一万倍

 近くのレストランに入り4人で食事を取った。店内は週末を楽しむ人たちで混んでいて、騒がしかった。ウエイターが黄金色の液体を満たしたジョッキを両手いっぱいに持って動き回っている。
 僕とヘルガが並んで座り、アスカとグレイザーが正面に回った。傍目から見ればカップル同士が食事しているように見えるだろう。少なくともグレイザーはその気でいるし、周囲からはそう見えるだろう。料理を運ぶウェイターもそう思っている。
僕たちはそれなりに打ち解けた会話をし、それなりに笑いもした。最も楽しんでいないのは僕で、それは言葉の制約とこの2日で起きた出来事のせいだと自覚していた。
 料理の置き場に困るぐらい空のジョッキやグラスがテーブルにたまったところでグレイザーが席を立ってトイレに向かった。僕はその背中を目で追った。髪の短い女性ウェイターとぶつかりかけて、こちらを指差して声をかけてからカウンターの後ろを歩いていく。
 僕はカウンターの客に目を留めた。その二人組みはトイレに向かっていくグレイザーの後姿を見とどけてから互いに視線を交わし、それからこちらを見ようとして僕と目が合うとバーテンダーに向き直った。二人は同じオリーブの入ったカクテルを飲んでいて週末を楽しんでいる様子ではなかった。
 突然現れたエヴァの元操縦者がもう一人と接触している。その事実がこの国の諜報局をこの上もなく興奮させたのだと悟る。
 僕たちがアルコール摂取によってこの国の経済に貢献している今も日本とドイツの間では活発な情報のやり取りがされているに違いない。
「ちょっとシンジ」
名前を呼ばれてアスカを見ると、飛んできたピーナッツが頬に当たった。
「あんた本当に帰る気なの?」
グレイザーとぶつかりかけたウェイターが空のジョッキを一気に5つもつかんだ。アスカがそれに注文を加えた。
「これだけ迷惑かけたんだから、何かしなさいよ」アスカはだいぶ酔っている。
「何をすればいいんだよ」腹に落ちたピーナッツを元の場所に戻す。
「もう少しこっちにいるっていうのは?名案だと思う」ヘルガが言った。アルコールと暖房で顔が赤くなっている。コートの下のシャツも脱いで、この場でこれ以上脱げるものはなくなっていた。黒いタンクトップで肩が露になっていて、肩から腕にかけて毛はきれいに剃られて一本もなかった。
「そういうことじゃないの」アスカがドイツ語でヘルガと秘密めいた会話を始める。
僕はカウンターの二人組みを見た。カクテルは減っておらず、お互いを見ずに言葉をやりとりしている。
 またピーナッツが飛んできて、今度は避けた。ピーナッツは仕切り板にあたって床に落ちた。ウエストエリアで閉店後の掃除でよく落ちていたことを思い出す。
 グレイザーがビールジョッキを持って戻ってきた「おまちどお」と覚えたばかりの日本語を言った。子供のようなまぶしいぐらいの笑顔だった。
 僕はもう飲む気にはなれず水ばかりを飲んだ。日本語勉強会が始まっていたが僕はそれには本気で加わらず、その間ずっと別のことを考えていた。
「帰ろうか」
酒が半分なくなったところで僕は言った。グレイザーはちょっと不服そうな顔をしたが、もうすでにいい時間になっていた。
 チップの計算を任せて僕は先に席を離れた。カウンターを通りすぎながら、二人組みに視線を送った。二人組みももう気がついているらしく、僕にむかって非常に刺々しい視線を向けた。
 僕は彼らが14年前の出来事で家族や友人を失っていないことを願った。
 ヘルガが冷たい外気に触れて両手で自分の体を抱いた。
「ホテルに戻って飲み直しね。帰宅を考えなくていいから楽だわ」
「帰ったほうがいい」
ヘルガはコートに腕を通そうとして、袖の中で左腕が引っかかったまま動きを止めてこちらを見た。
「どうしたの?」
ヘルガはどうにか平静を保ちながら言った。僕たちの脇を組んだカップルが通り過ぎた。
「何か機嫌を損ねるようなことを言ったなら謝るわ」
肯定しようか一瞬まよい、それから首を振った「ちがうんだ」「わけが分からない」「すまない」
アスカが先に出てきて、僕たちを見て不審な顔をした。
「ヘルガに帰るように言ったんだ」
「理由は教えてくれずにね」
「あんたってそんなに気まぐれだったっけ?」
「そういう人だったみたいよ」驚きが怒りに変質していくのがわかる。
「帰ったほうがいいんだ」
アスカは僕の表情から何かを読み取ろうとして、無理だとわかるとヘルガに向き直った。
「よくわからないけど、シンジはそういう…」
僕を弁護しようと喋りはじめた時、携帯電話が鳴り始めた。アスカは舌打ちして携帯電話を手に僕たちから離れた。
「僕たちと関わらない方がいいって気がついたんだ」
「私だけ仲間はずれにするのね?」
「僕とアスカは、その、人に話しちゃいけない過去があるんだ」僕は言葉を選んで話した。
「グレイザーにはその過去を聞く権利があるの?」
「ないよ」僕が言うとほぼ同時にグレイザーが扉を開けた。
「どうしたんだ?」
その背後で閉じていくドアの奥で二人組みが金を精算しているのが見えた。ヘルガが事情を話す。
「おいおい、部屋はもう取っちまってるんだぞ」
「彼女のぶんは帰国してから僕が払うよ」
グレイザーが何か言いかけたのをヘルガが止め、僕に刺すような視線を向けた。
「よく分からないけど、そうしろって言うならそうするわ」
グレイザーの制止を振りきり、止めたタクシーのドアを荒っぽく開いた。乗り込む直前にもう一度同じ視線を僕に向ける。アスカは電話を耳に押し付けたままそれを見ている。
「何が理由の喧嘩なんだ?」
僕はとことん汚れ役を演じてみせるべきかを考えてだまりこくった。電話を終えたアスカが僕の腕をつかみ、離れたところへと引っ張っていく。十分な距離までくると顔を近くに寄せてきた。
「何を考えているの?」
「監視がいたんだ」
「そりゃいるでしょうね。でもヘルガにはなんの関係もないじゃない」
「二人は僕たちがエヴァに乗っていたことを知らないんだ。普通の人なんだよ」
痛みを感じるほど強く握っていたアスカの手が離れた。その手で髪をかきあげ、白いうなじが一瞬だけ露になった。息を吐いて頭を振る。石鹸と酒のまじった匂いがした。
 アスカは感情の混じりあった複雑な目で僕を見つめた。今は右目の上の皮膚が別物だとはっきりと分かった。
「何がしたいのかは分かった」
髪を撫で付けて元に戻す。心配したグレイザーが近づいてきた。
「ともかく戻ろう」グレイザーはポケットから鍵を取り出した。
「いいの、悪いけどあなたも帰ってもらう」
そうはいかない。グレイザーは僕をちらっと見た。
「帰って欲しいのよ。この人と話があるのよ」
グレイザーは不満の意思をあらわにした。
「二人で話せる時間を作るよ」
「足りないわ、一晩かかる」
「二人で同じ部屋に泊まるのか?」
「そうなるかもね」
「ならなおさら了承できないな」
グレイザーが僕に聞かせたくない質問をドイツ語で何か言い、アスカがそれに答えた。グレイザーの顔が途端に険しくなった。
「この嘘つきのマザーファッカー」
人生で最高記録の憤怒で言われたと同時に拳が飛んできた。僕はまともに顔に食らって倒れ、アスファルトに頬擦りすることになった。顔も頭の中も燃えたようになり、皮膚の下を熱が動き回っている。耳の中で血管がどくどくと音を立てて、鼻から生暖かい物が伝って唇に垂れてきた。
 吐きそうになるのを堪えてどうにか身を起こした。すでに人だかりができており、グレイザーが一歩でも踏み出せば押し留める用意をしている。
「このろくでなし!お前はクソ野郎だ。お前もだ」
アスカを突き飛ばそうとして、即席のレフェリーたちが間に割ってはいる。
「勝手にやれよ、ぶっ倒れるまでやってりゃいいさ」
グレイザーは大声でわめき散らすと、背を向けて去っていった。
 指で唇をさわり、付いた血を指でこすった。アスカが近づいて手を伸ばした。僕は自力で立った。親切な女がバッグからティシューを差し出してくれた。
僕は野次馬たちに思わず頭を下げた。ゆで蛸のように禿げた頭まで真っ赤にした老人が僕の背中を叩いて笑った。ティシューはすぐに真っ赤になった。
足が言うことをきくようになるまでアスカは待っていてくれた。頬はまだ熱を持っていたが僕たちはホテルへ向かって並んで歩いた。
「どうしてあんなに怒ったんだろ」
「あなたとセックスするのか。って聞かれたのよ」
「それで」
「もうやったって言ってやった」
「どうして」
「何か間違ってる?本当じゃない」
そのまま十歩ほど進んだ。頬の中の熱は頑固に残っていて街灯の柱に押し付けたい気分だった。
「あなたが白人美女と仲良くなるチャンスを自分でつぶしたからよ。わたしもそれを見習ったってわけ。全部済んだら二人に話しておいてあげる」
ティシューの最後の一枚を取り出して、血のついた紙をゴミ箱に投げ捨てた。
「僕のことを嘘つきだって言ってたよ」
「嘘をついたからじゃない?」
僕は記憶を探り、思い当たったことを口に出した。
「アスカは喜んでいたか。って、意味が分からなかった」
「やったか?ってことよ。その回りくどい言い方」
「そんなの分からないよ」
アスカが吹き出し、白い息が揺れた。
「いいんじゃない?頬に素敵なペイントをしてくれたんだし」
笑うと頬が痛んだ。慌てて手で覆う。
「ホテルに戻らないと、血は止まった?」
「止まった」と僕。それから重大な事実に気がついた。
「鍵がない。グレイザーが持ってる」
「荷物もホテルに置きっぱなしじゃない」
僕は痛みを堪えた。アスカはお構いなしに腹を抱えて笑い始めた。どうでも良くなって僕も笑った。笑いすぎて目に涙が浮かんだ。


「グレイザーはホテルに戻ってるんじゃないかな」
「ほっとけばいいのよ。明日、電話する」
アスカは携帯をバイブレーションモードに切り替えてバッグにしまった。彼女はクレジットカードを持っていなかった。
「カード会社はわたしみたいな人間にカードを持たすのは危ないと思ってるの。信頼されてないのよ」
僕は納得して財布を取り出した。現金はもう底をついていたので、カードしか選択肢がなかった。
アスカはカード会社に信頼されていなかったが、僕もまたカード会社の信頼を保つギリギリのところにいた。
 与信残高はすでに限度額に近いはずで、今日の為替相場によっては拒否されるかもしれなかった。僕が祈るような気持ちでいると、与信はすんなりと通った。
「大丈夫ですか?医療箱をお持ちしましょうか」
カウンターで僕の姿を見た女が言った。
「だいじょうぶ」僕はカードを受け取りながら答える。
僕の荷物が泊まることになった部屋よりはだいぶグレードの落ちるダブルの部屋に入ると、まっすぐバスルームへむかった。
 唇の周りとシャツに点々と血が散っていた。頬は変色するのを待ちきれない様子だった。誰が見ても喧嘩の後で一方的に殴られたんだと分かる。
 こういうのがとても嫌いだったはずだ。と僕はもう一人の僕に言い、もう一人の僕は、大人になったってことだろ。と返事した。事なかれ主義の報いがやってきたんだと。
 蛇口を調節してぬるま湯にしてから、血を拭い落とした。
 部屋に戻るとアスカが冷蔵庫のクラッシュアイスをビニール袋に移し変えているところだった。それを受け取って頬にあてがう。
アスカは尻でベッドを弾ませながら座ると長い息を吐いた。そうして冷蔵庫を開けたり、クローゼットを開けたりしている僕に言った。
「先に浴びるわ」
水の流れる音を聞きながら氷嚢の位置を何度か直した。そのうち面倒になってベッドに横になって頬に乗せた。
途中、バスルームから小さな声と共に硬いものが床に落ちる音が聞こえたが、声はかけなかった。
「今度はあなたの番」
白いバスローブを着て、同じ色のタオルを頭に巻いたアスカが壁に手を置き、かかとの裏を手で探っている。
「頭からかぶるとまた血がでるよ」
「わかってる」
僕は急いでバスルームに入った。湿気で鏡が曇っていてアメニティーの石鹸とシャンプーのボトルの封が切られていた。
 ぬるめのシャワーを時間をかけて浴び、シャツを洗ってから部屋に戻った。アスカは窓際のカウチに座って外を見ていた。テーブルの上にはすでに空になったアラキスの缶ビールが二本置いてあった。
「酒すきなの?」
僕はテーブルを挟んで反対側の二人掛けのカウチに座った。そうでもない。とアスカ。眠そうに目を細めている。
「眠くなった?」
「力が抜けた」アスカは呟いた。「ぼおっとする」
頭に巻いていたタオルを解いて乱暴に髪を拭き、乱れた髪を手で撫で付けてから肘置きにかけた。
「加湿器を借りてくるのを忘れたわ」
アスカが内線電話でフロントと話している間、僕はアスカがそうしていたように窓の外を見た。通りをはさんで向かい側のビルの窓は全て明かりが消えていて、ブラインドが下りている。
 ベルが鳴ってボーイが加湿器を運んできた。アスカはそれを受け取り、冷蔵庫に寄り道して缶ビールを持って戻ってきた。あなたも飲みなさいよ。と言って缶を僕に放り、ナイトスタンドに加湿器を置いてコンセントを差し込むと、加湿器は無音のままノズルから白い煙を吐き出した。
 それからまっすぐに僕のところまでやってきて、わざわざ隣に座った。濡れてまとまった髪の隙間から首筋が見える。ゆでたカマボコみたいだと思った。
僕は理性が止めるよりも先にアスカの背中に手を回していた。アスカは拒否せずにそのまま僕の腕を受け入れた。体に力は入っていなかった。
 腕に僕よりも高い体温を感じた頃、アスカが言った。
「みんなが一つになっている間、私はどうなっていたと思う?」
あまりに唐突でその質問を理解するのにしばらくかかった。僕の答えを待たずに喋り始めた。
「私はエントリープラグに閉じ込められたまま海にぷかぷか浮いていたの。怖かったわ」
そうだったんだ。僕は言い、力の入っていない体を抱えなおそうとした。彼女の体は支えを失った人形のように僕に向かって崩れ、両腕の中にすっぽりと納まった。
 僕の胸に頬を押し付けて赤ん坊のように身を縮めている。目は開いていて長いまつげが細かく震えていた。見えているのは僕の着ているローブの繊維の絡みぐらいだろう。
アスカは頬の位置を直して小さく鼻をすすった。
「あなたは何してたの?」
「この14年?」
「溶けている時よ」
「綾波と話していた気がする。あとは母さんに会った」
綾波レイね…殆ど聞き取れない声で名前を言った。
「あの子と何を話したの?」
「覚えてないよ」
そう。アスカの手が動いて僕の腕に手を添えた。
「あの子、死んだのよね」
「たぶん」「ミサトも?」「うん」
知っている名前を挙げ続けるのかと思ったが、アスカはそれで十分という風に目を閉じた。追加されたビール缶二本分のアルコールが急激に体を巡りはじめたようだった。
「今になってあの二人を尊敬する気持ちになる。あの二人は一度も逃げなかった」
「アスカは戦うのが嫌だった?」
栓を空けていない缶をテーブルに置いた。街の音がかすかに聞こえてくる。「そうかもしれない」
「そんな風には見えなかったよ」
「あんたにはきっと分からない」
アスカの手が僕の背中と背もたれの間に強引に入ってきた。僕は背を浮かせた。
「少なくとも、あの二人は私たちよりも自分に正直だったと思うわ」
「どうして」そう訊いたが、アスカは睡魔に抗えない様子で目を閉じた。逃げなかった。アスカが言った。
「あなたも私もガキだったのよ。閉じこもって、言い訳の立つ状況を自分で作ろうとしてたのよ」
「そうだね」僕は否定しなかった。
「生まれ変わったら、思いっきり愛されるってのを体験してみたいもんだわ」
それが、眠りに落ちる前の最後の言葉だった。

 アスカをベッドに運んでから、ソファを並べて寝場所を作った。部屋の電気を消すと天井の小さな赤色電球の光だけが残った。
 並べたソファに腰掛け、腫れ始めた頬の具合を調べ、それからアスカの様子を見に行った。左わき腹を下にして眠っている。毛布を引き上げて肩までかぶせてやると、アスカは身震いして肩をすくめた。そうしてゆっくり目を開いた。
「寝るの?」
返事すると、首をひねって僕をみた。それから並べられたソファを見つめて「こっちで寝ていいよ」と呟いた。
「そうする」「ええ」
僕は邪魔にならないようにゆっくりとベッドに入った。
「今日はやらないよ。それはまた今度ね」
お互いに背中を付き合わせたまま、僕は声に出さずに頷いた。