一万倍

 頬に何かが触れる感触で目を覚ました。ほんの一瞬、それが唇の感触のように思えた。それが二本の指だとわかるにつれて、痛みが走って僕を現実に連れ戻した。
「電話番号は何?」
アスカが僕の顔を覗き込んでいた。窓から差す光が髪に光沢を与えて輪郭をぼんやりとさせている。
「電話番号?」僕はめをこすった。頬に違和感がある。
「航空会社のよ」
ああ、僕は床に落ちているズボンのポケットから財布を取り出し、紙幣と一緒に入れていていたメモを差し出した。
「前はもっと朝に強かったよね。体質が変わったの?」
アスカはまだ僕の体温が残っているベッドに座り、受話器を取り上げた。ナイトスタンドの埋め込み式デジタル時計は9時を指していた。
 昨夜、僕が並べたままになっているソファに座って再び目をこする。視界に霧がかかったまま、航空会社と交渉を始めたアスカの声をぼんやりと聞き、喉が渇いていることに気がついてバスルームで水道の水を少し飲んだ。水は錆び臭くて驚くほどまずかった。
 グレイザーに殴られた場所は変色こそ少なかったものの腫れて熱をもっていた。触るとつねるのに似た痛みを感じる。ゆっくり顔を洗ってからアメニティーで歯を磨いた。
 アスカはまだ交渉を続けていて、口調だけではどういう事になっているのかは分からない。
 タオル干しにかけていたシャツはすっかり乾いて血の跡も無くなっていた。裾がよじれたまま脱ぎ捨ててあったズボンをはき、着替え終えてからソファに戻るとアスカがこちらに二本の指を立てて見せた。
「うまくいったわ。金曜日の便に変更してもらえた」
「ほんとうに?」
「感謝してよね」
得意げに言って両手をベッドに付いた。指差した先でコーヒーメイカーが音を立てていて、僕は意味を理解した。
「グレイザーには連絡した?」
「そっちの方が問題よね」
テーブルの上に置いてあった携帯電話を持ってくると、ボタンを押して開いた。短縮ボタンを操作してから頭を振って髪をどかせ、耳に当てる。
 さっきよりは神妙な短い言葉のやり取りが交わされて、その間に一度だけ僕を見た。
「彼、ホテルに泊まったそうよ。戻ってくると思ってたみたい」
「怒ってたかな?」
「会ってもいきなり殴られることはないと思う。悪いヤツじゃないから」
「すごいいいヤツだと思う」僕が訂正するとアスカは言葉の代わりにゆっくり頷いた。
「事情は説明したの?」
「あなたが帰国してからするって約束した」
「ヘルガにもしてあげないと」
「それは自分でやって、わたしは嫌よ」
放り投げられた携帯電話をキャッチして、液晶に視線を落とす。
「何て言えばいいんだろ?」
「自分で考えなさいよ」
頼れる物があるとすぐに頼りたがる。そう続けたかったのだと僕は察した。
 アスカの手前もあって番号を一気にプッシュした。ヘルガは出なかった。呼び出し音を聞きながら首を振り、留守電の応答が始まったところで切った。
「出ないよ」携帯電話を閉じてコーヒーを満たしたマグと一緒に渡す。
「恋心は喧嘩の最高の起爆剤。って言葉がドイツにはあるのよ」
アスカは冷やかすように言った。僕の手には僕の分のマグが残った。豆はスーパーで最も安かった製粉済みのやつだで、水は水道水だ。アスカが先に口をつけて顔をしかめたので、飲むのを止めた。
 寝起きの違和感が消えず、目じりを揉んでそれが頬の晴れのせいだと思い出したところで、今日の計画を尋ねた。
「まずは警察署ね。そこでエキサイティングなことにならなければ、それから大使館。歩いていける距離よ」
「週末でも対応してくれる?」
してくれる。アスカは再び独創的な仕上がりとなったコーヒーに挑戦した。
「一度行ったことがある。そのときも週末だったわ」
「日本大使館に用があったの?」
「国籍の取得権利を放棄しに」
アスカの国籍はアメリカだと、ミサトから紹介された時に聞いた覚えがある。
「国籍はアメリカだったんじゃ?」
「あれは仮国籍よ。成人するまでのね」コーヒーをシンクに流してから言った。
「少し前にアメリカ大使館から連絡が来たの。本当は申請しないと自動的に権利は消滅してアメリカになるんだけど、わたしには事情があったから」
そこで腕をさすった。
「日本国籍を放棄した後、アメリカに行くように勧められた。住居と仕事は用意するって言ってた。シカゴだったわ」
「でも行かなかったんだ」
「アメリカンドリームを我が手に。って気分でもないから」
僕はコーヒメーカーの電源を切って、たっぷりあまったコーヒーを流し、隣に立ったアスカに空のサーバーを渡す。アスカは手早くそれを洗って乾燥台に乗せる。僕はその間にストレーナーのコーヒー豆をゴミ箱に捨てた。
「行こうか」ドアへと促すと、アスカが答えた。
「お先にどうぞ」

 外は雲ひとつなく晴れ渡り、少し暑いぐらいだった。
 途中でアスカは銀行に立ち寄った。入り口で若い男に声を掛けられて何か話している。散歩中のダックスフンドが歩道に突っ立っている僕の足の匂いをかいだ。無垢な目で僕を見上げて尻尾を左右に動かした。飼い主にリード引っ張られると大人しくそれに従う。
アスカは戻ってくるなり言った。
「ものすごい勢いで金を使ってるわ」
「ちゃんと返すよ」
「まったく期待してないけどね」
「日本ではちゃんと働いてた」
アスカはふーんと鼻を鳴らしていつの間にか買ったガムのロールを取り出して包み紙を解いて口に入れた。
「バーででしょ?どうも信じられない」
「配達記録で給与明細を送ろうか?」
「あなたがバーみたいな場所で働けるってことがよ」
ロールから新しいのを取り出して僕に勧めた。「とにかく返すよ」ガムを口に放り込むと刺激的なミント味が口に広がった。
「利子が付いてくるのを期待しとくね」
<Grun Hotel>の前で客待ちのタクシーに混じってアルファロメオが止まっていた。グレイザーはシートをリクライニングにして目を閉じていた。顔色が二日酔いで青白く、とても疲れた様子だった。こちらに気が付いているのか微かに眉間に皺を寄せている。楽しい夜ではなかっただろうな、と僕は思った。
 アスカが窓を叩くと身を起こしてアスカと僕を順番に見た。リアウインドーが開いてドアが開錠される音がした。僕の荷物は後部座席にあった。ドアを開いて荷物を取り出す。
グレイザーはアスカの言葉の殆どに首を振って短い返答を返していた。
僕がドアを閉めるとエンジンをかけて後退し、車の縦列を抜けて走り去っていった。
「今は何も話したくないって」
それ以上、僕に訊く事は無かった。僕たちは警察署に向かう途中の手ごろなカフェテリアに入り、二人でパリジャンサンドとコーヒーの朝食を取った。うららか過ぎるほどの休日の朝で、サンドのレタスはそれと同じぐらいみずみずしく、コーヒーは水道水で入れたのとは比べ物にならないぐらい旨かった。
「このままどこかへ行きたい気分ね」
思いがけず甘えるような口調で言ったので、僕はあやうく熱湯に近いコーヒーを手にこぼすところだった。
 警察署に向かって歩き出して、僕はシゲルに電話をかけておくべきだと気が付いた。
 アスカに断ってから公衆電話に入り、ポケットに残っていたコインをありったけ投入し、それでも足りなさそうだったので、気が進まないがアスカから借りてからダイヤルする。
 電話に出たシゲルは眠そうな声で応じた。あちらは夜だと思った。帰国が遅れることを伝えると、シゲルは分かった。とアクビを堪えながら答えた。
(アスカに会ったのか?)
「ええ」
(元気にしてたかい?)
「すぐ側にいます」
そうか、再びアクビを堪えているようだった。それから沈黙した。マヤのことを考えているのだろうかと思った。だが、マヤについては触れなかった。
(働くことにしたよ)
「バンドは?」
(解散さ。もう存在意義もなくなったからね。ちょうど働かないかって誘われてたんだ)
「また自衛隊ですか?」
(似たようなところだけど違うよ。戻って来たら話す。アスカによろしく言っておいてくれ)
僕は電話を切った。電話ボックスを出て会話の内容を伝えようとすると
「いいわ。興味ないから」と断わられた。
 警察署の門を通り過ぎて、駐車場から建物の入り口へ向かう。駐車場はがらがらで、歩いているのは僕たちだけだった。受付ロビーも同様でテレビの横で立ち話をしている警官も僕たちが入ってきても見ることもしなかった。
 受付の女性に用件を告げると待っているように言われた。受付デスクの向うも職員が少ない。二つの通報に同時に対応している電話係だけが唯一忙しそうな人間だった。
聴取室へ続く廊下のドアが開いて、昨日と同じ禿げた金髪の男がわたしたちを手招きした。アスカと僕は目を合わせた。彼女は努めて自信満々に見えるよう、気丈な顔を作っていた。
 昨日とは別の、しかし作りはまったく同じ部屋に通された。中では背広の男二人が机の上のラップトップパソコンの画面を覗き込んでいた。一人は昨日の背広の男だ。
 もう一人はかなり太った中年でこちらを見るなりニコニコと笑った。肥満していると出世できないという話しは、ドイツでも同じなのだろうかと椅子に座りながら考えた。
「何か飲む?コーヒーしかないけれど」
太った男が日本語で言ったので、僕は驚いた。遠慮します。と答えると中年の男は「日本で飲んだコーヒーの味が忘れなれないよ」と流暢に言った。好意的な口調でまた殴られる心配はなさそうだと安心する。
「諜報局のステイザーです。このためにシュテンザインから来たんです」ステイザーは手を差し出した。握った手は分厚かった。
 昨日と同じ配置で僕たちは席についた。僕たちの前にこの部屋を使っていた人間が残した灰皿が部屋の隅のスチール製の書棚に置いてある。そこから発せられる匂いと、酒の匂いが混じっていた。この部屋の人間全員がそれにウンザリしている。
「まずはパスポートの件です。ハウスキーパーが掃除に入った際に盗んだと白状しました」
その言葉に安心して胸をなでおろす。「諜報局だと言ったらすぐに白状したんだ」彼はそう付け足した。
「けれど、パスポートはもう闇ルートに流れてしまって取り返すことはできません。紛失証明書を発行しました」
ステイザーは手にしていた黒いファイルから紙を抜き出して机の上に置いた。アスカがそれを手にとって内容を確認している。スーツの男がラップトップコンピューターのキーボードを猛烈な勢いで叩いた。同僚にさっさと済ませろと圧力をかけているようにも見える。
 スレイザーはパイプ椅子を引き寄せて腰を下ろした。青い生地に灰色の縦縞の入ったシャツで、ネクタイはスヌーピーとウッドストックで埋め尽くされていた。
「ドイツに来た目的を教えてくれませんか?」
「理由は特にありませんよ」
「あなたがドイツに来てからの足取りを調べさせてもらいました。アスカさんに会いにきたんじゃないでしょうか?」
「理由があるとすればそれぐらいです」
またこの質問だ。僕は顔をしかめ、アスカは紛失証明書をテーブルの上に置いた。こちらは見なかった。
「ただ会うためだけですか?」
「どういう意味です?」
スレイザーはパートナーと短くドイツ語を交わした。アスカは理解できているだろうが、何も言わずに二人を見つめている。
「アスカさんを日本へ連れて帰るつもりではないですか?約束があったとか?」
僕はアスカを見た。アスカはそれを日本語とドイツ語の両方を使って否定した。スーツの男はキーボードをまた叩いた。
「ドイツに来てから誰か知らない人間が接触してきた人はいましたか?」
「まったくいません」
「日本にいるときは?」
「それは生活していれば普通にあります」
再びドイツ語。スーツの男がコンピューターの液晶画面を指差して、スレイザーに見せながら画面をなぞる。僕の14年間のことが表示されているのだと感じた。それもかなり詳細に。
「だれかに国外で働くことを誘われた経験は?」
「ありません」
二人の会話に日本を示す言葉が何度か出たのを聞き取った。それから幾度となくエヴァという言葉が繰り出され、そのたびに胃を無理やり引っ張られるような気がする。アスカは興味なさそうに自分の指の爪の具合を確かめていた。
「シンジさん」
「はい」
「あなたは日本を出ないほうがいい」
理由は訊かなかった。訊く必要もない。自分が忘れ去られた人間でなかったことを思い知らされて、背中に芋虫でも入れられたような心地がした。
「日本政府があなたの出国を止めなかったことに、私たちは驚いているんです」
スレイザーが僕の緊張をほぐすように微笑みながら語りかけた。
「ドイツにいる間は監察員が付きます。ですが、監察員があなたに話しかけることや、行動を邪魔したりすることはありません。姿も見せません。あなたが通常の旅行者である限り、いないものと考えてもらって結構です」
「はい」
「日本に帰ったら、政府機関から召喚されて同じようなことを質問されるでしょう」
「わかりました」
スレイザーは頷いてパートナーに言葉を投げかけた。スーツの男は僕に視線を投げてからラップトップの液晶を閉じた。表情を変えずに立ち上がる。
「終わったよ」スーツの男が言う。
「以上です。ありがとうございました」
スレイザーが言葉を足して手を差し出す。スーツの男は一刻も早く報告書を書きたそうだった。
「All done(全て終わった)だ。君たちはクリーンだ」
スレイザーがドアを開き、先に出ようとしたアスカを呼び止めた。
「傷跡を消しましたね」
「去年に消したわ。それが何?」
「賢い選択です。とても美人ですよ」
「どうもありがとう」
それからスレイザーは口調を正して僕にお別れと、忠告を告げた。
「あなたはきっと、二度と日本を出れないでしょう」
有名人に向けるような目で僕を見た。
「僕は危険人物なんですね」
「あなたに同情しますが、そういうことです」
何か言うべきかを考えていると廊下を少年が横切った。少年の顔には喧嘩の勲章として真新しい眼帯が巻かれていて、見えるほうの目で僕の頬の具合を窺った。自分の傷の方がひどいと分かると、少年は身柄を引き取りにきた母親をどやしつけた。母親の目は真っ赤で、少年の声は変声期を終えたばかりのようだ。
僕たちは母子の後を追って警察署を出た。拍子抜けするぐらい簡単に終わったことで、なんだか体中の力が抜けてふらふらした。母子の二人は駐車場に止めてあった軽自動車に乗り込んだ。何か言った息子に母親が平手を食らわせるのを見た。
 僕たちはそのまま日本大使館へ赴いて手続きを済ませた。事務手続き費用という名目でまたアスカに金を使わせてしまった。
それから光りで溢れかえる街路を目的地もなく、あえて上げれば今夜を過ごす場所、を求めて歩いた。
 僕たちは大きな仕事を終えたが嬉しさはなく無言で歩き続けた。それは14年前の、僕たちしかいない世界をさ迷った日に似ているようだった。
 街は美しく、空は深く静かで、それを邪魔する物もなかった。
 車体をドイツ国旗と同じ色に染めた路面電車が僕たちを追い越していき、起きた風が電柱に夥しく貼られたポスターをはためかせた。
 自転車に乗った少年の一団が僕たちを障害物に見立てて危なっかしく避けて走り去っていく。その背中にはぱんぱんに膨らんだスポーツバッグが揺れていた。
 その背中が正面にテレビ塔の見える通りから左に折れて消えると、警察署を出てから考えていたことを口に出した。
「またどこかでエヴァを作っていたりするのかな」
さあね。アスカは他人事のように呟いた。
二人とも空腹は感じていなかったが食堂に入った。アスカは料理にほとんど口をつけず、僕の皿から輪切りのピクルスをフォークに刺して食べた。
「アレはマギのような高性能のシステムが無ければ動かせる代物じゃないし、もうマギは無い」
ピクルスがアスカの口の中で咀嚼されるのを見つめながら、僕は京都の冬月の墓の前で出会ったマヤのことを思い出した。
 マヤがマギの再生に挑んでいる。僕がその考えにたどり着く前にアスカが言った。
「もしそうだとしても、もう私たちには関係ないわ。私はぜったいに乗らないし、乗れないと思う。あれは乗る人を選ぶから。あなたもそう思うでしょ」
「使徒はもういないのに。戦争に使われるのかもしれない。だとしたら誰かがまた操縦させられるんだ」
「やめなよ」
フォークを置いた手で紙ナプキンを抜き取り、口を拭いてくしゃくしゃに丸めた。計算書を挟んでいるプラスティックの板を引き寄せて、順番に小指から人差し指まで使って叩く。
「少なくとも、私たちがアレを動かしていた時代は終わったのよ」
僕たちはそのまま見つめあった。ほんの数秒が1週間にも感じられるぐらい長かった。その間に僕の心を支配していたのは、エヴァに乗る前にいつも感じていた不安に似た居心地の悪さだった。
「行くわよ」椅子から立ち上がってアスカが言う。
「どこへ」我ながら間抜けた声を出した。
「観光よ。市庁舎には行ったの?ブランデンブルグ門は?」
「行ったよ」
「じゃあ、全部やり直すのよ」
僕たちはトーストをまるまる残して食堂を出た。
 食堂から最も近くにあった宿に飛び込んで荷物を投げ出してから、僕たちは市庁舎に併設された歴史館を見学し、ブランデンブルグ門をバックに写真を撮り、旧市街の蚤の市でひんしゅくを買いながら走り回った。
 アスカは僕を連れまわすことに夢中になっていて、それでいてよく笑った。僕をコケにして笑い、急に僕を頼るような行動をしては困惑する僕を見て満足そうにはしゃいだ。
 それが3日続き、観光するような場所も行きつくしてしまうと、当てもなく街をぶらぶらと歩き回った。ホテルに戻ると二人とも一歩も動けないほど疲れていたが、それでも何度かセックスして眠った。
 木曜日、ベルリンは雪になった。昨日までの晴天で乾いていた町を雪はあっという間に白く染めなおした。
 僕たちはお気に入りのティーア公園へ出かけた。
 人のいない公園を中心に向かって歩き、二人で戦勝記念塔を見上げた。その頂点では勝利の女神のヴィクトリア像が天に向かって両手を広げている。
 金色に輝くその腕にも翼にも雪が積もっていた。
夜、僕がドイツにいられる最後の夜、アスカはラーメンが食べたいと言い出し、雪の中で中華街と日本食店を探し回った。
先にアスカがシャワーを浴びている間に、僕は荷物を整理した。不要なものをゴミ箱に捨てるとバッグは日本を出た時よりも軽くなった。
それからロビーへ降りて公衆電話から電話をかけた。ヘルガに事情を全て話した。僕は自分の事を14年前の箱舟を起こした張本人だと言った。全てを聞き終えてからヘルガは、そう、とだけ答え、長い沈黙を置いた。
(私はこんな時代になっても神を信じてる。あれは断じて神が起こしたのよ。あなたが演じたのは「従順な人」のノアのほうだわ)
僕が電話を終えて戻ってくると、アスカが待ち構えていた。備品の生地の薄いローブは着ずに、蚤の市で買った灰色のTシャツを着ていた。半乾きの髪が赤く見える。
移植痕が前髪で隠れているのを確かめると、マホガニー色に着色した椅子を叩いて僕を促した。
「さあ、始めるわよ」
「なにを?」僕は訊いた。
「一生最後のお別れよ」