一万倍
ここに来るとこの国が沈み始めているのを痛感させられる。ここは一年の殆どが冬で湿った雪か濃い霧に覆われている。街路樹は寒さに負けたものから枯れてゆき、一度枯れてしまうとつかの間の晴天も分からないようになる。降り注ぐ日差しが半分ゴーストタウンと化したこの街区をいっそう侘しいものに見せる。
ポーチの犬の置物も空っぽの植木鉢も変わっていなかった。イゾルデは僕が出て行ってからずっとそうしていたように、キッチンのテーブルに腰掛けていた。
一泊お願いしたい。と伝えると彼女は満面の笑みを作った。老眼鏡を外して読みかけていた本と一緒に電子レンジの上に置いた。
「もちろんよ。荷物を二階へおいてらっしゃい」
二階の部屋にはまだ僕の気配が残っているような気がした。1階に下りるとイゾルデはお湯を沸かしているところで、コンロの前に立ってつま先で床を蹴っていた。それだけなのだがとても忙しそうに見えた。
「それでお姫様には会えたの?」
「ええ。一応」
テーブルの上にクッキーの屑が散らばっていて、僕はペーパータオルのロールからひと周り分だけちぎり、手を箒がわりにして欠片を集めてペーパータオルに乗せてくるんでから、イゾルデの側にあるゴミ箱に投げた。丸めたペーパータオルはみごとにゴミ箱に入った。イゾルデはまったく気がつかなかった。
「食事の支度を始めようかしら」
今から支度をすると昼食とも夕食ともつかない時間になってしまいそうだったが、僕はその申し出をありがたく受けることにした。
イゾルデの話す話題は相変わらず下らない世間話ばかりだった。僕は頭がずきずきと痛んでいて、こめかみを流れる血の感触がする。
食パンを重ねて耳を切り落としてからバターを塗ったところでイゾルデは振り返った。サンドイッチだと僕は予想した。
「再会はあまり芳しくなかったみたいね」
お徳用サイズのマーガリン容器を冷蔵庫にしまう。
「今朝別れたばかりでまだ整理がすんでないんです」
「聞きたいけれどそれは我慢しておくわ」
「ありがとう」
サンドイッチを平らげてからイゾルデに礼を述べて、部屋に戻ったところで僕は何もすることが無くなっていることに気がついた。
銃で撃たれたようにベッドに倒れた。呼吸に合わせて胸が動くのを意識し、眠りの中に自分を落とそうとして目を閉じた。眠りはなかなかやって来てくれなかった。何度か目を開き、天井を見上げ、階下の音に耳を済ませた。薄い金属をすり合わせるような音がしていたが、何をしているのかはまったく浮かんでこなかった。
たった今摂取したばかりのカフェインが血流を加速させている。
首をもたげて床に置いたままのバッグを見つめ、それから見事に頭の形に凹んだ枕に戻した。
昨夜のアスカとの感動の薄い行為を思い出す。頭痛はカフェインとくっついて頭の中を飛び回っていた。
佐々木旅行社とプリントされた紙ケースを口に咥えたまま、バッグに手を突っ込んで中身をかき回した。それからひっくり返して中身を床にぶちまける。衣類に混じってどこで手に入れたのか分からない使用済み乗車券やら、小銭やらが散らばった。
二重底の中にもう空気以外の何も無いことを確かめ、服の中に紛れ込んでいないかと手で揉みくだして感触を確かめた。
やられた。僕はTシャツを投げ捨てて荷物を覆い隠してからベッドに寄りかかった。両手で顔をこすり、ため息をついた。
目が覚めてからイゾルデに子機を借りて部屋に持ち込み、ハーシーワイマン航空のオフィスに電話して帰りの便を予約しようとした。オープンチケットの期間は10日間だったが飛行機が月曜日と金曜日にしか飛ばないため、僕は3日後の土曜日の便を選んだ。
電話口の職員にパスポートナンバーを教えてくれと言われたときに、財布とは別に保管していた金とパスポートがそっくり消えているのに気がついた。
いたずら電話同然に電話を切り、見込みの薄い捜索作業に取り掛かった。
結局のところ二重底は犯人、本職の泥棒かハウスキーパーか、あの無愛想なホテルマンか、それともその全員かも知れない、をむっとさせる程度の役にしかたたなかっただろう。
左脳は活動を停止していて、右脳だけが活発に動いていた。昨夜の出来事、犯人がバッグをあさっている間に、僕がアスカとしていたことが生々しく浮かんできたがそれでどうということは無かった。
ようやく左脳が役割を思い出してシンプルな足し算を始めた。凍死を恐れずに道端で眠る可能性を除けば所持金は何をどう計算しても3日間をしのげるだけの額には足りず、足りたとしてもパスポート無しでは出国できなかった。
頭の中で様々な方法をブロックのように組み合わせては崩し、僕は荷物の山から紙切れを引っ張り出して電話をかけた。
彼女にかわってテープが応対し、僕は日本語で事情を簡単に説明してからまた電話すると付け加えて切った。電話を戻しに立ち上がったところで、イゾルデが半開きだった扉を押して顔を出した。老眼鏡を額に乗せて、読みかけの本に右手の人差し指を挟んでいた。
「深刻そうね」
「大丈夫ですよ」僕は無理に微笑んだ。
「女は押しの強い男のほうが好きなのよ。姫様は特にそうだって決まっているわ」
「ええ」
「誘拐するぐらいでちょうどいいんだから」
「アドバイスありがとう」
「お腹が空いたならインスタントヌードルを食べていいわ。食料棚のマカロニの奥にあるから」
さっきよりは自然に微笑んでから僕は子機と洗濯物を抱えて階段を降りた。振り返ると空色のスリッパに乗った細い足首がドアの向うに隠れるところだった。
僕が修理したつなぎ目がちゃんと機能しているかを確かめてから洗濯機をまわし、完了するまでの間にシャワーを浴びた。うずくような不安は頭を洗っている最中、ずっと僕の後ろにぴったりと立っていたが、頭を洗うのを手伝ってはくれなかった。
シャワー室から出た後も洗濯機は動いていて、僕はテレビに正対している古いカウチに座った。灰色のブラウン管に小太りになった僕の姿が映っていた。
地下室に洗濯物を干してから一階へあがった。外は日が落ちて薄青くなっており、家庭菜園の小さな畑の畝にバケツが転がっていた。子機の「入」と「切」を指で何往復させてからダイヤルした。
ヘルガはすぐに電話に出た。背後でシシー・スーのインストヴァージョンが流れていた。ウエストエリアでもよく流れていた曲だった。
留守電に残したメッセージよりも詳細に事情を話して聞かせると、ヘルガは適度に相槌を打ちながら、ときどき質問を挟んだ。
(それなら心配いらないわ。パスポートがなくても帰国できるのよ)
「そうなの」
(警察に行って盗まれたことを証明する書類をもらって大使館に行けば、借りのパスポートを発行してもらえるわ。パスポートの番号を控えてある?)
してある。僕が答えるとヘルガは、いい子ね。と言った。
(明日、10時に公園のところで待ってる)
「迷惑かけてすまない」
(どういたしまして。心配しなくてもいいわ、おやすみ)
電話を充電器に戻してから僕は長いことその場にいて、充電器の赤いランプを見下ろしていた。
翌朝、イゾルデの用意してくれたヨーグルトにオートミールをいれた朝食を食べてから、昨夜の分の料金を払った。これで僕の所持金はかなり心細いことになった。真剣に野宿の可能性を考えながら荷物を預かって欲しいと頼んだ。
「お安い御用よ」とイゾルデは請け負ってくれた。
僕が公園に着くとヘルガは先に到着していた。健康そのものという血色のいい肌を薄い化粧で覆っている。彼女は嬉しそうだった。
バスのつり革をつかんで並んで立ち、ダウンタウンへ到着するのを待った。道がところどころ凹んでいて、タイヤがはまるたびに社内は大きく揺れた。
「お金は足りている?」
「実はあんまり無いんだ」
「再度のオファーをしてあげてもいいわよ。ウチに来てもいい。食事付き。条件は残った荷物の見張りでいいわ」
「考えておくよ」
「前もそう言ってた。あなたの断りの文句なのね」
「そうだったかな」
ダウンタウンの市庁舎の前で降りてからヘルガに連れられて警察署まで来た。警察署は両側を高いビルに挟まれた、古い石造りの建物で、入り口の前には一人がやっと入れるぐらいのブースがあり、制服姿の警官が二名、訪れる人間に注意を払っていた。
街ではこの建物に用事のある人間がひっきりなしに生産されている。
「心配しなくていいわ。私が説明するから」
僕たちは小部屋に通された。男が入ってきた。制服姿で縮れた金髪の頭がすっかり剥げている。
ここでもヘルガが素晴らしい通訳の才能を見せてくれた。男は話しながら手元の書類の欄を埋めていく。
「日本のパスポートは人気があるんだそうよ」
「僕のフリをして入国するの?」
まさか。ヘルガは笑った。「写真と名前は偽造するのよ」
ホテルの名前を聞かれて、僕は分からないと答えた。ヘルガがそれを通訳すると、男は手を止めて僕を見た。
「ホテルに連絡して確認を取らなければいけないんだって」
「分からないんだ。看板らしい看板がなかったんだ」
「あれは?お金を払った後にもらう紙はないの?」
「領収書?もらわなかった」
「困ったわね」
「地図があれば。場所は分かるんだ」
ヘルガが頷いた。男は聞き終わると立ち上がって部屋を出て行った。
「悪いホテルに泊まったみたいね」
「そこしかなかったんだよ」
男が地図を持って戻ってきてポーツマス市街のページを開いて机の上に広げた。ホテルの位置を指し示すと、男はメモに住所を書き写し、ヘルガに何か告げて地図を持って出て行った。
「なんだって?」
「面倒な仕事だってさ」
「そういう仕事でしょ」
「おとといは施設に泊まったのよね?」
ヘルガはアスカの事を聞きたいのだと態度でなんとなく分かったが、話す気にはなれなかった。会話はそこで中断し、男が戻ってきた時には二人とも時間を持て余していた。
「ホテル側は日本人は泊まっていないって言っているそうよ」
「そんな」
「ホテルがウソをついてる?」
「ホテルそのものを間違えていなかったら嘘をついてる」
ヘルガは短く唸ってから男にそれを告げた。しばらくドイツ語が飛び交うのを僕は不安を抱えて見守った。
「友人と一緒にそのホテルに行ったのね?その友人の証言が必要だわ」
僕は男にも分かるように精一杯の拒否の表情を作った「むこうはもう僕に会いたくないって言ってるんだ」
ヘルガは素早くそれを通訳した。僕の表情はそれなりに効果があったらしくヘルガが言い終わらないうちに言い返された。
「それだと面倒なことになるって」
「面倒って?」
「あなたの言っていることが本当かどうか調べないといけなくなるって、そうなったら時間がかかるし、どうせ施設にも連絡がいくことになるそうよ」
「僕が疑われるの?」
「しょうがないわよ」ヘルガは肩をすくめた。
「どれくらい掛かるんだろう」
「3日では終わらないと思うわ」ヘルガは通訳しなかった。
ちょっと待って。僕は言ってから考えたが、他にどんな方法も思い浮かばなかった。
分かったよ。小さく答えた。「連絡するよ」
「その方がいい」
ヘルガは諭すように優しく言い、僕の肩に手を置いた。
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