| 一万倍 呆気に取られている僕を尻目にアスカは席に着いた。テーブルに散乱していた食べかけの菓子袋や空き缶、ティッシュ箱はキチネットに移動させられて何も無くなっている。コーヒーメーカーはとっくに流し台の下に転勤になっていた。 突っ立ったままぐずついている僕を待ちきれずにアスカが言った。 「少しはドイツを楽しめた?」 「おかげで楽しかった」 「この国を悪い印象で終わらせたくなかった」 「そんなこと無いよ」 「ならいいわ」 アスカはそこで姿勢を正して短い前座が終わったことを示した。 「もう会う気はないわ」 「どうして」僕は短い時間で用意できた言葉を吐いた。 「今回の件で分かったの。私たちが会うと余計な事を引き起こすのよ」 その表情は固く、本気で言っていると分かった。僕はたっぷりと時間をかけてテーブルを挟んでアスカの正面に回った。言うべき言葉を探してアスカと見詰め合う。 「もう構わないで」アスカは悲しいぐらいの笑顔をした。「連絡もしないわ」 「連絡は禁止されないんじゃないかな」 「検閲を受けながらの連絡なんてまっぴらよ」 「それじゃ、お互い明日からの消息も分からなくなるよ」 そうよ。アスカはテーブルに肘をついて顎をささえた。合板天板にプリントされた木目のへこみに視線を落とす。 「それが一番良いことだと思ってる。どんなに大人しくしてたって、私たちはエヴァの元操縦者で、政府機関には接触してほしくない二人なのよ」 「政府がそう望んでいるから、それに従うの?」 「そうよ」 「それが本心じゃないだろ。アスカはそんなにききわけの良い性格じゃない」 「どういう意味よ」 「14年の喪失をこの3日で埋めたからそれで十分だと思ってる。どこか遠くの二度と僕と会う心配のない場所で一人で暮らすつもりなんだ。政府の思惑はその建前にちょうどいいから」 天板の木目からこちらへ目を戻した。アスカはこういう時に心の中を隠すのが下手だ。見事に言い当てられて、感情が動いていくのが読み取れる。 始めは本心を読み取られたショックに始まり、それから羞恥と怒りの混ざったものへと変化していった。 「僕のためにと思っているなら無駄だよ。日本に戻ったって誰も僕のことを待ってない。アスカが一人で生きるっていうなら、僕もそうする」 アスカはその言葉にまるで僕がルール違反を犯したように反応した。 「あたしに付き合うっていうの?そりゃどうもありがとう。でもあんたにはできっこない。あんたはいつでも誰かに愛されてないと生きていけないタイプの人間なのよ」 アスカは立ち上がって煙でも振り払うように右手を横に振り、指をぎりぎりまで開いた手を胸に当てた。 「あんたは黙ってたって、誰かが気にかけてくれる。あたしみたいに、ヘトヘトになるぐらい演技しないと好いてもらえない人間と違う。あたしは一人でも大丈夫。孤独には慣れてる。あんたはあんたらしく、能天気に生きりゃいいのよ」 アスカは前かがみになり、さっきまで木目に向けていたのと同じ目を再び取り戻してこちらを見た。 「僕に優しくしてくれそうな人はいたよ。でも自分から拒否してきたんだ」 「レイやミサトが生きてかもしれないって、戻ってくるかもしれないって、望みを抱いてるからでしょ。あの二人のために自分をキレイなまま取っておこうとしてたのよ」 僕は首を振り、確信を持って拒否できるのかを考えた。 アスカと同じだよ。と僕は応じた。 「孤独になることで自分を罰してるつもりなんだ。生き残ってしまったから」 僕はその言葉を彼女に言ったのか、自分に言ったのか分からなかった。 途端にアスカの顔が強張って唇が強く結ばれた。何か言葉を出そうとして端が微かに動いている。自分と僕のための弁解がカタチになって吐き出され、アスカがそれを本心だと信じ込んでしまう前に、僕は止めさせなければならなかった。 「この14年は僕もアスカと大して変わらなかったと思う」 アスカはふと顔をゆるめ、非難と怒りが同居した冷ややかな声で言った。 「知ったような事を言わないで、私は孤独になりたかったんじゃない。孤独にしかなれなかったのよ。何年も廃人として過ごす辛さが分かってたまるもんですか。傷跡を見るたびにどういう気持ちになるか、あんたには分かるっていうの?ぜったいに分かるもんか」 振り切るように眉間に皺を寄せて、ぜったい、を最大にまで強調した。 「あんたはチヤホヤされていた。私には分かる」 僕は黙った。僕がチヤホヤされていた?それだけ記憶を掘り返してもそんな事はなかった。 一瞬たりとも。 途端にすべてが吹っ飛び、世界はアスカと二人きりになった。 「違う」吹き出してきたアドレナリンのせいで計画よりもずっと大きな声が出た。 「あんたの同情なんていらない」 アスカが張り合って僕に負けないぐらいの声で言った。視線が矢のように僕を捕らえている。何を言っても信じないつもりだろうと思った。 「僕もこの14年間ずっと一人だったんだ」 「やめて」 「いろんな人に会ったけど、僕を本当に大切にしてくれる人はいなかった。だから分かるんだ」 「やめて」 「アスカがどれだけ辛かったか―――」 「黙れって言ってるのよ!」 テーブルを迂回して僕の前まで来ると、思いっきり僕の頬をはたいた。爪による鋭い痛みがやっと腫れの引いた頬を走る。アスカは元の位置へと戻っていく。 テーブルとキチネットの間に立って少し迷い、こちらを振り向いた。 息にあわせて肩が上下し胸が空気を補給しようとしていた。仇敵のように僕を睨みつける顔は血の気が引いていた。 「あんたは十分すぎるほど愛されてた。ミサトにレイ、それからあたしに。でもあたしはこれまでに誰に愛された事があるっていうの?」 好きだった。と僕は言った。つっかえないように、ゆっくり、一語一語、切るように話した。 「ミサトやレイも好きだった。でも君への想いがそれに劣っていることはなかった」 彼女の顔から急激に力が抜けていくのがわかった。震えは唇から始まって全身に広がり、貧血を起こしたようによろめき、キチネットに手を置いてうなだれた。その顔を髪が覆い隠した。Tシャツの背中が震えている。 「あんたのそういうところが大っ嫌いなのよ。未練たらしくて」 僕を非難する声の中に痛みがあった。アスカは腹痛を抱えたように体をかがめた、顔を隠している髪がキチネットを覆う銀色の板に触れた。 「あれは何、なんで私の首を絞めたわけ」 怖かった。と僕は答えた。 「大切なものを失ってきたんだ。母さんは実験の犠牲になって、トウジとレイは使徒にやられた。居場所と思えた施設はなくした。また失うことになるんじゃないかと思った。失うのはもうたくさんだったんだ」 「もう、いいの」 アスカは聞き取れないほどの小声で呟いた。微笑んでいるようにさえ見える顔で僕を見た。 「わたしに何の興味もないかと思ったら、ふと優しくしてくれる。わたしが誘えば拒否しないくせに、一線よりもこっちには来てくれない。わたしは次々現れるライバルに嫉妬する。そういうのはもう嫌なの。今度はわたしが絞める側になるから」 電池が切れる寸前のロボットのような動きでベッドへ向かって歩き出した。途中でよろけて肩から壁にぶつかった。 一度もこちらを振り返らずにベッドに入ると、毛布を引き寄せて頭からかぶった。 名前を呼んでも何の反応も返してくれなかった。 僕は長いこと椅子に座ったまま安物の加湿器が勢いの悪い煙を出すのを見ていた。アドレナリンが引くまで待ち、そっと立ち上がり、エアコンの温度を上げて1時間で切れるようにタイマーをセットした。クローゼットを空けて上部の棚から予備の毛布を引っ張り出すと、二つに折ってカーペットの上に敷いた。 喉が渇いていたので、キチネットで電気コンロに倒れ掛かっている飲みかけのペットボトルのキャップを外した。僕とアスカのどちらの飲みかけだったか疑問に思いながら飲み干してリサイクルボックスに入れる。 明かりを消す前にベッドを見た。アスカは1ミリたりとも動いていなかった。 暗闇に目が慣れるまで待って二つ折りの毛布の間に体を滑り込ませた。エアコンの稼動音がして、どこか遠くで金属が触れ合う音と混じり合っている。 空気と加湿器と僕の心臓以外に動いている物の気配はなく、僕は毛布の起毛の連なりをじっと眺めていた。 |