一万倍

 見覚えのある赤のアルファロメオが慎重に門を通り過ぎて、ティアックが出て行ったばかりのスペースの前で停止した。ドアが勢いよく開き、アスカが下りてきた。アルファロメオは向きを変えて駐車スペースに後退していった。
 アスカは唇をきつく結んでこちらにまっすぐやってきた。運転席から大柄の男が降りて後に続いた。アスカはこちらにたどり着く前からどなろうとしてヘルガに気がつくと、表情をいくらか緩めた。
「始めまして、ヘルガよ」
「アスカ。日本語が話せるのね」
「昔、日本にいたのよ」
「そう」
アスカの背後に男が立ち、僕に手を差し出した。手は分厚くて熱いぐらいに体温が高かった。それからヘルガに差し出した。
「グレイザーよ。医者なの」
医者という職業に引っかかるものを感じながら、僕はグレイザーを見た。視線が会うと彼は矯正とは無縁そうな歯並びを見せて快心の笑顔をしてみせた。体格が良くて医者よりもボディガードに見える。
「早かったからびっくりしたわ。ベルリンにいたのね?」
「たまたまね」
アスカが呟くと息が白く立ち上った。
「ともかく助かったわ。あなたの証言がいるの」
「それは聞いた」
「機嫌が悪い?」
「あなたに対してじゃないわ」
僕は何か言おうとしたが言葉が出なかった。「何があったのか知らないけど、いきなり喧嘩はやめてね。ここがどこだか分かってる?」ヘルガは最大級の注意力で僕を含めた三人の関係を読み取ろうとしているようだった。
「ともかく中へ行きましょう」
ヘルガが先立って警察署の中歩き出すと、アスカが僕に顔を寄せた。
「誰よ?あの女は」
「親切な友人だよ」
友人ねえ。と不審に満ちた目を僕に向ける「さっそく恋人を見つけるとはたいしたもんだわ」
「何のことを言っているのか分からないよ」
「そのままじゃない」
「アスカこそ、男を連れてるじゃないか」
「あれは医者よ、言ったでしょ」
「どこか悪いの?」
アスカはそれを侮辱と受け取ったようだった。二人がいなければ手が出たかもしれない。
「私の頭がまだおかしいって言いたいのね」
「邪推だよ。僕はただ…」
アスカは手を振って拒否した。
「聞きたくない。さっさと終わらせて帰るからね」
部屋に入ると男が一人増えていた。くたびれたスーツを着て部屋の隅の壁に寄りかかって腕を組んでいた。五十代になったばかりほどで目元がひどく腫れていた。
6人も入ると広くない部屋はいっぱいになり息苦しかった。ヘルガとアスカが並んでパイプ椅子に座り、僕とグレイザーがその後ろに立った。
 僕たちを待っている間にひどい厄介ごとを抱えたらしい制服姿の男がキャップをつけたままのペンで机をコツコツと叩いて何か話しかけると、アスカは落ち着いた様子で答えた。時折、全員の意識が僕に向けられる。
「あなたがお金を払っているのを確かに見た。って言っているの」
ヘルガが振り向いた。アスカは話ながら横目でこちらを見た。
 男が何か言うとヘルガが先に答え、男はペンをヘルガに向けて指揮棒のように回して円を描いた。アスカが何か付け加え、男がペン先はすでに書き込みの終わった欄の5ミリ上をなぞる。
 アスカが少し強い口調で何か主張している。会話をするその目は真剣そのもので、少なくとも僕をちゃんと擁護してくれているのだと分かる。
 それまで黙っていたグレイザーが始めて口を開くと、男は初めて存在に気がついたように問いかけ、グレイザーは肩をすくめながら短く答えた。僕は議論が熱を帯び始める気配を感じ取った。
 アスカが怒りを押し殺した口調で長いこと話しはじめ、ヘルガはその横顔をずっと見つめていた。アスカが前髪の位置を直した。
 グレイザーが再び、さっきよりも強い言葉で何か言った。発火前のマッチのようであり、何かよくない事態になっているのだと確信した。
 それまでオブジェのように立っていた部屋の隅の男が口を開き、全員が一斉にそちらを見た。スーツの男が何か告げるとヘルガが立ち上がった。僕に視線をやり軽く頷いてからドアへと向かっていく。グレイザーは両手の手のひらをズボンで拭いてから渋々それに従った。金髪の禿げた警官もペンを胸ポケットに挿し、調書を取って出て行った。
 スーツの男は金髪の警官が座っていた椅子に腰を下ろし、手ぶりで僕にも座るように促した。僕が座ったのを確かめてから持っていたファイルをこちらに見せないようにぱらぱらとめくり、閉じて足の上に乗せた。
「どうしたの」
僕はアスカに言ったが、アスカは無視して挑むようにスーツの男の顔を見据えていた。スーツの男は軽く咳払いをした。
「英語はできるのか?」
「少しです」
「君は?英語で話そうか?」
「余計なお世話よ。ドイツ語でいいわ」
少しでも理解できる可能性があるなら英語で話してもらいたかったが、アスカの英語がどの程度なのか僕は知らないし、事態をみるに不自由のないドイツ語を使ってもらったほうが良さそうだと僕は判断した。
スーツの男の口調は静かで、重々しいものを含んでいた。アスカは話しながら左手を自分の胸に当て、それから僕を指差した。スーツの男はパイプ椅子の具合を確かめるように体重を背もたれに乗せたり、前にかけたりしている。
アスカが確かにエヴァンゲリオンという言葉を使ったのに気がついて、僕は納得がいった。パスポート番号を頼りに僕の経歴を照会すれば、通常業務では一生お目にかかれないショッキングな経歴で埋め尽くされているはずだ。アスカも同じだろう。アスカは僕にかけられた嫌疑に抵抗しているのだと知った。
「事情を話してください」
つっかえながら英語で言うと、スーツの男は話してやれ、という目をした。
「この人は諜報局の人間で、あんたがドイツに来た理由を知りたがってるのよ」
「理由って、そんなもの無いよ」
「そう言ってやったわよ。疑っているみたい」
「どうして」
「あんたがパスポートを無くすからでしょ!それも私のところに押しかけてきた日にかぎって。こういう人たちはそういうのが大好きなのよ!」
スーツの男がアスカを止めた、口調はいくぶん緩やかになっていた。
 また僕に分からない会話が始まり、アスカが首を振って拒否し、スーツの男はそれを拒否しかえした。アスカはそれが癖だとはっきり分かるぐらい前髪の位置を何度も直し、果てしない拒否のしあいが繰り返されてアスカが負けたところで終わった。
 スーツの男は立ち上がり、僕を見て「サヨナラ」と日本語で言うとドアを開けた。待合室でスタンディングテーブルを挟んでヘルガとグレイザーが向かい合っていて、こちらに気がつくと部屋に入ってきた。ヘルガはまっすぐ僕のところへきて、グレイザーはアスカのところへ行った。
「悪夢だわ」
アスカが荒々しく立ち上がり、倒れた椅子がグレイザーの足に当たった。「なんで私があんたの身元引受人なのよ」