一万倍

 バスとスポーツカーの絶対的な速度の差を思い知らされながら、車は郊外へ続く2車線の道をすっ飛ばしていく。
 アスカは助手席で文句を言い続け、グレイザーがそれをなだめていた。
 僕とヘルガは後部座席でそれを聞きながら時折、顔を見合わせた。ヘルガは苦笑いして首を振った。面白がっているのか、警察署での出来事に嫌悪を抱いているのかは定かでない。定かなのは僕が気をきいた言葉を言ってこれ以上アスカを刺激しない方が良いという事だった。
 グレイザーがカーステレオのスイッチを入れると、僕の知らないロックが始まった。アスカがボリュームを上げて、車内を新車の匂いとロックだらけにした。
 車が住宅街に入ると住所を頼りにヘルガがナビをして、最後に僕が「ここを直進」と説明した。グレイザーはだまって頷き、アルファロメオには不本意であろう速度で道を進んだ。
 僕が先に降りてイゾルデB&Bのポーチへ向かうと、ヘルガが後を追ってきた。
「彼女、暴力的なの?」
「どうして?」
「彼女、かなり怒ってる。あなたの身が不安だわ」
「意外と怒ってないんだよ、あれで」
イゾルデが扉を開けてくれるのを待っている間、ヘルガが僕はもうベルリンから外に出てはいけないこと、アスカも一緒に止まって僕の所在を確認しなければならいことを教えてくれた。
「あなたとゆっくり話したいわ」
「僕の経歴について?」
「あなたの経歴?」
「何も聞いていないの?」
「ただの旅行者じゃないってことは分かったわ。でもそれ以上は分からない」
「別にスパイとか運び屋という事ではないよ」
「だと思う。もしそうだったらとっくに逮捕されているはずだもの」
いつまで待ってもイゾルデが出てこないので、僕は家の脇を通って裏庭へと向かった。
イゾルデはじょうろを地面に置いてからタオルで顔を拭った。「気が付かなかったわ」顎の下に土を拭った跡がついている。
「荷物を取りに来たんです」
「自由に持っていって、ベランダのドアの鍵はあいているから」
それから畑の隅に立っているヘルガを見た。「あれがあなたのお姫様かしら?」
「いいえ」僕は答えた。ヘルガはドイツ語で挨拶した。
 僕は家の中に入って一階の暖炉の前に置いてあった荷物を背負って裏庭へと戻った。二人は笑顔で会話を交わしている。
「気をつけてね。また会えれば嬉しいわ」
イゾルデは僕を抱きしめて頬を寄せてきた。慣れない挨拶に戸惑いながら頬を合わせた。
「いい人だわ。ドイツの良き母親像の典型ね」
うん。僕は二度と訪れないであろうこの場所に別れを告げながらそう答えた。
 アルファロメオではアスカは僕たちとは反対のそっぽを向き、グレイザーはステアリングに両手と顎を乗せていた。
「宿を見つけないといけないな」
グレイザーが英語で言った。「いくつか良いホテルを知ってる。ツインで取ってエクストラベッドを運んでもらえばいい」
僕は所持金がまったくない事が伝わっているかどうかを心配したが何も言わなかった。グレイザーと一緒に泊まるのは気が進まなかったが、彼がアスカに惚れ込んでいるのはこれまでの行動でよく分かっていた。
 アスカとまた二人っきりになるよりはいい。僕はそう思うことにした。
「4人にして。わたしも泊まるわ」ヘルガが言うと、その言葉でアスカが後部座席を振り返った。
「あなたがシンジの何なのか知らないけど、あんまり関わらない方がいいわよ」
「どうして」
「ロクなことがないから」
「そんな風には思わないわ」ヘルガは身を乗り出して運転席側のシートに右手を乗せた。
「そのうちわかるわよ」
「日本語で話すのは止めてくれないか?日本語はアリガトウとスシしか知らないんだ」
グレイザーが二人の間に割って入った。ヘルが体をシートに戻すと車は加速した。
ダウンタウンの<Grun Hotel>の地下駐車場に車を止めてから、僕たちは階段を上がってホテルに入った。ホテルは5階建てで中も広くはなかったものの、経営陣は手入れの行き届いた内装と社員教育に生き残りを賭けているようだった。ターゲットは金持ちに分類される人々だろう。
グレイザーがフロントで部屋を取っている。灰色に紺色のストライプが入った制服に身を包んだホテルマンは非常に丁寧な態度で受け答えしていた。
ヘルガはロビーのフォンブースで受話器を顔と肩に挟んで会話していて、アスカはそれとは反対の壁際で携帯電話を使っていた。僕だけがロビーの真ん中に立っている柱に隠れるようにして取り残されていた。
「ツインの部屋を二つ取った」
グレイザーが最初に戻ってきて僕に言った。まだ電話を続けている二人の女性に目線を走らせてから「あの二人を一緒の部屋にして大丈夫か悩んだんだけど、さすがに4部屋は贅沢すぎるだろ?」僕は所持金がないことを打ち明けた。
「気にするなよ。警察署でだいたい聞いたよ。災難だったな」
グレイザーの態度は好意的で、嘘はないように見えた。
「警察に何を聞かれたんですか?」
「どの時点での質問のことだ?」
「あなたが最初に発言した時のことです」
「ああ、あれか」
グレイザーは僕の頭の中を覗き込むように青い目で僕をじっと見つめて、一呼吸おいてから話した。
「あいつら彼女の容姿について質問したんだ」
「容姿?」
「記録されている傷跡がないってね」
はっとしてまだ電話を続けているアスカを見た。アスカは片手を壁に添えて電話口で笑っている。
「彼女は1年前に皮膚移植を受けた。尻の皮膚を段階的に顔と腕に移植した。俺はその手術の助手をしていたんだ。形成外科医なんだよ。何も知らなかったのか?」
「元同僚という人から聞いていたけど、すっかり忘れてました。あまりにもきれいに消えていたので」
「誉めてもらって嬉しい限りだ」
グレイザーは腕時計の時刻を確かめてからその手を僕の肩に置いた。
「今度はこっちの質問に答える番だ。俺があの部屋から追い出された後、どうなったんだ。何を訊かれた?」
「特に何も」
特に何も?グレイザーはまったく信じていない様子で反芻した。
「君は嘘が下手だな。あんなVIP待遇を受けて何も訊かれなかったなんて信じるほど俺はバカに見えるのか?」
「今はまだ言いたくない」
アスカが戻ってきてグレイザーに部屋のことを尋ねた。僕の視線は部屋の鍵を受け取っている彼女の前髪に隠れた部分に吸い寄せられた。アスカはそれを敏感に察知して僕を睨みつけた。
 ヘルガが戻ってくると僕たちは4階へあがった。「一息ついたら夕食にしよう」グレイザーが提案して僕たちはそれぞれの部屋に入った。
 部屋は消毒剤の匂いがうっすらと残っていた。正面の窓は大きかったが道をはさんで反対側のビルしか見えず、そこではスーツ姿のビジネスマンが忙しく立ち回っているのが見えた。すでに夕暮れが訪れており、僕は時間の流れの早さを思い知らされた。
 グレイザーはまっすぐにテーブルへ向かうと銀盆の上のコップをひっくり返して水を注ぎ、一つを僕に勧めた。荷物をベッド脇のナイトスタンドに立てかけてコップを受け取ると、もうすることが無くなってしまった。
「まあ、仲良くやろうぜ兄弟」
グレイザーはそう言ってにやっと笑った。映画の悪役が主人公を誘拐した後によく言う台詞だ。僕は話題を探した「年はいくつです?」グレイザーは僕の質問に意外そうな顔をして「26だよ」と答えた。その質問から会話を発展させる気はないらしく、すぐに話題を変えた。
「アスカとはどうやって知り合ったんだ?」
「日本でです。学校の同じクラスに転校してきました。どうしてそんなことを?」
彼は2杯目の水をコップに注ぎ、一杯目との温度差を吟味するようにゆっくりと口に含んだ。
「俺は彼女について何も知らないんだ。話そうとしてくれない」
それはそうだ。と思った。
「知っているのは彼女が14年前に負った傷の深さと、ドイツに運ばれてから長いこと精神病患者だったことだけさ」
君はそれよりはるかに多くの事を知っていそうだ。と付け加えた。僕は何も答えないでいた。窓の外のオフィスビルの1フロアの照明が全て消え、部屋はわずかに暗くなった。居たたまれない沈黙の間、僕は立ちっぱなしだった。
「あの警察官、あれは人権侵害だ」突然、吐き出すように言う。
「彼女の証言の信頼度は低く見られてる」
「どうして?」
「先方はまだアスカの頭がイカれてると思ってる。尋問を始めていきなりそう言ったんだよ。わざと挑発して君かアスカを独房に繋ぎとめるつもりだったのかもしれないな。俺なら喜んでその計略に乗ってやったさ。よく堪えたもんだと思う。俺の知る限りでは、彼女は怒鳴り散らすか、出て行ってしまうタイプだと思っていた」
「そうですね」僕はこれから自分が取るべき態度を決めかねてそれだけ答えた。
「だいぶ惚れられていたんだな。君は」
僕の視線を受け止めてグレイザーはまっすぐ僕を見返した。
「アスカは喜んでいたか?」
質問の意味をはかりかねて僕は首を振った。それを否定と受け取って、グレイザーは視線を外した。オフィスビルの別のフロアの明かりが消えた。
 明かりが消えるごとに窓に映る僕の姿は濃くなった。
ドアがノックされ、僕が向かう間にもう一度ノックされた。アスカとヘルガが並んで立っていた。
「携帯電話の番号を訊かれたわ」
僕たちはテーブルを囲んで立ったまま話した。ルームサービスの水入れはすでに空っぽになっている。
「日付が変わったらすぐに連絡が来る。それからは不定期に所在確認が行われるそうよ」
「くそ、まるで保護観察中の犯罪者じゃないか」
「ナイトコールだと思えばどうってことはないわ」
アスカはかなり落ち着いていた。
「明日、また警察に行くことになる。問題がなければ紛失証明を発行してもらえるから、すぐに大使館で手続きするのよ」
「仮のパスポートってのはすぐに発行されるもんなのか?」
「それは分からないわ。運ね」ヘルガが手帳の中身を見ながら答えた。合皮の赤い手帳から栞の紐が垂れ下がっている。「知り合いに電話して調べてもらったのよ」
「飛行機には間に合わないかもしれないな」
「航空会社に交渉してみたらいいわ。事情を話せばフライトを伸ばしてくれるかも」
「そんなことできるのか?」
「運ね。明日交渉してみるわ」手帳を閉じた。
「ブリーフィングは終了だな」グレイザーは上着のポケットから財布を取り出した。「今日できることは全てやった。あとは仕上げに飯にしよう」
賛成。ヘルガが同調した。「本来ならシンジがおごるべきだけど、それは無理そうね」
「俺が払うよ。一泊を共にする誼で」
アスカがほんの一瞬、不安そうな顔をした。それに気がついたのは僕だけだった。