一万倍

 シャトルバスがビルの間を高速で走りぬけ、ダウンタウンを目指してゆく。
 町には人の姿が溢れていた。スタンドにはお菓子や新聞が並び、ホットドック屋にはケチャップとマヨネーズ、マスタードのチューブが赤白黄の順番で並んでいる。この並びはどの店でも同じだった。
 バスが何の前触れもなく減速して、扉が開いた。何人かの乗客が荷物を持って降りていった。そうしてバスは何事もなかったように走り出す。
 彼女にずっと近づいたのだという実感がわいてきた。
バスは止まっては走ることを繰り返した。客は次第に少なくなってゆき、ついに市庁舎らしい建物の前で止まった。
乗る前に伝えておいた運転手が席から身を乗り出して、出口を指差した。僕は荷物を取ると、バスを降りた。冷たい雨が僕の体を打った。
僕は逃げるように立ち並ぶ店の中からカフェを選んで入った。
 カフェは僕と同じように雨を避けている客でいっぱいで、席はどこも開いていなかった。僕は荷物を抱えたままカウンターへ行き、メニューを指差してコーヒーを注文した。
 窓際の立ち飲みの席に一人だけ入れそうなスペースがあったので、そこで飲むことにした。ミルクや砂糖を取ってくるのを忘れたことに気がついたが、面倒だったのでそのまま飲んだ。
 白亜の青銅の屋根が酸性の雨に溶けて、白亜の壁にいくつもの黒い筋を作っていた。
 目の前の道に大きな水溜りができていて、車が通るたびに歩道に水を撒き散らしている。淀んだ水は波のように引いてもとの水溜りへと還ってゆく。
 灰色の空からは絶えること無く雨がおちてくる。当分やみそうになかった。
 コーヒーを半分ほど飲んでから、僕は荷物を開いた。今、自分がどこにいるか、地図で確かめたいと思った。
(しまった)
僕は地図を忘れてきてしまっていた。地図だけでなく、ガイドブックも東京の部屋に置いてきてしまった。
(あの時だ)
僕は出発前日の夜になかなか寝付けず、荷物から引っ張り出してベッドでなんとなく眺めたまま忘れてしまったのだ。今頃、部屋の枕元で活躍の場を失ったことを嘆いているだろう。
 海外を旅するのに、地図や本を忘れるなんて、自分はなんて間抜けなのだろうと思った。でも自分はそういう人間なのだと思った。僕は目的を果たせなくなるような重大なヘマはしないが、それに付随する大切なことや物にはいつもヘマをやらかす人間なのだ。
 僕は心の中で自嘲しながら、残りのコーヒーを飲んだ。
 上着のポケットから宿の住所が書かれた紙を取り出して眺める。とにかくここにたどり着かないことにはどうしようもない。
 行き方を尋ねる人を探してあたりを見渡した。右側には若い女性の二人組みがいたが、話に夢中で僕に背中を向けていた。
「すみません」
僕は左側でペーパーバックを読んでいた男性に声をかけた。男性は濃い緑色の帯にペンを握った手が描かれている薄っぺらいペーパーバックから目を離してこちらを見た。
「ここに行くにはどうしたらいいでしょうか?」
紙を差し出すと、男性は眼鏡の位置を直しながらそれを手にとった。
「わからないな。僕はこの町は詳しくないんだ」
すまなそうに言ってから、男性は隣にいた老夫婦とドイツ語で何か言葉を交わしたあと、指で僕を指差した。年配の夫婦は僕の姿を見た後、婦人が男性に何か言った。
「バスでいくのかい」
「はい」
「彼らはタクシーを使ったほうが良いと言っているよ」
「なるだけバスがいいんです」
そう告げると男性は夫人に再び何か告げた。黙っていた夫が少し首を振った。
「ここからかなりあるようだよ。この近くならいくらでも部屋の空いている宿がある。シーズンオフだしね」
「もう予約してしまったんです」
話を聞いた婦人がひらひらと手を振って、足元の荷物を取り上げた。店を出るようだった。
 僕は呆れられたのかと思ったが
「バス停まで連れて行ってくれるそうだよ」
と男性が言った。そして僕の前に立った夫婦にむかって、ダンケ。と言った。僕もそれに続いてドイツ語で礼を言った。婦人はにっこりと笑った。
 店を出る前に、僕は彼女の夫が足に障害があるのに気がついた。夫は足を重そうにしてゆっくり歩いた。
 カフェの扉の前にまで来たところで、さっきの男性が近寄ってきて、婦人に何か話しかけた。夫婦は同時に首を振った。
 いいのよ。もう出るところだったから。そんなことを話しているのだろうと思った。不婦人が先にカフェを出て、夫の頭上に傘を差し差す。
 僕は申し訳のないことをしたと後悔して、夫人が提げて紙袋を持った。僕たちは雨の中をゆっくり歩いてバス停へ向かった。
 屋根付きのバス停に入ると、婦人は看板の文字を眺めた後、僕に向かって一列に並んでいる駅名を指差した。僕は夫人が言った駅名を一度声に出して呟き、何度か心の中で繰り返した。
 赤いコートの女性が椅子を立って夫に席を譲った。
 婦人は夫を座らせた後、僕に日本人か?と聞いたので、そうです。と答えた。婦人はうんうんとうなずいた。座っていた夫が早口で何か言ったがさっぱりわからなかった。
 見かねた赤いコートの女性が通訳してくれた。こんど来ることがあったら、夏にしなさい。と夫は言ったのだった。
 しばらく、窮屈な会話が続いたあと、バスがやってきた。婦人はそれを指差して乗るように伝えた。
 僕は買い物袋を夫人に返してから、礼を言ってバスに乗った。
 赤いコートの女性が運転席を覗き込んで、運転手に何か告げた。運転手は面倒そうにうなずいてから扉を閉めた。