一万倍

 目を覚ますと知らない顔が僕を見ていた。僕は自分がどこにいるのか忘れて飛び起きた。その金髪の女はとんでもない物を見ているような目で僕と視線を合わせると、寝室のドアを激しく叩いた。
 うるさい!とアスカが日本語で怒鳴り、女はドイツ語で何かわめき始めた。アスカがあわてた様子で扉を開いた。爆発にでも巻き込まれたように髪の毛があらぬ方向へ曲がっている。服をちゃんと着ていてくれたのが救いだった。
 三人でテーブルに座ったが僕の存在は空気のようなものだった。二人はずっと早口で話し続け、時々僕を見た。僕はコーヒーを飲み続けるしかなかった。
「あなた、彼女のボーイフレンド?」
かなりひどい英語で女が僕に聞いた。僕は首の骨が折れるぐらい激しく首を振った。
 最後の最後にクリスティーネは僕に自己紹介をして部屋を出て行った。
「余計な疑いをかけられたわ」
アスカは椅子には座らず、両手を腰に当てていた。髪は重力のおかげでマシになっていたが右側が失敗したパーマのように波打っていた。
「疑いって?」
「クリスはあなたを王子様と思ったらしいわ」
「違うよ」
「私に言わないであの子がいるときに言いなさいよ」
「ドイツ語じゃ何を話しているのか分からない」
アスカがだんだん前のめりになってきた。それが苛立っている時の癖だったことを思い出した。あの頃の記憶では次に来る言葉のパターンは1つか2つだ。
 しかし僕の予想は外れた。彼女は両手を腰から離すとリビングの電話のところへ行き、ダイヤルしてから出た相手と何か話した。
 肩透かしをくらったような気持ちでその様子を眺めて、もう気の進まないコーヒーカップを口に運んだ。電話を切ってからテーブルに手を突いて訊いた。
「今日、帰るわよね?」
「うん」
「ドイツを出るのはいつ?」
「決めてない」
「帰りの飛行機のチケットは?」
「オープンなんだ。まだ予約してない」
「私が予約するわ」
「いいよ、自分でやるから」
出かかった言葉を抑えるとアスカは電話のところへ戻り電話台の下から分厚い電話帳を出してばらばらとめくった。望みの物が見つかると、そのページをためらわずに破り取った。
「用意するから待ってて」
「何の?」僕がよく分からないまま、アスカは事を進めるつもりらしかった。
「外出するのよ。このまま外に出ろっていうの?」
「どこへ?」
ベルリンに決まってるじゃない。そういい終わる時には寝室の扉のノブに手をかけていた。
 テーブルに残った3人分のカップをシンクに運び、僕はソファの脇の自分の荷物を引き寄せた。そこでポーツマスのホテルに荷物の大半を置いてあることに気がついた。昨晩の宿泊代はまったくの無駄になったわけだった。時計は7時半になるところだった。5%の割引があってももう一泊の代金を払うのはごめんだ。
 アスカがよそ行き用の服装で部屋から出てきた。膝丈のプリーツが入った薄ピンクのスカートに白い無地のアンサンブルを着て、手には紺のコートとマフラーを持っていた。マフラーは昨日と同じものだった。
「仕事を休むことになったわ」
玄関に座ってウエスタンブーツのチャックを上げながら言った。場所が空いてから僕は自分の靴を履いた。
「ホテルに戻らないといけない。荷物が置いてあるんだ」
「何てホテル?」
「分からないけど、駅までいけば道がわかる」
いいわ。首にマフラーを巻きながら僕を見ている。
「どうやって行くの?」僕は訊いた。
「バスよ。今の時間は便数が多いからすぐに乗れる」
「ポーツマスに行くんだよね?」念を押した。
「行くわよ」アスカは僕が疑っていることを察して答えた。
僕は一拍、間を置いた。
「ベルリンまで一緒に行って何を?」
「捨ててくる」
なんの躊躇もなくはっきり言った。
「この辺をうろうろされないようにね」
「信用ないな」
「あるわけないでしょ、そんなもの」
僕に反論の機会を与えずにアスカは歩き出していた。

 部屋にいると信じていた客が女を連れて外から入ってくる。という体験はそうあるものではないらしく、正面口から入ってきた僕を見て男は脱出ショーの観客のような顔をした。
「部屋にいるとばかり思ってました」
男は顔は昨日のように脂ぎっておらず、髭はきれいに剃られていた。
「心配したんですよ」
明らかに矛盾した社交辞令だと相手に分かっても気にはしないらしい。僕はアスカを待たせて部屋に登った。部屋はハウスキーピングされてベッドは整えられていた。荷物はいつでも持ち出せる状態のまま元の場所にあった。
 降りてくるとアスカは狭いロビーの壁に掛けられた二匹の馬が並走している絵画の下で壁にもたれて待っていた。
 二泊分の支払いを済ませてから、僕たちは駅へと歩いていった。僕をバスに押し込んだおせっかいな腕章の女は、今日は背の低い若者になっていた。
 アスカは僕を導いて駅へ入り、ターミナルの人ごみを抜けてオフィスブースが並ぶ場所へと来た。黄色と黒のマークのオフィスで足を止めた。レンタカーのブースだとすぐに分かった。
「ベルリンなら車で2時間もあれば着くわ。日本の運転免許でも借りられるのよ」
ブースを指差した手で前髪をいじった。まるで自分がその事を決めたような言い方だった。
「運転免許はもってないよ」
はあ?とこちらを振り返る。
「持ってないの?あなた14年間も何してたのよ?車なしの古代人の生活をしてたわけ?」
運転免許が現代人である証明書なのだろうかと思った。
「必要がなかったんだ」
まったく。苛立たしげに180度方向転換をして戻り始めた。
「借りないの?」僕が訊く。
「借りないわよ。私も持ってないもの」
新型LCLに乗ろうとするアスカの提案に僕は反対した。
「金を節約したいんだ」
「私が出すわ」
「断るよ」自分の交通費をアスカに出してもらう気にはどうしてもなれなかった。
僕たちは旧式車両の自由席の切符を買った。車内は通勤者と旅行者がごちゃ混ぜになっていて異様な感じがした。何駅かすぎたところで席が空き、座るように勧めたがアスカはそれを断った。座るのに一人半のスペースが必要そうな男が横から割り込んできて尻をねじ込んだ。
 ベルリン市内に入ると乗客は減っていった。空席が出てもアスカは座ろうとせずに窓の外を見続けていた。僕は何度か話しかけようとしてその横顔を見てはためらった。
 一度だけ、アスカがこちらを見て何か言いたそうにそうにしていた。

 ベルリン駅を出たところでアスカが振り返った。
「宿はどうするの?」
イゾルデB&Bの住所を書いたメモを渡した。
「ずいぶん遠いわね」
外は昨日までの天気がウソのように晴れ渡っていた。日光に照らされてアスカの髪が赤く見えた。駅前広場には程よく人が散らばっていて、やや過剰気味のホットドックスタンドが並んでいる。
 アスカがイゾルデB&Bへの行き方を調べている間、僕はそのミネラルウォーターのボトルとホットドックを2つ買った。両手にホットドックを載せ、ボトルは飲み口を小指と薬指で挟んで持った。
「乗り換えが必要よ」
噴水の前のベンチに座った。僕がホットドックを渡すと「ありがとう」と言って受け取った。噴水では知らない小鳥が水浴びをしていた。羽を細かく動かすたびにきらめく水滴が飛び散る。
 アスカは慣れた様子でホットドックを食べた。味は同じはずだがアスカの方が美味しそうに見えた。
「宿までは送らないからね」
僕はソーセージを噛み切りながら頷く。二人が食べきるまで待ってアスカが言った。
「まあ、あれよ。会えてよかったと言っておく」
半分ほど飲んだボトルのキャップを閉めてバッグの中へいれた。それから立ち上がって僕を見下ろす。左手で右腕をなんどもさすっている。
「行くわ」
脳の全ての細胞が僕に行動するように告げていた。けれど私は何もできずにいた。「わかった」と呟いた言葉に僅かな不満を込めるのが精一杯だった。
さよなら。彼女は言うと、もう僕とは無関係になったように背中を向けた。その背中が人ごみに隠れていき、ついに消えた。
僕は後悔と自分への憤怒を押し殺して、定期的に水柱を吹き上げる噴水を見つめていた。