しい人が来た。 多くの人たちが僕の前に現れて、去っていった。僕にとってもそれは気楽で良かった。同じ人間と深く付き合うのはとても億劫だった。 僕はある日、空港で荷物の受け降ろしの作業をしていた。大型のヘリで運ばれてきた荷物には食料もあったし、歯ブラシや衣類などの日用品、銃器の類もあった。 かなり暑い日で、僕は汗だくになりながら荷物を運んだ。はじめは重くてつらかった作業もその頃には平気でこなせるようになっていた。 僕は米の入ったビニール袋を担いで、ヘリポートから兵舎を何度か往復した。 数人の男性が積み上げられた荷物の数をチェックしていて、僕は兵舎の中に見知った顔を発見した。 彼も僕に気がついて、手にしていた器具を放り出して走りよってきた。 「シンジ君、生きていたのか」 そう驚きの声をあげて、僕の方に手をおいた。自衛隊の制服の襟に赤い一本線の 章が縫い付けてあった。 「こんなところにいたなんて。どうして」 青葉シゲルはまじまじと僕の顔を見た。彼とは芦ノ湖畔の町にいた頃、施設の中で何度も顔を合わせた。年も離れていたし、その頃には彼は二十代後半だったはずで、友人とは呼べなかったが、お互いに良く知っている間柄だった。 彼は施設にいた頃の長髪を切って髪を短くしていた。もともと、若く見える方だったが、髪を切ったせいで、むしろ若返っているようにみえた。 シゲルはちょっと待って。といってから戻っていき、部下らしい人に何か指示をしてから戻ってきて、僕を休憩所に誘った。 「あれから、みんなをずいぶん探したんだ。結局、ほとんど見つからないままだけれど、今も探している」 シゲルはアイスコーヒーの入ったプラスチックのカップを僕に渡した。 「会ってどうしようというんです?」 僕が言うと、彼は煙草を取り出して口にくわえて 「どうということはないよ。ただ探しているだけさ」 といった。それから僕の生活についてあれこれ質問して、それから自分のことについて話した。捜し求めている人に会えたのが嬉しかったのか、よく喋った。 「それで、あの子は。アスカは君と一緒じゃないのか」 僕は首を振った。あの出来事の後、数日間だけ共に過ごして見殺し同然に分かれたことは話さなかった。 「赤木さんも君のお父さんも行方不明のままだよ」 父の名が僕を不快にさせた。二年間、ずっと忘れていた父だった。 「他のだれかと連絡は取れたんですか?」 僕は話を変えたかった。 「マコトとは連絡を取ったことがあるよ」 「よく会うの?」 「いや、一度連絡はしたけれどあっていないよ。確か埼玉の大学で助教授をしてるとか言ってたな」 シゲルは唇の端から煙を吹いた。 マコトはシゲルの同僚で同じような仕事をしていた。僕は何度か二人が施設の中で話しているのを見かけたことがあった。 「探していた割には淡白ですね」 「俺はもともと、マコトとは馬が合わなかったんだ」 「知りませんでした。仲が良いのだとばかり思ってました」 二人が仕事以外の話で笑っていたのを思い出した。 「まあ、俺たちぐらいの年になると、そういう事もあるんだよ」 短くなった煙草を灰皿に押し付けて独り言のように呟いた。それからマコトの話題を避けるように僕にいつまでここにいるのかと聞いた。 お互いに話題には話したくないことが多かった。小さいシャツを着るような窮屈な会話だった。 「俺は東京にいる。友人たちと家を一軒丸ごと借りてるんだ。君も来るといい。ここよりは良いはずだよ」 いい加減、ここでの生活にも飽き始めていた僕はその話に少しだけ興味を持った。 「その友人たちにはあそこで働いていたことを話しているんですか?」 「まさか」 シゲルは苦笑いした。 「そんなこと言えるわけがない。あれは俺の一生の秘密だよ。だから君がもしウチに来ることがあっても話さないで欲しいな。親戚とか何とか言っておいてくれればいいよ。みんな一癖も二癖もある連中でね、同居人の身の上を詮索したりはしない」 「そうですか。考えておきます」 「ああ、あそこにいればお父さんや友人にも会えるかもしれない。もっとも、俺はここで君と出会えたわけだけどね」 シゲルはカップをゴミ箱に投げ捨てた。 「じゃあ、俺は仕事に戻るよ」 シゲルはそう言ってまた僕の肩に手をおいた。 「それにしてもたくましくなったね。背も伸びたし。見違えるようだよ」 そういい残して足早に出て行った。 僕がシゲルの元を訪ねたのはそれから半年後だった。荷物は着替えが数枚と、本が数冊だけだった。 シゲルは確かに僕を歓迎してくれて、家の開いている部屋を使わせてくれた。ここを拠点に働くなり、勉強するなり、自由にしていいとのことだった。 その代わりに週に一度、家の掃除をしてくれれば家賃は払わなくていいと言ってくれた。彼の好意は確かにありがたかった。 僕が部屋に荷物を下ろしていると、シゲルは石鹸や歯ブラシなどの日用品の入ったビニール袋を置いた。 「バンドをやっている奴が何人かいるから、俺もその一人だけれど、たまにうるさくても我慢してくれよ」 「はい。ありがとうございます」 それからシゲルはいくつかこの家のルールを話した。風呂は年上が優先で、ゴミは一ヶ月以上貯めないこと、女を連れ込みたいときは事前に連絡すること。などだった。 「それからメシの世話は自分ですること。これが一番大事だよ」 「わかりました」 シゲルは部屋を出て行く直前に思い出したように振り返って言った。 「冬月教授は死んだそうだ」 僕は呆気にとられてシゲルを見た。長身に白髪の濃かった冬月の顔が浮かんできた。彼はいつも父の隣にいて、父を嫌いながらも、父の最大の協力者だった。 「ふるさとの京都でね。病気だったそうだ。昨日、マコトが知らせてきた」 「そうですか」 僕は言った。悲しくも何ともない気持ちが声に出た。 「俺も始めて知ったけれど、マコトは冬月教授とは大学を通じてよく連絡を取っていたそうだ。だから今日は葬儀に行くらしい。もしかすると色々と分かるかもしれないね」 「分かるって、何がです」 「みんなの消息さ」 シゲルはなにをそんなに過去の同僚たちの消息を知りたがるのかと思った。 僕は翌日から仕事を探した。四日目に家から歩いて十五分ぐらいの場所にあるバーが給仕を探していると聞いて、すぐにそこで働くことにした。 給料は安かったが家から近かったし、なにより賄いがでるのがよかった。僕はシゲルから最初の給料が出るまでの支度金といって渡されたまま、机の上に放置してあった封筒を返した。 「あの店には何度か行ったことがある。昼は喫茶店で夜になるとバーになる店だろ?」 僕はシゲルの部屋で足がひとつ折れかけている椅子に座り、シゲルは書類や吸殻が山のように積もった机に向かっていた。膝の上においたギターの弦をさすりながら、ビールを缶からコップに注いで飲んでいる。 「あそこで、何度か演奏させてもらったことがあるよ。あそこのマスター怖そうだろ?」 「はい」 僕は口ひげを生やした目つきの鋭い顔と、労働条件をポツポツと呟くように話した声を思い出していた。 「あまり話さない人だけれど、いい人にはいい人だよ」 「ええ、僕もそう思いました」 「なにしろ、働き口が見つかってよかったね。あそこはけっこう、若い連中も来るんだ。すぐに友達もできるだろうね」 シゲルはうんうんとうなずいてから弦を指ではじいた。ぼーんと低い単純な音が響いた。そして少し息を吸い込んだ、僕は歌でも歌い始めるのかと思ったが、彼は机に積み上げられた書類の上に置いてあったノートに手をかけた。 「今日、マコトの奴と会ってきたんだ」 「マコトさんと?仲が悪かったんじゃ」 「別に喧嘩してるわけじゃないし、嫌っているわけでもない。ただなんとなく居心地が悪いだけだよ」 彼はノートを僕の目の前に差し出した。かなり古いノートだった。 「マコトが冬月教授の研究室で見つけたそうだよ。それで君のために持ってきたそうだ」 僕はノートのページをぺらぺらとめくった。難しい講義の内容が女性の字でびっしりと書き留められていた。 「君のお母さんのではないか。きっと間違いないってマコトは言っていた」 僕はさっきよりもゆっくりと、ノートをめくりなおした。母が冬月教授の元で学んでいたことがあるのは知っていた。 僕がノートを見ている間、シゲルはだまってギターを弾き始めた。はじめにビルスティのワンサイドを弾いて、それからリンキングフェイスのヒルズを小さい声でゆっくりと歌った。シゲルの歌はうまかった。それからギターを置いて、部屋の小さな冷蔵庫からビール缶を二つ持ってきた。 「飲めよ」 とビール缶を僕に渡した。僕はそれを受け取った後で部屋に戻ると告げた。 「はいはい」 シゲルは気に留める様子もなくまたギターを抱えた。 「ありがとう」 部屋を出るときに言うと、シゲルはすこしこちらを見て、ああ。と言った。 一人きりの部屋で僕はまたノートを開いた。最初のページの日付は八月二十五日だった。その下にはすぐ難しい専門用語が並び、まったく理解できない内容だった。 僕は母の残した受講ノートを日記でも読むような気持ちでめくっていった。内容が理解できなくても、僕はその内容を頭に叩き込むように読んだ。ほんの少しでも講義内容とは違う、走り書きでもいたずら書きでもないかと探したが、そんな物はどこにもなかった。 聞こえていたギターの音が止み、夜が更けても僕は読み続けた。途中で喉が渇いたのでビール缶を開けて飲んだ。 日付は十二月になっていた。一月になるとペンを変えたらしく字が黒から濃い青になった。 一月二十八日の内容の異変に僕は気がついた。その日の字は乱れていて、講義に集中できなかったらしく、内容も乱雑だった。震える指をこらえてどうにか書き留めた。そんな字だった。 それからしばらくノートを取らなかったらしく、次の日付は二月十七日だった。字は元のとおりに戻っていた。 僕は一月二十八日のノートをじっと見つめた。何が起きたのかわからないが、この日の母は確かに何かに動転していた。僕が生まれるずっと前の一月二十八日。 僕はノートを閉じて、ぬるくなったビールを飲み干した。ノートを机においてベッドに横になった。 アルコールがまわって、頭がキンと金属音を立てていた。 一月二十八日という日付が頭の中でぐるぐると回っていた。ほとんど記憶にない母の姿を必死に探ってみたが、引き出されてくるのは無駄な、昼に会ったウエストエリアのマスターのチョッキの襟だとか、夜の富士の姿だとか、去っていった知人の後姿だとか、そんなものばかりだった。 それから僕はウエストエリアと家を往復するだけの日々を過ごした。シゲルにバンドに入らないかと誘われたが断った。ウエストエリアの客に遊びに誘われたこともあったが、それも全て断った。僕は明け方になるとウエストエリアを出て、部屋に戻り、ノートを開いた。 店のBGMは様々で、ロックもあればジャズもあった。その日の天気や客層によって、マスターは曲を変える。曲が変わるたびにウエストエリアはライブハウスになったり、静かな紳士の社交場のようにもなった。これはマスターの一種の才能で、入るたびに雰囲気の違う店を楽しみにしている客もおおかった。 仕事を終えて部屋に戻ると、僕は決まって頭痛に悩まされた。何度も一月二十八日のノートを眺め、何かを得ようとしたが、何も降ってはこなかった。 僕がいくら考えても何もわからないのだ。という当たり前の結論に達するまでに半年の時間がかかった。 |